第七話 魔王、逃亡す
「魔王様、本当に良いのですか?」
黒味の強い褐色の液体――カレー。
それを前にしたニスロクは、緊張した面持ちをせずにはいられない。
聞くところによれば、魔王はこのカレーを金剛石と交換で手に入れて来たという。
城に蓄えられた財からすればはした金であるが、大金であることには違いない。
それがあくまで従者に過ぎない自身に向けて差し出されているのだから、緊張するのが自然と言うものだ。
「そなたには日頃からよく働いてもらっているからな。遠慮などするな」
「しかし、このカレーと申すものは貴重な霊薬なのでしょう? 私のようなものが口にするなど」
「そなたが元気に働いてくれるのであれば、あのような石ころの一つや二つ安い物だ」
「……ありがたき幸せ」
ニスロクは軽く頬を赤らめつつも、優雅に礼をした。
そして魔王からカレーの皿を受け取ると、近くの椅子に腰を下ろす。
どこからか銀のさじを取り出した彼女は、その褐色の液体をゆっくりと持ち上げた。
まずは、この独特の香りから。
ワインのテイスティングでもするかのように、スプーンを鼻に近づけると軽く息を吸い込む。
たちまち広がるスパイシーで香ばしい匂い。
刺激が強いが、味わえば味わうほどに奥行きがあるように思える。
大地の豊かさをそのまま味わっているかのようだ。
形のいい鼻が、スンスンと鳴る。
従者とはいえ、魔王の片腕であるニスロクの身分は高い。
主の手前、質素倹約を旨としているため贅沢などめったにしないが、その気になればどのような珍味でも取り寄せることができるであろう。
それゆえに今までそれなりには美食も味わってきたが、このような物は初めてであった。
魔界料理は、人間界の物に比べて味が濃いと言われる。
けれど、ここまでスパイスを用いたものは他には存在しないだろう。
そもそも、スパイス自体がとんでもなく高価なものであるため、香りづけぐらいにしか用いないのだ。
「ん……! 辛い……!」
口に放り込んだ途端、辛さが襲ってくる。
ニスロクは一瞬、唐辛子かと思ったがそれとはまた違う。
唐辛子が一か所を集中して刺すような辛さなのに対して、カレーの辛さは幾分か柔らかく、口全体をチクチクと突くような辛さだ。
身体が火照り、白い肌が紅くなる。
額から汗が溢れた。
しかし、その手は止まることなくカレーを救い上げる。
ニスロクの舌はすでに、カレーの虜となりつつあった。
「どのような味がするのかと、恐れながら心配していたのですが……これは素晴らしい。一度味わってしまうと、忘れられませんね」
「うむ。それに生命の霊薬と言われるだけあって、活力も満ちてくるようであろう?」
「はい。体がほこほことして、心地よくございます」
頬を軽く朱に染めながら、はにかむニスロク。
彼女の嬉しそうな顔に、魔王は満足げにうなずいた。
普段はあまり表情を表に出さない従者なだけに、その笑顔の破壊力は強烈だ。
「しかし魔王様。これが例の栄養どりんくだというのはどうにも」
「む、どういうことだ?」
「私もいろいろと調べてみたのですが、栄養どりんくなるものは瓶に入っていてもっとサラリとしたものなのだとか。それに具が入っているという話は、ほとんど聞きません」
「……そうか。途中で少しおかしいとは思ったのだが、やはり間違えていたのか」
心のどこかで感じてはいたものの、ニスロクにはっきりと指摘されてしょんぼりとした顔をする魔王。
とても、かつて剣一本で魔界を制した男とは思えない姿だ。
――こんなところも、愛おしい我が主ではあるのだけれども。
ニスロクはふうっとため息をつきながらも、言う。
「これはこれでおいしい物であるので、よいではありませんか。栄養どりんくとやらは、また別の機会に致しましょう」
「そうだな。では早速――」
