ミギリ5
数日ぶりに人界での住みかに戻ってきたシエルは、思わず顔をしかめた。
床にうずくまる人間。そばに置かれた水と食べ物。換気をしていないのか、空気は淀んでいた。
床の上でうずくまっている少女の顔は、眠っているにもかかわらず苦悶に歪んでいた。そのうえ時折、引きつったようなおかしな呼吸をしている。
「おい?」
もともと浅い眠りだったのか、声をかけると、少女の身体はびくっと震えた。
「どうした?」
「だ……れ……?」
苦悶に歪んでいた少女の表情がわずかにゆるみ、ゆっくりとまぶたが開かれるが、その目はまったく焦点が定まっていなかった。
シエルは呆れたようにつぶやいた。
「キルクのやつ、完全に放置してやがるな」
少女のすぐ横にある水にも食べ物にも、手をつけたあとはない。
「ころ……シ、テ……」
乾ききった唇で、少女はかすれた声を紡ぎだす。
「分からんやつだな。俺が一度殺さないと言えば殺さないんだよ。あきらめろ」
少女はくちびるを噛んだ。泣きそうな顔をしたが、涙は流れない。そんな余分な水分も力も残っていないのだろう。
「話くらいは、聞いてやってもいいぞ? おまえは、なにゆえそんなに死にたがる? ……と言っても、そんな状態では話などできないか」
シエルは鈴音の横に置いてあるペットボトルのキャップを開けた。
それは未開封のもので、弱りきっている少女の力で開けられるとはとても思えなかった。
キルクがそれを分かってしているのかどうかは判断がつかなかったが、つくづく気に入った者以外には配慮を見せないやつだと、シエルはくちびるの端で笑う。
シエルはペットボトルを少女の頭上で迷いなく逆さにした。
ゴポゴポと勢いよく水が落ち、少女の髪や頬を濡らしていく。
またしても少女はくちびるを噛んだ。今度は屈辱に耐えるかのように。
「あー、いーけないんだぁ」
この場にそぐわないおちゃらけた声に、シエルは振り返った。
「キルクか」
「そんないたいけな少女を虐待しちゃよくないんだぞ」
シエルの不作法な友は、前髪を掻きあげながらズカズカとリビングに入ってくる。
「人間虐待は犯罪だね」
その言葉に、シエルは鼻で笑った。
そもそも少女をこれほど弱らせたのはいったいどこの誰なのかと。
空調だけはつけていたようだが、虐待などというのは、夏場にろくに水分も与えずに人間を放置していた彼にこそ向けられるべき言葉だろう。
もっとも、キルクは生命維持に必要な物自体は与えているので、魔族としては破格の対応をしたと言えるのだが。
普通の魔族なら、それこそミギリなど八つ裂きにして殺している。
「犯罪な……。あいにく、俺の辞書の中に犯罪なんて言葉はなくてな。魔族のルールは、俺自身だからな」
シエルの返答に、キルクはおおいに笑った。
「たしかにな。……で、俺に感謝の言葉とかはないの? 遅いお帰りの王サマ。俺ってば、おまえから預かったミギリを、ちゃんと殺さずに生かしておいたのにさ」
「よく言う。たんに放置していただけだろ」
「なんだよ。食べるものはちゃんと用意してやっただろ。そもそもこっちには、もう一人面倒見なくちゃいけないやつがいるんだぞ。まったく、どいつもこいつも俺をなんだと思ってるんだよ。託児所の先生じゃないんだからな」
「桜の具合はもういいのか」
シエルが尋ねると、それまでくちびるを尖らせてぶつぶつ文句を言っていたキルクの頬が明らかにゆるんだ。
「もうケロッとしてるよ。シエルに気にかけてもらえるなんて、あいつは幸せ者だね」
心底嬉しそうに言うキルクの瞳にはシエルに対する敬愛の色しかなかった。
友としてそばにいるといっても、それはただシエルが配下を望まないからであって、キルク自身は内心でシエルを己の主だと思い定めていた。
そのシエルが己の大切なものを気にかけてくれるのだ。嬉しくないはずがない。しかも、桜子はただの人間なのだ。
あまりあからさまに慕うとシエルが嫌な顔をするのは分かっていたので、キルクはそれ以上は何も言わず、黙ってミギリのほうに視線を移した。