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Lost Property

作者: 上森葉月

久しぶりに書いた小説です。

拙いところが沢山かと思いますが、宜しければ読んでくださると嬉しいです。

もし感想など頂けると、もっと嬉しいです。

―――

 一つだけを胸の中に秘めておいて、それがいつの間にか当たり間になって。

 そうしているうちに大人になっていた。

 もう、こうして呼吸することはできないのだろう。

 そんなひどく漠然とした不安だけが残ることになった夜を、

 僕はいまだに忘れることが出来ないでいる。

―――


 青年、リックは扉の前に立っている。

 黒く古びた木製の扉の前に、もうかれこれ数分の間じっと立ち尽くしていた。扉の奥からは話し声などは聞こえず、ただ低く唸る獣のような機械音が漏れ聞こえるのみだ。暗い廊下の中、幾つか吊り下げられた照明が扉のすぐ近くに存在し、床に至るまで円錐状の光が伸びている。光の軌跡がはっきりと目に映るのは、つまりここが埃で満たされた空間ということを示している。空中の微小な塵に反射した光が、一筋の光として目に映っている。

 リックがここにいるのには理由がある。数日前に見つけた広告を頼りに仕事をしに来たのだ。広告の中では短期間としか記載がなく、仕事の詳細な中身については言及されていなかった。ただ一言、他の黒い文字との違いを示すかのような太字のゴシック体、赤色の文字で「あらゆることを見つめ返す」、とだけ記載されていた。給与は割とよかった。数日のうちにお金を工面しなければならない人間にとって、内容にいちいちこだわっている余裕はない。思い立ったその場で広告に載っていた電話番号にかけると、面接をするから数日後、事務所に来るようにと言われた。場所と時間だけを伝えられ、それで電話は終了した。

 それが数日前のことであり、リックが立ち尽くす扉の向こうこそが呼び出された事務所だった。しかし、とある木造のアパートの一階、廊下の一番奥の扉の向こうから、人の気配は一切しない。むしろ、ここに至るまでアパートの中にも誰かが住んでいるようには見えなかった。メインストリートから少し裏通りに入ったところだと、このようなものなのかと思いリックは進んでいたが、ここへきて確かな不安と疑念が彼を襲っていた。

(……危ない仕事じゃないよな。メジャー紙の広告になるくらいだし、きっと大丈夫。きっと。……どうしよう、帰ろうか。まだバックレることもできる……。)

 リックが顎に手をやりながら考えあぐねていると、いきなり扉が開いた。

「わ!」

 リックが驚きの声を上げると、扉の向こう、部屋の中から出てきた壮年の男性も同様に驚きの声を上げた。

「うわ!なんだ!」

 リックが驚きの反動でしばらく固まっていると、壮年の男性の方から話しかけてきた。

「君は、もしかして電話をしてくれたリックかい?」

 壮年の男性は、大げさに身振り手振りを交えつつリックにそう聞いた。

「そ、そうですけど。僕がリックです。」

「そうかそうか、いやね、何だか遅いように感じたんだよ。もしかするともしかして、迷ったりしてるんじゃないかと思ってね。表まで探しに行くところだった。」

「そうなんですね……。」


 捲し立てるように話す男性に気圧され、リックはエスケープする機会を完全に失った。男性に促されるまま、先程まで入ることを躊躇していた扉の向こう、事務所の中へと足を踏み入れる。

 扉の向こうは、廊下の薄暗さとは異なり、カバーのついた照明が部屋全体を照らしていた。大きなペルシャ絨毯の上には脚がスチール、天板がガラスでできたテーブルが置かれ、テーブルを挟んで向かい合うような形で二つのソファが置かれている。焦げ茶色をしたそれは動物の皮を用いており、男性に促されるまま腰を下ろすと身体全体がソファに深く沈み込む。入り口から部屋へ入り左手には木製の扉があり、男性は一度その奥へ消えると,黒い液体で満たされたグラスを二つ持ち,リックの正面のソファに座った。

