表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ナナミがいた夏

作者: 堀川忍

ナナミがいた夏…


                           堀川 忍 作



…あれは、本当に本当のことだったのか、それとも全部夢の中の出来事だったのか、今となってはどうでもいいことのようにも思えるよ。ボクがその年の夏休みに起こった一週間ぐらいの不思議な出来事を、最初から話すから最後まで聞いてほしいんだ。君は「何バカなことを言っているんだ!」って笑うかもしれないけれど、とにかく最後まで聞いてほしいんだ。



…一人旅…


ボクがその女の子と初めて会ったのは、確か小学校最後の夏休みだった。我が家では毎年お盆とお正月に家族みんなでママの故郷がある甲府のヒイバアチャンの家へ行くことになっていたんだ。でも今年の夏休みは、ママが急な仕事で行けなくなり、中学生のお姉ちゃんは部活のバレーの練習が忙しいので、結局ボク一人で行くことになったんだ。

「悟も、もう六年生なんだから、一人で行けるわよね?」

「大丈夫だよ。スマホで毎日連絡するから…」

 ママはボクのことが、よっぽど心配らしかったけれど、ボクも来年になったら中学生なんだから、心配なんかしなくてもいいのにね。ママはまるで自分が旅行するみたいに列車の時間のことなんかを調べていた。ボクとしては、一番うれしかったのは、ママが普段仕事で使っているタブレット型最新パソコンを特別に貸してもらえることだった。あれがあればネットで何かを調べたり、好きなビデオを見ることもできるし、ゲームだってやり放題だし、夏休みの宿題の日記を書くこともできるし、カメラが付いているので、昆虫や気になる植物のことも撮影できるから、本当に便利なんだ。もちろんスマホでもできないことはないけど、画面が小さいからね。それにウィンドウズも最新のものだものね。

「ちゃんと使えるの?…DSなんかとは違うのよ?」

「大丈夫だよ。学校にもコンピュータ室というのがあって、週に二回は授業でやっているもん」

 ボクは最新型のタブレットが旅行の間だけでも、自分の自由になることがうれしかった。それだけでも、この旅行に意味があると思っていた。だから、初めての一人だけの旅行に行く日が待ち遠しかった。


 新宿駅までは、ママが連れて行ってくれた。それから中央本線の特急スーパーあずさが着くホームへ行き、ボクが指定席に座るのを確認してから、ママは会社へ行くために急いで地下鉄の方へ歩いて行ったよ。…こうしてボクの生まれて初めての一人きりの旅行が始まったんだ。

 特急スーパーあずさが新宿駅を出発すると前の座席に並んで座っていたオジイサンとオバアサンが話しかけてきた。

「ボクはどこまで行くんだい?」

「甲府です」

「一人で?」

「はい」

「偉いねぇ! 何か困ったことがあったら、ワシらに言うといいよ?」

「ありがとうございます」

 ボクはオジイサンに頭を下げた。オバアサンが袋の中からミカンを一つ出してボクにくれた。ボクは笑顔でそれを受け取ると、皮をむいて一房食べた。口の中に甘い味が広がった。そこへ車掌さんがやってきて、「切符を拝見せてください」と言ったので、ボクはリュックに付けている小さなポーチから切符と特急券と座席指定券を差し出した。

「君は一人で甲府まで行くのかい?」

車掌さんも聞いてきたので、ボクは「はい」と言った。

「眠っていたら起こしてあげるからね?」

 車掌さんが言って、切符などを返してくれた。

「大丈夫です。これがあるから…」

 ボクは最新型のタブレット型のパソコンをリュックの中から出した。すると車掌さんも、前にいたオジイサンとオバアサンもびっくりした。

「これは、最新型のiPadなのかい?」

「違います」

「それは、一体何なのかね?」

「タブレット型パソコンです。ウィンドウズの最新版で…」

「ネットにはつなげるのかい?」

「はい。このポケットワイファイで…」

 ボクがズボンのポケットの中から通信用の装置を取り出すと、みんなが目を丸くしておどろいていた。

「ポケット…ワイワイ?」

「ワイファイです。これを持っていると、このパソコンでどこでもインターネットにつなげるんです」

「そんなに小さいのに?」

「それで、一体何ができるんじゃい?」

「例えば…」

 ボクが得意になって、パソコンを起動させ、動画配信サービスを立ち上げて適当な画像を見せた。「おぉ!」とみんな驚いていたので、画面をスワイプして拡大させたり、小さくさせて見せると、みんな魔法にかかったような顔をした。

「…す、すごいのぉ!」

 ボクのタブレットに感心して、車掌さんはすっかりボクを見直したらしく、小さく敬礼して前の車両に行ってしまった。

「便利な世の中になったもんじゃのぅ…」

「本当に…何がなんだかわかりませんよ…」

「便利になればなるほど、ワシらはどんどん遅れてしまうのぅ…」

「そんなこと、ありませんよ?」とボクは言いかけてやめた。「確かにそうかもしれない」と思ったからだ。小学校でも英語の授業が始まったけれど、英語が話せる先生は若い先生が多くて、ボクのクラスの先生は、月に一度か二度やってくるオーストラリア人の先生にまかせてしまっているものね。甲府のヒイバアチャンも携帯電話が使えないって、いつもママに話しているもの… もしかすると年をとると新しい機械を使うのが、難しくなるのかもしれない。ボクはそんなことを考えながら、窓の外の景色を見ていた。

 すると不意にパソコンの画面が見たことのない、どこか田舎の風景になっていた。昼間なのに、木が多くて薄暗い、まるで大昔のスタジオジブリの映画の一シーンのようだった。ボクは不思議に思ってその動画を見ていた。すると暗い森の中から一人の女の子がやってきて、誰かを探しているようだった。やがて女の子はボクの方を見て「こっちへおいで」というように手招きをした。ボクが首を振ると、女の子はまるで魔法をかけるように右手を回してから、ボクを指差した。

「君は…誰?」

 ボクがそう言うと、だんだん眠くなってきて…ボクはタブレットを持ったまま、眠りの世界に入ってしまったんだ。



…深い森…


 ボクが次に目が覚めたのは、前に座っていたオジイサンに起こされたからだった。

「ボク? もうすぐ甲府駅だよ?」

「…あっ、すみません!」

「よく眠っていたようだったんじゃが…」

「大丈夫です。朝少し早起きしたものだから…」

 ボクは少しはずかしそうに笑顔でオジイサンとオバアサンにお礼を言ってから降りる準備をした。昨年までは、ママの車で来ていたので甲府駅に着くのは初めてだった。新宿駅より降りる人も乗る人も少なかったが、わりと大きな駅だった。空は晴れていて、空の青さも東京とは比べられないくらいきれいだった。耳をすますと町の音にまじってセミの合唱も聞こえてきた。ボクは少し重いリュックを背負ってホームに立った。ママの話だとヒイオバアチャンがむかえにきてくれているはずだった。

「…あれっ、時間を間違えてんのかなぁ?」

 駅員さん以外誰もいないホームできょろきょろしていると、「サトルく~ん」急に誰かの声がホームにコダマするように聞こえてきたんだ。

「…君、悟君でしょう?」

 見覚えのあるような女の子が少し長い髪をなびかせながら、こっちへ近づいてきた。「誰だっけ?」ボクは考えた。どこかで会ったことがあるんだけれど、どうしても名前が思い出せなかった。「この子は確か…」女の子が手招きをしたので、ボクは思い出した。「あっ、あの子だっ!」ボクは心の中でそう叫んだ。そうだ。ママのタブレットに映っていた森の中にいたあの女の子にまちがいなかった。

「悟君…アナタ本当に土屋悟君なんでしょう?」

「うん…」

「オバアチャンの腰が痛くなったので、代わりに私が迎えにきたのよ?」

「君は…誰?」

「ナナミよ。忘れたの?」

「ナナミ…ちゃん?」

「さぁ、名前なんてどうでもいいから…バスが出ちゃうわ。急ぎましょう!」

 ボクはナナミという女の子にせかされながら、駅を出てバス停にむかった。「ボクの親戚かなぁ?」ボクは先を歩くナナミの後ろを少し早歩きで思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。バス停にはすでにバスが待っていてエンジンをかけていたので、二人は走ってなんとかバスに間に合った。少し古いバスの中には他にお客はなくて、ボクたちは一番後ろの座席に並んで座った。バスはボクたちが乗ると、ドアを閉めて発車した。

「ぎりぎりセーフね?」

 女の子は少し息をはずませながら言った。ボクはバスに乗る時にチラッと運転手の顔を見たけど、タヌキが制服をきているような気がして不思議に思った。

「あのさぁ、一つ質問してもいい?」

「ダメ!」

「えっ?」

「ここでは、質問はなし。…それから『便利』って言っちゃあダメなのよ」

「どうして?」

「…だから、質問は禁止!」

「分かったよう…」

 ボクは仕方なくОKした。頭の中には「?マーク」でいっぱいだったけど。バスが走っていると辺りの景色が街をぬけて、田舎らしい感じになってきた。バス停をいくつか過ぎたけど、誰も乗ってこないし、ナナミと名乗った女の子も降りようとはしなかった。そうやって三十分ぐらい乗っていると、見たこともないような大きな山の近くまでやってきた。するとタヌキ?の運転手が急にこんなことを言った。

「次は、終点…深い森…深い森…」

「さぁ、降りるわよ?」

「ヒイバアチャンの家って、こんなに田舎だったかなぁ?」

「ごちゃごちゃうるさいなぁ。本当に悟は質問ばっかりなんだからぁ!」

 ナナミはあきれたような顔をして言った。バスを降りる時に確かめたけど、運転手は、やっぱり制服を着た本物のタヌキだった。本当に不思議なことばかりだった。でも、また「質問禁止!」と言われそうだったので、だまっていた。二人で深い森の奥の方へ歩いて行った。

