第三十六話 魔王、日本酒と出会う
「虫が……入っておるな」
予想もしていなかった見た目に、魔王の顔がわずかにひきつる。
漂う酒精の香りからして、おそらくこれは酒であろう。
色はほぼ透明に近く、わずかに茶を帯びている。
もともと無色だった酒に虫を漬けた結果、このような色になったに違いない。
どことなく濁った感じの色彩だった。
「このハチがね、効くんだよ! 調子の悪い時にクイッとやると、それだけでもう元気百倍!」
「ハチか。毒は……ないであろうな?」
瓶の中を見つめながら、眉を顰める魔王。
ハチの毒ぐらいで死ぬ魔王ではないが、腹の調子ぐらいは悪くなるかもしれない。
異世界に来てまでトイレに籠ると言うのは、流石に情けない話だ。
「毒かい? それならへーきだよ、少し塩っぽい味がするけどねえ」
そう言うと、老婆は瓶の蓋を開けた。
酒精の香りと共に、わずかにだが生臭い匂いがする。
老婆は小さな柄杓のようなものを取り出すと、ほんの少しだけ酒を汲んだ。
彼女はそのまま、唇を湿らせるようにチビリと柄杓を傾ける。
途端に、ただでさえ深い額のしわがさらに深まったように見えた。
そして、恐ろしく渋い顔つきをしながら言う。
「ほれ、平気だろう?」
「……何だか、ずいぶんと不味そうだが」
「良薬は口に苦しだよ。ま、ちょっとばかり癖はあるが慣れれば平気さね」
「いや、平気そうには見えぬぞ。唇が震えておる」
「そりゃあ、私も普段はあんまり飲まないからね。でも、隣の家のおばあちゃんなんてグビグビ飲むよ!」
カッカと笑いながら、何かを傾ける様な仕草をする老婆。
実に元気が良いが、手の肉はたるんでいて歳はかなりいっているようだ。
この老婆から「おばあちゃん」と言われるなど、いったいどれほどの年寄であろうか?
そのような年寄りが酒を飲むなど、もしや魔族の類かと魔王は眼を見開く。
「……隣のおばあちゃんとやらは、いくつなのだ?」
「えっと、今年で百三歳だよ! 私なんてまだ七十五だから、この村じゃ若い方さね!」
「そなたら、もしや魔女か何かか?」
「魔女? ああ、確かにそんな顔かも知れないねえ」
老婆は自らの顔に手をやると、スウッと鼻筋を撫でた。
東洋人にしては高い鷲鼻は、言われてみればステレオタイプな魔女のようである。
顔立ち自体も、やや彫りが深かった。
「なるほど、やはりな。魔女が好みそうな飲み物だ……」
「まあまあ、そう言わずに飲んでみるといいさね。何事も経験だよ!」
「しかしな……」
「男だっていうのに、意気地がないねえ! こういう時はドーンと行くもんさ!」
そうまで言われてしまっては、魔界の王として飲まないわけにもいかない。
魔王は「よし!」と気合を入れると、ザブッと豪快に酒を救い上げた。
そしてカップになみなみと注ぐと、クイッと傾ける。
「む、なかなか強いな!」
魔王がまず驚いたのは、酒精の強さであった。
舌先が痺れるかのようだ。
それに遅れて、微かにだが塩の風味がする。
毒の成分に由来するらしいそれは、味わいにややトゲがあった。
「ふむ……。思っていたほどではないな。むしろ、ハチを漬けこむ前の酒自体は相当に良い酒ではないか?」
そう言いながら、魔王はもう一口、酒を流し込む。
辛口で、喉を通り過ぎた途端に消えていくかのようなすっきりとした味わい。
ハチに由来するであろう独特の癖はあったが、酒自体は素晴らしくサッパリとしていた。
「分かるかい? このあたりの地酒なんだけどね、結構評判良いんだよ」
「土地の酒か。何という種類なのだ」
「何って、そりゃ日本酒だよ。ああ、そうか。あんた外人さんだったねェ」
魔王の顔を見ながら、納得したようにうなずく老婆。
彼女はよっこらしょと腰を上げると、そのまま部屋を出て行った。
そして数分後、今度は細長い瓶を抱えて戻ってくる。
金色のラベルが張られたその中には、透明な液体がたっぷりと入っていた。
瓶自体がヒスイのような色合いをしているため、色はよく分からないが良く澄んでいる。
「これさね!」