「それでえっと、君には何をどこまで伝えただろう。」

 男性はそう言うと、二つのグラスをテーブルの上に置き、一方をリックの方へ押し片手でリックに飲むように促すと、もう一方のグラスに口を付けた。

 リックは促されるままにグラスに手を伸ばしたものの、謎の液体を飲む気にはなれず、グラスを持ち続ける格好で男性の質問に答えた。

「その、何もまだ聞いていません。仕事の内容は一つも。」

 その言葉を聞き終わらないうちに男性は驚いたような表情になる。

「なんてことだ。しかし君は広告を見たのでは?」

「いえ、広告を見て電話をしましたが、そこには何も。仕事の内容については書かれていませんでした。ただ一言、「あらゆることを見つめ返す」と書かれているだけで。」

「そうか、そういえばそうだった……」男性はそういうと、顎を手をやり逡巡したのち、

「君はしかし、それでも構わないからと申し込んだわけだ。」

と眉をひそめながらリックにそう言った。

「そういうことになるでしょうか。」

 リックの言葉を聞くと、男性はにんまりと笑い、

「つまり君はとんでもないクレイジー野郎ということか。アハハハ、何て愉快な日だろう。」

 男性はグラスをテーブルに置くと、ソファに持たれ、天井を見ながら笑った。

「いやー、おかしいおかしい。ひどく愉快だ。しかしということは、私は君に仕事の説明から始めなくてはならないわけだ。」

 一通り笑い終えると、男性はソファに深くもたれたままの姿勢でリックの方を向いた。

 リックは戸惑いながらも頷く。男性は両の足を一度高く上げ、勢いよく立ち上がった。そして、右手をリックの方に差し出す.それを見たリックは慌てて持ち続けていたグラスをテーブルに置くと、立ち上がり男性の手を握った。

「よ、宜しくお願いします。えっと……。」

 リックが男性の名前をまだ知らないということに思い至るのとほぼ同タイミングで、

「あぁ、すまない。まだ自己紹介をしていなかった。私はゲイル。君の仕事仲間兼上司ということになる。」

と言った。それを聞いたリックも、

「僕はリックです。宜しくお願いします。」

と続ける。

 握手を終え、ゲイルはテーブルの上の自分のグラスを持ち上げると、グラスを持って出てきた扉の方へ移動しようとする。リックも自分のグラスを手に取ったものの、未知の液体を飲むかどうか一瞬迷った。ゲイルはリックの様子に気付いたのか、扉の向こうへ移る寸前リックの方を振り向くと、にやりと笑い、

「大丈夫、ただのコーヒーだよ。」

と言って扉の奥へ姿を消した。


********************


 リックはグラスの中のひんやりとしたコーヒーを一気に飲みきると、テーブルにグラスを置き、ソファから立ち上がったままゲイルが戻るのを待った。

 部屋を見回してみたものの、リックとゲイルが座っていた二つのソファと目の前のテーブル以外には、本当に何一つ家具が無かった。あるのは天井から吊り下げられた裸電球のみで、建物が揺れているのか、電球も僅かに揺れていた。

 1、2分の間であろうか。リックが待っていると、 ゲイルは再び扉から顔を出した。そしてリックを手招きし、

「仕事の詳細を教える。こちらの部屋に。」

と言った。それに従い、先程ゲイルが消えた扉の向こうへと足を踏み入れる。

 部屋の中には、先程までゲイルと話していた部屋とは異なり、裸電球が二つ天井から吊り下げられ、ぼんやりと部屋全体を照らし出していた。足元にはまたもやペルシャ絨毯が敷かれているが、今度は赤でなく、濃い紫を基調にしたもので、金色を中心として、緑、赤、白、青などと共に細やかな文様が刺繍されている。また右手の壁手前側には、一つ木製の扉があり、開かれたその奥にはシンクが見える。つまりゲイルはそのシンクで二人分のコーヒーを準備していたのだろう。一方で左手には一枚の絵画がかけられている。紫の額縁に入れられており、少しだけ傾いている。砂時計を横にしたような図形が、少し黄ばんだ紙に描かれているだけのその絵画が、何を意味するのかは判然としない。

