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ワインと檸檬

午後3時50分僕たちは鉄橋を走った

作者: 伊東住雄



             


      

       午後3時50分僕たちは鉄橋を走った

                              伊東住雄


一人の人間にはその運命と人生とを決するような時が生涯、

一度は必ずあるものであり、それを乗り切った瞬間、彼の未来は全面 的に変わるものだ。  

遠藤周作「埋もれた古城」



鉄橋を渡ろう―

誰かが言ったその言葉はいつしか「合言葉」になり、鉄橋を渡ることが僕たちの夢となるのにそう時間はかからなかった。

鉄橋を越えた遠くその先に、大きく輝く光の塊を僕たちは見た。関が原に位置する伊吹山を背景に輝くその光は未来の栄光なのか、何かの錯覚なのか、あるいは単なる太陽による反射の光なのか理解できないが糸を引く虹のような光の帯を確認した。

何時もそうだ。何かに怯える不器用な僕の生き方。苦悩や煩悩、疑惑や確証そして希望や絶望などの個人的な格差、差別、破壊そして暴力、分断など数えきれない情報、状況の中で知ったことと言えば、燦燦と輝く太陽のもとで「俺を照らさないお前が憎い」と叫ぶしかなかった。些細なことで仲間と殴り合い、快楽に酔いしれて女を悪戯に弄びそういう中で大学四年間を過ごした。いつの日か背後から鋭い刃物で背中を刺される様な不安に襲われ、そのままそこで息絶えてしまう幻影に脅えていた。そのことがいつも心の隅にあって気が付けば僕は二十二歳になっていた。

僕は卒業する半年前のことを思い出しながら、堤防に寝転びびしょ濡れになった裸身を太陽に晒していた。


九月下旬、

まだ残暑が厳しく川面の風がピアノの旋律のように気持ちよく軽やかに頬を撫で、長良川の水は爽やかな色彩に弄ばれるようにさわさわと音を立てながらゆっくりと流れている。上から眺めると流れが静止している感じで今堤防に寝転んで雑談している姿はスクリーンの一場面のような感じだ。東海道本線で岐阜市と瑞穂市を連結する長良川橋梁は別名前野橋とも呼ばれ、鉄橋は凡そ四百六十二メートル、曲弦プラットトラスと反対側にはポニーワーレントラスの鉄橋が平行にある。随分向こう岸が遠く感じトンネルのドームのように見え、青く塗られた大きな支柱が正確な距離を保って連結している。鉄橋は複線で上下線路に合わせそれぞれ独立しそれを立体化して構成されていた。線路はその中央にそれぞれ突き抜け、枕木が正確な間隔で敷き詰められてその傍に排水溝の蓋が線路に並行している。周りの鉄橋付近は大きな雑木林で東の方角には岐阜駅のツインタワーがそびえ、その左側にこんもりとした金華山の頂に岐阜城が見えた。反対方向の西側ではセメント工場が目の前にあって気ぜわしそうにトラックが何台か並んで出入りしている。僕たちは橋のたもとの堤防の芝生に座り飛び交う赤トンボに誘われるようにその鉄橋に見入っていた。橋の辺りには何もなく広々とした河川敷を利用したサッカー場があってゴールらしきポールが何本か無造作に立っている。索漠とした単調な秋で、爽やかな川面の風はまだ晩秋でもないがススキが時折頬を撫でる。僕たちが寝転んでいる上の堤防には何台か車が走っていく。橋を渡ることは随分以前から憧れていたが実際に橋を眼前にして線路の枕木の隙間から見下ろすと長良川の高さや鉄橋の向こう側に光る構築物は後ずさりさせるほどの迫力だ。僕は左足が悪い矢口のヤーさんや少し変わり者の桂ちゃんとの三人でその堤防の上から見下ろした。その鉄橋を六両編成の電車が信号機の警笛音を鳴らしながら突き破るように通過した。

青空の下で僕たちは堤防に寝ころびぼんやりと何時間も空を見上げていた。足の悪いヤーさんは幼い時に左足を農機具のモーターに足を巻き込まれそのまま治らずビッコを引いているが、彼は足が悪いことを凄くコンプレックスとして幼い時から持っていた。体育の授業は必ず学校を休む。休むと言うことが彼には正当化されごく当たり前のことで抵抗はない。ヤーさんは寺の息子で将来住職になることがある程度予測されたが、身体の不自由についてはあまり語ろうとはしない。桂ちゃんの家は近所であったが高校ではクラスは異なりパシリをさせられていた噂を聞いた。引き籠り気味の僕は二人と特別仲がいいとは言えない関係だったが何故か三人は共通点があるのか時折会っていた。

「今度ここに来るときはきっとあの鉄橋を渡ろう」

 ヤーさんがそう言った。僕たちにとって鉄橋の意味はそれぞれの思いに包まれ解釈もそれぞれに違っていたが、鉄橋を渡るということについては何故か同意していた。


十月に入って僕は何時の頃か一人で孤独を楽しむ世界に浸かっていた。ワンルームの小さな部屋で本を読む理由でなくゲームをする理由でなくただ茫然と天井を見て暮らしている。妄想癖があるのかもしれないといつも僕は脅え、実現しないことをさも現実のように修正するのは妄想の空間しかない。昼夜が逆転し社会から乖離されたその妄想の空間が、孤独であって単なる僕自身唯一憩いの時間だ。そんな日常の中で一人の女子大生と知り合った。彼女は秋山路子と言って美術部の一学年下の後輩だった。

 彼女とは学園祭の展示会で初めて出会った。美術部『秋の祭典』と赤色で大きく看板を掲げた会場は校舎の一室で軽音楽を流しながら部員の絵画を掲示している。入り口の扉は開いていたが赤いスーツを着た受付の女性の呼び込みに誘われ僕は名前を書いて入場した。部屋はライトの光をわざと落としている所為か非常に薄暗く、反面絵画の処にはスポットを入れ目立つように工夫している。目が慣れて会場をよく見ると部屋の四隅には生け花やちょっとした書道で書かれた形象文字が掛けられていた。藍染の暖簾やギターやトランペットのような楽器なども無造作に会場の真ん中のテーブルに配置されている。単なる暇潰しのつもりで入ったが、ある一枚の油絵の前で足を止めゆっくり眺めた。

添え木や支え木をロープと丸太棒でしっかりと吊り木をして冬支度をした秋の葉桜を描いたもので、国の天然記念物に指定されている樹齢千五百年の「根尾の薄墨桜」だ。見事な桜が散り来年また花を咲かす準備をしているのか薄く黄色味を帯びた葉は何となくどっしりとした静寂と風格を保つ。半面その静寂した風景が来年大きな美しい花を咲かすのだろう。樹木の周りには枯葉が散乱し根尾の秋は早い。その絵は満開の桜ではなく厳しい冬を待つ「根尾の秋」とタイトルがついている。祭りの後のような葉桜の絵を描く人物はどんな人物だろうか。

 その時バタバタと罵声を叫び会場になだれ込む男女がいた。静寂な会場は瞬時に大きな奇声を発して混乱し、壁の周りに小鳥のように寄り添い固まった。会場に飛び込んできた一人の女性が急に僕の隣に飛び込んで来て腕を組み「ごめんなさい、助けて」と叫んだ。

「この人が私の彼です。だからもうストーカーのように追っかけるのは止めてください」

 彼女はそう言って相手の男性に懇願した。

「おい、その女こちらに渡してくれないか。とんでもない女だ。ストーカーだと?」

「よく分からないが女性をいじめるのはよくないよ」

 会場は男たちの大声に一瞬氷つくように静まり返ったが僕たちの会話に脅えている者や会場から逃げ出す者も見えた。

 そう言うが早いか男は僕に向かって拳を振り回してきた。「キャー」という女性の叫び声が聞こえる。僕は拳を避けるため頭を下げて思い切り相手のみぞおち辺りを殴り膝で相手の下腹部を蹴った。男は勢い込んで空振りした勢いで真ん中のカウンターに手から倒れこみ、そのまま床に転倒し腹を押さえ痛みの呻き声を出す。僕は男の傍らに座って拳を振り上げ思い切り顔面を殴る振りをして顔の手前で寸止めをした。男の顔は蒼白なのが分かった。一緒に追い駆けてきた二人の仲間が僕を背中から抱える。殴られた男はよろめきながら立ち上がり顔をしかめ僕の顔面を二、三発殴った。僕は肘打ちを相手の胸に打ち、腕を振りほどき三人を相手に顔を数発それぞれ殴りつけた。もともと僕は空手を習っていたので喧嘩にはある程度の自信があった。体が弱く引っ込み思案だったせいもあるが母親に習い事の一つにスポーツは空手を中学に入るまでやらされていた。殴られた男子学生は「チェッ」と舌打ちをし「後悔するなよ」と捨て台詞を吐いて会場を後にした。カウンターは壊れ置物が床に散乱しトランペットが部屋の隅に転げていた。

「ごめんなさい。恥ずかしいところを見せて申し訳ありません。お体大丈夫ですか」

「急に飛び込んできてどういう積もりなのだ。ふざけるなよ、気分が悪い」

 慌てて先ほど受付をしていた赤いスーツを着た女性が走って僕の処に来て頭を下げた。その女性は部長の様で僕たちは三人で話をした。彼女は他の美術部の連中にも頭を下げたが、僕は「根尾の秋」の絵の前で出来事の経緯を求め詰問した。それは至極当たり前のことで、なぜ僕が見知らぬ女性の急遽彼になる必要があるのだ。

「実は彼からは数カ月前から追っかけられていたの。何度断ってもついて来るし陸運局に行って車のナンバーから住所を割り出し押しかけられるし本当に困っていたのよ。ただ会場に入れば仲間がいるからと思い飛び込んだのだけど丁度私の絵の前で見てくれている人がいたので申し訳ないけど咄嗟にしてしまいました。本当にごめんなさい」

 僕は「関係ないことだからもういいよ」といって殴られた頬に手を当てながら絵画の方に目を移した。会場は元の状況に再現され落ち着きを取り戻し軽音楽も流れてきた。

 僕はこの絵が桜の満開の絵ではなく冬支度をする根尾の葉桜だからそこに作者の心の暗い過去を垣間見るようで、口には出さなかったが気に入っていた。しかし、作者がこういう女性であることを知った今、興味は全くなく興覚めをした気持ちだった。

彼女の話によるとこの絵が欲しいから譲ってくれという人も見えると言うが、僕はまさかと思ったが多分に彼女狙いの単なる馬鹿な先ほどのような輩だろうと思った。

「お金出してまで欲しい作品とは思わないけど、あなた目当ての人間だろ。馬鹿馬鹿しい」

「失礼よ。何よその言い方、最低」

「失礼はそちらだろう。何考えているのだ。思い上がるのもほどほどにしろ」

 会場はまた再度氷付いたように静かになった。音楽も止まったような気がする。僕はつまらないので会場を出た。会場を出るとホールがあって窓際に僕は座ってブラックの缶コーヒーを飲んだ。コーヒーは熱く冷えた心にドロッと染み込むような感じだ。窓から見える校庭の景色は学生たちが銀杏の木がある処では思い思いに歩き、テラスのある場所ではパラソルの下で本を読んだりゲームをしたり数人が集団を作り談笑し大きな声を出している。その向こうには高い建物が塔のようにそびえ落ち着きのない午後の時間帯だった。

