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冬の朝 〜存在しないものの存在論〜

僕は今でも、あの冬の朝を思い出す。

空も地面も白に染まり、どこまでが雪原で、どこからが空なのか見当もつかない。風は止み、音さえも存在しない。その場所で、僕はたったひとりで立ち尽くしていた。

もしかすると、あの難解な本に書かれていた「存在しないもの」のただ中にいたのかもしれない――

あの瞬間に感じた喪失感と、胸の奥底でかすかに芽生えた何か。それだけは、今も消えることなく僕の中に残り続けている。



通勤電車の中で何か特別なことが起こるなんて想像すらしない。

朝の丸ノ内線は、時間に追われる人々で満ち、その風景はどこか無機質で静かだ。吊り革につかまり、イヤホン越しに聴く音楽のリズムが、車両の揺れと曖昧に重なる。目を閉じてそれに身を任せるか、画面をぼんやり眺めるか。どちらにせよ、気がつけば、いつもの駅にたどり着いている。


けれど、その朝、視界の端に彼女がふと入ってきた。

黒いコートに包まれた細い肩、肩までの艶やかな髪、そして背筋をピンと伸ばして立つその姿。まるで彼女を中心に、車内の喧騒が吸い込まれていくような静けさがあった。

スマートフォンの光で満たされた車内で、本の白いページをめくる仕草は、まるでその空間だけが別の時間を刻んでいるように見えた。


電車が急に揺れた。彼女の手から本が滑り落ち、床に軽い音を立てた。その瞬間、彼女が「あっ」と声を漏らし、反射的に手を伸ばしたが、本は足元から転がり、さらに隣の乗客の方へ滑っていった。

彼女は一瞬ためらったが、すぐに近くにいた男性が拾い上げ、「落としましたよ」と差し出した。

「ありがとうございます。」

彼女の声は思ったより静かだったが、その仕草にはどこかぎこちない緊張感が滲んでいた。本を抱き直し、彼女は再び目を落とす。その短いやりとりを、僕はただ見つめていた。


その本の表紙に、僕は思わず目を奪われた。


白いカバーに黒い文字で書かれたタイトルが見えた。


『存在しないものの存在論』


その言葉が頭の中に焼き付いた。ただその響きに妙に引っかかるものを感じた。


四ツ谷駅に電車が滑り込むと、彼女は本をカバンにしまい、ホームへ向かった。その背中を目で追いながら、僕は胸の奥に小さな違和感を覚えた。『存在しないものの存在論』――そのタイトルが僕の中にこびりつき、何度も頭の中で反響していた。



昼休み、気がついたら書店の前に立っていた。

なぜそこに足が向いたのか、自分でも説明がつかない。ただ、電車で見た白い表紙と黒い文字、そのタイトルの響きだけが頭の奥にこびりついていた。意味の分からないその言葉が、なぜか自分の中でくすぶり続けている。

店内に足を踏み入れると、哲学書の棚が目に入った。無数のタイトルの中に、ひっそりと隠れるようにして、それはそこにあった。


『存在しないものの存在論』


白いカバーの簡素なデザインが、その場の光を吸い込むように目に入った。ページをめくると、「虚無」「喪失」「未来」「記憶」――そんな言葉が浮かび上がってきた。哲学書の類いに疎い僕には手に余る本だとすぐにわかったが、それでもその本を棚に戻す気にはなれなかった。



数日後、僕はいつものように,丸ノ内線の座席に腰を下ろしていた。カバンから『存在しないものの存在論』を取り出し、その内容に戸惑いながらも、少しずつ読み進めていた。


ふと、隣に誰かが座る気配がした。カバンから本を取り出したのが目に入った。その表紙に目が釘付けになった。


『存在しないものの存在論』


驚きながら隣を見やると、それは紛れもなく彼女だった。彼女も僕の本に気づき、一瞬だけ目を丸くした。


「同じ本.......ですね。」

彼女は控えめな声で言った。その声に、僕は少し緊張しながら頷いた。


彼女は微笑みながら、再び本に目を落とした。電車の揺れとページをめくる音だけが響く中、僕は彼女の隣で本を開きながら、どこか満たされたような気持ちを抱いていた。



彼女はいつも淡路町駅で電車に乗り、四ツ谷駅で降りていた。その間、たった14分だったが、僕と彼女は、朝の通勤電車で何度か顔を合わせるうちに、短い挨拶や会話を交わすようになっていた。