「あっ、そうだ。甲府へ着いたことをママに電話しなくっちゃ!」

「どうやって?」

「スマホだよ。これとっても便利なんだ!」

「便利…?」

 ボクがそう言うとどこからともなく、とても大きなカエルが出てきて、あっという間にボクのスマホを長い舌でぺろりと食べてしまったのだ。

「うわぁ! な、なんだぁこいつ?」

「ベンリダメガエルよ。君が便利って言ったから、食べちゃったのよ?」

「そんなぁ…あれがなきゃママに電話できないじゃぁないか!」

「電話なら、もう少し歩いたところに森の駄菓子屋さんがあるから、赤電話を借りればいいわ?」

「赤電話?」

「質問禁止!」

「禁止禁止って言わないで教えてくれよ!」

「そんなに知りたいなら、君のママにでも聞いてみれば?」

 ナナミはボクを無視してどんどん先へ歩いて行った。仕方ないのでボクはナナミ後について歩くしかなかった。だいたいこの「深い森」がどこなのか、この先に何があるのか何も分からない。もちろんタブレットパソコンでなら、簡単に調べられるけど、あれを出したら、きっとさっきの変なカエルに食べられてしまうだろう。このままだとナナミがいなければ、確実にボクは「ソウナンシャ?」ということになってしまうかもしれないもの…

 しかし、この森自体が不思議のかたまりみたいだった。キノコが内緒話のようにささやいたり、大きな杉の木にハンモックをつけてクマが昼寝をしていたり…「ベンリダメガエル」っていうのも、タヌキの運転手にしても… まるで、ボク自身が不思議な絵本の世界に入りこんでしまったような気分だった。

 やがてシラカバの林のむこうに一軒の家が見えた。どうやらナナミが言っていた森の駄菓子屋らしい。ボクは店の前で大きな声で店の人を呼んだ。

「すみませ~ん!」

「…うるさいのぉ。そんなに大きな声を出さなくてもワシャ聞こえるぞ」

 中からフクロウのオバサンが出てきた。オバサンに「赤電話?」というのをかしてほしいと伝えると、「そこにあるじゃろ」とそっけなく言われた。でも、家にある電話機の何倍も大きな赤い色をしたそれには、どこにもボタンが付いていなかった。

「…あのぉ、これ、どうやって使うんですか?」

「なんじゃ?…電話も知らんのか? 十円入れてダイヤルを指で回すんじゃよ。その前に受話器を持って…」

「ダイヤルって?」

「…もう! しょうがないわねぇ!」

 となりでボクを見ていたナナミが受話器を手に持ってボクを見ながら、「電話番号は何番?」と聞いた。でも、ボクは電話番号を全部スマホにメモリしていたので、ママの携帯の番号なんて覚えていなかった。

「分からない…っていうか、スマホに全部記録させてあるから…」

「だから、便利な道具は不便なのよ!…どこかに書いてないの?」

 ボクがリュックのあちこちを探してみたら、電車の切符を入れていたポーチの中にママの緊急連絡先として、携帯と自宅と学校の電話番号が書いてあったメモ用紙を見つけた。

「あった!…これかな?」

「良かったわね」とナナミは渡されたメモの番号をダイヤルしてから、受話器をボクに渡した。しばらくの発信音の後でカチッとママが出た。

「…もしもし、ママ?」

「あぁ、悟なの?…無事に甲府に着いたの?」

「うん…まぁ、なんとか」

「アナタのスマホの番号じゃないけど、どうかしたの?」

「なんでもないよ。多分…」

「多分って、…アナタ本当に大丈夫なの?」

「心配いらないよ。僕はもう六年生だよ!」

「分かったわ。何か困ったことがあったら、すぐに電話するのよ?」

「…あのさぁ、ママ。赤電話って何?」

「昔の電話でみんなが使うための電話よ。それがどうかしたの?」

「いや、なんでもない」

「じゃあ、切るわね?」

 ママはそれだけ言うと電話を切った。よほど忙しいらしかった。ボクがしばらくの間受話器を持ったまま店先で立っていると、リスとウサギが店に入ってきて不思議そうな顔をしてボクたちを見ていた。

「ほら、エイギョウボウガイよ?」

 ナナミが受話器を取って電話にもどしてから、フクロウのオバサンにお礼を言ってからボクの手を引いてさらに森の奥へ入って行った。すると急に辺りの空が暗くなってきて、ポツポツと雨つぶが落ちてきた。やがてだんだん雨がはげしくなってきた。

「夕立かぁ…」

 そんなに困った顔もしないでナナミが何かを探し始めた。それから小さな洞窟のようなものを見つけて、ボクたちはその中に入った。入り口は少しきゅうくつだったけれど、穴の中は意外と広くてそこにいれば、雨にぬれるようなことはなかった。すると、さっき駄菓子屋に来ていたリスとウサギが手をつないでやってきた。ボクとナナミは少し奥に入ってリスとウサギの場所を作ってあげた。洞窟の暗闇に目が慣れてくると中にはボクたちだけじゃなく、杉の木で昼寝をしていたクマも制服を着たタヌキの運転手も、ボクの大切なスマホも食べちゃったベンリダメガエルもいた。

「少し寒くなってきたわね?」

 ナナミが言ったので、ボクは洞窟の中に落ちていた木切れを集めて、花火をする時に使おうと思って持ってきていたライターを出して火をつけた。するとポッと明るくなったので、リスが驚いて言った。

「す、すご~い! そんなので簡単に火が起こせるんだね!」

「うん、これはライターっていうとってもベン…」

 ボクがそう言いかけたところで、ベンリダメガエルがボクのライターをぺろりと食べてしまった。

「ボク、『便利』って言ってないよ!」

「今言ったじゃないか、ケケケケェ…」

 ベンリダメガエルは、知らん顔をしたままで言った。

「さからっても、ムダよ。それよりこれを使いましょう?」

 そう言うとナナミは、大昔の人が使っていたような火起こしの道具を布製のカバンから出してきた。ボクは昨年の秋に学校の自然体験学習で使ったことがあったけれど、結局火を起こすことはできなかった。だからボクは、当然ナナミは失敗するだろうと思っていた。…ところがナナミはまるでマッチを使うように慣れた手つきで動かしながら、あっという間に枯葉に火を起こしてしまったのだ。

「おぉ!」

 ボクも洞窟の中にいたクマや、リス、ウサギたちも同時に声をあげた。ナナミはどう見てもボクより年下に思えたが、昨年五人がかりで何時間かかっても火を起こすことができなかったのに…たった一人で、しかも数分で火を起こしてしまったのだ。ボクはおどろくというよりも、すっかりとナナミに感心してしまったのだ。

「君ってすごいんだね?」

「何がすごいの?」

「ライターも使わないで火を起こせるなんて…」

「そんなこと…火がつくための知恵を知っているだけよ?」

「火がつくための知恵?」

「便利な道具がなくっても、自然の仕組みに合わせれば、生きていく知恵を持てるってものなのよ?」

「…そうかなぁ?」

 ナナミがだまって火起こしの道具をボクにわたして「悟もやってごらんなさい?」と言った。ボクはナナミがやっていたように枯葉を集めて横の棒を上下に動かし、縦の棒をクルクル回し始めた。

「同じリズムでもっと速く回すの!」

 ナナミにそう言われて、ボクは少し力を入れた。すると火起こしの先のところが少しオレンジ色になってきた。ここまでは昨年もできたんだけど…

「火の種が出てきたから、稲わらを入れて息を吹きかけてごらんなさい?」

 言われたようにすると「もっと強く吹きかけて!」とナナミが言うので、息を強く吹きかけた。すると…


…ポッ!…


「おぉ!」

 確かに火がついた。ボクは思わず声に出しておどろいた。ボクがおどろいて火を見ていると、ナナミが近くにあった枯葉を集めてきて枯れ枝を加えて、火を大きくした。こうして二つのたき火ができた。ボクは不思議な気持ちで自分がつけた火とナナミのつけた火を見ていた。雨はまだやみそうになかった。

「雨がやみそうにないから、今夜はここで野宿ね…?」

 ナナミがそんなに困ったような顔もしないで言ったので、ボクがおどろいて聞いた。

「野宿って、ここで寝るのかい? 夜ごはんはどうするの? それに、みんなが心配するよ?」

「…だから、質問禁止って言ったでしょう? 生きていく知恵さえあれば、なんとかなるものよ!」

 ナナミが少しだけこわい顔になって言った。それから、「それとも雨にぬれながら、ヒイオバアチャンちまで一人で歩いて行くつもり?…夜の雨の森を甘く見ちゃいけないわよ?」

 ボクは何も言えず、だまってしまった。確かにこの雨の中、ボクが暗い森の道を歩いて行くのは、危険というよりもムボウだった。でも…でも、ボクがヒイオバアチャンの家に着いていないとなると、ママが心配するに決まっている。それに…

「あのさぁ…」

「なぁに?」

「お腹がすいてきたんだけど…」

「それもそうね…?」

 ナナミはそう言うと、隣に座っていたウサギとリスに話しかけた。

「ねぇ、アナタたち何か食べるもの持ってない?」

 ウサギとリスは何かコソコソと相談してから、持っていた木の実を半分ナナミに差し出した。ナナミは木の実を受け取ると「ありがとね」と二匹にお礼を言った。それからボクに木の実を差し出して「おいしいわよ。食べてごらんなさい」と言った。

「食べられるの、これ?」

 ボクは見たこともない木の実を見ながらナナミに聞いた。

「動物たちは、生まれた時から食べられるものと食べられないものの違いを知っているのよ」

「それも知恵?」

「うん、生きるための知恵ね」

 ボクはちょっと信じられなかったけれど、一番おいしそうな木の実をそのまま口に入れた。

「ウッ…硬い!」

 ボクはそれを吐き出した。口の中にはしぶい苦みが残っていた。

「な、なんで皮をむかないのよ?…アナタは夏みかんもそのまま食べるの?」

 ナナミが上手な手つきで木の実の皮をむいてくれた。ボクは少し不安だったけれど、それを口に入れて食べてみた。

「あっ、おいしい!…まるで栗みたいだね?」

「フクロウの駄菓子屋さんに行ったら、いつでも売っているわよ?」

 ナナミは笑いながら自分も木の実を食べた。それから持っていた木の実をクマやベンリダメガエルたちにも差し出して「どうぞ」とわたしていった。みんなおいしそうにそれを食べていた。するとクマがお腹にかくしていたイチジクの実をみんなにわたしたので、ボクもちょっとドキドキしながら食べたけど、とってもおいしかった。そうやってみんなが自分の持っているものを少しずつ出し合って、まるでパーティーのような気分になった。ボクはママが作ってくれたけど、食べ忘れていたお昼のお弁当のお握りがあったのを思い出してリュックから出してみんなに少しずつわたした。みんなはめずらしそうに見てから食べ始めた。