「座っていいですか」

 顔を上げると先ほど展示場の会場でトラブった彼女だった。彼女は半袖の薄いブルーのブラウスに先ほどは被っていなかった紺の帽子を被っていた。髪は少し栗色に染めて後ろで纏めている。背はさほど高いようには感じないが椅子に座っているので高く感じたのかもしれない。先ほど並んだ時僕の方より少し目線がかなり下だったから160センチ位かなと感じた。微かに柑橘なレモンのような香水の香りがする。僕は黙っていると彼女は正面に座り手にはウーロン茶のペットボトルを持っている。僕は黙って項垂れてスマホを弄っていた。

「先ほどはごめんなさい。本当にごめんなさい。私あなたにお詫びを言いたくて追ってきたの。それに追いかけてきた学生に対して本当に助かりました。もしも危害を与えるようなことがありましたら言ってください。ありがとうございました、そしてごめんなさい。絵画の方は今までの人は私の作品を誉める人ばかりだったの。お世辞だということも知っていた。でも気持ちがいいので有頂天になっていたの。それをあなたが私の心を打ち崩してくれたのではっとしたのよ。今まで自分がこれほど慢心していたのかよく分からなかった。初めての人に言うのも変だけどみんな私のことを持ち上げて近づきたいばかりで下心が見え見えだった」

「そう気が付いただけでも少しは大人になったのさ。慢心があるから平気で上から目線で喋る、普通の女性が言うような言葉じゃない。女性にそこまで気を持たすのも嫌だし、正直に生きてそれで良としなければ嘘で固めた生き方になってしまう。そういう生き方もあるかもしれないが少なくとも僕の青春の辞書にはそういうお世辞の言葉はないよ」

「私、秋山路子法学部三年生です」

 僕は黙っていた。今だけのことだから特に名前を言う必要もない気がした。

「名前教えてくれないのですか?」

「何で言わなくちゃいけないのだ、ふざけるなよ。剣崎って入場する時書いておいたから勝手に見ろ」

「ねえ、私きちんと自己紹介したのだから教えてくれてもいいじゃない。私そんなの嫌だわ。私きちんと謝りたかった」

「今日だけだし受付に僕の住所氏名は書いているよ。だから取り立てて君に名前を言う必要もないだろう。今だけの人だから」

「私が今だけ?どういうことなの、自己紹介しただけでしょ。ちょっと待っていてね」

「自惚れの強い女だな」

 僕がそういうと余程慌てたのか彼女はピンクのバッグをテーブルの上に置いて会場の受付まで走っていった。ハイヒールの音がカチカチと白いタイル張りのフローリングの床を鳴らし、暫くして彼女は帰ってきた。

「ごめんなさい、受付見てきた。五郎さんというのですね」

 僕は黙ってスマホを相変わらず弄っていた。予定を見てみると特にはなかったが早く帰って妄想の世界に浸かりたい気になった。今は昼夜が完全に反転している睡眠障害のような感じで、そういう中で世の中と乖離し妄想の世界に居場所を僕は見つけていた。彼女に「用事があるのでこれで失礼」と言って席を立った。彼女は茫然とその場に立ちすくんだがすぐに周りには数人の男性が笑顔で寄って輪が出来立ち話をしていた。会場の周りは相変わらず賑わっている。

ああいう風にチヤホヤされ喜んでいたのかと不快になり僕は足早に大学の外に出てバスに乗るために並木道を歩いた。外は薄暗い雲がたなびき、夕闇に包まれた秋の気配を少し感じるようになった。合唱部の歌声が聞こえてきたが何という歌だったのか思い出せない。考えても仕方がないと僕は校舎の建物の塔を振り返ってみる。ただ数人の女子大生が歩いているだけだった。


何時しか外は顔を僅かに濡らす程度の雨になっていた。マンションの入り口の階段の前で赤いスカートを穿いた女性が立ちすくんでスマホを弄っている。

「桂ちゃんじゃないか。中に入れ風邪ひくぞ」

「五郎ちゃん何処行っていたの。随分待ったのよ。凡そ三時間位かな」

 栗色に染め肩まで髪を伸ばした桂ちゃんはそう言って自分の時計を見つめた。ドーム屋根の五階建てマンションはレンガタイル張りで入り口から道路まで敷地一杯に背の低い生け垣があって少し街並みに合わせ緑を入れて設計している。僕は桂ちゃんに部屋に入るように促した。

 桂ちゃんは三階にある僕の部屋に入るなり整理整頓がされている部屋を見て驚いていた。ワンルームだがベッドがあって傍に机、ソファーに台所テーブルと所狭い処に物や雑誌が無造作に積み重ねられ、テーブルの上にパソコンが忘れたように置かれている。

「五郎ちゃんはきれい好きなのだね。私もっと雑然としているのかと思っていた」

 そう言って僕たちは笑いながらソファーに座った。桂ちゃんはお酒でも飲みたいねっていうものだから僕は冷蔵庫の中から缶ビールを二つ持ってきてつまみは適当にコンビニで買ったイカの燻製やバタピーなどを出してやると桂ちゃんは感激して僕に抱き着いてきた。

「五郎ちゃんありがとう、こんなに歓迎してくれるとは思わなかった」

 僕たちはつまらない世間話をしてあの部活の連中はどうだから駄目だとか新聞部の野郎は私のことをジロジロと見つめて何か差別的な異次元の人間みたいに見ていたと言った。

そう言うと桂ちゃんは急に泣き出した。その泣き方が半端でなく正直大袈裟なほど大きな声で嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流した。

「五郎ちゃん、今から言うこと信じられないかもしれないけど聞いて欲しいの。実は私の性格は女のようだけど肉体は男なのよ。世間では性同一性障害ともいうし、ジェンターともいうの。もう生きていくのが辛い。それで相談する人がいないから五郎ちゃんに聞いて欲しいのでずっと待っていたの」

「太田桂一、これが桂ちゃんの名前だよね。でも今は選択肢が沢山あるのだから無理することないじゃない。あまり人のことは言えないけど自分の一番楽な生き方をすればいいんだよ。俺だって似たようなものだよ」

「私、性同一性障害だと気が付いたのは中学になってからだった。体は男性的になっていくのに気持ちが段々女性的になる。何時しか言葉使いまで女性的になった。そのうち下着や身に着ける服装も女性的なものになった。両親には中学卒業間際に話したわ。凄く叱られた。お母さんは泣くしお父さんは外に飛び出すしどうしてこんな奴が生まれたのだと母と私を罵倒して部屋を出ていった。それから適応指導教室にも行ったわ。母と一緒に学校に行ってその事実を先生に話した。昔と違って今は差別という言葉があるので出来るだけの対応をしますと言ってくれたがその言葉自体が差別だった。私は女性が好きというわけではないの。男性だから性的転換をするかもしれない。タイに行けば性転換天国だと言うのよ。日本では難しいからタイで複合手術をしてもらおうかとさえ思っているの。でも今は考えていない。レスビアンやゲイのたぐいではなくLGBTなのよ。トランスジェンター、トランスはラテン語で「乗り越える」、「逆側に行く」という意味があるそうなの。ジェンターは社会的性別を意味するらしい。私はみんなに高校時代馬鹿にされたわ。でも気にしなかった。これ見て五郎ちゃん」

 そう言って桂ちゃんは羽織っていた薄い黄色い上着を取ってもう一枚ブラウスを取った。立ち上がって赤いスカートも脱ぎ僕の目の前で裸になった。

「桂ちゃんもういいよ、よく分かったから」

「五郎ちゃんには見て欲しい。誰にも見せていない」

そう言って胸につけているピンクのブラジャーを外しお揃いのパンティも脱いだ。正直僕は驚いた。裸になった姿は男性そのもので、胸は隆々としているし下半身は黒々とした男性的なものをしっかり保っている。今起こっている事実は何が起こっているのかよく分からなく僕は軽い眩暈を感じた。しかし、桂ちゃんにしたら息苦しい二十二年間だったろう。小学生の頃僕が空手をしている関係で同じように入門し、筋トレやストレッチ、腕立てなど一生懸命したが逆に体は益々逞しくなったが、半面精神的には女性化していく自分が怖かったと言う。服を身にまとった桂ちゃんはもう少しお金をためて性転換したいと言った。胸も大きくしたいし、お尻ももう少しふっくらとして女性的になりたいと言う。今でも服装は女性の服装を着ているのだがその方が落ち着くのだという。自分の体は男だがもう男には戻りたくない。このまま女性でいたいと俯き加減に言った。

「高校時代にね、私悪ガキからパシリをやらされ本当に女のような奴だと罵られた。彼らは面白がって私を公園に連れて行ったの。そこでじっとしているとグレーの制服を着た女子学生を連れてきた。その女の子は制服が違ったからうちの高校の生徒ではなかった。そこで連中は私に男なら彼女と性行為をしろと強要したのよ。その女の子は相当荒れていた感じでどちらかというとアバズレだった。私は下半身裸にされて女性のスカートを捲り上げみんなの前でセックスをした。行為をしないと私は殺されるように感じたの。でも彼女との行為は何も感じなかった。連中は私と彼女のことをビデオに収めていた。何もかも終わった時私は彼女に「ごめんね」と言ったの。そしたら彼女が「あなた初めてなのでしょ、分かったわ」って言われた。もっと男らしくしないと駄目だよ。女は強い男を求めているのだというの。連中は用が済んだら大きく笑いながら何処かに行った。何かあったらユーチューブに載せるからなと捨て台詞を吐いたのよ」

「しかし、酷い奴らだな。桂ちゃんを見殺しか。悔しかっただろうなあ」

「結局そこで私は男性には向かないと思った。その後実は彼女と何回か会ったのよ。そして再度気持ちを盛り上げて行為をしてみたの。でも駄目だった。やっぱり女性で生きようと考えたの。彼女は何時しか私の前から消えていたわ」

 桂ちゃんはそういうことを言ってまた涙を流し、両手で涙を拭いながら自分で自分を責めているみたいだった。黄色いワンピースで髪を少し長めにまとめた姿は女性と何ら違わないし、その辺の女性よりきれいだと僕は思った。だがLGBTは非常に微妙な存在ではあったがその世界にはどうも僕はついては行けない。桂ちゃんは僕に話して納得したのかこれから少し旅に出ますと言って僕のマンションを出て行った。

 一時間ほど経って携帯に電話が鳴った。誰か分からなかったので放置していると留守電に話をしてくる女性がいる。昼間会った秋山路子だった。

「夜分にごめんなさい。あなたに会いたい」

どうしても誤解を解きたいので明日にでも会えないだろうか彼女は言った。少々煩わしい状況ではあったので逃げるようにいいよと返事をした。

翌日大学の近くの軽音楽が流れる喫茶店で僕たちは会ったが彼女は失礼なことを言ったことを後悔し、詫びて最初から泣いていた。不審な顔をしたウェイトレスに僕たちはアメリカンコーヒーを頼んだ。茶色のジャケットに白のブラウスを着て少し開けた胸元にはネックレスが輝いている。細い指の爪はブルーの色が目立つ強烈なマニュキュアを塗っていた。何処にでもいる普通の家庭の女子大生ではなく裕福なお嬢さんと言う感じだ。彼女のバックを見るとこれもエルメスのブランドだった。多分に洋服もブランド物なのだろう。

「恥ずかしいから泣くなよ。泣かせているみたいじゃないか。泣くのなら帰る」

 そう言うと彼女は冷めたコーヒーを前にしてハンカチで涙を拭き話し出した。

「私あなたにどうしても会いたかった。携帯の番号だって随分勝手だけど調べさせてもらった。あなたの同学年の方に友達がいてその人が調べてあげるって言って探してくれたの。後ろめたい気があったけどあなたに会うためには私はそうするしかなかった。最初にそのことについて謝ります。ごめんなさい。本当にごめんなさい。それから昨日のことはみんな私から出た問題で本当にあなたにはご迷惑かけてしまって申し訳ありません」