彼女はいつも、落ち着いた微笑みを浮かべていた。その雰囲気に、僕も自然と緊張が解けていった。


ある日、僕がカバンから『存在しないものの存在論』を取り出していると、彼女がそれに目を留めた。


「なかなか読み進めないですよね。」

「いや、正直難しすぎて。時間をかけて少しずつ読んでます。」

「私もです。途中で戻りながら、ああでもないこうでもないって考えてばかり。」


こんなふうに、お互いの読書の進捗を時々話すようになっていった。短い時間だったけれど、僕にとっては一日の始まりを特別なものに変える小さな儀式のようだった。彼女が乗り込むたび、車内の空気が少しだけ柔らかくなる気がしていた。


クリスマスも近いある日のこと、彼女が四ツ谷駅で降りる直前、ふと振り返ってこう言った。

「この本を読み終わったら、年明けにでもどこかで感想を話し合いませんか?」


予想していなかった言葉に、僕は一瞬言葉を失った。彼女の表情は穏やかで、それでいてどこか真剣だった。


「もちろん。」僕は慌てて答えた。それ以上の言葉が出てこなかった。


彼女は小さく頷くと、ホームへと消えていった。


年の瀬の静けさと正月のゆるやかな時間に包まれながら、僕は『存在しないものの存在論』に向き合った。日々の忙しさから解放されたこの時期、これまで難解だと感じていた箇所にも、彼女と語り合うという目的ができたことで、じっくりと心を注げるようになっていった。


『存在しないものの存在論』は、次の5章で成り立っていた。


第1章: 存在しないものの形而上学

第2章: 欠如とその痕跡

第3章: 未完の未来──失われた可能性の存在論

第4章: 風景と物に映る存在しないもの

第5章: 存在しないものの証明


特に第4章の「風景と物に映る存在しないもの」という章は、その難解さ以上にどこか僕の心を締めつけた。著者は、雪原、廃墟、古びた日用品など、形を持たないはずの「存在しないもの」が、どのように私たちの意識の中に根を張るかを論じている。「それらは、見る人の記憶と無意識の交差点で新たな意味を持つ」とあったが、僕にはその一文がどこか彼女と重なるように思えた。


ページをめくるたびに、言葉の意味を追いながら何度も立ち止まり、その抽象的な内容が、心の奥底で静かに波紋を広げていくような気がした。



年が明けて間もない、冬の冷たい空気が漂う土曜日の午前中。彼女が指定した待ち合わせ場所は四ツ谷駅の改札前だった。

週末の四ツ谷駅は平日の慌ただしさをすっかり脱ぎ捨て、人影もまばらで静かだった。


僕が到着したとき、彼女はすでにそこにいた。いつもは黒いコートの印象が強かったが、その日は淡いピンク色のコートにグレーのマフラーを巻いており、冬の冷たい空気の中で、その装いがひときわ柔らかく見えた。


彼女が軽く会釈をして微笑む。その姿に、僕はなぜか少し胸が高鳴った。


僕たちは上智大学の構内を少し眺めながら、教会の前を通り、階段を上って土手道を歩いた。

小高い場所へ続くその静かな道には冬の桜木が並び、都会の喧騒から切り離されたような静けさに包まれていた。道のすぐ脇には大学の敷地が広がり、フェンス越しに広いグラウンドが見渡せた。グラウンドの奥をオレンジ色の電車がゆっくりと通り過ぎていく。鉄道の音はほとんど届かず、ただその光景だけが遠くの時間を運んでいるようだった。


彼女は足を止めて、土手の下に広がる風景を見つめている。四ツ谷という都会ながら人通りもまばらで、まるで自分たちだけが取り残されているような気分になる。

 

「私、この場所が好きなんです。」

そう話す彼女の声は静かで、冬の冷たい空気に溶け込むように響いた。僕たちは土手道を並んで歩いた。

歩きながら、ふと彼女に何か言葉をかけたほうがいいのかもしれないと思ったものの、その言葉を見つけることができなかった。


15分ほど歩くと、土手道はゆるやかにその終わりを迎えた。その静かな道を抜けた先には、巨大で堂々としたホテルニューオータニがそびえ立っていた。華やかなフロントを横目に、僕たちは地下のアーケードへ降りる。そこでトンカツ屋を見つけ、ふたりともロースカツを食べた。