「これはお米だね?…こんなにおいしい食べものは生まれて初めてだよっ!」

 制服を着たタヌキの運転手が言うと、みんなも「ボクも初めて!」と笑った。ボクはこんなに楽しい夕食が本当に久しぶりなような気がした。ボクは自分が見たいテレビ番組が今夜あったことを思い出したけれど、ベンリダメガエルに気づかれないようにそっと腕時計をリュックの中に入れた。ナナミは動物たちと楽しそうに話していたが、時々ボクの顔を見ていた。

「何?」

「悟もだいぶ森での生活に慣れてきたみたいね?」

「…そうかなぁ?」

「自分では気が付かないだけよ。ゴホウビにこれあげる!」

 ナナミは自分の火起こしをボクに差し出した。

「これって、君の大切な道具なんだろう?」

「いいのよ。また作ればいいんだから…」

 ナナミはそう言ってからたき火が消えないように木の枯枝をくべた。ボクはもらった火起こしを大切にリュックの中に入れた。

「さぁ、そろそろ寝ないといけないわ。…オオカミたちにおそわれないように、火を守っておかないといけないから、悟たちは先に眠っていていいわよ…」

「…オオカミがおそいにくるの?」

「大丈夫よ。オオカミたちは火が怖いから…」

 そう言うとナナミは、たき火を見ながら燃えすぎたり消えたりしないように、火を調整していた。ボクもしばらくの間、たき火を見ていた。

「火って不思議だね?」

「生きるってこと自体が不思議なのよ。人間は便利さのために、大切なものを失ってしまったけどね」

「そうかもしれないね」

「さぁ、悟ももう寝たら?」

「うん…」

 ボクは相変わらずナナミの輝く目を見ていた。ナナミの目がどこかママの目に似ているように思った。ナナミはボクがまだ見ているのに気が付いたようだった。優しく微笑みながら、ささやいた。

「さぁ、明日の朝が早いから…」

 いつもママがベッドでボクにしてくれるように、肩に手を当ててボクを眠らせてくれた。ボクはナナミの温かい手にさそわれるように眠りの世界に入ってしまった…



…火起こし…


 ボクが次に目が覚めたのは、前に座っていたオジイサンに起こされたからだった。

「…ボク? もうすぐ甲府駅だよ?」

「えっ、甲府?」

「よく眠っていたようだったんじゃが…」

「あれっ?…ナナミは?…深い森は?…」

 ボクは辺りをキャロキョロ見まわした。そこは、確かに特急スーパーあずさの中で、ボクのひざにはタブレットが置いてあった。「夢だったの?」ボクは、今までのことが全部夢だったとは信じられなかったけれど、ボクはあわてて降りる準備をした。オバアサンとオジイサンが手伝ってくれたので、ボクはなんとか間に合った。


「甲府~、甲府~ 三分間停車!」


 ボクは無事に甲府駅のホームに立った。ボクはナナミの姿を探していた。するとナナミとよく似た女の子が見たことのある女の人の影に隠れていた。

「…悟君ね?」

「はい!」

「伊丹のマリナオバチャンよ」

「こんにちは!」

「…それから、こっちはココミ。オバチャンの娘で四年生よ。生まれつき心臓が弱くて昨年までずっと入院していたから、悟君とは初めて…かな?」

「ココミ…ちゃん?」

 ボクは柱のかげに隠れていたココミちゃんに「こんにちは!」とあいさつをした。ココミちゃんははずかしそうに笑っていた。「四年生」って、多分ナナミと同じぐらいの学年だと思ったけど、ナナミの方がずっと年上に思えた。

 ボクはマリナオバチャンの車で駅からオバアチャンの家まで行った。さっそくママに電話を入れて無事に着いたことをしらせ、のんびりした。ボクがリュックの中を整理していたら、中からナナミの火起こしが出てきたので、びっくりした。

「あれは…やっぱり、夢じゃなかったんだ!」

 ボクは急に深い森のことを思い出した。制服を着たタヌキの運転手に、杉の木のハンモックで昼寝をしていたクマ、駄菓子屋のフクロウのオバサンに、リスとウサギたち…たき火を見つめるナナミの横顔…

 ナナミの火起こしの匂いをかぐと焦げくさい火の匂いがした。ボクがしばらくの間深い森のことを思っていると、そばに誰か来ているのも気づかなかった。

「…それ、なぁに?」

 不意にココミちゃんが声をかけたので、ボクはびっくりした。

「えっ、あぁこれは火起こしっていうんだ。ライターが無くってもこれで火が起こせるんだよ?」

「そんなので、本当に火がつくの?」

「うん!…やってあげようか?」

「うん!」

 ボクたちは、手をつないで庭へかけだした。ボクが庭の枯葉に火をつけてあげるとココミちゃんは、本当におどろいてすっかり感心したらしく何でも話してくれるようになった。ボクがココミちゃんにここに着く前の「深い森」のことや、ココミちゃんによく似たナナミの話をしても、おどろいたけれど、バカにしたり信じてくれなかったりしなかった。「私もナナミちゃんっていう子に会いたいなぁ…」とうらやましそうにしていた。

 ボクたちはみんなでおいしい夕食を食べてから、花火もやった。マリナオバチャンが大きなスイカを切ってくれて、いっしょにテレビも見て、とっても楽しかった。

「でも…」

 ボクにはあの深い森のことが忘れられなかった。あの時の木の実の味やたき火を見つめるナナミの目の輝きが忘れられなかった。あの後、深い森のボクたちは、どうなったんだろう? ボクはなぜかココミちゃんの顔を見ていると、ナナミのことを思い出すのだった。やがて夜も遅くなってきたのでボクたちは布団をしいて大きなカヤの中で眠ることになった。

「いやだ!…ココミ、悟兄ちゃんのとなりで寝る!」とココミちゃんがごねた。

「変な子ねぇ。ふだんは男の人にぜったいに近づこうともしないのに…」

「ボクがまだ子どもだからじゃないんですか?」

「そんなことないわ。同じクラスの男子も苦手なのよ?」

それでもココミちゃんがごねたので、二人の布団を並べて寝ることになった。オバチャンが部屋の明かりを消して出て行った。すると眠ったふりをしていたココミちゃんの目がぱっちりと開いてボクを見た。

「ねぇ、眠る前にもう少しナナミちゃんの話をしてくれない?」とココミちゃんが言うので、ボクは洞窟の中で野宿することになった話をしてあげた。ココミちゃんの目がキラキラかがやいていたので、ボクは少しとまどった。それからナナミがボクにしてくれたように、ココミちゃんの肩に手を当てて「明日も早いから、もう寝なさい…」と言うと、ココミちゃんはうなずいて目を閉じた。しばらくすると軽い寝息が聞こえてきた。ボクも明日はカブトムシをつかまえようと思っていたので、目を閉じてそのまま眠りの世界に入っていった。



…早い朝…


「起きなさ~いっ!」

 大きな声が洞窟の中でひびいた。ボクはびっくりして起き上がった。


ゴツッ!


「あっ、痛っ!」

 起き上ったしゅんかんにボクは頭を洞窟の天井に思い切りぶつけてしまったのだ。ボクは痛みのせいで、ヘナヘナと座りこんでしまった。

「何やってるの?」

 ナナミが笑った。

「…き、君はナナミ? あれぇ? ココミちゃんは?」

「何を寝とぼけているの。夜が明けてしまうまえに起きないと朝メシぬきよ!」

 不思議なことにボクはまたナナミの世界にきたらしいんだ。周囲も昨夜動物たちと野宿したあの洞窟にもどっていた。ナナミはそう言うと急いで洞窟の外に出ていた。辺りはまだうす暗かった。ボクがのそのそと洞窟の外に出て行くとナナミはまだ薄暗い森の辺りを見回してクンクンと何か匂いをかいでいた。

「何をやってるの?」

「質問禁止!」

「まいったなぁ」

「こっちよ!」

 ナナミは突然ある方向へ向かって歩き出した。「どこへ行くの?」と聞きたかったけれど、どうせ「質問禁止!」と言われそうだったので、ボクはナナミの後についていった。

 しばらくすると水が流れる音がした。近づくとそこは川だった。昨夜の雨のせいで、流れが少し急になっていた。ナナミは足もとの岩に気をつけながら流れの中におどるように入っていった。

「何をやっているの?」

「朝メシを捕っているのよ?」

「朝メシ?」

「シッ!」ナナミが手でボクを制した。…次のしゅんかん、ナナミは右手を川の中につき入れて、何かをつかんでいた。それを川岸で見ていたボクの方へ放り投げた。それは小さい魚だった。川岸に投げられた魚はおどるように飛びはねていた。ボクは川で泳いでいる魚を手づかみでつかまえることができるナナミに感心した。そうしてナナミは三十分もしない間に魚を十匹ほど岸へ放り投げてから、川岸にもどってきた。

「火起こしでたき火を作ってくれる?」

「何を始めるの?」

「…だから、朝メシよ!」

「えっ?…もしかして、この魚を食べるのかい?」

「いやなら食べなくてもいいのよ…?」

「いやじゃないけど、ちょっとかわいそうに思って…」

 すると、ナナミが急にこわい声でどなった。

「甘えたこと言わないで! アナタは牛肉のステーキを食べる時に牧場の牛のことを考えながら食べているの? …いい? 私たち人間は命を食べないと生きていけないのよ。昨夜の木の実だって、本当は大きな木に育つために生まれてきたのよ!…アナタは給食とか、ご飯を食べる前になんて言うの?」

「いただきます…って」

「でしょう?…それはつまり『アナタの命をいただきます』っていうことなのよ?」

「あぁ…」

 ボクは言葉が出てこなかった。今まで好き嫌いが多くて、給食やママが作ってくれたご飯を平気で残していたことを反省した。「そうなんだ。ボクたちは、多くの命を食べなきゃ生きていけないのに、今までそれらの命をどれだけムダにしてきたんだろう?」ボクは頭の中でそんなことを考えながらだまって火起こしでたき火の準備をした。ボクはココミちゃんの前でも火を起こしてあげたので、コツが分かってきたようで、数分でたき火を起こすことができた。ナナミは近くの木の枝を集めてきて魚を串刺しにしていった。それから、魚のクシザシをたき火の周りにつきさしていった。ナナミは何も言わなかった。きっとおこっているだろうとボクは思った。するとたき火の魚の焼け具合を見ながらこんな話をしてくれた。