 そして、リックが入ってきた扉から正面の位置には窓があった。

 赤枠に囲われた窓。

 それが確かに壁に設置されている。

 しかしながら、おかしなところがあることにリックは気付いた。

「あの窓、外が真っ暗なのはどうしてですか。」

「あぁ、あれはそういう仕様だからだ。それ以外に特に理由はない。近くに。」

 ゲイルに促されるまま、その赤枠の窓に近づいていく。

 赤枠の窓の丁度目の前で立ち止まると、ゲイルはリックの方を振り向き話し始めた。

「この二つは窓であり、窓ではない。何も外を見るためのものではないのだ。外ではない別なものを見る。そういうためのものだ。外を見るものではないが、一方で何であっても見ることが可能だ。それがこれらの窓だ。」

「それはどういう……。」

「深い意味はない。或いは意味はあるかもしれない。可能性とはそれだけ曖昧で、私が答えを言うまでは不確定というだけだ。個人の思いなどには影響されない。それだけのものともいえる。」

「窓の向こうが真っ暗なのは、何か理由が?」

 リックは突然饒舌に話し始めたゲイルに向かってそう質問した。彼がいきなり始めた話は脈絡も結論もなく、その意図がまるで分らない。

「そうだね。すまない。何というか、上手く説明するのは難しくってね。私の師がかつてしていたことを模倣したのだが……、うん。どうやら余計に混乱と不信を生み出してしまったらしい。すまない。」

 ゲイルはそういうと、右手の壁の奥、扉の向こうのシンクのある部屋へと消えた。そして何やら物音がしたあと、背もたれのない木製の椅子を二つ持ってきた。それを二つの窓の傍に置き、二人で座ることにする。

「つまりリック。君にお願いした仕事というのはこうだ。窓の向こうの光景を記録してほしい。観察といってもいい。文書で残すのでも構わないし、写真でもいい、絵画や、音声だっていい。ただ残してほしいんだ。窓の向こうの光景を。」

「どういうことか、やはり、いまいち分からないのですが……。」

「……見せるのが一番早いかもしれないな。」

 ゲイルはリックの問いに一度目を伏せながら一度頷いた後、小さくそう呟いた。

 ゲイルは立ち上がると、左の赤色の窓に近づいていく。彼は窓の真正面に立った。窓の向こうは完全に黒く何も見えない。彼は窓の近くまで進んでいくと、下側の窓枠付近に触れている。よく見えずリックは中腰になりつつ上半身を傾け、ゲイルの手元を覗き見た。そこには三つのつまみがある。

 左の直方体のつまみは横方向に移動させるタイプのものであり、平行に二つが並んでいる。対して右の円柱形のつまみは回転させるタイプのものである。ゲイルは左の指で左の上のつまみ、右の指で右のつまみに触れた。

「リック。君の生まれた日は?」

「19年前の〇月△日です。」

「どこで生まれた?」

「となりのとなり、□町です。」

「……そうか。」

 リックの言葉を聞くとゲイルは両のつまみを操作し始める。初めは左上のつまみ。それを左方向へほんの少しだけ動かし、左下のつまみは動かさない。次に右のつまみを反時計回りに一回と半分少し回す。

 それらの作業を終えると、ゲイルはただじっと真っ暗の窓の向こうを見つめた。何一つとして見えるものはない。しかし、時間にして十秒ほどが過ぎたあたりで窓の外が少し明るくなり始めた。初め黒から白へと色が変わり、白の中から緑や茶、青や赤、それから黄といった色が現れ始める。さながら真っ白なキャンバスに水彩絵の具を垂らしたかのようだった。水分を含み過ぎたかのように、白地の上の色彩はぼやけている。それでも窓の外を見続けると、次第に淡さが消え、窓の外がはっきりと見えてくる。輪郭は浮き上がり、建造物や草木が現れ始めた。そして窓の正面に一軒の建物があることが分かった。白塗りの壁でできた平屋の一軒家は、リックにとってどこか見覚えのある建物だった。

(僕の生まれた病院か?)