土手道ではあれほど寡黙だった2人が、トンカツ屋では午後2時の閉店時間まで、『存在しないものの存在論』について語り合った。時には笑い合いながら、互いの言葉が少しずつ心に溶け込んでいくのを感じていた。


次の土曜日も僕たちは四ツ谷で会うことになった。彼女の動きが普段よりゆっくりで、時々手すりにすがるようにしているのが気になった。


「大丈夫?」と僕は思わず彼女に声をかけた。

「うん。ちょっと疲れが抜けなくて。……実は、私、神経系の病気を抱えているんです。」

彼女の口調は静かだったが、その言葉にははっきりとした重みがあった。


「神経系?」

僕が聞き返すと、彼女は改札を出てから、小さく息をついて続けた。


「多発性硬化症っていう、自己免疫型の難病。」

そう言って、彼女は小さく苦笑いをした。


「治療しながら様子を見るしかなくて。」


彼女が病名を口にした瞬間、僕の胸の中に、彼女が背負う孤独や不安が波紋のように広がり、それに触れられない自分の無力さが重くのしかかった。 


「実は……会社を、もう半年くらい休んでいて。でも、ずっと家にいると気が滅入るし、体調が良い日は、以前通勤していた時間に同じ電車に乗るようにしているんです。四ツ谷駅に着いてからはこの土手を歩いて帰るの。それが唯一、日常のリズムを取り戻せる方法で。」

それでも彼女は微笑んでいた。その笑顔はどこか儚げで、どこまでも強さと脆さを併せ持った光のように見えた。


「えらいよね。」

僕は言葉を選びながら、できるだけ素直な気持ちを伝えた。


「だってさ、普通の生活を取り戻そうって、自分で工夫して努力してるんだろ?それって簡単なことじゃないと思うよ。」


「……ありがとう。でも、私にとってはそれが唯一の『普通』でいられる方法だから。大げさなことじゃなくて、ただ自分が自分でいるためにやってるだけなんです。」


彼女の言葉には、諦めではなく静かな覚悟が滲んでいた。その姿を見ていると、彼女がどれだけ努力して、どれだけの重さを背負いながら日々を過ごしているのかが伝わってくるようだった。


その次の週も、僕たちは再び四ツ谷で会い、同じ土手道を歩いた。冷たい風が吹く中で、彼女は少し遠くを見つめながら静かに話し始めた。


「実は、来月、また入院しなくちゃいけなくて。ちょっと長くなりそうなの。」


「入院?」


彼女の言葉は淡々としていたが、その声の奥には微かな震えが隠れていた。


「それで、その前に行きたい場所があるんです。白森雪原。」


「白森雪原」――あの哲学書『存在しないものの存在論』の第四章に出てきた場所のことだ。

でも、何を書いてあったかは、はっきり思い出せない。


「あの場所に立てば、何かが見える気がして。」


彼女はそう言って、僕の手元の本を見た。


「一緒に行ってくれますか?」


彼女の声はどこか冗談めいていたけれど、その奥にはほんの少しの期待がにじんでいた。


僕は彼女の目をまっすぐに見つめながら頷いた。「もちろん。」


彼女の目が静かに僕を見つめていた。その瞬間、僕は自然と手を伸ばして彼女の手を包み込んでいた。彼女は一瞬驚いたようだったが、次の瞬間には静かに目を閉じた。


僕たちはゆっくりと顔を近づけ、冷たい風に揺れる中で唇を重ねた。そのキスは、柔らかく、暖かく、それでいて儚さを感じさせた。週末の四ツ谷の土手道は静かだったが、何人かが僕たちの横を通り過ぎていった。それでも、僕たちはまるでこの場所に2人だけが存在しているかのように、誰の視線も気にしなかった。



白森雪原は、哲学書『存在しないものの存在論』第4章の中で象徴的に描かれる場所だった。


「白森雪原は、すべてを覆い尽くす白銀の世界である。その光景には形がなく、音もなく、存在の痕跡すら見えない。しかし、その場に立てば、あなたはただ一つの事実に気づく。そこには、存在しないものが確かに存在している。」


旅の準備をする中で、僕の心は奇妙な期待と不安の間を揺れ動いていた。彼女と一緒に旅に出るという事実が、新しい何かを約束してくれるようでありながら、同時に未知の恐れを伴っている。