 彼女はそう言って僕の目を見つめ、頬に流れる涙を拭こうともせず深々と頭を下げた。窓際に座っている僕たちに太陽の陽射しが遠慮なく彼女の睫毛に溜まった涙を輝かさせる。僕は少し彼女との話にうんざりしていたが、彼女が涙を拭おうとしないので目のやり場に困り窓の外を見た。午後にしては交通量が多く何人か見覚えのある学生が店の前を通り過ぎて行った。同じ店内にいた知り合いの女子大生が傍から彼女に声を掛けてきた。

「路子久しぶり、元気?」

 彼女はただ黙って笑って何も返事はしなかった。

「知り合いの友達。あまり好きじゃないの。私本当の友達っていないのよ。私がお金をみんなより持っていて、話が面白いので寄って来るけど相談できる人はいない。それも今回気が付いたわ。小さい頃からそうだった。何でも私の好きなように親はさせてくれた。習い事をしたいと言えばさせてくれたし海外に遊びに行くと言えばお金をくれた。でもそういうことって普通の事かと思っていたけどとんでもないことだと大学に入ってから気が付いた。みんなアルバイトや奨学金をもらって勉強している。私は勉強なんて嫌い。予備校では今の大学なら心配ないと言われたからあまり勉強をしなかった。いっそ親に話して留学しようかと思っていたの」

「留学したらいいよ。君には似合っている」

「どうしてそんな意地悪な返事をするの」

 彼女はそう言って頬を膨らまし愛くるしい八重歯を見せた。髪を両手で後ろから抱えて頭に載せ饅頭を作った。そう言ってぼんやりと窓の外に目を移した彼女に対し、優しくすることが逆に罪悪のような気がした。その時僕は女性の煩わしさには叶わないから早くこの場を逃げ出すことばかり考えていた。いつしか室内に流れる曲がジャズに変わっている。

「僕の事そんなに言ってくれるのは光栄だけど少々変わっている」

「どんな風に」

「うまく説明はできないけど僕を手始めに仲間って変な奴ばかりだ。それを見ただけで逃げ出すよ。普通の人間じゃない連中だ。勿論ヤクザみたいな奴や暴力や薬物などしているような奴はいないけど、ただ引きこもりの僕を含め心身ともに不完全な連中だ。それに相当不器用な男だから気配りなんて出来ない」

 店の中は昼過ぎと言うこともあってか空いている。中央に大きな観葉植物が配置され壁はクリーム系で統一され窓はそれぞれ木製の格子が付いている。軽音楽は少しボリュウムの音が大きいような気がする。椅子は最近では隣が見えないように背もたれの高さは結構高かったがこの店も例外ではない。いつしか客は僕達だけだということに気が付いた。

「お願い、お付き合いしてください」

 彼女はそう言ってLINEのQRコードを見せた。僕に読み取れと言っているようだ。

「勝手に決めるなよ。それに返事が遅いとか早いとか面倒だから気が向いたら返事するからあまり気にしないでくれ。ラインより電話の方が早いから俺はアナログだよ。何といっても授業にはあまり出ないし影響はない」

 彼女は笑いながらLINEのメールを打っている。

「お付き合いのお返事ありがとう。とっても嬉しいです。大事にお付き合いさせてください」

 僕の携帯にLINEの着信音がした。携帯を見ると彼女からだ。最後にハートマークの絵文字がついている。僕の顔を見て路子は嬉しそうな笑顔を両手で顎を支えて見つめる。

「強引な女・・・・・・。誰も了解なんかしていない。ちょっと厚かましい。おとなしくしないとすぐ止めるぞ」

 それをみて彼女は今まで見たことのないような笑顔を作り伝票を持って出ようと言った。伝票は僕が払った。自分が誘ったのだから自分が払うのが筋だと言ったが僕は女に金は出させない古い人間だと言った。

「格好つけたいの?それとも本気?亭主関白?」

「未だかってそういう風に言った奴はいない」

「じゃあこれからは当てにして御馳走になります」

外は燃えるような赤い夕焼けで大学の校舎は赤く映えていた。彼女は今度家に遊ぶに行きたいと言った。いいよと言うと明日行くという。話をしていても時折明るい笑顔の中に影を持ったような暗い顔をする、「根尾の秋」という絵がそうだった。普通は満開の桜を書くのが一般的だがその背後の物を探り出そうとしている。二重人格の女性なのかと思ったが、そういう処が僕は口にはしないが妙に気に入っていた。影のある女は魅力的だ。


 翌日彼女は手土産にケーキを持ってやって来た。鮮やかなピンクのワンピースだった。長い髪に洋服はマッチしている。バッグも昨日のエルメスからピンクのシャネルに変わっている。

「いつか今度は私の部屋にも来てね。きっとよ」

 もう彼女はケーキを食べながら恋人気取りだった。僕たちはお互い何も知らないのにもう随分以前から知り合いのように彼女は喋ってきた。

「私の事路子と呼んでね、まだ一度も呼んでくれないけど。私は何と呼べばいい?」

「剣崎さんでどう?」

「五郎かな、剣もいいね。五郎にしよう。いいでしょ?」

 路子は甘えて僕の胸に顔を勝手に埋めてきた。そして背中に回した手に力を入れて「嬉しい」と言った。彼女は今までこのような感情は初めてで、男って単なる私のアクセサリーぐらいにしか考えてなかったし事実格好のいいイケメンしか相手にしなかった。でも誰もが私の体目当てで機嫌取りばかり、本質的なことを突き詰めて話をしてくれない。そういう意味で五郎は私にすれば異次元の世界の人で他の者と比較すると価値観が違うのだと言った。路子は僕の目を見て目を閉じたが僕はそっと指で唇を抑えた。

「意地悪、五郎恥をかかせて。・・・・・・、アホ!」

 彼女はそう本気で怒って僕の胸を両手で甘えるように何度も叩いた。多分に他の男ならとっとと帰っていたかもしれない。我慢をしている様子が分かった。

 僕は初めて路子を抱いて唇を重ねた。気性の激しい彼女は僕の胸に顔を埋め体が震えているのが分かった。香水はレモンのような柑橘系の甘い香りがする。


 その日を境に路子は毎日部屋に来た。数日後彼女が部屋にいるときヤーさんが遊びに来た。僕はヤーさんに紹介してやると五郎ちゃんにこんな美人は最後には悲劇を生むよと言って笑った。マンションの外は植込みの隙間から秋の陽射しが射し込み部屋中暖かい。路子が勝手知ってかコーヒーを入れて持ってきた。いつか知らないが彼女が新しいマイカップを持ってきているのに僕は初めて気付いた。

「どうしたの?」

「来る途中ペアのカップ買ってきた」

 それを聞いたヤーさんは大きな声で五郎ちゃんこれから大変だねと笑った。僕たちはただ一緒にいるだけで女性がいることによって自分の生活の部分が制約を受けるのが嫌だった。路子はそれでも構わないから何処か片隅に自分を置いていてくれと毎日部屋に来て頭を下げた。兎に角僕の妄想癖は目を閉じている時だけでなく昼間でさえそんな気がして変な癖になったなと感じていた。ヤーさんは相談があるのだと言って路子の顔を見た。

「買い物に行ってきます。それから実家に帰って少し荷物持ってくるけどいい?」

「ああ」

 ヤーさんの手前嫌だとは言い切れなかったが嫌な予感がした。その内身支度して路子はバッグを肩に掛け外に出た。ヤーさんの話は実家の跡継ぎの相談だった。

「実は俺の家はお寺だということを知っているだろ?それで後を継ぐのなら今のうちに修行を兼ねて大学の編入試験を受けろとうるさい。だが修行をしない限り坊主にはなれないし、そうなると学校も中退だし困ったよ。金の心配はないらしい。現在檀家は少々増えたと言っていたから百五十軒位かもしれない。死人が出れば出るほど儲かる変な商売だ。まあ食い扶持はあるということだ」

「ヤーさんは坊主になって寺を継ぐのだろ。なら何も迷うことないじゃないか。何か問題があるの」

「そういう経済的なことは問題ないが俺は足が悪いだろ。それで皆に馬鹿にされてきた。檀家の家に行けばあのビッコの坊主が来たなんて言われ差別されるのがたまらない」

「だけどヤーさん事実だから仕方がないよ。今更元通りになるわけでもないし足が悪くてもオリンピックで優勝した人も沢山いるのだからそういう差別的なことは考えない方がいいよ。他人がどう見ようと問題はない。要は自分が気にしているだけだよ。堂々とビッコの坊主だと言えばいい、胸を張って自慢すればいい。そうすることで同じ境遇の人も勇気を持てるようになるし、周りの人も協調してくれるのではないか。兎に角坊主って死人を供養するものだし煩悩を処理して極楽浄土にお連れするのだよ。こいつは天国だ、こいつは地獄だなんて選別するのだ。そう考えたら面白いじゃないか。俺なんかさしずめ地獄かな。結局差別なんて偏見以外何物でもない。そこに利害関係などあればまた違った問題だと思うけど単なる肉体の問題なら左程気にすることではないだろう。堂々とビッコの坊主だと言えばいい」

「そうだな、それにしてもあんな美人を自由にしているお前が羨ましいよ」

 ヤーさんは大きな声で笑った。

「実はもう一つある。桂ちゃんとのことなのだ。彼は二卵性双生児で妹がいる。そのことは知っているだろう?小さい頃養女としてアメリカのカルフォルニアの叔母の処に行ったのだよ。そのことは知っている?」

「家が近くだけども知らないなあ。だけど俺が知らないのにお前どうして知っているのだよ。ヤーさんと家はかなり離れているだろう?」

「そうだ、離れている。でも彼の家は俺の寺の檀家なのだよ。ある時期を境に手紙のやり取りをするようになった。俺は英語が好きだったから勉強の積りで便りを出していた。勿論桂ちゃんはそのことは知らない。その彼女が日本に帰ってきた。由美と言うのだけど実は二人で遊びに行ったのだよ。岐阜の町はほとんど知らないし桂ちゃんのことも様子を聞きたいからと言って誘われた」

