月光下の微笑4
「……俺も、雪人みたいに上着を着て行こうかな」
言いながら、昌輝はすぐそばに置かれている紺の上着を見やった。
雪人は昔から肌の露出を嫌っていて、いつも必ず上着を羽織っていた。
以前、昌輝が不思議に思って理由を尋ねると、「人に触れられるのは不快」という、そっけない答えが返ってきた。
男らしい容貌をしているくせに、意外に神経質なやつだなと、昌輝はいつも笑っていたが、今回はその雪人の上着のおかげで怪我を隠し、人目を集めることなく無事に帰宅できたのだから、感謝しなければならない。
今後も傷が治るまでは、薄手の上着は役に立つかもしれないと、昌輝は思った。
鈴音の前で、これ見よがしに包帯を巻いている腕を出すのは、なんだか気が引けた。
「そういえば、雪人はなんでこんな時間にうろうろしてんだ? 授業は午前中までだし、俺みたいに部活があるわけでもないだろ?」
昌輝たちの通う高校は土曜日でも隔週で授業があった。
雪人は救急箱を脇に押しやると、そのまま床に腰を下ろし、麦茶の入ったグラスを呷って肩で息をついた。
「桜の使いっぱしりだよ。うちの店で売ってる葛餅が食べたいから、買ってこいってさ。そんで買いに行ったら、母親がうるさく話しかけてくるわ、あれこれ俺に食わせようとしてくるわで、あっという間にこの時間さ」
「それは普段、おまえが家に寄りつかないのがいけないんだろ?」
昌輝は苦笑する。
雪人にはちゃんと両親がいるのだが、彼は親がいる家のほうではなく、恋人の家のほうで寝泊まりしていた。社会人の彼女は一人暮らしをしているので、雪人が入り浸っていても、家の中に咎める人間はいない。
「おまえみたいな不良息子をもったおばさんが気の毒だよ。……というか、おまえが素直に桜子さんの言うことをきくなんて珍しいな」
「仕方ないだろ。あいつ、夏風邪なんてガラにもねぇもんひきやがって、ほとんど何も食べないんだから」
「でも、葛餅なら食べるって?」
昌輝は笑った。
心底迷惑そうに顔をしかめているが、なんだかんだ言いつつも恋人の願いを無下にしない雪人は、けっきょくのところ根はいいヤツなんだよなと、内心で呟きながら、昌輝はグラスに手を伸ばす。
つい癖で右手を出してしまい、引き攣れるような痛みに、昌輝はあわてて左手でグラスをつかみなおした。
知らず、溜息がこぼれる。
「そっか。しばらく連絡ないと思ったら、桜子さん風邪ひいてたのか」
「なんか不便してるか?」
「いや、大丈夫。桜子さん、もともと保存がきくようにいろいろ冷凍させてくれてるし、食べるものくらい、買いに行けばいくらでもあるしね」
昌輝の両親は現在、仕事の都合で海外に住んでおり、桜子は一人暮らしをしている昌輝をなにかと気にかけて、よく食事をつくりに来てくれていた。
桜子は雪人の恋人なのだが、昌輝にとっては面倒見のよい姉、あるいは母親のような存在だった。昌輝の家の合鍵も桜子が持っているほどに、その信頼は厚い。
「桜子さん、早くよくなるといいな。お大事にって、伝えといて。あ、こないだのすき煮、美味しかったよっていうのも一緒に」
「かわいいおまえにそう言ってもらえれば、桜も喜ぶよ」
「なに言ってんだよ。かわいいとか、男に言うセリフじゃないだろ」
昌輝は眉をひそめる。
まだ少しあどけなさを残す輪郭とぱっちりした目、その優しげな面差しを縁取る赤みがかった長めの黒髪のせいで、昌輝はいまだに女の子と間違えられることがあった。
それが昌輝のひそかなコンプレックスでもあったので、かわいいと言われれば、くちびるを尖らせたくなっても仕方なかったろう。
昌輝の心中を知ってか知らずか、雪人はクスクス笑う。
「じゃ、俺、そろそろ行くわ。いいかげん帰らないと、また桜がうるさいからな」
「……あ、ごめん。そうだな、ゆっくりしてる場合じゃないよな。今日はほんとありがと」
立ち上がった雪人を追うようにして、昌輝も立ち上がる。
「いいって、いいって。俺とおまえの仲じゃん。気にするな。ああ、見送りはいらないぞ」
雪人は昌輝に背中を向けたまま片手を上げてちいさく振り、さっさとリビングを出ていく。
あまりにも素っ気ない友人の挨拶に苦笑いしながら、昌輝は遠くで閉まるドアの音を聞いていた。