 それはまさにリックが生まれた病院だった。□町の外れにあり、唯一つの病院でもある。誰もがそこで生まれ、そこで死んでいく。そんな場所だ。

 しかし、リックにはその風景に引っ掛かりを覚える。

(どうしていきなり窓の外に□町の病院が?ここから列車で二駅は離れているのに。それに、あの病院何か僕の知っているのとは違う気がする……。)

「どうかな?」

 唐突にゲイルが振り返り、リックにそう聞いた。

「どうして僕の町の病院が、この窓の外に?それに、どこか僕の知っている病院とは違うような。」

「そう、なかなか良い感覚をしている。あれはまさに君が生まれた町だ。あの町の事よく知っている。あそこは確か、病院が一つだったはず。それでこうして窓の外に出した。」

「出した?」

 そう、と前置きし大きく深呼吸をしたうえでゲイルは話す。

「そう、自らの意志で出した。君の生まれた病院をね。」

 リックはゲイルの言っていることの意味が分からずに、眉を顰める。そのままじっとゲイルを見つめると、彼は眉尻を下げ、困っているような表情になった。

「そんなに食い気味で見ないでくれ。きちんと説明するから。これは過去が見れるびっくり窓なんだ。」

 言葉の異常さとは裏腹に、先程までと何も変わらない口調でゲイルはそう言った。


********************


「そう、びっくり窓だ。」

「びっくり窓……。」

 リックは言葉の意味が分からず、反応を返すことが出来ずにいた。それが、ゲイルの冗談なのか、或いは自分自身の聞き違いなのか、正しく処理することが出来ない。

 リックがゲイルと赤枠の窓を交互に見ていることに気付き、困ったように唸りながら、ゲイルが話し始める。

「言葉のチョイスというか、ネーミングが悪かったかな。それはまぁ、私自身も思ってはいる。」

「その、びっくり窓というのは一体なんです……?」

「そのままの意味さ、びっくりするような窓。こいつで過去を覗き見ることが出来る。すぐに納得はできないかもしれないが、そういう代物だ。」

「過去を見れるなんて、そんな……。そんなことが出来るんですか。」

「できる。間違いない。」

 リックは話を消化できず、一度目を瞑ったまま、顎を引いて床のほうに顔を向ける。そのまま、何秒かの間、じっとしていた。彼の頭の中には、あらゆることが巡り、そしてつかみ取ろうとしている。眼をそっと閉じ、俯いたようになるその姿勢は、彼が思考する時の癖である。

 ゲイルはリックの様子を横目に見つつ、赤枠の窓には触れずに、自分の椅子まで戻った。そして、右手で椅子が動かないように抑えながら座り、一度、赤枠の窓の方を見た後、改めてリックをみつめる。

 幾分かの時間が過ぎ、リックは、顔を上げ、赤枠の窓を見た。先程までと変わらない風景がそこにある。白塗りの壁の病院。すぐそばには一本のクヌギの木が立っていて、その根元に水色のペンキが塗られた、木製のベンチが置かれている。病院には均等に三つの窓が並んでいる。それらは上部が半円、下部が長方形の形をしており、下部の長方形の部分が両開きにすることが出来る。今は、むかって一番左の窓が半開きになり、真ん中は閉じ、そして一番右の窓が全開に開け放たれていた。中は明かりがついているわけでもなく、軒で日差しもさえぎられているため、良く見えなかった。うっすらと白色のカーテンが見え、それが時折、風になびいているのが見える程度だ。

 その風景にはやはりどこか見覚えがある。

 そうリックが考えていると、椅子に座ったゲイルが、右の方から話しかけてきた。

「その窓の原理は私も知らない。けれど、過去が見れることは事実だ。勿論、制約もあるけれどね。」

「制約ですか。」

「そう、縛りともいえる。まず、この窓は、窓の形をしているけど開くことは無い。過去と直接に繋がるわけではない。それから、過去の人間からは、こちら側を覗き見ることはできない。ただ暗いか、或いは別の光景が写っているかもしれない。当然、向こうから窓を開けてくることは無いし、そもそも開けることもできない。そうした状況だから、お互いに何か情報のやり取りをすることもできない。何かを伝えたり、逆に伝えられたりすることもできない。それから……。」