「由美ちゃんは日本に帰ってきて永住するのかい?アメリカ育ちみたいなものだから考え方も環境もヤンキーで随分違うだろう」

 僕はヤーさんの話にはもっと隠された秘密があるような気がした。ヤーさんも喉元まで話が出ているのだが堪えているようだ。

「実は彼女が俺の寺に遊びに来た時のことだ。寺の中を案内していたら法事などで使用する広い部屋まで来た。その奥にはたくさんの仏像も寝かされている離れがあって、ひと際暗い部屋で教本や掛け軸など保管しているところだ。俺たちは読経が聞こえる中で仏像に見つめられながら求め合った。紺色のワンピースのジッパーを一気に下して上半身裸にして彼女の白い肌を見た。窓から射し込む白い光が彼女の胸を怪しく照らし後光が射している感じだ。背徳の行為という気がして俺たちは気持ちが高揚していた。部屋は小さな小窓だけが頼りの部屋だ。その日はいいお天気で小窓から太陽の光が木漏れ日のように飛び込んで来る。彼女は少し怖がっていたが俺が手を引いてやると甘えるように凭れてきた。手紙のやり取りの最中からそんなことを匂わせていたので別に抵抗は互いになかった。だが問題はそこからだった。俺たちは行為の後暫くじっとしていたが何の拍子か煙が立ち込めてきた。煙は何処から来たのかよく分からないが多分に隣の台所から火が出てボヤを出したので類焼したのだろうと思う。表はかなり騒がしくなって煙が立ちこみ、離れにも水が掛けられ小窓から水が飛び込んできた。俺たちは逃げるタイミングを逃してしまい、逆に火をつけたのではないかと疑われた。警察の調書ではお咎めはなく単なる火の取り扱いの問題だったのだが俺は由美とその時ボヤ騒ぎの最中に関係をした。火に照らされた彼女の裸身はこの世のものとは思えないほどきれいで、炎で赤く揺れる火照った裸身は人形のような肌だった。火が立ち込め小窓から煙が入り次第に視界が悪く喉が痛くなってきたが、俺と由美はそんなことは気にせず夢中だった。そんなことがあってから一週間の休暇が終わったので彼女はアメリカに帰った。一カ月後由美は電話で妊娠したことを知らせてきた。正直俺はどうしたらいいのか分からくなった。桂ちゃんに言うわけにもいかず両親にも言えず、結局五郎に相談するしかなかった」

「彼女は産むというの?」

「そうなのだ。産むらしい。同じ日本人だし知っている者同士だから問題はないが遠くに離れていることや経緯を話すことは難しく俺はどうしたらいいのか分からない。誰にも言えない傷があるというのは俺にだってあるし、それはもう俺自身では判断が出来ない。俺は彼女が嫌いではないし、むしろ好意を持っている。だから結婚はしてもいいのだが大学を卒業したら一度アメリカに行こうかと思っている」

「そうだね。何もしないというのは無責任だな。やはり親に話せよ。そして学校を卒業したらアメリカに行って気持ちよくお産に立ち会ってやれば彼女も喜ぶだろう。坊さんの学校はその後になるなあ。まあ大学は逃げるわけでもないからその方がよいのじゃないかな」

ヤーさんの悩みは自分と由美ちゃんと桂ちゃんの三角形が多分にどこかでショートを起こして遮断している気がするのだろう。もうヤーさんも事実を桂ちゃんに話をする時期に来ているのではないかと僕は話した。

 

外はもう暗くなり夜が来ればさすが寒くなる。初秋にしては少し早いが寒さがきつくなってきた。時計を見てそろそろ帰ると言って外に出ると入れ違いに路子が帰ってきた。

「そこで友達に会ったよ。もう帰ったの?」

 そう言って路子は荷物を沢山持ち込んできた。手伝って欲しそうに言うので僕は彼女の後をつけていくと車の後部座席やトランクに荷物を一杯入れていた。

「何を持ってきたのだよ。俺の部屋狭いのに」

「洋服やら下着やら化粧品など、それに調度品などで女は色々あるのよ」

「誰も泊めるなんて言ってないぞ」

 路子は部屋に入るなり正座をして僕に頭を下げた。

「私まだ五郎のことあまりよく知らないけど分かって欲しいの。凄くリズム感と言うのか波長がいいの、一生懸命尽くすわ。尽くすって古典的かもしれないけどお世話したいの、五郎の傍に居たいの、あなたに合わすために自分の行動をすべて犠牲にしてもいい。でもその合わす事実が嬉しいの、そんな馬鹿なって思うけど愛情なんて盲目だわ。今まで何人もの男が私にいろんなプレゼントや甘い言葉で近寄ってきた。私はそれらをすべて拒否したわ。つまらない男と一緒にはなりたくない。本来私は気が小さくて臆病なのに五郎には何故か自分でも不思議なのだけど大胆な裸になれる。五郎に隠し事や後ろめたいことなど何もない。好きだって生まれて初めて言えたのもその証拠。男なんてアクセサリーみたいなものだと考えていたから私が男性にそんなことを言うなんて考えてもみなかった。今は五郎のいい奥さんになりたい。単純に私だけの言い分で、少し大袈裟だけど兎に角邪魔しないから置いてください。食事や洗濯、掃除は私が全部します。だから置いてください」

「ベッドだって一つだし一緒に寝るのか?自分勝手な解釈で振り回すなよ」

「お願いします。私でよければ好きなだけ抱いてください。仮に結婚しなくて五郎の子供が出来たとしても私は一人で産み育てます。それぐらいの覚悟は出来ている」

「だんだん外堀を埋めて来るね。結婚なんてしたくないよ。それに僕はどちらかと言うと変わり者だから浮気もするし職だって色々変わるかもしれないから養う自信がないよ。それにしても凄い押しかけだなあ」

「浮気でも何でもしてください。私はそんなことで心変わりしませんから」

 彼女はそういうことは全て想定内だと言う。

「例え今回のことが自分の独りよがりで五郎に捨てられたとしても子供を認知してくれとか養育費をくれだとかは言わない。出来たら一緒に家庭を持って暮らしたい。私がどうしてこんなに五郎のことを好きになったのか自分でも説明できない。ただ今までの男性が非常に一般的で私には異性としての意識は感じなかった。だから恥ずかしいけど男性と関係はしたことはないの。処女で二十一歳になってキスの経験もない、初めて五郎としたの。だから先ほどのキスが初めての経験。嘘みたいな奥手だけど警戒心はかなり強いのよ。だって一生暮らすかもしれない人を単純に決めてしまうことは嫌でしょ。今はそういうことが古臭いと思う人が多いけどそういう人間もいるってことよ。今時驚きだと笑われるかもしれないけどそういうことなの。恋愛は恋愛、結婚は結婚と割り切れる人はいいけど私はそんなに器用に心を切り替えることは出来ない。周りはみんな私がわざとチャラチャラしたところがあるから尻の軽い遊び女のように見ている。目的はよく分かっていたからそれだけ慎重になるしかなかったし、そういう風に演技していた節もあるわ」

「それにしても相当な変わり者、今時古風な時代錯誤の化石のような人だね。その代わり何があっても知らないぞ」

 路子は「嬉しい」と大きな声を出して飛びついてきた。僕を抱きしめて「ありがとう」と言って何度も子供の様に頭を摺り寄せてきた。益々路子と言う女が理解できない。兎に角こう言う経緯で一緒に住むことになり僕の悪い予感は当たった。


 狭いベッドで寝ても僕は知らない振りして毎日眠った。路子は手を握り誘ってきたが僕は相変わらず無視を決め込んでいた。

「そんなに私魅力がないの?」

 数日後そう言って僕の胸に顔を埋めた。しかし、僕は相変わらず手も握らなかった。いつも路子から求めてくる。ある晩、路子は何を思ったのか自分のパジャマを脱ぎ全裸になり僕のパジャマのボタンを外して、乳首や胸に唇を這わせ体を重ねてきた。彼女の胸が僕の肌に押し付けた感触に僕は我慢するのが精一杯だった。路子は僕の手を取って自分の胸に誘導し下腹部に手を伸ばしてきた。「人形を相手にしているみたい」と呟きその時路子は無視されることに泣いた。僕は何て酷いことをしているのだろう。これはきっと路子を冒涜しているに違いない、だがどうしてもその壁を突き破れない。そのために路子を犠牲にしていいのかという自問自答を繰り返すだけで何も慰めることは出来なかった。その内路子も諦めて出て行くだろうと思ったが秋もいつしか終わりに近づいてきた。


 十月の下旬、桂ちゃんが旅から帰ってきた。手には讃岐うどんの土産用の籠袋を持っていた。何処に行っていたのかと聞くと香川県の琴平にある金毘羅さんに行ってきたのだそうだ。金毘羅さんの階段は千三百六十八段ある。讃岐うどんを食べて一人のんびり考えてみたけど結局は何も得ることはなかった。自分の生き方は一般的には不自然だけどこの様な性同一障害を持って生まれてきたのだから受け入れていこうと思うと話した。久しぶりに見る桂ちゃんは白いカーディガンに相変わらず好きな黄色い色のスカートを穿いていた。路子は五郎の傍で興味深そうに聞いていたが急に饒舌になった。

「あの、男性なの?」

「桂ちゃん一緒に住んでいる路子っていうのだけど宜しく」

「秋山路子法学部三年です。宜しくお願いします」

「猛烈な押しかけだよ」

 僕がそういうと路子は笑いながらコーヒーがいいか紅茶がいいか聞いている。桂ちゃんは紅茶の方がいいと言ったので路子は台所に行って準備を始めた。

「五郎ちゃんも結婚するのだね。可愛くてきれいな子だからいい奥さんになるよ。五郎ちゃんにはもったいないね」

「みんなにそう言われているよ。でも結婚するとは限らない」

 桂ちゃんは路子の方を見た。路子もこちらを向いたので桂ちゃんと目が合い互いに顔を見合わせながら二人は笑った。それは何か気持ちが女性同士と言う感覚なのだろうか。僕が入り込めない世界で女性の方が気持ち的に楽なのだろう。会話の中でレイシストの差別用語にならないように僕たちは注意をしていたが知らないものは心無いことを言う。僕は桂ちゃんの性格は好きだった。怒ることを知らないというか我慢をしていたのだろうと思うがそれよりも男性的な体をどう女性化するかを必死に模索していたのではないか。多分に路子には桂ちゃんのことを話してはいなかったので驚いたことだろう。今でも不審に思っているに違ないがそれにしてもよく気が合うようだ。

「桂ちゃんとっても洋服のセンスがいいのね」

「路ちゃんにそう言われるのは嬉しいわ。誰も言ってくれないのよ。髭が濃いから脱毛するのが大変で毎日剃刀と髭剃りで削るのよ。そうするとたまにはほら、こんなに深剃りして怪我をすることもあるのよ。悲しいね。五郎ちゃん私お金貯めて性転換やはりするわ。それにしても大変な金額だと思うからそういう店で働かなくちゃ。でもね、私男性的なところも残しておきたいのよ。欲な人間だと思うだろうけどやはり性的に女性であっても性的越境者として性自認であり身体的性なのでレスビアンやゲイとは本質的には違うの。だから悲しいけどそういう世界を超越した世界なの。なんと悲しい運命なのでしょう。でも五郎ちゃんと話して旅先で色々考えた結果、自然体で受け入れることが一番楽だし、自分をそこまで追い詰めることも必要がない気がするのよ。そう思うと気が楽になったの。今まで女性の洋服を着ることで友達に会わないかなとか周りはどう見ているのかと随分気になった。でもそれは何の意味もないことだったの。だから女性の洋服は意外と男性のよりゆったりしているし、そこが気に入ってもう女性の服ばっかりよ」

「桂ちゃんと仲良くなれたら嬉しいわ。私女性の友達いないのよ。勿論男性もだけど」

「どうして路ちゃんみたいな可愛い子が男性にもてないのよ。そんなことないでしょう。沢山男がいるでしょう」

「酷い、私今までたくさんの男性から誘われたわ。でも誰一人として個人的には付き合っていない。五郎に対しては例外で私から彼にお付き合いして欲しいと頼んだの。愛って平凡にその人のために犠牲になることではない?何もかも許してしまう、最近そんな風に思えてきたの。五郎に対し私は生まれて初めて今まで感じたことのない感情があったのよ。兎に角五郎の傍に居たい、傍にいることで自分が癒される。このことが愛情というのだろうかと思ったわ。正直好きだとか愛しているとかいう言葉はよく理解が出来ない。ただ言うだけなら簡単だけど私は嫌。俗な言葉だけどシンプルでただ傍に居たいと思うようになったの」

