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夢1

 誰かの泣き声が聞こえてくる。

 必死に押し殺しているような、小さなすすり泣きの声。

 鈴音は泣き声の主を探し、視線を巡らせた。


 周囲は真っ暗だ。何も見えない。

 足を前へと踏み出してみたが、何の感触もしなかった。それどころか、そもそもほんとうに自分に足があるのかすら分からなかった。

 何の重みも感じない。何の感触もない。


「誰かいるの?」


 応える声はなかった。

 ただ、泣き声だけが響いてくる。

 鈴音は闇のなかを彷徨さまよった。

 やがて闇のなかに、淡く光る白い球体を見つけた。

 どうやら声はそこから聞こえているようだった。


「誰かいるの?」


 さきほどと同じ問いを繰り返す。

 近づいてみても、それはただの光で、人などではなかった。

 球体に触れようとして、鈴音は息をのんだ。

 淡い光は鈴音の輪郭を浮かび上がらせていた。

 自分が手と思って伸ばしたものは、手の形をしていなかった。

 ただの白いもや

 あわてて自分のあちこちを見る。

 手はもちろん、足も、胴も、何もかもが白い靄でしかなかった。顔に触れようとするが、触れられない。


「なにこれ」


 鈴音は声を出しているつもりだったが、実際は声になどなっていなかった。鈴音は声を出すために必要な声帯を持っておらず、音を伝える空気もここには存在しないからだ。

 だが、間違いなく泣き声は聞こえてくる。

 そう。鈴音の目の前にある白い球体から。


 鈴音はもう一度、球体に手のつもりである白い靄を伸ばしてみた。

 球体は、鈴音のそれをするりと呑み込んだ。

 それだけでなく、球体はそのまま鈴音の意識をも呑み込んでいく。


 そうして、鈴音は夢を見た。

 後悔という名に彩られた、見知らぬ女の夢を。


    ▲  ▲  ▲


 秋だった。

 昼を過ぎると、空はまだ青いというのに、あっという間に陽射しが黄味がかる。

 女は目をすがめ、天を仰いだ。

 頭上に広がる木々の枝葉は、その隙間からたしかな青空を見せていた。その抜けるような真っ青な空に浮かんでいる細くて白い月は今にも消え入りそうで、あまりにも寂しく見えた。まるで自分のようだと、女は自嘲する。

 風がそよぐたびに、はらはらと葉が舞い落ちた。

 やさしい緑と土の香りを運ぶその風に毒が含まれていると言っても、誰が信じるだろう。

 目の前を舞い落ちていく枯れ葉をそっと手で受け、女は背後にある大木に背中を預けた。


「なかなか逝けないものね」


 手にひらに落ちた枯れ葉に向かって話しかける。

 至極穏やかな時間が流れるそこは、魔族たちの命を奪う植物が群生している場所だった。その植物の胞子が体内に入り込むと、内臓に菌糸を張り、内側から腐らせていくのだ。

 それゆえ落命の地と呼ばれ、魔族たちはいっさい近寄らない。

 彼女にとって、まさにこれ以上はない最高の死に場所だった。


 ゆっくりと、枯れ葉を包み込むように手のひらをにぎりしめる。

 ぴりりとした痛みが指先から手首、腕へと伝った。


「待つ時間というのは、ほんとうに長く感じるものね」


 身の内にすっかり根を張っている菌糸は、すでに彼女の体の自由を奪うまでになっていた。もう立つことはできない。

 それでも、命はまだ果てなかった。

 あとどれくらいすれば逝けるのだろうと、彼女は目を伏せる。

 なんにせよ、このまま穏やかな陽の光を浴びて静かに終われるのなら、ここでこうして死を待つことは、彼女にとってそれほど苦痛ではなかった。

 自分と同じような境遇の者たちがさんざん玩具のように扱われ、最後には断末魔の叫びを上げながら殺されていくさまを繰り返し見てきたのだ。彼らの恐怖と絶望に比べれば、いま自分の身を蝕む痛みなど甘美ですらあると彼女は思っていた。


