朝2
「ちょっと、しっかりしてよ。ちゃんと昨日の夜のこと思い出してよ」
昌輝は部屋じゅうをうろうろと歩きまわりながら、耳に入ってきた少女の言葉を無意識に頭の中で反芻する。
(昨日のこと、昨日のこと……)
いま、自分の部屋にいる少女は、数日前から姿を見せなくなっているクラスメイトの深田鈴音だ。
だが、もちろん姿を見せなくなった彼女とは、昨日も学校で会ったりしていない。
だって、慎一とそんな話をしたのだから。
彼女が学校を休んでいたから気になって、慎一にその話題を振って、そして、彼女が魔女と陰口を叩かれていることを知って。それから─────…。
いくら考えても、車に轢かれそうになっていたのを助けて以降、彼女に会った記憶はなかった。
会ってもいない人間を、どうして連れて来られるというのだ。
(ちょっと待て。昨日の夜のこと、だって……?)
不吉な予感をさせるその言葉に、昌輝の脳は考えるということを完全に、かつ速やかに放棄した。
「やっぱり夢だ」
そう結論づけ、改めて布団に潜り込もうとしたときだった。
「はぁ~い。おっはよー。まーくん、元気してるぅ?」
まったくもって緊張感の欠片もない声の主が、断りもなく突然部屋に入ってきた。
やや暗めの栗色の長い髪。大きな瞳は生気にあふれ、楽しげに輝いている。
「……桜子さん……? どうしてここに?」
桜子は腰に手をおき、部屋の中を見まわした。
タオルケットをつかみ、今にもベッドで横になろうとしている昌輝の呆けた顔。くちびるを噛みしめて立ち尽くしている鈴音の顔。ゆっくりと両者を眺め、ふっと、桜子に口もとに笑みを刷いた。
「まっ、たぶん、こういうおかしなことになってるだろうからって、ユキトが私をよこしたのよ。感謝しなさいよね? まーくん」
「感謝って……、桜子さん……。あの、これ、何がどうなって──」
思ってもみなかった人物の登場に、昌輝はいよいよ混乱した。言葉を探している間につかつかと歩みよってきた桜子は、それ以上喋るなとばかりに、昌輝のくちびるに人差し指をあてた。
「いいこと? 最初に言っておくわ。これは夢じゃなくて現実よ。まずはそこを認めなさい。そうじゃないと、話が前に進まないわ」
「……え、でも……、こんなのどう考えたって夢とし──…」
「まーくん? 私いま、話が前に進まないって言ったわよねぇ? それとも、なに? 夢じゃないことを証明するために痛い思いでもしたいのかしら?」
凄みのある低い声で言われ、昌輝はしゅんとうなだれた。
「いいえ。どうぞ続けてください」
さすが雪人のカノジョだけあって、桜子は強かった。
「雪人から伝言よ。あとで説明してやるから、今は何も気にするな……だそうよ」
「なにそれ。深田さんがここにいるのは雪人が関係してるの? っていうか、なんで雪人が自分で来ないんだよ!」
身を乗りだす昌輝の額に手をおき、桜子はそのまま昌輝を押し戻す。
「雪人は今日は体調が悪いみたいでね、学校も休むそうよ。まあ、雪人の言うとおり、まーくんは何も気にせず学校に行きなさいな」
「無茶苦茶言わないでよ。気にせずにいられるわけないじゃないか、この状況を! 桜子さん何か聞いてるんでしょ。説明してよ!」
桜子は少し大袈裟に思えるほど肩で息をついた。
「……そう言われてもねぇ。雪人のやつ、すっごい不機嫌で。私も、まーくんが鈴音ちゃんをここに連れて来たってことしか聞いてないのよね。でも、雪人が気にしなくていいって言ってるんだから、そうなんでしょ。ほら、とりあえず着替えて学校行ってらっしゃい。そろそろ準備しないと遅刻するよ」
「ちょっと待ってよ。今は学校とか、そんなこと言ってる場合じゃ……」
言い終わる前に、桜子がぐいっと顔を近づけてきたので、昌輝は思わず息をのみ、言葉が途切れてしまった。
「まーくん? あとで雪人が説明してくれるって言ったでしょ? 今ここでぐだぐだ言っても埒が明かないわ。今は学校に行って、ふつうに日常生活を送りなさい。つべこべ言わずに早く用意しなさいな」
そう言うなり、桜子は壁にかけてあった制服をつかんで、昌輝に投げてよこした。
そうして桜子は鈴音のほうに向きなおり、目をしばたたいている彼女の手を取った。
「あなたはこっちにいらっしゃい。すこし話しましょう」
二人が部屋を出て行ったあと、ひとり取り残された昌輝は、しばらく固まっていたが、やがて真っ白な頭のままで、機械的に制服に袖を通していった。
これ以上抵抗したら、桜子は力ずくで昌輝に制服を着せ、家から放りだすに違いなかった。
彼女は、そういう人だ。
もちろん単純に力だけなら、女の桜子よりも男の昌輝のほうが強いから、徹底抗戦しようと思えばできる。……が、まかり間違って何かの拍子に桜子に怪我でもさせてしまったらと思うと、恐ろしくて、とても実行に移す気にはなれない。
桜子に何かあると、雪人が本気で怒るからだ。
これまでに桜子に手を出して、雪人に半殺しの目にあわされた人たちのことを、どれだけ耳にしてきたことか。
ああ、おそろしい。
現実は、どうしてこんなにも恐ろしいことだらけなのだろうと、昌輝は頭を抱える。
「行ってらっしゃい。車に気をつけてね!」
明るく笑う桜子に見送られ、絶望感だけを背中にずっしりと乗せて、昌輝はとぼとぼと学校に向かうのだった。