 ゲイルはそこで一呼吸を置く。

「それからね、過去を見るといっても万能ではない。此処から見えるのは、どこかの窓からの風景だ。窓がない場所の光景を目にすることはできない。」

 リックはじっとゲイルの話に耳を傾けていた。ゲイルの語ることは突飛で、簡単に信じられるようなものではない。それに、ゲイルが本当に信用に足る人物なのかも怪しかった。電話で簡単に会話をした程度で、実質的に初めての接触なのだ。本当のところがどうであれ、すぐさま彼と彼の話を信用するというのは難しい。しかしながら、赤枠の窓の風景が、というよりも過去と呼ばれるその光景が、確かにリックに覚えがあることも確かなのだ。ゲイルの素性が分からない以上、そこに映る風景でさえ、信じていいものなのかはわからないが、少なくともリックの目には確かに映っている。この街からリックの住む町まではすこし離れている。電車で二駅の距離があるものの、歩いてたどり着くこともできる。しかし、だからこそ物理的に離れた町の風景をこうして映しているその窓が、ゲイルが言うようにリックの理解を越えた窓であることを信じざるを得ない。

 本当に過去が見れるのだろうか。

 どこかから、病院のあるその風景を映しているのではないか、とそう思えてきた。

 しかし、それさえもやはり窓の外の風景によって覆されつつある。

 病院の傍に立つクヌギの木こそが、赤枠の窓が過去を移す代物であることを証明していた。

「本当に過去が見れるのですか。そんなことが本当に……。」

「でも君は信じ始めているのでは?」

「……あそこにはもうクヌギはないはずなんです。僕が小さい時には立派に緑の葉をつけて立っていましたが、確か嵐の日に折れかかったか何かで、切ってしまったはずです。だから、今あそこにクヌギの木が立っているのはおかしいんです。だから、信じられないけど、でもやっぱり過去にしか見えなくて。病院の古さも、周りの野原も、やはり僕が小さい時のものにそっくりなんです。」

「初めからね、信じられるなんて思ってはいない。私のことだって、何者かもわからないだろうしね。しかしながら、そう確かにその窓は過去を映す。それは間違いないよ。」

 ゲイルはそういうと、再び椅子から立ち上がり赤枠の窓の方へ近づいた。そして、三つのつまみひ触れ、位置を変える。窓の外に映った病院の風景は歪み、輪郭もぼやけていく。全体的に光を失っていき、次第にはまた真っ暗になった。始めと同じになったのだ。

「さぁ、向こうの部屋に戻ろうか。改めて仕事の内容について話すよ。」

 ゲイルはそういうと、リックに立ち上がるように促し、椅子を二つ抱えて、またシンクのある部屋に入っていった。物音がしたかと思うと、今度は水の流れる音がして、更にもう少しすると火が燃えるような音がした。湯を沸かしているのかもしれないと、リックは思った。先程貰ったコーヒーはひんやりと冷たかった。けれど、ゲイルの話を聞き窓の光景を見ているうちに、いつの間にか時間が過ぎ、部屋の中はひんやりとし始めていた。昼間は日差しも強く、暑かったはずだが、それがまるで夢の中でのことだと錯覚しそうになる。今も夢を見ているのかもしれないとさえ、リックは思った。湯はまだ沸かないらしい。リックがテーブルと椅子の置かれた部屋への扉に手をかけた時にも、まだ火の燃える音が小さく聞こえていた。


********************


 ソファに座り、しばらく待っているとゲイルが部屋に入ってくる。今度はティーカップを二つ、指に引っ掛けつつ、右手でティーポッドを持っていた。左手にはノートとペンが握られている。