彼女にとって白森雪原は、何かを「始める場所」なのだろうか。それとも、何かを「終わらせる場所」なのだろうか。そんな問いが頭を巡りながらも、答えが出ることはなかった。


一方で、僕自身がこの旅に同行する意味を考えた。僕の存在は彼女にとって本当に必要なのだろうか? もし彼女がその場所で僕ではない「何か」を見つけるのだとしたら、僕はその時どうすればいいのだろう。


それでも、行かなければならないと思った。いや、正確には、行きたいと思った。彼女が目指す「存在しないもの」を追いかけることで、僕自身の中に潜む虚無の正体を知りたいと思ったからだ。



白森雪原へ向かう東北新幹線の車内で、僕は窓の外の雪景色をぼんやりと眺めていた。冬の空気は冷たく澄んでいて、どこか遠い場所へと続いているように感じられた。


「存在しないもの」とは何だろうか。失った記憶、過去の喪失、未来への期待……。それらは形を持たないが、確かに僕たちの中に存在している。それが白森雪原に行くことで、目に見える形で現れるのだろうか。


隣に座る彼女は静かだった。膝の上に置いた文庫本の表紙を指でなぞりながら、目を閉じている。その横顔には不思議な静けさが漂っていたが、同時に、どこか儚げな印象を受けた。


新幹線がホームに滑り込むと、僕たちは人波に紛れながら改札を抜け、ローカル線のホームへと向かった。新幹線の駅はそれなりに大きな駅で、都会と田舎の中間のような落ち着きがあったが、ローカル線のホームはひっそりとしていた。


ローカル線の車両は小さく、座席は古びてところどころ生地がほつれ、使い込まれた様子がうかがえた。乗客は数えるほどしかおらず、窓の外には雪に埋もれた山や静まり返った田畑が広がっていた。発車すると、車内は静寂に包まれ、レールを滑る音が低く響き、一定のリズムで空間を満たしていった


しばらくすると、車窓の景色が一変した。人家が消え、白い大地と裸の木々だけが続く風景に変わった。雪の層がどんどん厚くなり、世界がただ白と黒だけで構成されているように見える。


ローカル線の電車がゆっくりと止まり、「終点」とも言えるような無人駅に到着した。駅名標にはかすれた文字で「白森」と書かれているが、雪が張り付いて読みにくい。小さな木造の駅舎は時代に取り残されたようで、ホームには僕たち以外の人影はなかった。


彼女の息がやや荒いのが気になった。外は極寒の雪原だ。難病を抱える彼女にとって、この厳しい寒さは体力を余計に消耗させるはずだ。


駅を降りた途端、冷たい風が頬を刺す。雪が吹き付け、足元にはかたく積もった雪が残っている。彼女はマフラーを巻き直しながら、小さく息を吐いた。


駅舎の中にある古い公衆電話に向かい、タクシーを呼び出した。数分後、一台のタクシーが雪をかき分けるようにして駅前に到着した。



タクシーの窓からは、さらに深い雪景色が広がっていた。山間の道は細く、両側には木々が雪の重みで枝を垂らしている。時折、雪が枝から音を立てて落ちるのが見えるだけで、ほかには動くものもない。


「静かなところですね。」

僕が言うと、運転手がちらりとバックミラー越しにこちらを見た。

「ええ、この辺りは冬になると本当に人がいなくなるんです。夏場はハイキングやキャンプで賑わうんですがね。」


彼女は窓の外をじっと見つめたまま、何も言わなかった。その横顔にはどこか遠くを見るような表情が浮かんでいる。


「もうすぐです。冬場は何もありませんけど、きれいな場所ですよ。」

運転手の言葉に、彼女は小さく頷いた。



道路が途切れた場所にタクシーが止まると、その先にはただ真っ白な雪原が広がっていているのが見えた。


「ここが白森雪原です。」

運転手がそう告げた後、タクシーは雪を踏みしめながらゆっくりと走り去っていった。エンジン音が完全に消えた瞬間、あたりは深い静寂に飲み込まれた。風が雪原を滑る音と、吐く息の白さだけが、目の前の広がりを際立たせていた。


彼女は無言でその場に立ち尽くしていた。目の前に広がる光景を、その瞳に焼き付けるかのようにじっと見つめている。

吐いた息が白く浮かび上がり、風に消えていく。


遠くに霞む山影以外、目の前にはただ無限に続く雪原が広がり、吹き抜ける風の音だけが世界を支配していた。その静けさは、耳を打つ風の音すら飲み込んでしまうような圧倒的なものだった。