 確かに路子は僕に対して献身的に尽くしてくれていることは理解できる。そして学校にも通わないといけないし、試験勉強だってしなくてはいけない。何処で勉強しているのか知らないがかなり自分で無理をしているのを僕は知っていた。僕たちの生活と言えば淀みの中の一部分でその中でお玉じゃくしのような生活をしている。大学では路子はモデルとしてスカウトされたり、ミス女王になったりして華やかな大学生活を送っている。気が付けばそういう中に僕の居場所がないことに気が付いた。路子が来たから部屋が狭くなったということではなく、彼女との生活によって自分の思考回路が次第に次々と壊れていく。僕は路子が部屋にいない時何度本を壁に投げつけたであろうか。一枚一枚ページを破っていくことで妄想の世界に入っていき、いつしか僕はそういう生活の中に身を委ねている。路子により普通の人間らしさを取り戻す反面、妄想の世界からの脱出との戦いだった。


ある晩僕は例によって妄想の世界に入っていた。そこは僕だけの世界で誰も邪魔をする者はいない。全てが可能ですべてが僕の指示通りに事は運ぶ。だが妄想の中で見たものは今まで見たこともない幻覚だった。ブラックホールにはまり脱出出来ない状況になっている。恒星の周りを回る惑星ではなく光も通さない世界だ。僕は必死に逃げる、逃げたところが何処か見たことのある大きな寺だった。周りは田園で白壁の塀に囲まれ、門を潜りその中に入っていくと大きな樹木が林立している。その少し向こうにはもう一つ塔があってそこに釣り鐘堂がある静かな寺の風景だ。本堂では護摩を焚き大きな声で般若心経を唱える僧侶がいた。護摩木に檀家の人が書いた木札を般若心経に願いを込めながら炎の中の護摩壇に次々と放り投げていく。炎は天井近くまで登り異様なほど激しくパチパチと音を立て燃えている。僕はその僧侶がブラックホールの中で必死に額に汗をかきながら経を唱えている姿が何時しか自分が僧侶に成り代わっていることに気が付いた。妄想で自分の気が付かない内に本物の僧侶になっている。そう思った瞬間よく見ると僧侶が自分だと思っていたがそれはヤーさんだった。ヤーさんが妄想の中に現れ大きな数珠で突然僕の背中をバシバシ叩く。最初は軽くだったのが次第に大きくなり、静寂の中にその音が寺の裏山を越えて行くのではないかと思うほど叩く。だが痛みは全く感じなく、音だけが異様に大きく静寂な田園の風景の中に流れていった。見たことがある大きな寺はヤーさんの寺だった。

「この馬鹿者が、何を欲しがっている。何が欲しい、太陽の下で考えよ。此処はブラックホール、何も見えないから護摩を焚いて明るくしているのだ。いいか、暗いところで物事を考えるな。考えるのなら青空の下で考えろ。不動明王さまはお怒りだ。妄想は妄想。お前の生き様はまるでガキのようだ。妄想は止めよ」

 僕は体中汗をかき大きな声で妄想の世界で意味不明な言葉を叫んでいた。心が縛られ息苦しくもう高い崖から突き落とされるような幻覚を覚えた。いつしか目には涙が流れ悔しさが無性に溢れてくる。数珠で僕を叩くヤーさんはいつしか視界から見えなくなっていた。

 

ある日の夜。

僕は膝を抱え部屋の隅で沈み込んでいた。路子が傍に来て僕の膝に手を乗せる。

「どうしたの、何かあったの?」

「怖い・・・・・・」

「何が怖いの?」

 僕は過去を始めて語った。未だこの話は誰にもしていない十代の頃だ。中学受験を控えて僕は猛勉強をしていた。学校では学年トップクラスで誰もが将来は凄い男になるだろうと噂されていたし、僕自身もそう思っていた。学校では人気者で、みんなに好かれ学校は面白かった。だがその面白い顔は僕が作った笑顔で実際はそんな顔はしてなく、表と裏の仮面の顔をその時の状況で使い分けていた。目標の中学に入るために必死で過去問題を解いた。ほぼ八十%はいけるようになったので問題はないと自信をもっていたが試験の結果は不合格だった。誰しも僕は皆と別れて私立中学に行くだろうと思っていたが、結果は駄目だったので仕方なく公立の中学校に行くことになった。周りの誰もが自分より確実に賢いような気がした。

 僕はそういう環境の中で次第に疎外感を感じるようになった。部活も小学校時代からの空手は続けていたが学校の部活動は帰宅部だった。学校の先生はそれでは内申点がよくならないと言って僕に恫喝するようなことを言ったが次第に僕の足は学校から遠のいた。朝起きると心が重く学校が何時しかトラウマのようになった。両親は行きたくないのならば行かなくてもいい。ただ他人に迷惑だけは掛けるなと言って理解をしてくれた。僕は自宅に籠ると言う選択肢を選び勉強はほとんどしなかった。結果中学は卒業できたが高校は通信制しか選択肢はなかった。次第に体が壊れていくのが分かるがどうしようもなく、好きな時に行けるそんな通信が僕には妙に合っていた。だが何時までも中学受験のことで落ち込んではいられなく何かをしようと考え、そう考えるだけでも進歩なのだが何をすればいいのか分からなかった。そんな時学校の先生は僕に油絵でも描いてみないかと薦めてくれた。僕は流されるまま美術部に入る。だがそこで描いた薔薇の絵は抽象的で誰もが気持ちが悪いと言った。

「この絵ってどんな意味があるの?これが薔薇の花?」

 確かにその真っ赤な薔薇の花より僕は棘を大きく描いていた。だから薔薇よりもその棘の方が人の心を刺すような印象だった。花はきれいだがその美しさを支えているのは何だろうと思うとその時は棘のある幹だった。

「絵は表現だからどのように描いてもいいのだよ。この絵は多分薔薇の花びらよりも薔薇のきれいな部分を支えている幹に彼は興味があってその中でも特に棘に心が惹かれたのではないだろうか。写実的でなく思いをぶつけた思い切りのいい抽象的でいい絵だと思う」

先生は何故か僕の絵を誉め「これからも描きなさい」と言ってくれたが、僕は高校を卒業すると同時に絵の世界とは次第に距離を置いていった。

 そう言った過去の傷が成人になるにつれ次第に形を複雑化してきた。高校に入って通信だと昔の仲間に馬鹿にされたが、幼い頃は天才とさえ言われたのだと言いたかったがそういう勇気もなかったし意味もなかった。だが社会に対してこれでは生きていけない、「勇気」という言葉は自分のためにあるのではないかとさえ感じた。現実に背を向けて逃げ込んだところが妄想の世界で、そのことが引き籠りの原因になっていることは分かっている。だからどうしてもこの傷を断ち切ることが必要で、そのためにはまず自分との戦いの中で決断するために鉄橋を渡ろうと考えることは僕には自然なことだった。

 路子は話を黙って聞きながら何故か僕の背中を擦って涙を流し嗚咽を漏らした。僕は路子を抱きしめてただ震えるしか知らなかったが路子もまた僕を抱きしめて震えていた。一人で住んでいる時心の重さを感じ死ぬことばかり考えていたが、路子が来てから少しずつではあるが人間らしさを取り戻しつつあることを僕は感じていた。



 季節は晩秋の十一月に入った。

 鉄橋を渡る日を打ち合わせしようと集まったその日の空は、澄み切ってどこまでも雲に乗っていけるような感じさえするいい天気だった。僕は路子とスニーカーを履き待ち合わせの場所に行った。現地は鉄橋から五十メートル位手前の堤防だったが、すでにヤーさんや桂ちゃんは来ていた。手に持ったペットボトルを飲みながら

「遅いぞ、待たすなよ」

 ヤーさんが笑いながら言った。そう言った後を追うように下りの電車が鉄橋を通過した。

「大丈夫かしら」

 桂ちゃんは列車を見て心配そうに言った。桂ちゃんはさすがにスラックスに軽い黄色いセーターを着こんでいたが少し後ずさりしているようだ。

「路っちゃんは止めといたほうが無難じゃない?ねえ、五郎止めなさいよ」

「路子どうする」

「私は渡る。みんなが渡るのにどうして私だけ差別するの」

「差別してはないよ。何かあったら大変だし誰か見届けてくれる人も必要だよ。だからのけ者になんかしてないから安心しろよ。俺も桂ちゃんもみんな路っちゃんの味方だ」

 路子はヤーさんの言葉に少しほっとしたような笑顔をしたがそれでも一緒に渡りたいと言った。白の帽子を被り、グレーのブラウスに黄色く薄手の上着を羽織っている。紺のジーパンを穿いた姿は周りの紅葉をバックにモデルのように似合っていた。

「橋の向こうの光は大きな塊で何かレンインボーフラッグのように見えるの。私あの旗の中に入りたい。きっとそこには未来があって将来の道筋が明確に表現されているような気がするの」

 桂ちゃんは橋の向こうの光がレインボーフラッグだというのだ。そこにはきっと自分の住む楽園があるような気がする。少なくとも生き様という生きる筋道があるのではないかと言うのだ。ヤーさんは軽い紺色のジャンパーを着こんでいたが足が悪い分みんなと同じように走れるか心配だという。当然そういうことになるのでそれでは鉄橋を渡る順番を決めようという事になった。東海道線の上りの電車が音を立てて通過した。僕たちは一層テンションが上がり気持ちが引き締まり命懸けの鉄橋渡りを覚悟した。

「だがどうしてこんなことになったのだ。五郎どうなのだよ。確かに言い出しっぺは俺だった。そのことは憶えている。九月下旬のことだ。俺たちは何時も馬鹿にされて社会に阻害され誰かに差別を受けている。俺はそれが怖い。だけど恐怖は立ち向かうためにあるのだから何としても振り切ろうと話したのだ」

 確かにヤーさんの言う通りだ。何の目的でこんな危険な賭けをして鉄橋を渡ろうとしているのだろうか。もしかしたら死ということもあるかもしれない。僕は路子をいれて四人のメンバーがそれぞれ傷を持ち、みんな背中にそれを背負っているのだ。それとも傷の悪魔と決別するために決死隊を結成するのだろうか。ヤーさんが桂ちゃんに告白した。

「桂ちゃん今から話をするけど実は隠し事があるんだ」

「何よ、変な話なら言わないで」

「実は妹の由美ちゃんがいるだろう。俺も彼是五年ほど手紙や電話で付き合っていた。隠すつもりはなかったのだけど段々言いづらくなって今日まで来てしまった。学年は俺達よりも二歳年下で背は160センチ位かな、やはり桂ちゃんによく似ているよ。紺のワンピースがとってもよく似合い、髪は栗色でアメリカでも人気者だと言っていた。俺は英語が好きだったから般若心経を英文に直してアメリカで布教しようかなどと冗談を言ったりしていた。ところがこの前日本に帰ってきたよね。あの時毎日俺たちは会っていた。そしていろんな所を案内したよ。でも一週間ほどで休暇は終わりアメリカに帰ってしまった。話はここからなのだが由美ちゃんは妊娠したらしい。お母さんは知っているのかどうか俺は知らない。多分カルフォルニアの叔母さんは姉妹だから多分知っているのではないかと思うけどそうなってしまった。ごめん、悪意で黙っていた理由ではないから」