 ゲイルはソファに座るとの戸をテーブルの中央に置き、ティーカップとティーポッドを並べて机の端の方に並べる。

「紅茶は飲めるかい?」

 リックがはいと答えると、ゲイルはにこりと微笑み、

「そうかそれは良かった。まぁ、色が出るまで少しかかるだろうし……もう少し詳し仕事の話をしようか。」

と言った。

 ゲイルは仕事の内容について、具体的な中身をリックに説明した。リックがすべき仕事の内容は、先程の窓の向こうの光景を文字として記録すること。たまにはイラストを挿入してもいいとのことだ。つまるところ、求められているのは、窓の外の風景を漏らさずに記録すること。その一言に尽きる。

 それを行ってほしいというのが、今回の仕事だそうだ。

 仕事が特別複雑であったり、或いは、何か怪しいものでないことを改めて聞いて、不安が少し落ち着いた。唐突に思いついて申し込んだ今回の仕事であったが、やはり不思議な募集の概要であったことに変わりはなく、おかしなものであったならどうしたものかと考えていたからだ。

 そして、不安が落ち着いていく反面、疑問がいくつかリックの中に湧き上がり始めていた。

「もう一度、聞いて申し訳ないですけど、本当に過去が見れるのですか?信じていないわけではないんです。でもやっぱり信じられなくて。」

「本当だよ。私も詳しく知っているわけではないんだ。でも、事実だ。こればかりは信じてくれと言うしかないな。ほかに信じてもらうための術が思いつかない。窓の向こうに、私たちは足を踏み入れることが出来ないわけだしね。……でもまぁ、きっと何処かの誰かが生み出したのだろうと思っているよ。前時代からは考えもつかないような革命の時代なんだから。」

 身の回りに溢れるありとあらゆるものが、ここ数十年の間に生み出されたという話は、リックも小さいころから聞かされている。それは、きっと途轍もないことなのだろう。しかし、リックにはどうにもそうした感覚がしっくりとこない。生まれたその瞬間から身の回りにあるのが当たり前のものに対して、今更価値を認識しようというのも不思議な話だ。当たり前という状態に、人は感謝も感激もしないように出来ている。そういう状態がデフォルトであり、わざわざ過去の価値観に回帰するというのもおかしな話というように思えるからだ。

 とはいえ、過去を見ることの出来る窓というのは話が変わってくる。

 時間はいつだって不可逆だ。それは、テクノロジーが進歩したとしても変わらないことで、あの赤枠の窓は、そうした現実の根本的な原理を無視しているといえる。過去を見る。窓を用いたとしてもリックにできるのは、見るという行為のみだが、逆にそれだけのことが出来るのだ。

「リック、君に頼みたいのは、依頼のあった場所の様子を観察するというものだ。そこで起こる出来事を君には記載してほしい。お願いできるかい?」

 ほんの少しだけ、考えた。そして、テーブルの上に置かれたままになっていたグラスを見つめながら、ゲイルに一度、外を歩きながら考えたいと申し出た。


********************


 ソファから立ち上がり、廊下を真っ直ぐに歩いた。相変わらず廊下は暗く、ここへ来た時よりも余計に暗くなったようだ。いくつか天井から吊るされた照明を見つめても、白いカバーがぼんやりと見えるのみだ。床を照らす照明の明かりが等間隔に並び、それらは今出てきた扉の反対、廊下のつき当たりにあるこの建物の正面玄関まで続く。いくらか正面玄関近くの明かりが大きいかもしれない。

 リックが正面玄関近くに辿り着くと、玄関の扉の隙間から、赤っぽい光が漏れ出ていた。それが扉の輪郭をうっすらと描いている。リックは両手でゆっくりと扉を押した。時計方向に扉は開き、外は真っ赤に染まっていた。もう夕暮れの時間だったのだ。

 後ろ手に扉を閉めた後、玄関前のステップに立ち、建物が面する通りを見つめた。赤茶けたレンガ造りの建物が左右に伸び、石畳の道路を音もなく、車や人が行き交う。道路は時折、矢印の形に点滅をし、道行く人々の方向を示している。リックの身長よりも高い位置を列なった小型のロボットが飛んでいく。何かを運んでいるのかもしれない。

