プロローグ
真っ赤な夕陽が異様なまでに大きく見えた。
地平線は油を塗ったように艶やかに光っており、まるで太陽が世界に火を放とうとしているかのようだった。
そんな禍々しい夕陽を背に、ひとりの男が立っていた。
「おいでなさい」
差し伸べられた手も夕陽に照らしだされ、赤く染まっていた。
「こちらへ、おいでなさい」
太陽が歩み去った頭上の空は、すでに赤黒く色を変え、闇に落ちていこうとしている。
女は微動だにせず、目をすがめて眼前に立つ男を見据えた。
「あなたの命、私にいただけますか?」
穏やかで、耳に心地よい声だった。
若い、男の声。
しかし、あまりになめらかに言われたため、女はとっさに言葉の意味が理解できなかった。
身じろぎひとつしない女の様子をどうとったのか、若い男はゆっくりと首を横に振った。そして、言った。
「あなたが今ここで否と答えるならば、あなたにとって大切な者の命をいただくことになりますよ」
逆光のため、女には男の表情は見えない。
「あなたの命、私に譲っていただけますね?」
女はやはり微動だにしなかった。
目の前で紡がれていく言葉の数々があまりにも唐突すぎて、思考回路を通るまでに普段の何十倍も時間を要していたのだ。
「あなた、だれ?」
ようやく絞り出された女の声はかすれきっていた。
「私は王を守る者」
「あなた、城護……?」
女は息をのんだ。
城護ーー。
王と、その居城を護る者。
女は、夕陽という血色の衣を纏う男を見つめる。
「城護が私に何の用でして?」
「いま、王の候補者が我ら一族を裏切ろうとしています。誰のことか、あなたになら分かりますよね」
「裏切り? 城護ともあろう者が世迷いごとをいうものではなくてよ。彼が一族を裏切るようなことをするはずがないわ」
男は憐れむように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「あなたは、彼がいまどこにいるのかご存じないのですか? 彼はいま、人界にいるのですよ」
「人界? それがどうかして?」
男が何を言わんとしているのか、女にはまったく理解できなかった。
「人間を伴侶に選んだと言えば、どういうことかあなたにも理解できますか」
「な……っ」
女は全身から血の気が引くのを感じた。
「いいかげんなことを言わないで。彼がそんな愚かなことをするわけがないわ!」
「信じる信じないはあなたの自由ですが、事実は変わりません」
「だって、彼は王のそばにいるはずでしょう」
王を慕って、王のことしか考えていなかったからこそ、彼は自分の前からいなくなってしまったのだから。
それが、それが……。
「人間にうつつをぬかすなどという愚かなこと……」
そんなことが、有り得るのだろうか。
けれど、女はすでに心の奥底では理解していた。男の言葉が事実であろうということを。
そうでなければ、城護が己のもとなどを訪れるはずがないのだから。
うるさいほど騒ぎだした鼓動が肺を圧迫し、女は思うように息ができなかった。
「なぜ私のところへ? そもそも、なぜあなたは私の存在を知っているの」
男は淡々と答えた。
「彼は王の候補者ですから」
「つまり、身辺調査済みということ?」
男は答えなかった。
「いったい私にどうしろというの?」
口のなかが渇き、声が途中でつぶれてしまいそうだった。
「私にはいま、手に入れたいものがあります。あなたが邪魔な人間を排除したうえで、それを私のもとへ持って来てくだされば、彼を断罪することはしないと約束しましょう」
一族に仇為す裏切り者には死を。
それが一族の絶対の掟。
ましてや、王に仕える城護に目をつけられてしまったら、誰であろうと逃れることなど不可能だろう。
女はくちびるを噛み、目を伏せた。
逡巡したのはほんの一瞬。
女は一歩、また一歩と男との距離を縮めていった。
そうして、ゆっくりと差し出されたその手に触れる。
冷たい手だった。大理石の彫像に触れてでもいるかのように冷たく、なめらかな手だった。
一瞬にして、女の体温が奪われる。
「では、アリシア。たった今から、あなたの命は私のものです」
男が満足そうに言う。
しかし、浮かべられた笑みには、あたたかみの欠片もなかった。
あたりを包んでいた夕陽の赤いベールは消え、今まさに闇がすべてを呑み込もうとしていた。