僕たちはその場に立ち尽くしていた。雪が足元に積もるのも忘れ、言葉を失ったまま、胸の奥にある何かが深く揺さぶられるのを感じながら、ただその光景に心を委ねていた。ここには確かに「存在しないもの」が存在している──そう思わざるを得なかった。



タクシーで来た道を15分ほど戻った白森雪原からほど近い場所に、古びた木造の宿が一軒だけ佇んでいた。小さな看板には「白森荘」と手書きで記されている。冬季は滅多に客が来ないらしく、灯りのともったフロントには、宿の管理人と思しき老夫婦が寄り添うように座っていた。その姿が、雪に閉ざされたこの場所の静けさに溶け込んでいるようだった。


「この時期は、泊まり客が少なくて、ありがたいです」

女将が湯呑を手に持ちながらそう話しかけてくる。その素朴な言葉に、僕たちは少しだけ気持ちが和らいだ。


通された部屋はシンプルな和室だった。襖越しに聞こえる風の音が、この宿がいかに静かな場所にあるかを物語っていた。部屋の窓からは白森雪原の一部を眺めることができた。


塩焼きの川魚、湯気の立つ山菜の煮物、小さな土鍋で供された野菜たっぷりの味噌汁、それに漬物と炊きたてのご飯。僕は熱燗を一合だけ飲んだ。彼女はおちょこで一杯だけ口をつけたきりだったが、不思議とそれだけで心が満たされるような気分だった。


夕食を終え、部屋に戻ると、夜の白森雪原は闇の中に完全に溶け込み、まるで雪原そのものが存在していないかのように思えた。

障子越しに、雪が降り積もる音が静かに聞こえる。宿全体が深い静寂に包まれ、僕たちは、暖かな部屋の中で、世界から切り離されたような感覚に包まれていた。


彼女はそっと『存在しないものの存在論』の第四章を開き、あらためて白森雪原に言及された一節を読み上げた。その声には、難解な文章を包み込むような優しさと慈しみが宿っていた。


彼女の静かな声は、白森雪原そのものを部屋の中に呼び寄せるかのようだった。僕は言葉の意味を完全に理解できないまでも、胸の奥に得体の知れない感覚が広がっていくのを感じていた。


やがて彼女は着ていたセーターの袖口をそっと直し、両手で軽く裾を引き寄せた。その仕草ひとつひとつがゆっくりとしていて、まるで何かを確かめるようだった。


「今日は……ありがとう。」

彼女がぽつりと言った。


セーターの下に着た薄手のブラウス越しでも、雪に冷えた彼女の体温が伝わってくるようだった。彼女の頬はほんのりと赤みを帯び、白い肌が薄い光を反射しているように見えた。

彼女の瞳はどこまでも深く、そこに何か言葉にならないものが揺れていた。


僕はそっと手を伸ばし、彼女の髪に触れた。指先に伝わる柔らかさは、彼女がどれほど繊細な存在であるかを感じさせた。髪の隙間から覗く耳、頬、そして首筋――そのすべてが雪のように白く、儚げだった。


彼女が静かに目を閉じた。その仕草は、何かを許すようにも、受け入れるようにも見えた。僕たちは自然と互いに近づき、彼女の唇がそっと触れた瞬間、部屋の静けさがさらに深まるように感じた。


彼女の白い肌は、まるで雪の中に埋もれた何かをそっと掘り起こすように、その薄い光を纏っていた。外から差し込むわずかな雪明かりが、暗い部屋の中で彼女の輪郭をかすかに浮かび上がらせていた。それは儚くて、触れると消えてしまいそうなほどの存在感だった。

僕の腕の中で、彼女の息遣いが微かに震えている。吐く息が頬に触れるたびに、その小さな温もりがゆっくりと胸の奥深くに染み込んでいった。

彼女の指先がそっと僕の熱いものに触れた。かすかに冷たさを帯びたその感触に、一瞬だけ息を止める。けれど、彼女の手の重みが心地よく、その重さが僕たちがここにいることを静かに教えてくれているようだった。

僕は静かに彼女の中に入っていった。 

外の世界は深い静寂に包まれている。雪が降り続いているのが窓の隙間からわずかに感じ取れた。冷え切った世界の中で、僕たちは暗がりの中でそのぬくもりを確かめ合っていた。