(これがまさに、今という時代なんだ。)

 何もかもが進歩し、同時にそれは進化の終着でもあった。かつての人々が思い描いた理想的な未来というものに、きっと近付いただろう。そう信じる人が多いのではないかとリックは思う。過去を見るとは、いったい何を意味するのか。こうした時代だからこそ考えずにはいられない。彼からすると、多少リスクを被ることは仕方がないと思っている。それでもやはり、どうにも上手く解釈できない。

 そのまましばらく、ステップから通りへ続く短い階段に座って過ごした。

(・・・・・・動揺しているのかもしれない。きっとそうだろう。)

 リックがそう思うのも仕方のないことだった。それは、先程ゲイルが見せてくれたあの病院に原因がある。赤枠の窓の向こうに現れた病院は、リックが生まれ、そして幾度かの別れを経験した場所だったからだ。それが彼の心を乱していた。

(どうしてゲイルさんはあの病院を映し出したのだろう。あそこはもう、思い出す気がなかったのに。もう、思い出したくなかったのに……。)

 通りの右手から、ラッパとドラムの音が聞こえてきた。そちらを見ると、建物の影になってはいるものの、かすかに見える広場で、どこかの誰かが演奏している姿が見えていた。

 そちらを見つめていると、後ろから物音がした。リックが振り向くと、細身の身体が丁度通れるぐらいの隙間を開け、扉からゲイルが外へ出てきた。

 リックのすぐ傍に立ち話し始める。

「どうだろうか。引き受けてくれるかい?」

「……ゲイルさんは、どうしてあの病院を映したのです?」

「私もあの町の出身なんだ。馴染みがある場所はもちろんたくさんあるが、……まぁ、微かな賭けのようなものだ。」

「賭けには勝てましたか。」

「半々といったところかな。君が引き受けてくれれば、完全勝利だ。今までも何人か応募してはくれたが、なかなかうまくはいかなくてね。だから応募しておいてこんなことを言うのは変だが、嫌ならきちんと断ってもらって構わない。」

 ゲイルはそういいながら、遠くを見つめていた。リックの方には視線を向けず、向かいの建物の更に向こう、水平線の方を見つめていた。陽は沈み,空は紫に染めている。

「ゲイルさんは、どうしてこの仕事を?何か特別な理由が?」

「あぁ、それは確かにある。意味ならちゃんとあるよ。私も昔、君と同じような状況だった。割りのいい仕事だと思って飛びついたら、あんな暗い建物の一室に呼ばれて、行ってみたら今度は過去を記録する手伝いをしてくれ。そりゃあね、とんでもなく怪しい。でも、どうしてもお金を得たい事情があって、もう半分やけくそで飛び込んだわけだ。でもある時期から、この仕事の価値が分かるようになった。価値は自分で見つけなくてはならないのだと痛感したよ。それだけ不定形なのかもしれないが、いずれにしても今は誇りを持っている。」

 リックは、真っ直ぐに立ちそう語るゲイルを見た。彼は、ただじっと遠くを見つめながら話している。水平線近く、輝き始めた星を見ているのかもしれない。彼がここではない、どこか遠くを見ているようにさえリックには思えた。ゲイルの凛と立つ姿勢と、彼の強い眼差しからは、彼の仕事に対する熱い思いが感じられる。だからこそリックは、次第に彼の語る言葉に引き込まれつつあった。

「私の仕事はね、基本的に依頼を受けて、それに応えていくというスタイルだ。とはいえ、あまりあの窓のことを広めてしまうと色々と支障をきたすだろうから、人伝てに依頼者を探していくわけだ。便利屋みたいな仕事が表面的には多い。ただし今回のように新しく人手を探す時にはそうもいかなくてね、広告するわけだ。勿論、詳細を載せないために怪しさは満点なわけだが。」