「ほう、これはなかなか」
魔王は瓶を手にすると、軽く傾けてみた。
中に入っている酒が、サラリと流れる。
粘り気は全くと言っていいほどなく、見た目はほとんど水のようであった。
不純物が浮いているということもない。
「開けていいよ。せっかくだ、一杯やりな」
「それはありがたい。ぜひいただこう」
先ほどハチ酒を注いだカップに、今度は日本酒を注ぐ。
トクトクと溢れたそれは、たちまち良い香りを漂わせる。
ほのかに甘いそれは、熟した果物を思わせた。
「香りが良いな。味は……おお!」
口いっぱいに広がる、まろやかな味わい。
キリリと引き締まった辛みはあるが、刺さる角が全く無かった。
丁寧にろ過を重ねて、余計なものをすっかり取り去ったという趣である。
これだけでも、職人の素晴らしい仕事ぶりがうかがえた。
のど越しも申し分なく、とにかく余計な物が何もない。
地中から湧き出して来た清水に魔法をかけて、そのまま酒にしたような美しく澄み切った味だ。
「これは良いな。ビールとはまた違った美味さだ。さすが、土地に長く住む魔女なだけのことはある」
「ははは、照れるねえ! よし、その酒は持っていくと良いよ!」
「なぬ? これをくれると言うのか?」
瓶を手にしたまま、目を見開く魔王。
これだけ美味い酒である。
さぞかし貴重で値が張るに違いない。
加えて、美しい色合いをしたガラスの瓶まで付いている。
魔界で買ったならば、確実に金貨を支払わねばならない代物だ。
「いいんだよ。息子たちがくれたんだけどね、さすがに呑み切れなくて」
「魔女に息子がいるのか」
「私にだって、若いときはあったからねェ。男が二人、麓の街で所帯を持って暮らしてるよ」
「ううむ、そう言われてしまうとますます貰いづらいな」
「いいって。私はもう、十分に飲んだから。二人が揃って同じものをくれたんだよ」
そう言うと、老婆はふすまを少し開いて縁側を見せた。
するとそこには、すっかり空となった酒瓶がさかさまになって置かれていた。
どうやら、綺麗に洗ったものを干している最中らしい。
「分かっただろう?」
「そういうことか。ならば、頂くとしよう」
「そうしとくれよ。どこの御国かは知らないけど、味が分かる人に飲まれて酒も本能さね」
「うむ、そう言われるとありがたい。だが、やはりただというわけには行かぬな。そなた、何か欲しいものは無いか?」
魔王に見つめられて、老婆は軽く唸り始めた。
やがて彼女は、最近とみに痛みがひどくなってきた腰に手をやって言う。
「そうさねえ。こんな私だから杖でもあると便利なんだけどねえ」
「杖か、良かろう」
魔王は薄く笑みを浮かべると、懐の道具袋へと手をやった。
そしてその中から、黒木の杖をスッと抜き出す。
「これなどどうだ?」
「あんれ!? あんた、その杖さどこから出した!?」
「別にどこでも良かろう。それより、試しにこれを持ってみるがいい。身体に馴染むか?」
「どれどれ」
老婆は立ち上がると、さっそく魔王から杖を受け取った。
すると、黒木の杖は彼女の身長を支えるのにちょうど良い長さである。
彼女は杖の表面を軽く小突いて硬さを確かめると、満足そうに目を細める。
「なかなか良い具合だね! 丈夫そうだし」
「樹齢八千年の厄災樹から作った代物だ。大事にするが良い」
「ヤクサイジュ? ああ、屋久杉かい。ほえ、そりゃあ大切にしないといかんねえ」
笑いながら杖を撫でる老婆。
魔王は瓶を懐に納めると、そのままゆっくりと立ち上がる。
「では、失礼しよう。いろいろと世話になった」
「もういいのかい?」
「うむ、具合も良くなったのでな。最後に一つ聞きたいのだが、このあたりに店は無いか?」
「それだったら、この道をずーっと行った先にコンビニがあるさね。ざっとに十分ぐらい歩けば見えるんじゃないかねえ」
「分かった。では、さらばだ」
コンビニを目指して、気持ちよく家を後にする魔王。
のちに、山を下りてきた熊を老婆が杖一本で退治すると言う事件が起きるが――それは、彼の知らない話であった。