正義の研ぎ師
「あなたの魂、お研ぎします」
ある大きな街の一角にある研ぎ師の家には、独創的な文言が書かれた暖簾がかかっている。
街の周囲には猛獣が多く棲みついており、時折餌を求めて街を襲いに来る。それを退治するのが街にいる剣士の仕事だ。
その魂とも言える剣を研ぐことが研ぎ師の仕事で、この街には1軒しかないのだが、腕の立つ研ぎ師のため、遠方からも研磨依頼が来るほどだ。
これは、そんな研ぎ師と剣士の対話の物語。
「いらっしゃい」
ザッ、ザッ、と三和土を擦る音が聞こえ、研ぎ師が奥から現れた。
「この剣を研いでいただきたい」
よく鍛えられた身体に背負った長物を渡し、近くにある椅子に腰掛けた。
「これは長く使われておりますね。少々お時間いただきますよ」
ひと目見てそう告げた後、剣士が首を縦に振ることを確認し、研磨作業に入った。
…
「これは、私の推測なのですがね」
研磨の音だけが響いていた室内で、研ぎ師が声を発した。
「この剣、確かに古くなっていますが、どうにも迷いながら使われていたような気がします。剣士さん、何かこの剣を使う上で迷っていることがあるのではないですか」
そう尋ねると、剣士は驚いた表情で、
「……剣だけでそこまで分かりますか。確かに最近からですが、私はこの剣を振るっていいのか迷っています」
「そうですか。もしよければ、その理由を聞かせてもらえませんか。話すだけでも何かが変わるかもしれません」
研ぎ師が促すと、少し逡巡し、それから話し始めた。
「私は以前から、剣士であることを誇りに思っていました。自分の愛する人たちをこの手で守れるからです。その一心で猛獣と戦ってきたのですが、ある日街の周囲を見回っていたとき、猛獣の側に寄り添って寝ている子どもを見つけてしまいました。それから、大事なものを守っているのは猛獣だって一緒なのではないかと考えるようになり、それを壊してしまうこの仕事に自信が持てなくなりました」
手を組み、うつむきながら言葉を紡いでいく。
「しかし猛獣が私たちを襲ってくることには変わりありません。なので応戦はするのですが、今は追い払うことしか出来ていません。きっとあなたが気づいたのもそれがあったからでしょう。正直、これから剣士としてどうすればいいのか分からないままでいます」
剣士がひとしきり話し終えると、しばらくの間、室内は静寂は静寂に包まれた。
いつまでそうしていたかわからないほどの時を経、ずっと黙っていた研ぎ師が口を開いた。
「あなたは今、自らの正義がどこにあるのかわからないでいるのですね。以前は愛する人を守ることが正義だった。しかし、猛獣の正義に触れることで、その在処がわからなくなっている。私が考えるに、猛獣を倒すことも、追い払うことも、どちらもあなたの愛する人を守っていることには変わりないと思います。結果として街に猛獣が入っていないのですから」
しかし、と続ける。
「それとあなたの持つ正義とは別の問題です。あなたが、猛獣を打ち倒してこそ剣士だ、と思うのか、それとも、猛獣の命も守っていきたいと思うのか、です」
研がれて新品同様の輝きを取り戻した剣を手渡し、言う。
「私はあなたの正義を研ぐことしかできません。しかし、その正義がどういうものかはわからない。その先は、私ではなく、あなたが正義を作り上げていってください」
剣士は剣を受け取ると、無言で暖簾をくぐっていった。
風の噂で、その街は今まで以上に猛獣に襲われるようになったということだった。
「それが正義なら、それを貫き通していってください」
そうつぶやき、今日も剣を研いでいく。
あなたの正義、お研ぎします。
今日も研ぎ師は、正義を研いでいる。