 そういうとゲイルは大きく笑い、そしてリックの方一瞥した後、再び遠くを見つめる。

「人は誰しも、時間の中で生きている。過去に戻ることはできない。僕らは、現在という時間の中にしか存在できない。そういう原理の上で成立しているわけだ、人間という生き物は。でも、私たちは過去を大切にする。どこで何をしてきたか、誰と過ごしたか、どんな時間を過ごしてきたのか。それらは本来、僕らの背後に存在しているはずのものなのに。」

 ゲイルが真っ直ぐに見つめる先は、リックの位置からは見えない。彼は一体、何を思っているのだろう。それを知ることは叶わない。

「不思議さ、本当に。過去は常に僕らの未来に立ち現れる。消えることがない。行動や思考は過去に縛られている。そうして生きる時間が長くなるほどに僕らは、きっと生きていくことが困難になるんじゃないかと、かつての私はそう思っていた。」

 リックは立ち上がり、ゲイルの見つめる先に目を向けてみた。しかし、座っていた時と変わらず、そこにはうっすらと水平線があるだけだ。夜に侵され始めた空と海が、次第に交わり始めているのが見える。

 ゲイルは、穏やかな口調で続ける。

「過去を見つめることは、或いは過去に執着することは、きっと正しくはないのだろう。でも、間違いでもないのではないかと、そう思うようになった。過去を思いながら、それでも進めばいい。後ろを見ながら、軽快な後ろ歩きで進んでいけばいい。そう思うようになった。」

 遠く空と海の境界は、闇の中に溶け、曖昧になりつつある。

「だから、そういう生き方を肯定するために、過去を見つめたいとそう思う。きちんと見つめてほしい。これは、そういう仕事だと思っている。」

 リックは語られたゲイルの言葉を、再び自分の中で繰り返していた。まだ、隣に立つ男のことを何も知らないのは確かだが、それでも彼の発する言葉に嘘はないように思えた。それは、信じてもいいものに感じられた。

「ゲイルさん。僕、その……仕事をしてみたいです、ここで。ゲイルさんのしている仕事をしてみたいです。」

 ゲイルはリックのその言葉を遠く、海か空、あるいはその合間の曖昧な水平線を見ながら聞いた。そしてリックが話し終えると、彼の方を向き、

「そうか。ありがとう。勿論、無理そうならその時は断ってもらっていい。しかしよかった。そうと決まれば、準備を始めなくてはね。」

 そう言うとゲイルは建物の方へと向き直り、扉を半開きにして、上半身だけ中に入るような形になった。扉の向こうで、何か操作をしているようだ。一瞬、静電気が発生した時のような音がした。しかし、通常のそれよりも何倍も大きい音だ。リックが驚いていると、すっかり暗くなった玄関前のステップが、紫色の光に包まれた。建物の上を見上げると、紫のネオンサインが輝いていた。雲のような造形の中、英字の筆記体で文字が書かれている。

「それがうちの名前だ。夜限定でこうして看板を付けている。いつの時代になっても、ある程度はこうして表明しないとね。……さぁ、それじゃあ中に戻ろう。私はお腹がすいてしまったよ。」

 ゲイルはそういうと、建物の中に入っていた。

 リックは改めて通りを振り返った。あちらこちらでネオンが付き、すっかり怪しげな夜の雰囲気を帯び始めている。昼間と異なる空間がそこにはあった。まるで、衣装替えしたかのようなその通りのどこかに、過去を見つめ返したいと願う人がいるのだろうか。そうした思いを抱く人がいるのだろうか。リックはそこまで思い至り、それが無意味なことに思えた。その疑問の答えはきっとこれから知ることになるからだ。

 通りを背に、リックは建物の中へと入った。

 扉はゆっくりと閉じられ、建物の軋む音が外まで聞こえる。空には闇が広がり、星も輝き始めているはずだ。しかし、ここからは見えない。淡く強い光が町から生まれ、それが空の中の微かな光を見えにくくしている。

 派手な通りから少しはずれた場所。ほんのりと表明するようにそのネオンは輝く。

 LostProperty。

 落とし物。

 ここは、あらゆることを見つめ返す場所。

 そして、未来を見つける場所。


―――――了


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