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予兆4



 それから昌輝は一人でダイニングに戻り、機械的に朝食をすませた。

 もはや、いま自分が何を口にしているのかすらわからないくらい、頭の中がぐちゃぐちゃだった。


 鈴音の不可解な言動、消えた蝶。

 そして、何よりも昌輝の胸に大きな影を落としたのは、鈴音の鋭い拒絶だった。


 もう限界だと思った。

 これ以上、鈴音を預かれない。

 いくら昌輝にやましい気持ちが無かったとしても、男であることに違いはない。そこはたしかに警戒されても仕方ないが、あの拒絶の仕方はそれだけでは説明できない強烈な憎悪と底知れない恐怖が入り混じっていた。


 お互い、嫌な思いを我慢してまで、この生活を続ける必要はないはずだ。

 学校帰りにそのまま桜子のところに行き、鈴音を預かってくれるように話をつけてこようと心に決め、昌輝が家を出ようとしたときだった。

 ふらふらと玄関まで歩いてきた鈴音が、ふいに靴を履いている昌輝の腕を掴んだ。

 それは先ほどの拒絶などなかったかのように、強い力だった。

 蝶を握りつぶした手を思い出し、昌輝は思わずその手を凝視してしまう。


「なに? どうしたの?」


「行かないで」


「はい?」


 唐突すぎる言葉に、昌輝は間の抜けた声を返していた。


「一人にしないで」


 鈴音はうつむいたままだったので、表情は分からなかったが、声はすがりつくようだった。


「いや、でも、俺もう学校行かないと遅刻しちゃうし。一人が嫌なら、一緒に学校行こうよ」


 カバンなどはなかったが、鈴音は昌輝の家に来たとき制服を着ていたので、試験を受けたり終業式に出たりするだけなら問題ないはずだ。

 鈴音の私服はすべて桜子が用意してくれたものだった。

 衣装持ちの桜子が大きな紙袋にいっぱい洋服を持ってきてくれたのに、鈴音はいつも同じような服しか着ていなかった。

 明るくて女性らしい服装をしていることが多い桜子が地味な服ばかりを紙袋に詰め込んでいたとは思えないのに、鈴音は今日も黒いブラウスにジーンズという出で立ちだった。


「それか、桜子さんに電話してあげようか? あの人の仕事、不定休だから、もし休みならこっち来てもらえるように」


 鈴音は首を左右に振った。


「あなたじゃなきゃ、意味ない」


「ええ? ちょ、なんで泣くの!? ほんとヘンだよ、今日。大丈夫?」


 透明なしずくがぽたぽたと鈴音の足もとに落ちていくのを見て、昌輝は心底驚いた。

 いつもの無表情から一転して、急にこんな感情の見せ方をされたら戸惑うしかない。


 小さな少女だと、改めて思った。

 玄関に下りている昌輝よりも、まだ頭ひとつ分ほど背が低い。

 なぐさめる意味で、思わずその細い肩に手を置きそうになったが、また嫌がられるかもしれないと思い直し、昌輝はギュッとこぶしを握った。


「……助けてよ。私を助けてくれるって言ったじゃない。いま助けてよ!」


 目にいっぱい涙をためたまま、鈴音はいきなり顔を上げた。


「な、なに。何の話? なにを助ければいいの」


「……なんでなの。あなたがそんなんじゃ、私はどうしたらいいのよ。私がどうなったら助けてくれるの? 私が私でなくなったら? それじゃ遅いのに!」


 昌輝は鈴音の勢いに気圧されながらも、こんなに感情的に喋れる子だったんだと、おかしなところで感心してしまった。


「ちょっと、落ち着きなよ」


「落ち着け? よくもそんなことが呑気に言えるわね。あなた、今日自分が死にかけたことも知らずに!」


 昌輝は深くため息をついた。

 もう訳が分からなかった。

 どう考えても、自分が今日死にかけた覚えはない。

 この少女は妄想癖でもあるのだろうか。

 腕時計に目をやれば、どう頑張って走っても、乗ろうと思っていた電車には乗れない時間になっていた。

 朝の一分、二分は貴重なのに。

 あきらめて、昌輝は鈴音に向きなおった。


「あのさ、ほんとに落ち着いて話をしてくれない? そんな感情的に意味不明なこと言われても困るんだけど」


 鈴音はキッと昌輝を睨みつけてきた。


「意味不明なのはあなたのほうよ。あなた、そんなので、どうやって私を助けてくれるつもりなの?」


 昌輝はすこし乱暴にカバンを玄関先に置いた。


「いいかげんにしてくれるかな。俺は、きみが行くところがないって言うから、しばらくならうちにいてもいいって言っただけで、それ以上のことは何も言ってない」


「あなたは言ってなくても、シエルは言ったわ! ねえ、シエル。お願いだから助けてよ!」


「はあ? なに言ってるんだよ」


 やっぱりこの少女は妄想癖があるようだ。

 そう思ったとき、昌輝は誰かに肩を掴まれたような気がした。振り返っても、もちろん誰もいない。

 昌輝はそのまま体が地中深くに沈められていくような、奇妙な錯覚に襲われた。


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