「悟は食物連鎖って言葉を知ってる?」

「ショクモツレンサ?」

「例えば…海ね。小さい魚は何を食べて生きているの?」

「…ミジンコやプランクトンかな?」

「そう。…中ぐらいの魚が、小さい魚を食べて、中ぐらいの魚を大きな魚が食べる」

「うん」

「もしもよ、仮に海の中から大きな魚がいなくなったらどうなると思う?」

「…どうなるの?」

「自分たちの天敵の大きな魚がいなくなると、中ぐらいの魚がどんどん増えてしまう。そうなると小さな魚がいなくなってしまい、それまで小さい魚が食べていたプランクトンが異常に発生してアカシオになってしまう。…結局海は死んでしまうのよ?」

「そうなんだ…」

「だからね。大きな魚も中ぐらいの魚も小さな魚もプランクトンもみんな命の輪の中にいるのよ。食べて食べられて…」

「…つまり、バランスが必要ってこと?」

「うん。果物は、自分の仲間を増やすためにわざと実に種をつけて、命をけずって動物に食べられるのを誘っているのよ?」

「なるほど…それが食物連鎖なんだね?」

「だから、食べることは生きるために必要なの。悪いことじゃないわ。悪いのは、大切な食べ物をソマツにすることなのよ?」

「うん。分かった。これからはもう好ききらいなんてしないよ」

「よし!…そろそろアマゴが焼けてきたみたいよ?」

「…アマゴ?」

「あら、アナタは自分が今からいただく命の名前も知らないの?」

「あぁ魚の名前だったの。ごめんなさいアマゴさん」

「食べてごらんなさい?」

 ボクは正直言って小さな骨が多い小魚はあまり好きじゃなかった。でも、ナナミが焼いてくれたアマゴは本当においしかった。

「おいしい! こんなにおいしい魚は生まれて初めてだよ!」

「新鮮だからね」

 それからは二人ともモクモクと食べてとったアマゴは一匹残らず平らげてしまった。

「あぁ、おいしかった。ごちそうさまでした!」

「ごちそうさまでした」

 ボクは急にあることを思い出してナナミに聞いてみた。

「あのさ。ナナミは、どうしてここに川があることが分かったの?」

「さっき、水の匂いをかいでいたでしょう?」

 ここへ来る前にナナミが辺りをクンクンかいでいるのを思い出した。

「朝日がのぼると森の草木が目を覚ましていっせいに匂いを放つから、そうなる前に見つけておかなきゃダメなのよ?」

「だから、夜明け前に『起きろっ!』って言ったんだね?」


 ボクたち自分たちで作った朝ごはんの後ボクたち二人は川に入って遊んだ。昨夜の雨のせいで流れが少し速くなっていたけれど、二人で水のかけあいをしたり、岩の上をとび移ったりして遊んでいた。ボクはとても楽しかった。多分ナナミも…

…でもボクは跳べると思っていた岩の目測をあやまって水の中に落ちてしまった。流れが速くて思ったより深かったので、ボクはそのまま川の流れにのまれて流されていってしまったのだった。  




…「私が走ってる!」…


暗い暗~い闇の中で、ボクは必死にもがいていた。誰かの声がかすかに遠くボクを呼んでいた。

「悟~!」

「悟く~ん!」


 ボクは苦しみながら目を覚ました。「ここは…?」ボクは布団の上にいた。

「悟兄ちゃん、大丈夫?」とココミちゃんがボクの顔をのぞきこんできた。ボクは汗でびっしょりぬれていたけれど、「大丈夫だよ?」と微笑んでココミちゃんの手を握った。それから、ボクは考えた。

 どうやらボクはココミちゃんがいる今の世界とナナミがいる「深い森」の世界という二つの世界を行ったり来たりしているらしいんだ。つまり「パラレルワールド?」っていうことかな? 今の世界のボクはいいとして…「深い森」の世界でのボクは…

「確か川でアマゴを食べて…ナナミと川で遊んでいて…」


「大変だぁ! ボクが死んじゃう!」

 ボクは突然起き上がった。ボクはおどろいてボクを見ているココミちゃんを無視して服を着替えて、部屋を出て行こうとした。

「お兄ちゃん待って! どこへ行くの?」

「深い森!」

「深い森って、…ナナミちゃんのところ?」

「そうだよ!」

「私も行く! 連れてって!」

「えっ?」

 ボクはいっしゅん動きを止めた。ココミちゃんの顔を見ると、ボクの顔を見てさっしたのか、しんけんな目をしていた。ボクはココミちゃんに視線を合わせるように、少ししゃがんでマジメな顔でゆっくり話した。

「いっしょに行ってもいいけど、とっても悲しい気持ちになるかもしれないんだよ。それでもいいの?」

「うん!」

「とちゅうで『家に帰りたい!』ってごねても、もしかしたら帰ってこられないかもしれないんだよ。それでもいいの?」

「うん!」

「わがままばかり言ってたら置いて先に行っちゃうよ。それでもいいの?」

「うん!」

 ココミちゃんが目に涙をためながら、それでもボクの顔を見て、しんけんにうなずいたので、ボクは手をつないだ。二人とも」お互いにうなずいてから、自転車置き場に走った。

「後ろに乗って!」

 ココミちゃんが後ろに乗ったのを確認して出かけようとしたら、マリナオバチャンが昨夜のうちにボクがお願いしていた二人分のお握りの弁当を持って出てきた。

「どこかへ行くなら、お弁当を持って行きなさい。それから午後の二時までには帰ってきてね?」

「は~い!」

 ボクはてきとうに返事して弁当を前カゴにのせると、ペダルをこぎだした。それから全速力で走りだした。走りながら、どこへ行けばいいのか考えた。とりあえず、田舎を思わせるような景色の道を選んだ。途中で消防署のオジサンが大きなあくびをしていたが、無視をして先を急いだ。やがて田んぼや畑が続くようになって、「深い森」がありそうな大きな山が近くに見えるようになってきた。

 ココミちゃんは、後ろの座席で落とされないようにボクにしがみついていた。ボクも必死だったけれど、ココミちゃんも必死だったんだろうね。やがて、ココミちゃんがおかしなことをボクに言った。

「…ねぇ、お兄ちゃん?」

「なんだい?」

「私が走っているよ?」

「…えっ?」

ボクは急ブレーキをかけて止まった。するとココミちゃんが田んぼの向こうのあぜ道を指さして「ほら、私が走ってる…」とボクに言った。ボクは背中がゾクッとした。

「ナナミだっ!」 

 ボクはいっしゅん、今自分がどっちの世界にいるのか分からなくなってしまった。あぜ道を走っているのは、確かにナナミだったけれど、ボクの背中にしがみついているのはココミちゃんだった。一体何がどうなっているのか、よく分からなかったけれど、ボクは力の限りに大きな声を出した。

「ナナミ~ッ!」

 ナナミがボクの声に気づいて立ち止まってボクの姿を見たしゅんかんにこっちへ向かって走ってきた。怒ったような泣いているような目だった。ナナミがモウレツにダッシュして、ボクの前まで来た。息がかなり苦しそうだった。きっと長い間走っていたんだと思う。ボクは水筒から冷えた麦茶をコップに入れてあげた。ナナミは、それを一気に飲み干し、ボクに向かって叫んだ。

「さ、悟が死んじゃう!…アマゴが川でおぼれて…息がなくて…朝メシの心臓が止まってしまって…」


…パシッ!…


 ボクはナナミのほっぺたをたたいた。ナナミは、いっしゅんだまって、「ワ~ッ!」と泣き出した。ボクはナナミの両肩を持って言った。

「落ち着くんだ!…君がしっかりしなきゃダメじゃないか!…とにかく『そっちの世界のボク』が死にそうなのはよく分かったから、何をしに『こっちの世界』に来たんだい?」

「私、どうしたらいいか分からなくて『こっち』に来ちゃったの!…ねぇ、私はどうしたらいいの?」

「ボクの様子を教えてくれる?…意識はあるの?」

「ない」

「息はしてるの?」

「してない」

「ミャクは?」

「ミャク?」

「心臓はドキドキしている?」

「してない…」

 ナナミはだんだん声が小さくなってきた。

「それで…ボクは、今どうしてるの?」

「クマさんが抱っこして温めている」

「…まずいなぁ」

「死んじゃうの?」

「救急車を呼ばなきゃいけないけど…」

「救急車?」

「とにかく、少しでも早く医者にみてもらわないと…時間が…」

「それなら大丈夫よ?」

「どうして?」

「時間を止めてもらっているから…」

「時間を…止める?」

「うん。深い森だけ時間を止めてもらったの」

「どれくらい?」

「向こうの時間で一日」

「えっ、一日も?」

「うん。でもこっちの世界では一時間しかないわ!」

 ボクは一生けんめいに考えた。…確かどこかで、こんなことがあった。…あれは、確か学校で防災訓練の…時だっ!

「よし、行こう!」

「どこへ?」

「消防署!」

「消防署?…火事じゃないのに、何しに行くの?」

「ボクの助け方を教えてもらうんだ!」

「なんで消防署なの?」

「なんでもいいから、ボクを信じて!」

 ボクは黙って二人のやり取りを聞いていたココミちゃんを後ろに乗せて走り出した。ナナミはボクの自転車と同じぐらいの速さで走った。さっき消防署の前を通ったことをボクは思い出した。多分、あそこなら、救急隊員もいるはずだ。タイムリミットは一時間…ナナミが止めてもらってから何分かムダにしているはずだから、落ち着いているわけにはいかなかった。

 ボクたちが消防車の並んでいる消防署に着くと、さっきのオジサンが出てきた。

「すみません。聞きたいことがあるんですが…」

「なんじゃね?」

「川でおぼれてミャクが止まって、呼吸もしてない場合、どうすればいいんですか?」

「すぐに救急車を呼ぶんじゃな」

「救急車が呼べない場合は?」

「心肺蘇生をすぐにやるんじゃな」

「シンパイソセイ?」

「そうじゃ。止まった心臓を動かして、呼吸がもどるようにさせる方法じゃよ」 

「やりかたを教えてください!」

「今か?」

「はい。今すぐに!」

「分かったから、ちょっと待っておれ」

「急いでいるんです!」

 オジサンは「分かった、分かった…」と言いながら奥から人間の人形を出してきた。それからボクたちに心肺蘇生のやり方を教えてくれた。学校の防災訓練で見たことがあったけれど、今はしんけんにやり方を教えてもらった。心臓マッサージや人工呼吸のやり方も回数も、全部見逃すまいと思っていた。それはナナミもココミちゃんも同じだった。三人とも今から自分が死にかけた「ボク」を助ける意気込みでオジサンのやり方をマスターしようとしていた。だからオジサンが、「あっ、忘れておった。呼吸がなければ、気道確保キドウカクホがまず先じゃったよ」と言った時、三人ともガクッときた。一通りやり方を教えてもらってから、ボクたちはオジサンにお礼を言って急いで自転車の所にもどった。