彼女は僕の腕の中で静かに横たわっていた。窓の外には相変わらず雪が降り続けており、その音だけが聞こえていた。

僕は彼女の髪を撫でながら、何も言わなかった。彼女の呼吸が徐々に穏やかになり、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。

僕は今まで経験したことのないような安らぎに満たされ、深い眠りに落ちた。



翌朝、僕は冷たい空気で目を覚ました。夜のうちに降っていた雪は止み、薄く雲が広がっていた。布団の隣を見て、彼女がいないことに気づく。布団は冷え切っていて、彼女が部屋を出てから少し時間が経っているのがわかった。


慌てて宿を飛び出すと、雪原へと続く一本道に、彼女の足跡がまっすぐに伸びていた。雪は夜の間に降り積もり、どこまでも純白の世界が広がっている。その中に刻まれた痕跡は新しく、朝の光にくっきりと浮かび上がっていた。


不安で押しつぶされそうになりながら、僕は走りながら足跡をたどる。雪が膝まで埋まる場所もあれば、風で吹き飛ばされた地面が見える場所もある。彼女の足跡だけが確かな存在だった。


雪原の遠くの方に、彼女の淡いピンク色のコートが、目に入った。それは純白の世界に小さな火を灯すように鮮やかで儚げだった。


僕は走りながら彼女の名前を何度も叫んだ。声が掠れ、息が切れても、雪に足を取られても、風がその声を押し戻そうとも、叫び続けた。


ようやく彼女にたどり着き、雪に覆われた体を抱き起こした。けれど、すでにその体は冷たく硬くなっていた。凍りつくような寒さの中でも、彼女の指先は一冊の本をしっかりと握りしめていた。

本のページは、彼女の吐息で凍りつき、文字は雪に埋もれるかのように曇っていた。僕にはその文字を読むことはできなかった。

空も地面も白に染まり、どこまでが雪原で、どこからが空なのか見当もつかない。風は止み、音さえも存在しない。

僕は彼女の体を抱きしめ、冷たい雪原の中でひとり立ち尽くした。白い世界にすべての音が飲み込まれ、押しつぶされそうな静寂だけが僕を支配していた。



丸ノ内線の車内は蒸し暑く、車窓に映る景色もどこかぼやけているようだった。9月だというのに、気温は37度を超えている。駅のホームで熱を吸ったアスファルトが、遠くの空気を揺らしているのがわかる。この暑さの中で、あの雪原のことを思うと、まるでそれが違う世界のことのように感じられる。

けれど、記憶の中の白森雪原は、むしろ、時間が経つほどに鮮明になっている。

四ツ谷駅のホームが近づくにつれ、彼女がこの電車で本を読んでいた姿が、不意に目の前に浮かんだ。記憶はこうして、いつも予期しない瞬間に現れる。


あの日、地元の警察で夜遅くまで事情聴取を受けた。彼女がどうしてあの場所に行ったのか、どうして一人で雪原に消えていったのか、同じ質問を何度も投げかけられた。けれど、僕に答えられるものなど何一つなかった。

警察は、彼女の死を自殺と判断した。それが彼らの合理的な解釈だったのだが、僕にはどうしてもその言葉がしっくりこなかった。確かに、彼女が抱えていた病の重さも、その静かな苦悩も、僕は知っていた。

あの凍てつく冬の朝、彼女が本当に自ら「終わり」を求めたのか。それとも、ただ「存在しないもの」を求めてその静寂の極致に呼ばれたのか――それは永遠にわからないままだ。


電車が四ツ谷駅に滑り込み、ドアが開いた。むせ返るような熱気が車内に流れ込み、サラリーマンや制服姿の小学生たちが慌ただしく降りていく。


確かなことは、あの冬の朝、彼女の足跡がまっすぐに続いていたということだ。どこか迷うようでもなく雪原の奥へと向かっていた。その足跡は、風に消されることもなく、あの白銀の世界に確かな存在を刻んでいた。


「むしろ存在しないこと自体が、存在そのものを際立たせている。」

僕の中には、あの宿で彼女が読んだその優しい声が今もそのまま息づいていた。


どれだけ時間が過ぎようと、それらの記憶はかき消されることなく、あの雪原の雪のように、いつまでも僕の心に降り積もり続けている。





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