「お待ちくださいませ。お仕事が溜まっております」
そういうと、ニスロクはパンパンと執務机を叩いた。
書類の山が揺れて、今にも倒れてしまいそうなほどだ。
確かに、これはいろいろとたまりすぎだな。
魔王はふうっと息をつくと、浮かせていた腰を戻す。
「む……つい昨日まで順調に減っていたというのに、また増えていないか?」
「マンモン様の眼が私の予想以上に深刻で、お任せいただいた仕事があまりはかどらなかったのでございます。それから、そろそろ魔界会議の時期でもございますゆえ」
「そうか。そういえば、もうそんな時期か」
魔界会議とは、魔王を初めとする魔界の有力者たちが五年に一度、魔王城に集まって魔界の行く末を話し合う会議のことである。
とはいうものの、魔界は魔王を中心とする絶対王政。
形式的な物であり、さらに歴代最強ともいわれる魔王が治める現在では、上流階級たちの社交会のような様相を呈していた。
「また、あのうるさい連中が来るのだな」
「はい。ですがこれも大切なお役目です」
「やれやれ、となると姫たちも今頃……」
「殺気だっております」
魔王には現在、妃候補が七名いる。
いずれも名門魔族出身で、当然のように彼女たちの親は魔界会議へと出席する。
――家の者のたちに、少しでも良いところを見せなければ!
魔界会議の近づくこの時期は、ただでさえ魔王基準で言えば強引な姫たちが、より強く魔王を求める時期であった。
「魔王様ッ!!」
噂をすれば影。
憂鬱な顔をする魔王の目の前で、執務室の扉が勢いよく開いた。
一人の女魔族が姿を現す。
豊かな巻き毛の金髪。
キツイ印象の目元をしているが、華やかで整った顔立ち。
体つきは豊満で、組まれた腕の上に胸がズンと乗っている。
そして何より――彼女の種族を象徴するような、露出度の高すぎる衣装と黒の尻尾。
サキュバス族の姫、アメル・エレクトラである。
「アメル様、いきなり何の騒ぎでございましょう? お妃候補とはいえ、非礼でございます」
「いいじゃありませんの。魔王様、今日こそは私といいことしませんこと? 魔界会議までに、愛の証が欲しいですわ」
「……そういうことは夜に致せ」
「夜に誘っても『今宵はエールを飲んで過ごすのだ』とか言って、断るじゃありませんの」
「気が乗らぬだけだ。そのうち、勤めは果たす」
「そのうちそのうちって、いつになりますの? そんなに私のこと、抱きたくなくて?」
魔王にすり寄ると、その肩に向かってしなだれかかるアメル。
たちまち、豊満なふくらみが魔王の腕を捉えた。
驚くべきことに、人外の膨らみは魔王の二の腕をしっかりと挟み込んでしまう。
ニスロクは目を丸くすると、自身より二割――いや、三割増しは大きなふくらみを睨みつける。
「魔王様、このままベッドへ――」
「すまぬ、またな」
「え?」
いきなり光に包まれ、消える魔王の身体。
彼にもたれかかっていたアメルは、そのまま椅子の座面へと頭をぶつけた。
魔王が、またも異界へと渡ったのだ――。
「さてと、ここはどこであるか……?」
今まで見たことのない光景に、つぶやく魔王。
彼の目の前には、得体の知れない鋼のモニュメントのようなものがあった。
無数の管がひと塊となって、天に向かって高く伸びている。
何か、儀式にでも用いるのであろうか。
興味深く思った魔王は、赤茶けた鉄の建造物に向かってゆっくりと歩み寄っていく。
「うむ、魔力は感じないな。これはいったい……」
「てめえ、何やってんだ!?」
不意に、後ろから声をかけられた。
振り返ってみれば、そこには――
「おうおう、何勝手に入ってんだ?」
「俺たちの集会を邪魔しに来たのか!? ああん?」
見慣れぬ鋼の乗り物。
それを背に吠える、色とりどりの頭をした人間の一団が居た――。