「さぁ、行こう!」

 ボクが言うとナナミが広げた手でボクを制して言った。

「ここからは、私の仕事なの」

「どうして?」

「違う世界の自分自身に会うことはできないの…」

「じゃぁ、向こうの世界でボクが死んでしまったらどうなるの?」

「こっちのアナタも…いいえ。大丈夫。私が必ず生き返してみせるから、私を信じて!」

 ナナミの頬に涙が一筋流れた。ボクが黙ってうなずくとナナミは微笑むような、泣くような顔をしてから元来た道を走って行った。


「向こうのボクをよろしくな…?」

 ボクはココミちゃんの手を握りながら、心の中でそう言ってナナミを見送った。

「お兄ちゃん、…死んじゃうの?」

 ココミちゃんが心配そうにボクを見て言った。それから少し小さな声で「ココミも死んじゃうのかなぁ?」とつぶやいた。

「なんで?…なんでココミちゃんが死んじゃうの?」

「ココミ…ずうっと病院にいたでしょう?…もしかしたら、もう死ぬのかなって思って…」

「バカだなぁ…良くなったから退院できたんだろう?」

「甲府へ来たのも、これが最後だからかなぁって…」

「ココミちゃん、あのね?」

 ボクは隣で並んでいたココミちゃんに顔を向けて、できるだけゆっくりと話し始めた。

「誰にだって『人生』っていう生きる時間は決められているんだ。誰にだって、絶対ということは言えないよ。急に車がやってきて、ぶつかって交通事故なんてこともあるから、一秒先だって分からないんだ。…ボクだって、一時間後には死んでいるのかもしれない」

「うん…」

「だからね。自分で生きている今を大切に生きなきゃぁいけないんだよ?」

「うん…」

「自分の人生がいつまでか、なんて考えちゃいけないんだよ?」

「うん…でもココミには明日が見えないの」

「誰だって自分の未来なんて分からないものさ」

 ボクは地面に「希望」という漢字を書いた。それからココミちゃんに「読める?」と聞いた。ココミちゃんが首を振ったので、ボクはていねいに話し始めた。

「この漢字を知らなくても『キボウ』という言葉は知っているよね?」

「うん」

「意味は分かる?」

「何かを願うことでしょう?」

「まだ来ない未来…これから生きていく自分が少しでも今より良くなっていくことを信じて願うこと…それが希望だよ?」

「信じて願うの?」

「そうさ。そのためには生きている今を信じなきゃダメだろう?」

「今の私を信じるの?」

「そうだよ。…ココミちゃんは、お兄ちゃんが好きかい?」

「うん。悟兄ちゃん大好き!」

「ママは好きかい?」

「うん」

「それじゃぁ、ママやお兄ちゃんのためにも、生きる希望を捨てちゃいけないよ?」

「うん!…分かった」

 ボクは学校で担任の先生が確か国語か道徳の時間に話していたことを思い出しながら、ココミちゃんに話した。その時はぼんやりと聞いていたんだけれど、なんとなく先生が話してくれた「希望」という言葉が頭の中をかけめぐったんだ。

 ココミちゃんがやっと笑顔になったので、ボクたちは家の方に向かって歩き出した。ボクは不意にマリナオバサンが作ってくれたお弁当を思い出して自転車を小川のそばにとめてから、田んぼのあぜ道にココミちゃんと二人でならんで座った。それから二人でお握りのお弁当を食べた。ボクはナナミから教えてもらった「命をいただきます」の話をしてあげた。ココミちゃんもやっぱり好ききらいが多かったらしく「ココミもこれからは、何でも食べなきゃダメね?」と笑った。

 そろそろ帰る時間になりそうだったので、ボクはココミちゃんに「帰ろうか…」と言い、ココミちゃんを自転車の後ろに乗せてゆっくりと走り出した。ナナミと別れてから、もう一時間以上はたっているから、きっと「向こうの世界」のボクも大丈夫だったんだろうなとボクは思った。そんなことを考えながら自転車を走らせていたら、いつの間にかヒイバアチャンの家に着いた。ココミちゃんのお昼寝の時間だったので、ココミちゃんを寝かしつけていると、いつの間にかボクまでそのまま眠ってしまった。



…流れ星…


ボクは、夢の中で誰かがボクを何度も呼んでいるような気がした。同時に身体中に温かいものが入ってくるような気がした。ボクはそれがうれしかったけれど、息ができないのが苦しくなって、思わずセキを二、三回してから目を覚ました。

「悟?…悟君?…気が付いたの?」

「…ここは?」

 ナナミがボクの顔をのぞきこんだ。

「悟、生き返ったのね?…良かった!」

 ナナミはボクの胸で泣きだした。そして何度もボクにあやまった。ボクはナナミに抱きしめられながら、ココミちゃんにしてあげるように、軽く背中をトントンしてあげた。

「ナナミ…助けてくれて、ありがとう…」

「怒ってない?」

「怒るわけないだろう。君は命の恩人だもの…」

「私は、ただ必死で…悟に生き返ってもらうために…」

「頑張ってくれたんだよね。心臓マッサージも人工呼吸も…」

 ボクがそう言うと、ナナミは急にボクから離れて口に手を当てて顔を真っ赤にしてはずかしそうにうつむいた。同時にボクも多分真っ赤になっていたと思う。

「消防署のオジサンが、あんなやり方を教えたから…」

「ごめんね…」

「…とにかく悟が生き返ったんだからよかったわ!」

 ナナミはそう言うと、微笑みがいっしゅん消えてさみしそうな目をした。

「どうかしたの?」

「私、今夜帰らないといけないの…」

「どこへ?」

「私たちの国へ…」

「どうして?」

「あのね…?」

 ナナミは少し考えてから、ゆっくりと説明してくれた。ナナミはボクたちのずっと先祖で、本当なら「この世」に帰るはずのお盆に、「あの世」と「この世」の中間にある、この「深い森」の世界に来て、ボクと会ったらしいんだ。でもボクが川でおぼれたりしたものだから、いろんなおきてを破ったんだって。「深い森」の世界にさけ目を作って「この世」に来てしまったり、時間を止めてしまったり…

「多分、お釈迦様おしゃかさまにバツを受けると思うわ…」

「ナナミは、ボクのご先祖様ということは、つまり死んでるの?」

「う~ん、死ぬっていうのとは少し違うかな?」

「どう違うの?」

「確かに私の肉体は滅びたけれど、私は悟の守護霊しゅごれいとして悟の心の中で生きているのよ?」

「シュゴレイ…?」

「悟を守り、正しい道を選べるように導いていくための霊なの」

「…よく分からないよ」

「分からなくてもいいのよ。とにかく悟が私を覚えてくれているうちは、私は悟の心の中で生きていられるのよ?」

「ボクが君を忘れるわけないだろう?」

「さぁ、どうだか?」

 そういうとナナミはボクから離れて立ち上がった。

「とにかく、二つも掟を破ってしまったから、しばらくの間『あの世』に帰ってくるわね?」

「もう会えないの?」

「何を言ってるの。今までもずっと一緒だったし、これから先も一緒よ。…多分アナタのヒイバアサンの家になら、私の写真が残っているかもしれないわよ?」

それから、ナナミはボクにいろいろなことを教えてくれた。太陽の影の変わり方で方位を知る方法や、もやい結びや巻き結び、いろんな紐の結び方なんかを熱心に教えてくれた。それらの一つひとつが生きる知恵なんだろうなと思った。ナナミが教えてくれる一つひとつをボクはしんけんな気持ちで受け止めた。小さな知恵の一つずつがボクに生きる意味を伝えようとしているんだと思った。

 そうやって過ごしているうちに日が落ちてあたりが夕焼け色にそまり始めた。ナナミの横顔も赤くそまっていた。ナナミはまだまだボクに教えたいことがあるみたいだったけれど、立ち上がると言った。

「さぁ、そろそろ日も落ちてきたから、私行くわね?」

「もう帰っちゃうの?」

「大丈夫よ。アナタが困った時にはすぐに助けにくるから…」

「約束だよ?」

「うん」

「どうやって帰るの?」

「流れ星に乗って…」

「流れ星?」

 ボクが驚いてナナミを見ると、ナナミは夕暮れの空に向かって大きく両手を広げた。すると少しずつ暗くなり始めた空からいくつかの流れ星が見えて、そのうちの一つがボクたちの方へ向かって飛んできて止まった。ナナミは「じゃぁ、またね」と微笑みそれにまたがって、あっという間に夜空へ飛んでいった。

「まだ、ちゃんとサヨナラも言ってないのに…」

 ボクはくちびるをかんだ。するといつの間に来たのか深い森で出会った動物たちもナナミを見送っていた。ハンモックのクマ、ベンリダメガエル、制服を着たタヌキの運転手…みんなで夜空を見上げながら、いつまでもナナミが消えた方を見ていた。




…古いアルバム…


「お兄ちゃん?」

 ココミちゃんの声でボクは目を覚ました。どうやら、昼寝をしていたココミちゃんの方が先に目覚めたらしい。ボクは照れて「もう起きてたの?」と微笑んだ。

「ナナミちゃんの世界のお兄ちゃんは大丈夫だったの?」

「あぁ、大丈夫だったよ?」

「良かった!」

 すると部屋にマリナオバチャンが入ってきた。

「悟君、…今いいかな?」

「なんですか?」

「私たち明日帰ろうかなと思っているの…」

「伊丹へ?」

「急なんだけど、三日後にココミの診察があるのよね…?」

「あぁ…」

 するとココミちゃんが、泣きそうな声で話しに割り込んできた。

「いやだ! ココミ、悟兄ちゃんと一緒にいる~!」

「ココミ! そんなわがままを言わないのよ?」

「だってぇ!」

「アナタの身体のためなのよ?」

「病院なんて、もういやっ!」

「ココミ…」

 ボクはココミちゃんに向かってゆっくりと話しかけた。

「ココミちゃん? ボクたちは明日、離れていくけど、『サヨナラ』をするんじゃないんだよ?」

「どういうこと?」

「ボクは、さっきナナミと別れてきたけど、ナナミは最後まで『サヨナラ』は言わなかったよ?」

「なんて言ったの?」

「ナナミは流れ星に乗って行っちゃった。『じゃぁ、またね』って…」

「…じゃぁ、またね?」

「うん。別れの言葉にしたくなかったんだろうね?」

「じゃぁ、悟兄ちゃんもココミとサヨナラしないの?」

「うん。ココミちゃんが困った時にはすぐに行くよ」

「本当に?」

「あぁ、約束するよ」

「分かった。ココミ、もうわがまま言わない!」

 ボクがマリナオバチャンの顔を見たら、安心したように微笑んでいた。それからボクたちは少し早目のお盆の送り火の準備をした。近くの川で流す灯篭流し(とうろうながし)の小さな小舟にナスやキュウリなどを乗せた。