「ヤーさん由美とは二卵性双生児の双子なのでいつも話をしている。初めていうけどヤーさんの話も五年も前から知っていたよ。今回の由美の妊娠にしても直接聞いたから知っている。お寺の離れで火事に遭遇し燃えている火の中で由美と関係したのだろ?怖かったって言っていたよ。でも由美も後悔していないようだし後はヤーさんが由美に対してどう対応をするかというだけだよ」

「そうなのか。全て知っていたのか。そうだよな、兄妹だから話はするよな」

 路子はその話を僕の傍で聞いていて驚いた表情をしていた。単に偶然関係したのではなく、確信的にしたのはお互い了解済みだったのだねと言った。だがヤーさんはそれでいいが桂ちゃんは自分のことを言い始めた。

「私は由美のことは一緒に育っていないからよく分からないけど双子だということはそれなりに似ているのだろうと思う。でも私は自分のことで精一杯。この鉄橋を渡るにしても女性的な私が本当に渡れるかどうか分からない。でも渡ることで自分の決心が付くのではないかと思うのよ。五郎ちゃんにも言ったけどやはり性転換して完全な女性になるわ。気持ち的にその方が楽なの。無理して男言葉を使い肉体を筋トレなどして隆々としても結局は心の問題だから何とも処理の仕様がない。私は鉄橋を渡ることで決意をしたいと思う。あのレインボーフラッグの元に辿り着きたいの」

 僕はヤーさんや桂ちゃんの話とは少し違っていた。卒業をあと少しになってまだ就職も決まってはいなかったし、決まるというよりか就活さえしていなかった。いくつか先輩からの誘いはあるが自分自身働く意欲のようなものはなかった。医者に言わせるとストレスですというがストレスではない、医者も人間だから誤審もあると僕は思っている。精神が落ち着くからこの安定剤を飲んでみたらどうですかと医者はくれたが僕は「馬鹿にするな」と叫んで川に薬を投げ捨てた。僕の不安は将来に対して自信が持てない、ノンポリで人の流れに逆らわない生き方、自分のペースでゆっくり歩いてみたいと考えていたがそうではなくやはり戦わなくてはいけないのだという考え方に変わってきた。確かにそういう生き方もあると思うしそれが悪いというわけではない。選択肢はいくらでもある。だが僕は自分の足で立ち上がらないと何もできない、それには戦わないといつまでもこの脅えや背後からの得体のしれない恐怖感は消えやしない。自分の居心地のいい場所で収まっていても何処かで社会にはみ出してくる。不健全な考えかもしれないが僕は別の居場所を探したい。だから鉄橋を渡るのだと言った。

「路っちゃんはどうして渡るの?秋山建設の一人娘でしょ。何かあったら大変よ」

 桂ちゃんが僕の話に頷きながら言った。

「私は意地みたいなもの。そんなことに命を懸けるって思うかもしれないけど私五郎に認めてもらいたいの。五郎のこと私は好きなのに五郎はある意味冷たいのよ。だから私は渡るの。父親の会社と私は関係ないよ」

「五郎ちゃん冷たい?こんないい男路っちゃんいないよ。大丈夫、信用してあげて。五郎も路っちゃんを毎晩抱いているのだろ?甘えていればいいのよ」

「まだ私たちそういう関係ではないの」

 二人は少し驚いた様子だった。信じられないと言った風だ。ヤーさんが言った。

「それは五郎お前悪いよ。一緒に暮らしているのだから責任を取らなくちゃ。抱いてやらないのなら別れるべきだよ。路っちゃんが可哀想だ」

「路っちゃんは五郎ちゃんと結婚したいのだから早く返事してあげなさいよ」

「桂ちゃんもっと言って欲しい。私は一生懸命尽くしている。夜のこと以外は何も文句はない。でもキスだけというのも変な話なのよ。誰も信じないよね」

 路子の実家は中部圏では有名なゼネコンで、その秋山建設の一人娘が路子だった。僕はそのことは知らなかったし路子も実家の話は何故か話さなかった。

それにしても四人が四人とも大きな傷を背負っていることに不思議な運命みたいなものを感じる。僕たちはその傷を治療するため、戦うために鉄橋を渡る。

 長良川畔は晩秋の風が吹いてきた。水の音は時間が経つにつれ静かに軽やかな音を立て、夕方になると冷えてくる。僕たちは鉄橋を渡るのは来年の二月中旬頃にしようと決めた。


 僕は鉄橋を渡ることに同意したのは隔絶された世界、現実と妄想の二つの世界の対立でその妄想を断ち切るために鉄橋を渡ろうと思った。世の中の人間関係や組織が疎ましくどうしても僕には馴染めない。馴染むと言うよりか寝てしまえばその世界から脱出することが出来る。その僕自身の甘さに反吐が出るほど嫌気がさして来ていた。勿論そこに路子の存在があったことは言うまでもなく、その障壁を一枚一枚彼女は剥いでいってくれた。僕はそのことに関しては感謝をしている。今まで社会と乖離された妄想の世界を印象操作して満足していたが、確かに不可能を可能にする妄想の世界は居心地がよかったが社会的な情緒不安なのか、それとも人間不信なのかよくわからない。僕はそう言った心象風景から責めてくる実体のない喪失感の中で自分の存在感を見出す方法しか知らなかった。

「もしも事故で死ぬようなことがあったら五郎と一緒だから構わない。私が命懸けで五郎を愛している証拠よ」

「そんなの意味がないから止めとけ」

「どうして意味がないの。五郎を愛することは意味がないという考えは納得できない。私の自己満足で五郎は私には何の興味もないということなの?五郎は私のことをどう思っているのか明確な答えは知らないが少なくとも大事にされていることは分かっている。そういうことを考えれば私の自惚れではあるけど愛に近いものは感じている」

路子はテーブルを叩いて喋り納得しなかったことをその時僕は思い浮かべていた。

 

鉄橋の側の堤はススキが沢山群れ草むらはもう枯草に近く、その堤防のすぐ下には雑木林が生い茂っている。長良川はゆっくりと静かに流れていたが川向うの伊吹山はまだ雪化粧をしてはいない。

 ヤーさんは時刻表を手にして、列車が長時間通らない時間帯を地面に書いて話した。その時間まであと一時間ほどだ。午後三時五十分辺りにこの鉄橋を通過する。ヤーさんはその後一時間は通らないからゆっくり渡ることが出来ると身振り手振りで説明した。

僕たちはマンションに帰って路子が買ってきたマイカップでコーヒーを飲んだ。何か酷く疲れた気がする。そんな時路子に電話が掛かってきた。彼女は別の部屋に行って少し話をして帰ってきた。父親から話があるから年末までに一度帰って来いとのことだった。路子は帰ってもいいかと聞いたが僕に問題があるわけではない。ただ一緒に住んでいるものが明日からいなくなるのかと思うと一抹の不安と寂しさがあったのも事実だが、それを路子に対しては言わなかった。


季節は年末に近づき路子は実家に帰った。

しかし路子は年が明けてもマンションには帰っては来なかった。学校には行っているのだろうと思うが敢えて僕は探そうとは思わなかった。新春を飾るイルミネーションが街を彩る頃余りにも長いので僕は路子を探そうと思い秋山建設の会社を調べた。意外にも会社は県境の境を過ぎたところで木曽川を越えたところだった。しかし、路子の電話番号も知っているのだから電話をしてみようと思い夜落ち着いた時間に電話を掛けた。だが電話は留守電に変わり路子の声は聞こえなかった。僕はメッセージを入れて電話を切った。


一月中旬、一通の手紙が来た。

路子からだった。便箋にはいつもつけていた柑橘なレモンの香りが部屋に広がった。僕は右肩上がりの癖のある路子の字を見て懐かしさを覚えたが何を今更という感じで封を切った。


 剣崎五郎様


ご無沙汰いたしています。お元気ですか。私はまた以前のように学校と家との往復ですが元気に過ごしています。本当はお電話でお話したらいいのですが多分悲しくて話が巧く伝わらないし、メールでは冷たすぎると思いますので敢えて手紙にしました。その方が自分の気持ちも明確に伝えることが出来るような気がしたのです。

 勝手に五郎の部屋に押しかけて勝手に飛び出し、好きだ、愛していると呟いて私の一人芝居で迷惑をかけたような気がしています。五郎が私のことをすごく気にかけてくれていたのは知っていますし感謝しています。私は親から電話が掛かってくるまでは五郎のところから出ていく気持ちは何一つありませんでした。これは事実です。お友達の桂ちゃんやヤーさんのことも大好きです。ただ一人芝居と言いましたが五郎を愛した気持ちは今も変わっていません。ただ私の方にも事情があって話をしなくてはと思いながらも言いづらく年を越してしまいました。

 私は秋山建設の一人娘です。会社は父が一人で頑張って大きくしてきました。ですが跡取り息子が生まれませんでした。後を取るのは私だけという事になります。今回帰って来いという父の用事はお見合いの話です。お見合いは何時も父の意思を継いでいける社員さんで、今まで何回もお見合いをさせられましたので今回もそうだろうと思いました。でも五郎とのことがあるので私ははっきり断るつもりで帰りました。しかし、こういう結果になるとは思いもしませんでした。会社はかなり不景気で某会社と対等合併をすることになったのです。勿論そのことで私がどうなるものではありませんが向こうの社長さん家族と一緒に食事をした時相手のご子息さんが私のことを気に入って何としても会社も合併、息子たちも結婚と両手に花でどうだろうと持ち掛けてきたのです。

 元より私はそんな人とは一緒になる気はありません。でも父親や母親からは付き合うだけでも付き合ったらどうかと言われました。そして数回お会いして食事もしました。案の定彼は私を求めてきました。私はそこまで気持ちを許すことは五郎のためにもできませんので拒否をしました。彼は怒って合併も何もかも白紙だというのです。このことは父にも母にも話をしました。私は五郎と一緒になりたい。その気持ちは今も変わらないのですが両親から何も言わない沈黙がきつく、会社か五郎かいずれか選択をするしかありません。

 正直に本音を言いますと一緒に住んでいる時どうして抱いてくれなかったのだろうと思います。今ではあの時私を気遣って抱かなかった五郎が憎い。辛くてたまりませんでした。

 あなたは覚えているでしょうか。私は一度自分からあなたを求めたことがあります。寝ている時私は何もしてくれないあなたに対して変に思われることを覚悟で自分から裸になり求めました。あなたのパジャマのボタンをゆっくり外しながら起きていることは知っていましたがパジャマを開け胸に軽くキスをしました。そして初めてあなたの逞しい胸を手で触りました。乳首を口に含み次第に私は興奮し手は下半身まで伸びあなたの下着に手を滑らして入れましたがこれ以上は怖かったので止めました。五郎を自分のものにするため無茶苦茶に求めようかとも思いましたがあなたの反応が怖くてそれ以上は出来ないと言うのが真実です。唇をあなたの胸に這わしました。あなたは顔を横にして何か我慢をしているようでした。私は無視して尚も行為を続けていましたがその時あなたが薄明かりの中で涙を流しているのを知ったのです。私はあなたの涙を手で拭いました。あなたが私の背中に手を回して髪を撫でて抱いてくれましたがそれ以上はありませんでした。何かに脅えているような寂しそうな顔をされていました。私は我慢するしかない、時間が解決するかもしれないと思いあなたの胸に顔を埋め泣き崩れてしまいました。あの時もう私は壊れてしまうのかと思いました。精神的にもうついていくギリギリだったのです。五郎は涙を流すほど何が悲しかったのでしょうか。何を我慢する必要があったのでしょうか。私を無茶苦茶になるほど抱きしめて欲しかったのですが私には理解できませんでした。それ以外の日常生活は何も問題はなく、外でのデイトや買い物は楽しくてたまりませんでした。

