第八話
長い年月を経て少し腐り、人が歩けば恐ろしい音を鳴らせる床を、何の気負いもせずに白いネコは走り渡っていく。眼は青く光り、身にまとう白い毛皮は月の光を反射させ存在を際立たせる。風を切り裂きながら長年住んでいた住処をでて、彼は探しに行く。
柔らかく踏みつけられた草花は自身の緑を濃くし、踏まれる前よりも心なしか生命力が見られた。
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川に架けられた長い橋の上を自転車で滑走する。昨日自分のものとなったこいつを使って今日は学校に向かうことに決めたのだ。新調された自転車の調子は良好で、足が軽く、ついつい横に並走している車両と競争してしまいたくなるくらいである。
特に気に入っているのが前についている直方体の大きな籠だ。以前使っていた自転車は籠が小さく、学校指定のリュックサックが入らなかったのだが、これにはぴったりと収まる。素晴らしいね。これまで不可能だった自転車通学が可能になったのだ。すなわち電車代とバス代が浮くということ。お金があるのはいいことだ。
坂道が生み出すハイスピードに気分が爽快になりながらも、坂道の中間、視界の先に白いネコがいることを認めると僕は轢かないように徐々にスピードを落としていく。こちらをずっと見てくるものだからつい見返してしまうと、僕はそのキュートな眼力に魅了されついにはその目前で停止したのである。
(可愛いなあ…)そう思いながら自転車から降りて撫でようと手を伸ばす。
風がそよぐ。ネコの眼とあった時、背筋に鳥肌がざっと立つ。
『お前、何かおいしそうなものもってるな』
こ、こいつ脳に直接……って、へ?
僕は唖然としながらそのままの姿勢で体を硬直させ目の前にいるネコをじっと見る。変わらず可愛い顔がそこにあり…うーん、幻聴だったのか? いや。
「いやでも絶対お前だろ⁈」
『大声を出すな。うるさい。』
「え、気持ち悪。 頭にダンディーな声が流れ込んでくる…」
『いいからそのバッグの中にある食べ物をよこせ』
「うん? ああ、おにぎりのことか。 あげないぞ、これは僕の今日のお昼ごは…んん⁈」
僕は目を見開きながら、自分の体が勝手に動いてバッグのチャックを開き中からおにぎりを取り出したことに驚愕する。声も出ない。唖然として声が出ないというのではない、本当に声が出ないのだ。
『ああ、ありがとう。』そう言ってそのネコは器用に巻いてあるラップを取り外しむしゃむしゃと食べ始めた。その間僕は何かに操られたかのように直立不動のままその様子を見ていた。何だ、何が起こってる? 訳も分からず頭がぐるぐるする。ネコは話しかけてくるし体は勝手に動くし、全く非現実的だ。
夢か現実か判別している間にネコは食べ終わったようだった。大きなげっぷをしてからまたこちらを向き直す。
『やはり人間が作る飯はうまいな。 非常に満足した』
「いや僕のお昼ご飯無くなったんだけど…って声出るようになったのか。 んん、そんなことよりなんd『褒美を与えてやろう』喋れ…」
突如として目がとても強く痛み出し、僕は思わず顔を覆いながらしゃがみ込んだ。
「…っ! 何した!」
眼を開きあたりを見渡すが、いつの間にかネコは消え去っていた。まるで化かされた気分だと思いながらへたり込んでいたが、すぐに僕はあることを確かめるため眼鏡を外した。ああ、やっぱりだ。
「目、良くなってる…?」
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ガタンゴトンと音を立てながら電車は進んでいき、窓が映す風景がするすると変わっていく。
吊革にぶら下がりながら僕は、はあー、と大きくため息をついた。
鬱だ。最悪な一日だった。
あの白ネコに何かをされた後、僕は何事もなかったかのように朝礼に出席した。
まあ、ネコが語り掛けてきたなんて戯言、誰にも話せるはずはないしそもそも友達がいないから心理的にも物理的にも話せないからなのだが。あれ、これ前にも言ったっけ。まあいいか…
そのまま何事もなく過ぎれば良かったのだけれど残念なことにそうはならなかった。
人の顔を見れない病が悪化したのだ。より深刻なほどに人の眼が気になってしまい、特に数学の先生にこの問題を解いてくれなんて言われた時なんか死ぬかと思った。これはたまらんと思って二限目と三限目の間の休み時間に早退し、今電車に揺られている。
本当に余計なことをしてくれた。一般的に定義されているただの眼の悪い人間にとっては嬉しいことかもしれないが僕にとってみればそれは首に縄を掛けられたようなものだった。絶対に見つけだして元に戻してもらわなければ。…電車内にいる人の視線がつらい。そりゃそうだよな、こんな昼頃に制服姿の男が電車乗ってたら変だなって思うよな。僕は白猫に対する恨みを強くした。
数駅乗り継いでから電車を降り、東口改札から出て乱立しているラーメン屋を通り過ぎ、目の前に出てきた公園を突っ切った先で細く続く道をてくてくと歩いていく。ここら辺にいるはずだが…………って、
あれ、そういえばどうしてここに猫がいるって分かったんだ?
ようやく冷静になってまともな思考ができるようになったその時、脳で思い描いた通りの場所にネコが佇んでいた。
『全く、人間とはやはり傲慢な生き物だな。 数百年前とまるで変っていないじゃないか』
「見つけた!……ってなんで僕が罵倒された⁈」
『うん? その眼だけじゃ褒美としては満足できなかったからここに来たのだろう?』
「確かにお前が言っている通り不満足ではあるけれど僕が要求したいのは眼に続いて頭もよくしてくれとかではなくて、この眼を、元通りにしてくれないかということだ」
僕が勢いよくまくし立てると目の前にいるネコはぽかんとした顔をして、そして言った。
『それは出来ない』