「夜になったら一緒に流しに行きましょうね?」

 ボクはヒイバアチャンに古いアルバムを出してもらって昔の写真を見てみた。元々ボクのご先祖様は、東京に住んでいた侍の家庭だったらしい。ボクが古い写真のページをめくっていて何枚かの写真を見ていて、ある一枚の写真に目が釘づけになった。赤ちゃんを抱いた少女の写真だった。

「オバアチャン、この写真は誰?」

「なんじゃ?」

「ほら、この写真…」

 ボクが指差すとヒイバアチャンは、懐かしそうな目をした。

「この赤ちゃんが私で、私を抱いてくれているのが私の十歳以上も離れた姉の七海姉さんじゃよ」

「えっ、ナナミ?」

「あぁ、七つの海と書いて七海じゃ。関東大震災の時に私を守るために亡くなったそうじゃが…」

「どんな人だったの?」

「さぁ…両親の話では、とても思いやりのある優しい女の子じゃったらしいがのぅ…」

 確かにナナミは、ボクのご先祖様だったんだ。はずかしそうに写っているナナミの顔をじっと見ていると、隣で見ていたココミちゃんがびっくりしたように言った。

「これ、ナナミちゃんでしょう?」

「おや、ココミちゃんは七海姉さんを知っとるのかい?」

「うん。私にそっくりなんでしょう?」

「さぁて、私はその写真しか知らんがのぅ…」

「…そ、そりゃ、ご先祖様だから似ていてもおかしくないよ。さぁ、ココミちゃん。夜の送り火の後にする花火を買いに行かないか?」


 ボクは、ココミちゃんがこれ以上ナナミのことを言うと説明がつかなくなるので、ココミちゃんを誘って外へ出た。マリナオバチャンが「打ち上げはダメよ!」と言った。「は~い」とボクはココミちゃんを自転車の後ろに乗せて近所の駄菓子屋に向かった。

「あのね、ココミちゃん?」

「何?」

「ナナミのことは、二人だけの秘密にしないか?」

「なんで?」

「大人には多分、分からない世界だから…」

「分かった!」

「ありがとう」

「お兄ちゃんとココミの二人だけの秘密ね?」

「うん!」

 ボクたちは駄菓子屋で手持ちの花火やねずみ花火などを買ってから、並んで歩いて帰った。するとココミちゃんが静かに話した。

「伊丹に帰っても手紙書くね?」

「うん。スマホのメールじゃ、味気ないものね?」

「ココミのこと…忘れないでね…?」

「大丈夫さ。来年また会えるから…」

「来年かぁ…」

「ココミちゃん?」

「…うん。分かってる。ココミは希望を捨てないわ!」

「よし。じゃぁ約束だよ?」

「何?」

「明日は泣いてもいいけど、伊丹に帰ったら泣かないでね?」

「うん!」

 二人で指切りした。そうやって、ボクとココミちゃんはヒイバアチャンの家に戻った。少し早目の夕食を食べてから、お盆の送り火にする灯篭流しの飾り舟を持って近くの川までみんなで行った。みんな浴衣に着替えていて、川原の風が不思議と涼しく感じた。マリナオバチャンは笑顔で送り火の意味を教えてくれた。

「今までに亡くなったご先祖様の霊…たましいが、迷わず来年も帰って来てくださるように、火をともしてお送りするのよ?」

「しっかりお祈りしなきゃいけないの?」

「そうよ。ココミが元気になれますように…って、しっかりお祈りしなきゃダメよね?」

「うん!…悟兄ちゃんに来年も会えますように…って、おいのりするわ!」

「それは…多分、意味が違うと思うけど…」

 ボクが照れてそう言うと、みんなは思わず笑い出した。ココミちゃんは意味が分かっていないようだった。説明しようかと思ったけれど、ボクにはうまい言い方が分からなかった。ボクたちは近くの川まで来て、飾った舟に火をつけて流し、手を合わせた。川原には一日早い送り火をしている人は誰もいなかった。ボクは手を合わせながらナナミのことを思った。

「きっと会えるよね?」

「うん?」

「悟兄ちゃんにも、ナナミちゃんにも…」

「大丈夫だよ…」

 ボクはココミちゃんの手をギュッと握った。その手が少し冷たかったのが気になったんだけれど、ボクもこの夏休みの不思議な体験をきっと忘れないだろうなと思った。見上げるといくつかの流れ星が見えた。きっとナナミの流れ星もあるんだろうなと思った。

 送り火の後川原で花火をした。パチパチと音を立てて綺麗に光る花火や線香花火の後で、ボクがねずみ花火に火をつけると、足元でねずみ花火がおどるようにはね回った。ココミちゃんやマリナオバチャンまでもが、キャーキャーとはしゃいでいるのが楽しかった。ボクはわざとイタズラっぽくねずみ花火に火をつけた。


 次の日の朝、マリナオバチャンとココミちゃんは車で伊丹へ帰って行った。ココミちゃんは、少しぐずっていたけれど、ボクには最後まで涙を見せなかった。ココミちゃんがいなくなると急にヒイバアチャンの家は静かになった。ボクはタブレットで夏休みの宿題の自由研究などをやって過ごした。

「ナナミ…ココミちゃん…」

 ボクは時々思い出したように呟いた。「深い森」での出来事がずうっと昔のことのように思えた。ほんの少し前の話なのに…


 四、五日たってから、朝ボクはスマホの陽気な着信音で目が覚めた。

「もしもし…」

「悟君?」

 相手はマリナオバチャンだった。少し声がふるえていた。

「どうかしたんですか? こんなに朝早く…」

「ココミが、ココミがね…?」

 オバチャンの声がだんだん小さくなっていった。ボクはいっしゅん何かいやな予感がしたのだった。その不吉な予感は、多分ココミちゃんの身に何か大変なことが起こったのだという気がしたのだった。



…死神…


「ココミが死んじゃいそうなの…?」

「えっ?」

 ボクはいっしゅん、マリナオバチャンが何を言っているのか分からなかった。自分がまだ夢の中にいるのかなと思った。でも、マリナオバチャンは、ゆっくりとボクを現実にもどしていった。


「悟君、こんな朝早くにごめんね。…実はココミが伊丹に帰ってから病院の診察を受けた後に急に苦しみ始めてから、熱が下がらなくなっちゃったの…」

「それで?」

「もともとの心臓の持病は治ったはずなのに、原因不明の高熱だから、対処のしようがないって、お医者さんが言うの…」

「…それで、ココミちゃんは?」

「貴方に…悟兄ちゃんに会いたいって…」

 ボクは何をどうすればいいのか分からなくなった。でも、自分で勝手に伊丹まで行くのはムリだ。それに伊丹に行くまでのお金も持っていない。「ボクに何ができるんだろう?」…するとオバチャンが言った。

「…あのね。ムリなお願いなのは分かっているんだけど、悟君こっちに来られないかしら?」

「ボクはいいけど、ママが…」

「お姉ちゃんには、私から話しておくから…」

「分かりました。ボクならいつでも行けます!」

「ありがとう。じゃぁまた…」

 ボクは、しばらくの間スマホをながめていたけど、ハッとして大急ぎでタブレットなどを片付け始めた。ヒイバアチャンが、「何事じゃ?」と聞いてきたけど、「うん。ちょっとね?」とごまかした。ごまかした方がなんとなくいいような気がしたからだ。ボクはテキパキと出発の準備をしたんだ。すると東京のママから電話が入った。

「悟、アナタ一度東京に戻ってらっしゃい」

「…えっ、伊丹に行くんじゃないの?」

「マリナから、事情は聞いたわ。…でも、貴方お金も持っていないでしょう? それに電車を乗り換えて一人で名古屋から新幹線に乗って伊丹の病院までことができるの?」

「そ、それは…」

「とにかく午前中の特急で一度東京にもどってらっしゃい。そこから、先のことはママが準備しておくから…」

「分かったよ」

「それから、オバアチャンには秘密よ?…心配かけたくないから」

「うん。さっきもてきとうにごまかしておいたよ」

「急に東京へ帰る用事ができたって…ごまかしておいてね?」

「うん。そうするよ」

「じゃぁ、新宿駅で待ち合わせね?」

「うん」

 ママは急いでいるみたいだったけれど、さすがにマリナオバチャンの姉だけあって、最後まで落ち着いていた。ボクはちょっとだけホッとして電話を切った。それから急いで時刻表を調べてバスと電車の時間を確かめた。ヒイバアチャンには、急な用事で東京へ帰ることを伝えてからリュックを背負って甲府の家を出た。

 バス停で、バスを待っている間に周囲の風景を見ていると、不意に病院で苦しんでいるココミちゃんの姿が思い浮かんできた。ボクは胸が苦しくなってきた。必死にボクの名を呼んでいるココミちゃん… 「がんばれっ!」心の中でボクは叫び、ナナミに祈るような気持ちで彼女の笑顔を思い浮かべた。ナナミの笑顔はやがてココミちゃんの顔に重なって頭の中でごちゃごちゃになってしまった。やがてバスが来て、甲府駅に向かったけれど、特急スーパーあずさの中で東京に着くまで頭の中のごちゃごちゃは消えなかった。東京までの景色がなぜだかなつかしいようなさみしいような気がしてきた。


 新宿駅のホームで待ち合わせをしていたママの顔を見つけた時に、なぜだか急に涙があふれてきたんだ。

「ママ…!」

「悟、アナタがしっかりしなきゃダメなのよ?」

「うん。分かっているんだけど…」

「よし、分かった! 今だけママの胸で泣いてもいいよ?」

 ボクはママの胸で泣いた。はずかしさもあったけど、人の目なんか気にしなかった。ママはしばらくの間ボクをだいていてくれていたけど、やがてボクの両肩に手を当ててから話しかけた。