 力が絶対の魔族の世界では、力の弱い者は、力の強い者に何をされても文句など言えない。力無き者にいたっては生きる価値さえないとされる。そういう世界だった。

 ただなぶられ、残酷に引き裂かれるだけの存在。

 それが力のない魔族が受ける、当然の扱いだった。誰も疑問になど思わない。

 彼女自身ですら、己の行く末に疑問をおぼえたりしなかった。早くに死ぬことは己の運命さだめだとさえ思っていた。

 ただ、それでも陰惨さに満ちた死を受け入れたくはなかった。

 だから、彼女は逃げた。

 魔族が近寄らない場所へ。

 死ぬことに抗いはしない。けれど、せめて穏やかに死にたいと。


 彼女はゆっくりとまぶたを押し上げ、枯れ葉を握りしめている手をひらく。ほんの少し手を傾けると、葉はすぐに手からすべり落ちていった。

 手もとに咲いている名前も知らない小さな青い花を指先でそっと撫で、彼女は笑みを浮かべた。

 青い花は死者に手向ける花。


「あなたは私が逝くまで待っていてくれるのかしら?」


 彼女が死んでも、花を手向ける者などいるはずもなかった。だからこそ、今そばに青い花が咲いていることを嬉しく思った。

 それは実際の墓前に供えるような立派な花ではなく、雑草と呼ばれるような小さな小さな、取るに足らない花。

 それでも自分には十分過ぎると、口もとに笑みをおいたまま、ふたたび目を閉じた。

 そのときだった。

 緑と土の香りしかしなかった風に、生臭さが混じっていることに気づいたのは。


 ハッと、彼女は目を見開き、周囲に視線を巡らせた。

 間違いない。血のにおいだった。

 背筋を悪寒が突き抜ける。

 恐ろしく強大な力にあふれた何かが近づいてきていた。


 ──魔族だ。


 なぜこんなところへ魔族が来るのかといぶかしむよりも先に、逃げなければという意識のほうが優先した。

 けれど、恐怖に身体が凍りついてしまって、彼女は動けなかった。そもそも体内を侵している菌糸のせいで足が自由にならず、立ち上がることすらできない。

 恐ろしくて、相手と視線が交わらないよううつむくのがやっとだった。


 落ち葉を踏みしめる音がだんだん近づいてきたかと思うと、パキリと乾いた枝が折れた音を最後に、急に静かになった。

 ふしぎなことに、風すらもぴたりとやみ、それまで風にそよいでいたこずえたちも静寂のなかに身をおいた。

 まるで夜の闇が一気に押し寄せてきたかのような……いや、それ以上の圧倒的なしじまがあたりを支配する。

 女は背筋を直接刃が這っていくような錯覚をおぼえた。


「おまえ、こんなところで何をしている?」


 男の声だった。

 想像以上に近くで聞こえたことに、彼女の心臓は凍りついた。

 うつむいたまま黙っていると、男が歩み寄って来た。その足先が視界に入ったかと思うと、ふいに顎を持ち上げられた。


「まだ生きているのだろう?」


 目に映ったのは、息をするのも忘れそうになるほど美しい青年だった。

 漆黒の髪とはしばみ色の瞳。神に祝福されて生まれたのだとしか思えない繊細で美しい容貌は、それだけで見る者に衝撃を与えた。

 女は恐怖のあまりに目をそむけた。歯の根が合わず、ガチガチという音が漏れそうになる。


「おまえは口がきけないのか?」


 自由にならない身体では、もはや逃げることすらかなわない。

 青年から漂う血のにおいが、女の中に眠る忌まわしい記憶たちを揺り起こす。

 物心ついたときから、いつも鎖で繋がれていた。〈飼い主〉が苛々するたびに傷つけられた。そうして、目の前で次々に殺されていった力無き者たち。

 怯える彼女を嘲笑うように、残酷な笑みを浮かべていた魔族の男も、いつも血のにおいをまといつかせていた。

 またひどい目にあわされる。


 ーーもういやだ。


 心の底からそう思ったとき、自分でも気づかないうちに涙が頬をつたっていた。

 青年の手が目の前に迫ってきて、女は思わず目をつむって肩に力を入れた。

 けれど、想像していた痛みはいつまで経っても襲ってはこなくて、その代わりに何かやわらかいものが目もとに触れた。

 恐る恐る女が目を開けてみると、青年がわずかに眉宇をくもらせ、どこか悲しげな表情をしているのが見えた。彼がその袖で己の涙をぬぐってくれたのだと気づいたが、女はどうしていいのか分からず、無言でうつむくことしかできなかった。

 青年も何も言わず黙って女の隣に腰を下ろすと、ただぼんやりと頭上で葉を繁らせる木々をながめていた。まるで己の他には誰もいないかのように。

 そのまま静かに時間だけが過ぎていった。

 青年が立ち上がり、黙って木立の向こうへと消えていったのは、森が薄闇につつまれてからのことだった。



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