 仮に五郎が私の子供を作ってくれていたなら状況は変わっていたと思います。残念でたまりません。私は今後どうなるのか自分でもわかりませんが今も潔癖です。現在付き合っている彼とは手も握らせてはいません。彼は余計苛々しているようですが、私もこれからはどう選択すればいいのか分かりません。

 五郎からお電話をもらいましたね。ごめんなさい。実は携帯が鳴っているのは知っていたのですが取る勇気がなかったのです。まさか五郎からだとは知りませんでしたが、若しも知っていても両親も同伴していましたので取れる状況ではなかったです。私はこれから両親のいうように結婚するかもしれません。秋山建設は従業員が百人ほどいます。その人にはみんな家族があります。父親が作った会社を潰すわけにはいかない、社員さんのことを考えると私個人の考えは我が儘なような気がしてならないのです。会社の犠牲に私が成ることで社員さんを救えるのならそれもいいと思いますが、それも不確実なものですのでブラックボックスの中に閉じ込められたような気持ちです。ともあれ五郎にはどうお詫びを申し上げたらいいのか分かりません。経緯としてはこのような話ですが、結局私たちは最初から無理だったのでしょうか。色々迷いましたがお別れすると言う結論を自分で導きました。本来なら会って直接言うべきところですが今の私にはそれほどの勇気はありません。短い間でしたが有難うございました。

 長々ととりとめのないことを書いてしまいましたが、五郎の体が心配でとっても悲しくてたまりません。お体を大切にしてね、無茶したら駄目だよ。ああ、それから野菜不足だから野菜取ってね。ごめんなさい五郎、さようなら。

                      初春     秋山路子 拝


 


 秋山路子様

 

 お手紙確かに拝見いたしました。右肩上がりのあなたの癖字懐かしく思いました。パソコンでなく手書きであったことも非常に路子らしく、また便箋から匂ういつもつけていたレモンのような香りはあなたの処まで心が飛んできたようで懐かしかったです。

 僕は何時か話したように何かに何時も脅えてきました。夜中にはっと飛び起きることもしばしばで、そのことはあなたも知っているはずです。特別臆病と言うほどではないのですが息苦しく何か背後から急き立てられるような危機感を感じるのです。医者はストレス、ある種の鬱状態だと言いますがそうではないと思います。ただ一言で言えば勇気がなかったのです。大事に育てられて体が弱いせいもあったのですが皆の後ろをついていく子供で、それが大人になっても抜けられない状況だったのです。親はそんな僕に自信をつけるために空手を習わせましたが武術と精神は一体化すべきなのですが僕にはそこまでの技量はありませんでした。しかし、路子が押しかけて一緒に生活を始めるようになってからその環境が何故か次第に壊れてきました。僕は最初そのことが怖かった。居場所のない野良犬と同じになってしまう。何とかしなくてはと思いましたが日が経つにつれ路子との生活で人間らしさを取り戻せそうになりました。そして妄想や幻覚も見なくなりました。そんな折あなたが僕の処から離れていった。だが僕には路子を引き留める資格も仮に結婚しても幸せにはできない、できる自信がないと思いこれでいいのだろうと解釈しました。そのために鉄橋を渡るという決断が尚更大事な意味を持ってきたのです。部屋には路子が掛けた「根尾の秋」の絵がありますね。この絵を最初の出会いから見ていますがやはりこの満開の桜でなく散った桜、来年咲かす桜の準備という目立たない影の表情が見えてきます。壁に掛けているその絵に向かって僕は何度あなたに問い掛けたでしょう。

 路子が毎晩泣いていたことは知っています。僕は何度抱きしめたいと思ったことでしょう。でも出来なかった。それは先ほどの不安感という扉が自分の前でシャッターを下ろすのです。そういう状況は一種のパニック障害かもしれません。ですから気持ちは理解しても僕には勇気はありませんでしたし、ぼくもまたギリギリだったのです。

 あなたが僕のパジャマのボタンを外し求めて来た時は辛かった。正直あなたが僕の下着に手を滑らしてきた時激しく感じていました。あなたを99%求めても何も不思議な状況ではなかったですし、あなたもあの時はそうして欲しかったのだと思います。でも残りの1%があなたを傷つけてはいけないと心のシャッターが開けないのです。未来に対しての気配りと言えば聞こえはいいですが要はあなたに対する自信がなく不安だったのです。僕はあなたの背中に手を伸ばして髪を撫でてあげることしか出来なかった。それが悲しくうかつにも涙を流してしまいました。多分あの時結ばれていたならこうはなってはいなかったかもしれませんが別れる時は必然的にこういう状況が重なってしまうものです。

 最初の出会いは悲惨な不自然な出会いでした。秋に葉桜の「根尾の秋」を見させていただきました。秋に咲く幻想の桜、それこそ異次元の世界です。ともあれ僕たちは最初から不自然な関係だったのかもしれません。不自然さが慣れると自然になる場合もあるのでしょうが、お互いがそういう感じでしたから僕たちは何としても糸が最初から縺れていたのでしょう。

 あなたの家は建築会社、だから会社同士の思惑もあるでしょう。そのことに関しては僕が決めることでありませんし、僕の実家は普通の会社員です。ですから経営については何も理解する能力はありません。でも今問われている僕の不安なことは強いものに立ち向かっていく勇気、それを捨てたら何が残るでしょうか。あるいは僕がそう言ったものに責任転嫁をして勇気の無さをすり替えているのかもしれません。卒業すると実家に帰りますがあなたのことは青春の一時代としていつまでも思い出すでしょう。最初はブランド物や茶化したような話しぶりから、また多くの男性からちやほやされ尻軽い女のような印象を持ちました。でもそれが本当の姿ではなかった。やはり僕が気に入っていた少し笑顔の中に陰のある姿、暗い表情の笑顔があなたの本当の姿であったことが嬉しく思います。まさにそれは「根尾の秋」が冬支度する葉桜の世界でした。そこにあなたの影を見たのですが、笑うと八重歯が可愛く随分癒されました。ただセックスだけを除けば最高の女性でした。でもあれは僕が避けたのですからあなたを責めることはできません。

僕の大好きな路子へ、さようなら。

                  一月末寒い部屋にて    剣崎五郎 拝

 


もう路子のことは忘れようとした二月。

 鉄橋を渡る日が来た。その日は空が抜けるような青空で冬にしては珍しい天気だった。僕は身軽に動けるラフな格好で長良川まで出かけた。もう桂ちゃんとヤーさんは来ていた。ヤーさんはジーパンに軽めの青いGジャンを着ている。首には大きな数珠を掛けていたが、僕はあの妄想の世界で見たヤーさんの数珠だと一目で気が付いた。桂ちゃんは肩まで伸ばした栗色の髪で、スラックスに紺色の上着を羽織っている。僕たちは時計の時間を互いに確認し針を同じに合わした。それぞれの思いや傷を舐めて慰めるのではなく自分の意思をぶつけようという考えの中に僕たちの決意はあった。その時桂ちゃんは立ち上がり堤防の向こう側に向かって大きく手を振り叫んだ。

「路っちゃんこっち、こっち・・・・・・」

 桂ちゃんは大きな声で手を振りながら路子の名前を呼んだ。路子も桂ちゃんの姿を発見したのか大きく手を振って、長い髪を靡かせながら小走りに堤防を駆け下りて来る。どうして今日の日を知っているのだろうか。僕は連絡をしていないし路子は誰かから教えてもらったに違いはない。桂ちゃんが知らせたのか?路子は緑色のブラウスに黒いジャンパーを着ていた。昨年まで一緒に住んでいた頃より髪も幾分長くなり胸の辺りまで伸びている。

「五郎ごめんなさい、あんな手紙を出したけどあなたから離れることは出来ない。私が悪かったの、ごめんなさい。私は今まであなた達が心身に傷がありそれがトラウマになっていることは最初から聞いていたから知っていた。でもそのことについて何も家を出るまで感じなかった。でも家に帰って暫くすると自分は皆とは違うのだと言う一種の高いところから差別をしていたのではないかと思ったの。随分卑怯な女だと思った。だからそういう目で五郎に対しても同情していたのだろうと思う。きっとこれは神様が罰を与えてくれたのよ。本当に悪いのは私なの。そんな中で五郎に別れる手紙を書いたことに対して私は自分自身を許せなかった。もう離れない、何があってもついていきます。本当にごめんなさい」

 路子は僕の目を見つめて一気に話した後、胸に飛び込み体を震わせながら背中に爪を立て嗚咽を漏らした。僕は彼女の髪を撫でて何時しか抱きしめていた。懐かしい路子のレモンの香りがする。

 桂ちゃんが「おめでとう、よかったね」と言って拍手をすると、ヤーさんも一緒になって「おめでとう、幸先がいいね」と言って拍手をした。

「皆さんごめんなさい。私が悪かったの、ご迷惑を掛けました。鉄橋を私も渡らせてください。五郎お願い、私も連れて行って」

「五郎ちゃん路っちゃんも必死で帰って来たのだから許してあげて。路っちゃんには私が知らせたの。五郎の家を出てからも私たちは連絡を取り合っていたのよ。だから二人のことは何でも相談していたの。だから私は経緯から全て知っていたわ」

「五郎、私はこの鉄橋に対して私なりにケジメをつけたいの。だからどうしてもこの鉄橋は渡りたいのよ」 

 列車が来るまで後三十分ほどだ。僕は結論を出さないといけないと思った。逃げてばかりではいけない。強いものに立ち向かう勇気を今ここで作らないと元の木阿弥だ。僕はこの恐怖を払いのけるように言った。

「じゃあ渡るぞ、連帯を乱すな。最初は桂ちゃん、次にヤーさん、路子、俺の順に行く。ヤーさんが調べてくれた列車はもうすぐ来る。午後三時五十分頃に通過をするならあと二十分ほどだ。堤防を登ろう。僕たち四人はゆっくり立ち上がって線路まで黙って歩き始めた。堤防を上ると少し広い場所があって踏切がある。「危険」と黄色と黒の信号機の前に注意を促す制限高さ四・五Mと書かれた立看板があった。長良川の堤防沿いに吹く風は下から上に噴き上げてくる。空は澄み切り二月の寒い季節にしては春のような陽気だった。遠く鉄橋の先にどっしりと構える伊吹山はいつしか雪化粧をしている。その下にいくつかの高い建物が見えるが僕たちは取り敢えず鉄橋の近くまで来た。みんな緊張のあまり声を出すこともなく口数は少なかった。


午後三時五十分頃ヤーさんの計算通り上りの列車は僕たちの心の闇を突き抜けるように、けたたましく鳴る信号機の音と共に鉄橋を通過した。僕たちは恐る恐る鉄橋に向かう。鉄橋の入り口に立った時遠くに輝かしい光の塊が見えた。太陽が西に傾き夕日に変わる頃その行先の点は眩しいほど光っていた。路子は黒のジャンパーを着て緑のブラウスに紺色のジーパンを履いていたが、怖そうに鉄道の線路の枕木から見える長良川の高さを改めて体で受け止めたようだ。線路は複線で鉄橋はそれぞれ上下線に独立している。下見通り枕木は正確に横に並びその傍に大きな排水溝が線路に並行している。