「悟、アナタはもうお兄ちゃんなんだから、ココミちゃんのことを頼んだわよ。…一人でも大丈夫よね?」

「うん。大丈夫」

「よし! じゃぁ、今から伊丹の病院までの行き方を説明するから、メモしておきなさい」

 ボクはスマホのアプリの中からメモ機能を出して、ママが言ったことを一つひとつこまかくメモしていった。おかげでボクはまよわないで伊丹の市立病院までいくことができた。初めて一人で乗った新幹線のぞみも、JR伊丹駅もあんまり感動なく、自然に流れていくように過ぎていった。こまった時のためにママが銀行のキャッシュカードをかしてくれたけど、結局カードを使う前にボクは伊丹の市立病院に着いてしまった。後はマリナオバチャンに電話すればいいだけだった。オバチャンはすぐに出てくれた。

「…悟君? 今どこ?」

「伊丹市立病院前のバス停です」

「えっ、もう来てくれたの? …ありがとう。すぐ下に行くからバス停で待っていてね?」

「はい。分かりました」

 三分ぐらいでマリナオバチャンがやってきた。かなり疲れたような顔をしていたけど、ボクの顔を見て安心したように微笑んだ。

「遠いところを本当にゴメンね?」

「ココミちゃんは?」

「今も眠っているわ。…とりあえず病室へ来てくれる?」

「はい」

 ボクはリュックを背負ってオバチャンといっしょに市立病院の中に入って行った。六階建ての三階が小児病棟だった。ボクはエレベーターの中でココミちゃんの様子を聞いたが、熱を下げるどんな薬もきかないので、お医者さんもお手上げらしい。三階エレベーターのとびらが開いた時にいっしゅん誰かが走り去ったような気がしたんだけれど、多分気のせいなんだろうなと思った。

「悟君、本当にごめんなさいね?」

「オバサン、心配しないでください」

 三階の廊下には誰もいなくて静かだった。早めの夕ご飯の後だから、多分みんな自分の部屋でテレビでも見ているんだろうなと思った。入院なんてたいていたいくつなものらしい。ボクは入院をしたことがないから、学校にも塾にも行かなくていいなんて楽しいんだろうなぁ、と思っていたけど、「何もしなくて楽だ」と思うのは最初の三日ぐらいで、後は「何もできない不自由さ」というものにうんざりするらしい。

 長い静かな廊下の三〇七号室がココミちゃんの個室だった。北向きの病室にはカーテン越しに始まりかけた夜の伊丹市の町並みが見えていたけれど、車の音も飛行機の音も聞こえなくて暑さも感じない小さな部屋にベッドとテレビが置かれている物入れがあるだけだった。ココミちゃんは眠っていて、時々うめくようにボクの名を呼んでいた。

「ココミ?…悟兄ちゃんが来てくれたわよ?」

「ココミ…ちゃん?」

 ボクが声をかけてもココミちゃんは目を開けようとはしなかった。マリナオバチャンは目に涙をためて「ずっとこんな感じなの…」とつぶやくように言った。ボクは何とかしてあげたかったけれど、何もできることがなかったので、ベッドのそばに行き点滴でつながれたココミちゃんの手をにぎって、もう一度「ココミちゃん!」と声をかけた。するとココミちゃんが手をにぎり返して目を閉じたまま「お兄ちゃんなの?」とささやいてくれた。

「そうだよ。お兄ちゃんが東京から新幹線に乗ってやって来たんだよ?」

「本当に…お兄ちゃん?」

 ココミちゃんが初めて目を開けた。ボクの顔を見ると涙を一つぶ流した。それを見ていたマリナオバチャンがおどろいて看護師さんを呼ぶボタンを押した。

「どうされました?」

「ココミが…ココミが目を覚ましました!」

「すぐ行きます!」

 看護師さんもあわてた様子だった。ボクがきょとんとしていると、マリナオバチャンがボクの手をにぎって「ありがとう、悟君!…本当にありがとう…!」ボクに何度もお礼を言った。ボクがボリボリと頭をかいていると、看護師さん二人とお医者さんが病室に入ってきた。ボクが病室から出ようとすると、ココミちゃんが声を出した。

「お兄ちゃん!…もう帰っちゃうの?」

「違うよ。ちょっとだけ外で待っているだけだよ?」

「本当に…?」

「あぁ、本当だよ?」

 ココミちゃんは、安心したようにずっとボクを見ていた。廊下に出たボクは、長い廊下の柱のかげに白いゆかたのような着物を着た女の子がこちらを見て手招きしていることに気がついた。初めは患者の子かなと思ったけど、次のしゅんかん息をのんだ。

「…もしかして、ナナミ?」

 その女の子は、服装が着物だったし、髪形もちがっていた。だけど、それは確かにナナミだった。どうしてナナミがここにいるのか分からなかったけど、ボクはゆっくりと近づいていった。

「なんでここにいるの?…それにその姿も変だよ?」

「質問禁止よ!…って冗談。…それよりココミちゃんは?」

「うん…さっき目を覚ましたよ?」

「そうなの…良かったわね?」

「…ところで、何でナナミがここに?」

「お釈迦様の特別のはからいで来たの…実は…」

 ナナミはなぜここに自分がいるのか、わけを話してくれた。霊の世界…霊界に帰ったナナミは、掟をやぶったことは事実だけど、理由があってのことだったので、大したおとがめもなかったらしい。でも、極楽の蓮池で地上の様子を見ていたナナミは、自分が作ったさけ目から、あるとんでもないものが地上に出てしまったらしいんだ。

「それは、何?」

「死神よ…」

「死神?」

 ボクが少しだけ大きな声を出したので、ナナミが「シッ!」と人差し指を口に当てた。ボクはあわてて口を押えた。ナナミによると、どうやらココミちゃんは、ナナミの姿を借りて今を生きているらしいんだ。…だから、似ていたんだ。

「私がさけ目を作って『深い森』を出たので、私を見張っていた死神も私を追いかけて出ちゃったらしいのよ?」

「それで、どうなったの?」

「死神は生きているココミちゃんと私を見まちがえたらしいわ」

「まさか…」

「本当よ。…それで今を生きているココミちゃんに死神がとりついたっていうわけ」

「じゃぁ、ココミちゃんは…?」

「このままだったら確実に死んじゃう…多分、今夜あたり…」

「困るよ…なんとかならないの?」

「私は、今は霊のままだから、悟にしか見えないし、どうすることもできないわ。…一つだけ方法があるにはあるんだけど…」

「どんなこと?」

 ナナミはふところから一枚のお札を出してボクに見せた。その「お札」には、漢字ではなく、アラビアの文字のようなものが書かれていた。ボクは不意にその文字のことを思い出した。ママと一緒にお墓のそばを通った時に木の立札に同じようなものが書いてあったのだ。

「あの字、変だね?」

「あぁ、あれは日本語じゃなくてインドの古い文字でサンスクリット語か梵語ぼんごという字なのよ」

「ボンゴ?」

「…違う。楽器のボンゴじゃないの、昔の仏教の言葉よ」

「ふ~ん」

 ボクがそんなことを思い出しているのをムシしてナナミは話し出した。

「アナタが、このお札を死神の顔にはり付ければ死神をたいじすることができるのよ」

「分かった。やってみるよ」

 ボクがそのお札を受け取ろうとすると、ナナミはお札をふところに戻してから「ダメよ」と俯いた。ボクが「なぜダメなの?」と聞くと、ナナミは目をうるませながら言った。

「うまく死神にお札をはり付けられたらばいいけど、失敗したら死神はアナタにまでとりついてしまう…つまりアナタまで死んでしまうのよ。しかもお札は一枚しかないから、チャンスも一回しかないのよ。そんな危険なことはさせられない…」

「ナナミ…」

 ボクはナナミの肩に手を置いた。様々な顔がボクの頭の中に出てきた。ママやお姉ちゃん、学校の友だちや先生…特急スーパーあずさで出会ったオバアチャンとオジイチャン、それに制服を着たタヌキや「深い森」で会った動物たち…何気ない毎日の生活やこの夏休みの不思議な体験。ボクが今まで暮らしてきた日々の中で出会ってきたたくさんの人たちの顔が思い出された。…でも、それらの人たちの顔の中でボクはさっき手を握った時に初めて目を覚ましたココミちゃんと、何度もお礼を言ってくれたマリナオバチャンの嬉しそうな顔を打ち消すことができなかった。…今ボクにできることを今やらないとボクは一生後悔するだろうと思った。「ココミちゃんを助けられるのは、ボクしかいないんだ」ボクはぎゅっとナナミの肩を強く握ってから、まるでココミちゃんに話すようにナナミに言った。

「お札を…渡してくれるよね?」

「…もう心を決めたの?」

「うん」

「悟のバカ…」

「分かってたんだろう?」

「悟の…バカ!」

 ナナミがボクを抱きしめて泣いた。抱きしめたといっても、ナナミは霊だから、彼女の温もりは感じなかった。なんとなく柔らかな雲に包まれているような気分だった。

「ナナミ…」

「ごめんなさい。…私、急に怖くなって…」

「でも、君は妹を助けるために関東大震災の時に自分を犠牲にしたんだろう?…あれと同じさ」

「でも、私は生きたかった。生きてたくさん勉強をして、それから恋もして…結婚して、赤ちゃんを産んで幸せな家庭を持ちたかった」

「じゃぁ、君は震災の時に妹を見捨てることができたのかい?」

「それは…」

「ね?…ボクもきっと同じことをしたと思うよ。たとえ自分にどんな夢があったったとしても…」

「…血筋かな?」

「…かもね?」

 ナナミが少し小さく微笑んでから、懐のお札を差し出して言った。

「さっきも言ったけど、チャンスは一度だけよ。失敗したり、お札を持っていることが見つかったら、死神はまずアナタを攻撃にくるわ!」

「分かった」

「私もできるだけ応援するから…無理しないでね?」

「大丈夫」

 霊の姿のナナミは他の人には見えないらしい。何人かの人がボクたちの傍を通ったけれど、不思議そうにボクを見ているだけだった。多分、ボクが勝手に独り言を言っているように見えていたんだろうと思う。でもボクは誰かに変に見られても構わないと思った。とにかく今は、ココミちゃんをどうやって死神から助けられるのかが一番大切なことだと思っていた。お札を受け取ってナナミと別れてからは、そのことだけを考えていた。

