ミギリ1
開け放した窓から入ってくる夜風が、ソファに腰掛けている青年の艶やかな黒髪を遠慮がちに撫でてゆく。
まるで芸術家が一生涯を懸けて造り上げたかのような、まさに非の打ちどころのない美貌の持ち主だった。
しかし、彼を目にした者は、たいてい美貌に意識が向くよりも先に、脳天から一直線に刃を振り下ろされるかのような錯覚に意識を奪われる。それほど彼の眼差しは鋭く、冷たかった。
彼は床の上で気を失っている黒髪の少女にちらりと視線をやった。
全速で駆けたつもりはなかったが、それでも呼吸器が圧迫されるほどのスピードで夜空の下を駆け抜け、おまけに建物から建物へと移り飛んでの移動だったため、途中で気を失ったらしかった。
(こいつは本当にミギリなのか? 不甲斐ないにもほどがある)
けれど、彼が眉宇をひそめたのは束の間のこと。その意識は早々と、気絶している人間から別のものへと移った。
彼は懐から小指の爪ほどの黒い塊を取りだした。
「なにゆえ人界にこんなものがあるのか……」
それは先ほど彼が命を摘み取った女の心臓に植えられていたものだった。
人界には存在するはずのないもの。
間違いなく彼の故郷──魔界に生息する植物の一部だった。しかも、魔界ですら危険なものとして、一定の領域に封じ込められている植物だ。
なぜなら、その植物は他者の命を養分とするからだ。魔族とて、その植物にかかれば捕食対象でしかない。
「どこの不埒者だ。こんなものに手を出すなど」
そう彼が呟いたときだった。
それまで穏やかに吹いていた風が、急に鋭い刃のような風へと変わり、カーテンを激しくなびかせた。
「……キルクか。そろそろ来るだろうと思っていた」
部屋にはいつの間にやら、萌黄色の瞳をもつ黒髪の青年が、腰に手をおいて立っていた。
「あのさぁ! 黙って約束すっぽかすのやめてくれない? しかも、なにさも当然のように俺が来るのを待ってるわけ」
キルクと呼ばれた青年は、相手に指を突きつけんばかりの勢いで文句を言った。
青年らしくすっきりとした頬に、バランスのとれた目鼻立ちをしていて、どこから見ても男らしい容姿をしているのだが、なぜか口もとだけが優しく、女のような愛らしさがあった。
「途中でちょっと拾い物をしてな」
ソファに座っている彼は表情ひとつ変えず、さらりと答える。
「それに実際、知らせずとも、おまえはここに来たじゃないか」
キルクは大袈裟なまでに深く息をついた。
「そりゃあね、結果としてはそうだけど、連絡くらいよこせよ! どこの何様シエル様! 俺は暇じゃないんだぞ!」
まなじりを吊り上げる朋友に、シエルはソファの背もたれに腕をかけ、顎を上げた。
「おまえはいつも口癖のように暇だと言っていたように思うが?」
「いつもは暇でも、今は忙しいんだ! 桜が我儘ばっかり言うから! 今日だって、やっと熱が下がったと思ったら、家の中うろうろして文句ばっかり言うんだ。あれ買って来い、これ買って来いって。挙げ句の果てに、冷蔵庫まで買ってこいとか言うんだぜ。めちゃくちゃだと思わないか?」
「どうせ、おまえがまた何かやらかしたんだろう」
「何もしてねえよ。ちょっと冷蔵庫から手が出るようにしただけだ」
「…………なんで、そんなことになる?」
闇の王と呼ばれるシエルの表情が、じつに奇妙に歪む。
「だって、面倒だろ。奥にある食材とか探して取り出すの。手間が省けるようにしてやったのに、桜のやつ、猛烈に怒りやがってさ」
それは当然だろうと思ったが、シエルは口にしなかった。
「おまえも懲りないやつだな」
このシエルの友は、自らの血を使い、満月の夜になるとケタケタ笑いだす人形だとか、勝手に歩く椅子だとか、日に日に毛が伸びる毛布だとか、まったく訳のわからないものばかり作るのが趣味という、厄介な男だった。
一緒に住んでいる人間にしてみれば、不気味なことこの上ないだろう。
そう。キルクは人ならざる者であるにも関わらず、人間と共に暮らしていた。
キルク自身、ふだんは藤井雪人という人間として過ごしている。
料理を趣味にしている桜子が、冷蔵庫をいじられて烈火のごとく怒るさまが、容易にシエルの脳裏に浮かんだ。
「ところで、さっきから気になってたんだが、ソレは何だ? おまえが女を持って帰ってくるなんて、明日は空から槍でも降ってくるのか?」
キルクの軽口を聞き流し、シエルも床に転がっているそれを見やった。
「そいつがさっき言った拾い物だ。ミギリの娘さ」
ぎょっと、キルクの目が見開かれた。