 先頭を桂ちゃんが走る。続いて足の悪いヤーさんが走る。僕は二人の姿を見て時間を確認した。現在午後三時五十五分。それぞれが傷を抱え思惑通りにいかないかもしれないが兎に角僕たちは鉄橋の枕木の上を走った。列車が来るのは五十分後の午後四時五十五分。僕たちは黙って黙々と枕木の上を小走りに渡っていった。

「五郎、怖い・・・・・・」

「大丈夫だ、守ってやるから黙って進め、下を見るな」

 鉄橋は所どころ塗装が剥げている処が目立ち、正確に支柱が区画され並んでいる。僕はその鉄橋の支柱を手で支えにして走った。最後尾と言うこともあって鉄橋を渡ることの恐怖が初めて心の底から湧きあがって来た。長良川の風は堤防にいる時よりも遥かにきつくこんなに風が強かったのだろうかと思った。遠くの風景は何事もない穏やかな色彩だ。時間は刻々と過ぎ桂ちゃんも最初の勢いはなくヤーさんも疲れが出たのか肩を大きく揺すりながら進むスピードが非常に目に見えて落ちてきた。弘法大師の御宝号「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」を叫ぶように唱えながら左肩を揺らして走る。首に掛けた数珠が大きく左右に揺れる。ヤーさんは障害者となったが精いっぱい前向きに生きることで自分の傷を振り切る。それがこの鉄橋を渡ろうと言い出した原因ではないだろうか。僕は路子の後を走りながら考えていた。

「頑張れ、もう時間がないぞ。桂ちゃん、ヤーさん大丈夫か」

「大丈夫だ。もう少しだ。それにしても予想以上に長い距離だなあ」

 桂ちゃんが枕木に足を取られ倒れた。

「桂ちゃん大丈夫か?」

 すぐ後ろのヤーさんが手を差し出すとそれを振り払うように立ち上がり、鼻血を大量に出しながらも右手で拭って走った。その鮮血は僕の方まで川上から吹いて来る北風に乗って散ってきた。

「行くぞー、レインボー、待っていろ」

桂ちゃんの言葉は何故か男言葉だった。しかし、遠くに光り輝く物体は果たして何なのだろうか・・・・・・。僕たちの理想郷なのだろうか。ヤーさんも路子も必死に桂ちゃんの後を追った。伊吹山からの伊吹おろしはきつい。

僕たちの現在地は鉄橋の中央よりも少し行ったところだ。

 時計は午後四時四十五分を指している、もう十分しかない。このペースだと危ない。

「もう十分すると列車が来る。時間がない、急げ、鉄橋はもう少しで渡れる」

 僕は三人に声を掛けた。空は透き通るような青い空だが心は土砂降り状態だった。どうしてこんな馬鹿な計画をしたのだろうか。不意に両親や友達の顔が浮かんだ。路子は躓きそうになりながらも髪をなびかせ必死に僕の前を走っている。

 その時遠くから列車の警笛の音がした。僕は三人に声を掛けた。

「駄目だ、もう駄目だから今から長良川に飛び込む。いいかこのままでは死んでしまう。後五分もすると列車が来る、だから桂ちゃんもヤーさんも川に飛び込むのだ。いいか、路子も飛び込め。泳げるのか?」

「大丈夫」

 路子はそう言った時列車の直進してくるライトの光が鋭く僕たちの目に入った。列車はピーと言う大きな警笛音を鳴らした。

「もう駄目だ。飛び込め、行くぞ」

「路子飛び込むぞ、掴まれ」

 僕は路子を抱き抱え掛け声と同時に長良川に飛び込んだ。


ヤーさんはどうしたのだろうか。その時一人桂ちゃんが線路を走っている姿が見えた。青い空に伊吹山がどっしり構え横切るように赤い鉄橋があって列車に向かって桂ちゃんが走る。その姿は映画の一場面を見ているような感じで、もう列車と百メートルもない。

「桂ちゃん、飛び込め」

 僕は長良川に流されながら桂ちゃんに叫んだ。路子は川の中で泳ぎながら僕の手を握って叫んだ。

「五郎怖い」

 列車は急ブレーキを掛けて大きな警笛と同時に鉄橋の中央付近で止まった。列車の乗客の声がざわざわと聞こえる。

「桂ちゃん・・・・・・」

 路子は川に流されながら大きな声で泣きながら桂ちゃんの名前を何度も叫んだ。

 僕たちは手を繋ぎながら長良川の流れに身を任せ、暫くは青空を見ながらじっとしていた。確かではないが桂ちゃんの死について認めたくなかった。どこかで飛び込んでくれていたらいいのだが分からない。ヤーさんもまた何処に流されたのか、それとも列車にやられたのかそれも判別は付かなかった。ただ僕は路子と長良川の西堤防沿いにたどり着きそこにやっとの思いで這い上がり樹木の木陰に倒れるように寝そべった。水を含んだスニーカーを脱ぎ呼吸を整え、深い草むらに体を投げ出す。濡れた衣服の重さもあるのだろうか、疲れがどっと出て二人とも無口で放心状態だった。その時堤防沿いに救急車やパトカーが何台かサイレンを鳴らして集結して来たが、僕は酷く煩わしく思えた。路子は僕の手をしっかり握りしめ青空をただぼんやりと眺めている。太陽の光が眩しく憎らしいほど僕たちの全身を照らした。

 

どの位の時間が経っただろうか。時計を見ることも忘れ今まで鉄橋を走ったことさえ忘れている。あの鉄橋を越えた処の聖地は一体何だったろうか。もう僕たちに余裕などありはしない。路子は隣で疲れたのか黙って相変わらず青空を眺めている。草むらの香りが心地よく、濡れた体や心とは反対に東の空に岐阜城がぼんやりと映えていた。

「私たち生きていたのね・・・・・・」

「ああ」

 その時、向こう岸にヤーさんが左肩を揺らして歩いているのが見えた。僕は声を掛けようと思ったが何故か掛けることは出来なかった。ヤーさんはびしょびしょに濡れた髪を右手で掻き揚げながらゆっくりと歩いている。多分駐車している車の処まで歩いていくのだろうがそれにしても無事であることが僕たちに冷静さを取り戻させてくれた。

 路子も僕も衣服は濡れて肌にベッタリと張り付いていたが僕は初めて路子を抱きしめた。それに答えるように路子も激しく声を震わしながら応じた。僕たちに残ったのはただ疲労感だけで、この冬空一面にその疲労感を桂ちゃんが好んだ黄色い色で塗り潰した。充実感もなく、ただ今は何も考えたくなくぼんやりと空を見ていたい。桂ちゃんはひょっとすると自分で死を選んだのではないだろうか、最初から死を覚悟していたのではないのだろうかと不意に僕は思った。多分最初からあの光の塊の中に飛び込む積もりだったのだ。レインボーフラッグをあの列車のライトの光の中に見たのかもしれない。桂ちゃんは確かに死を選択していたのだと僕はその時確信した。

「五郎、抱いて・・・・・・」

 唐突に言った彼女は笑顔を見せながら目を閉じる。僕は最初に路子とこのような場面があったなと思ったが彼女の唇をむさぼるように求めた。緑のブラウスが濡れ体に密着していたがボタンを丁寧に外した。そして下着も取ると路子の体は太陽の光に晒され大きく弾けた。初めてみる路子の裸身は太陽のもとに一層輝き、青い血管が浮き上がり豊かな胸は濡れた雫で随分魅力的だった。

「きれいな体だね」

「五郎、恥ずかしい。好きよ、とっても好き。当たり前の言葉で悪いけど北極に行って五郎のためなら氷を取って来ることぐらい出来そうな気持」

 僕は路子の笑顔を見ながら彼女の体に埋もれていく。路子は顔を背け僕の肩に爪を立て小さく声を漏らしたが、僕は夢中で彼女の中に入っていった。お互い高揚した気持ちを抑えることが出来なく、事件の経緯に心が熱く発情的だったことは確かだ。

「五郎の事信じてよかった」

「どうして泣くの」

「だって今まで求めてくれなかったから、余程魅力がないのだと思っていた。最初は五郎が性的に欠陥あるのかと思ったわ。でもどのようにして私を認めてもらうか、それが課題であり結論がこの鉄橋だった。鉄橋で生死を共有することでやっと五郎に認めてもらった。鉄橋を渡ることが出来なければ五郎の事諦めようと思っていたの。でも足を踏み出すことが出来、五郎が私の体の中に入って来てくれた」

 路子と知り合ってから一つずつ重しが取れていく。僕が思い悩んでいる時必ず彼女は傍にいてくれた。引き籠ることで居心地がいいと自分で居場所を決め妄想の世界で自己満足していたが、不安を事実として受け入れることで却って楽になることも知った。その事実から逃げていたから僕は今まで不安だった、そのことで背後から刃物で刺されるような恐怖感を感じていた。明確に対応をしていくことが生き様だとすればそのことについて立ち向かえばいい、桂ちゃんやヤーさんにしろやはり同じかもしれない。僕たちはそういった不安定で不確実な事実に脅える世代の気がする。多分あの鉄橋の奥に輝く光は僕たちの感傷的な羨望の塊かもしれない。実際にはそんなものは最初からなかったのだ。ただ僕たち

が抱えた夢は同じでなくとも志は同じ同志だった。だからそれぞれの生き方が異なってもあの鉄橋の向こうに光り輝く塊がシンボルで、それが命を懸けて渡った鉄橋の意味なのだ。

「吹っ切れた・・・・・・」

「えっ?」

僕は何のために逃げるのか、逃げる必要は何もない。自分がそう勝手に解釈してきただ

けだ。その強さ、他者に立ち向かうための正義感、情熱と言ったエネルギーが、壁を突き破るのにどれほどの労力と精神力がいるのか。それはあの鉄橋を桂ちゃんがレンイボーフラッグと叫びながら走った風景の色彩を僕も同じように不透明な色彩を求めていたのだ。

「何が吹っ切れたの?」

 路子は体を起こしブラウスのボタンを留めながら話した。その時上空に爆音とともに糸

を引きながら飛んでいくジェット機が見えた。ジェット機は空を割るようにどこまでも突き進み青空を過去と未来に二分するように思えた。僕は過去の引き籠りの世界が引き千切れるような爽快な気分になった。

「私、あのジェット機に乗ってアメリカに留学するかもしれない。あの時五郎留学が似合うと言ったよね。もう一度勉強やり直したい」

暫く沈黙の後、路子は傍にある石を拾い無造作に長良川に投げ捨てた。石は爽やかなオレンジのような色の音をして静寂の中に一瞬動きを作った。寝転んで聞いていた僕は川に

投げられた石の音を聞いた時、路子は別れる積もりかもしれないと不意に思った。僕たちはそれぞれの決意のもとで鉄橋を渡った。路子もまた彼女なりに自分の傷の癒し場所を求めていたのだ。それが留学という結論なのかもしれない。

 時間が経過するにつれその思いは確かに別れる積もりなのだという確信に次第に変わっていった。「根尾の秋」の絵から伝わる満開の桜の花の裏側をその時垣間見た気がする。もう一度青空を見上げたが未来を予測するかのようにもうジェット機の姿はなかった。

 僕たちは以前の静けさの中で体が濡れたまま寒さに震えながら夕暮れになるまでぼんやりと長良川の流れる川面を見ていた。路子は「寒い」と膝を抱える。列車が先ほどの事故のことなど何事もなかったように音を立てて鉄橋を通過する。長良川から吹き上げる木枯らしが随分冷たくなった。僕は薄暮の空にたなびく雲の隙間から、鋭く射し込む一筋の太陽光線に向かって呟いた。

「桂ちゃんありがとう」

                                 了

  


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