 病室に戻ったボクはきっと蒼ざめた顔をしていたんだろう。ココミちゃんが「お兄ちゃん、大丈夫?」と聞いてきた。ボクは笑顔で「大丈夫だよ」と答えたけれど、どうやって死神を退治するのかだけを考えていた。



…病室の決闘…


 いつの間にか町はすっかり夜の景色に変わっていた。窓の外には、昆陽池という名前の池を囲んだ森のような公園があった。

「死神ってどんな奴なんだろう?」

 頭の中でタロットカードの死神を想像したけど、あれは西洋のものだから、多分ナナミのように着物を着ているんだろうなと思った。ボクはナナミにもらった一枚のお札を手に持って、あることを思いついた。それが正しいのか間違っているのか、ボクには分からなかったんだけれど…

 ボクはリュックの中からタブレットを出してお札にカメラを向けて写した。何回か試して一番いいショットを保存してUSBメモリにコピーした。ココミちゃんが不思議そうにボクを見ていたけど、何も言わないで見ていてくれたので、説明の必要がなくなり助かった。

 ボクはナースステーションに行って看護師さんに「パソコンありますか?」と聞いた。「ありますよ」と優しそうな看護師さんが答えてくれたので、プリンターでさっきの写真のデータをプリントアウトしてもらった。ボクはお礼を言ってから、病室に戻ってお札と同じサイズに切り取った。

「お兄ちゃん、何やってんの?」

「ココミちゃんの敵と戦うための用意をしているんだよ?」

「私の…敵?」

「うん。ココミちゃんの病気を起こす悪い敵を必ずやっつけてあげるからね?」

「うん…ありがとう」

「ココミちゃん、ボクが必ず守ってあげるからね?」

「うん!」


 ココミちゃんが久しぶりに笑ったような顔をしてから目を閉じた。今夜ボクは命がけで死神と戦うつもりだ。勝てる自信なんてないけど、とにかく戦うしかないと思った。マリナオバチャンも今は安心して眠っているようだった。ボクは本物のお札を上着の胸ポケットに入れて、偽物はズボンのポケットに入れた。死神がいつココミちゃんを襲いにくるのかは分からなかったけど、さっきのナナミの話しからすると今夜やってきてもおかしくないと思った。ボクはいつ相手がやってきてもいいように、病室のソファーに座っていた。

 何時頃か分からなかったけど、病棟の電気が消されてしばらくした時だった。ボクは何か嫌な予感のようなものを感じた。ココミちゃんの息が荒くなり、病室にもれてくる廊下の薄い明りに何かの影のようなものが忍び込んできたのが分かった。

「…来たか?」

 ボクは少し身体をこわばらせて、身構えた。マリナオバチャンは、何かに眠らされているように、動かなかった。廊下も急に静かになっていた。どうやら起きているのはボクだけらしい。…いや、もう一人いる…ココミちゃんを襲いに来た死神だ!

「く、く、くぅ…」

 不気味な笑い声が病室に響いた。ボクはゆっくりと目を開けてズボンのポケットに手を当てた。ナナミと同じような着物を着た誰かがココミちゃんのベッドに一歩ずつ足を引きずるように近づいていた。手には昔の鎌のようなものを持っていた。ボクは、ココミちゃんのベッドに近づいている死神の背後に回って立ち上がりズボンのポケットから偽のお札を取り出した。そして今にもココミちゃんに襲いかかろうとしている死神の背中をボクはポンポンとたたいた。

「…うん?」

 振り返った死神の顔を見て、ボクは一瞬全身の動きが止まってしまった。

「ナ、ナ、ミ…?」

「…そうよ。何故私の邪魔をしにきたの?」

 死神…いや、ナナミの低い声が病室に静かに響いた。

「さぁ…私にそのお札を渡しなさい…」

 ボクはお札を握ったまま少し後ずさりした。するとその時どこからか声がした。「騙されないで!」確かにそれもナナミの声だった。ボクがその声にハッと気づくと、ナナミ…いや、死神がボクの方へ近づいてきて、握っていたお札を奪い取って破ってしまった。

「あれほど言ったのに…さぁ、お前から殺してあげよう…」

 ボクは怖くて声も出なかった。死神が鎌を振りかざし両手を広げた時、寝ていたはずのココミちゃんが起き上がった。「悟!…逃げるのよっ!」ナナミの霊がココミちゃんに乗り移って死神の背後に現れたんだ。「何?」死神がその声に振り返った瞬間、ボクは胸のポケットに隠していた本物のお札を出して、ナナミ…いや、死神の顔をめがけて張り付けた。

「うぅっ…何故、何故二枚持っていたんじゃ…?」

 死神はもがき苦しみ、老人である正体を現し、やがて骸骨になって砂が崩れるように目の前から姿を消してしまった。

「終わった…」

 ボクはへなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。するとココミちゃんに乗り移ったナナミの霊が優しく微笑んだ。

「よくやったわね。悟…」

「君のおかげだよ」

「とにかく今夜は眠りなさい。疲れたでしょう?」

「うん…」

 ボクはソファーに倒れこむように眠ったのだった。まだ気持ちは興奮していたけれど、やっと「やりきった!」という気持ちで、とりあえず眠ることにしたんだ。



…昆陽池公園の朝…


 次の日の朝早く、ボクは不思議な夢から目覚めた。隣のソファーではマリナオバチャンがまだ疲れきったように眠っていた。ボクがベッドを見るとココミちゃんがもう起きていて、ちょっとだけビックリした。

「もう起きてるの?」

「…うん。昨夜のお兄ちゃん、かっこ良かったね?」

「昨夜?」

「私を死神から守ってくれたでしょう?」

「えっ?…見ていたの?」

「…うん。夢の中でだけど、お兄ちゃんかっこよかった!」

「そんなことないよ」

「仮面ライダーみたいだった!」

「アハハ…ボクは変身なんかしないよ」

 ボクの笑い声で眠っていたマリナオバチャンが目を覚ました。

「まぁ、ココミ大丈夫なの?」

「うん。お腹すいた!」

「一体、どうなってるの?」

「お兄ちゃんが死神をやっつけてくれたのよ?」

「悟君が?」

「ゆ、夢の話ですよ」

「夢だけど…夢じゃないわ!」

「まぁまぁ、とにかくココミが元気になってくれて、本当に良かったわ!」

 マリナオバチャンはニッコリ笑って「看護師さんに言って来るわね?」と病室を出て行った。オバチャンはとても嬉しそうだった。

「ココミちゃん、あのね?『死神』の話も二人だけの秘密にしてくれないかなぁ?」

「いいけど…どうして?」

「大人には分からないことらしいんだ」

「どうして?」

「子どもにしか見えない世界らしいんだ」

「分かったわ」


 ココミちゃんはすっかり元気になっていて、お医者さんも「…まったく信じられない」と驚いていた。朝ごはんも食べることができ、やがて点滴も外され、入院の必要もなくなったみたいだった。マリナオバチャンは、ボクが伊丹に来てくれたおかげだと、何度もお礼を言っていた。

 ココミちゃんは、すっかり元気になったので、二、三日様子をみてそのままだったら退院できるようになったらしい。ボクたちは病院の近くの昆陽池公園まで散歩したりした。

「あのね、お兄ちゃん?」

「なんだい?」

「死神を倒した時のこと、話してくれる?」

「いいけど…秘密だよ?」

「分かってるって!」

 ボクは何故ココミちゃんが死神に狙われたのか、そしてナナミにもらったお札の話や、病室で死神と戦ったことなどを話した。

「やっぱりナナミちゃんも来てくれたのね?」

「今もきっとボクたちのことを見ているはずだよ?」

「今も?…どこにいるの?」

 すると、近くにいた鳩がパタパタと降りてきて、ボクたちの傍にとまってこっちを見たんだ。ボクはすぐに「ナナミだ」と思った。

「ココミ、元気になって良かったね?」

「お兄ちゃん、鳩がしゃべったよ?」

「違うよ。ナナミが鳩に乗り移っているんだよ?」

「ココミ、私は今この世界では本当の姿を見せられないから、代わりに鳩の身体を借りて話しているのよ?」

「ふ~ん…」

「貴方は悟兄ちゃんの力で助けてもらったのよ?」

「やっぱり?」

「そう。私は何もできなかったわ…ところで、悟に聞きたいんだけど、どうして一枚きりのお札を二枚も持っていたの?」

「あぁ、それは…君は怒るかもしれないけど、パソコンでコピーを取ったんだ」

「…つまり機械を使って偽物を作ったってこと?」

「そうさ。本物にそっくりで、とってもベン…」

 ボクは便利と言いそうになって、思わず口を押えた。すると鳩のナナミは「クックックッ」と笑いながら言った。

「もう、今の貴方にはベンリダメガエルは必要ないみたいね?」

「バカと鋏は使いようってママが言ってたよ」

「なるほど…悟のママらしいわね」

「何、バカと鋏って?」

「どんな便利な道具でも使い方を間違えると凶器になるってことよ?」

「お兄ちゃんもナナミちゃんも物知りなのね」

「あっ、そうだ。ココミに言っておきたいことがあるの」

「なぁに?」

「貴方は私の生まれ変わりのようなものなんだから、絶対に命を粗末にしちゃダメよ?」

「生まれ変わり?」

「うん。私が生きられなかった分まで長生きしてほしいの?」

「うん!」

「貴方の今日は、私の明日なのよ?」

「私の明日…?」

「今は分からなくてもいいわ。…ただ、自分を大切にしてね?」

「命ってこと?」

「そうよ。自分の命を大切にしてほしいの」

「それなら、私にも分かるわ!」

 鳩のナナミは、安心したように頷いてから、ボクの方を見て、言った。

「今度こそ霊界に行かなきゃだめみたいだから、帰るね?…これからもココミをちゃんと守ってあげてね?」

「分かってるよ。ナナミこそ、お釈迦様に叱られるなよ?」

 ボクが笑うとナナミの鳩は元気よく青空に飛んで行った。辺りにはツクツクボウシが鳴いていた。ボクの長かった小学校最後の夏休みも終わろうとしていた。ココミちゃんと見上げた空は本当に夏の名残のように輝いているばかりだった。


(おしまい)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