第二話 稲荷神社前のきつねうどん
「魔王様、随分と仕事がはかどっておいでのようですね?」
大きく削れた書類の山を見て、ニスロクがつぶやく。
机の天板が一部とはいえ日の目を拝んだのは、何年ぶりのことであろうか。
魔王に就任したばかりの頃のように、手際よく仕事をこなしていく魔王の姿に、ニスロクは妙な感慨すら覚えてしまう。
ついこの間まで、書類の山に埋もれてサボタージュ寸前ぐらいの速度で仕事をこなしていたとはとても思えないほどだ。
「例の異世界が、よほどよかったのですね?」
「うむ。あのビールという酒に習って、エールを冷やすようにしたらこれが旨くてな。仕事で少し疲れた後に飲むと、最高に良いのだ」
だからこの間までとは違って疲れるまで働いている、と魔王は続けた。
その表情からは、仕事に対する確かな充実感が見て取れる。
仕事の後の一杯が、魔王に相当の活力をもたらしたようだ。
しかし、その目にほんの少し影があることを、有能な従者であるニスロクは見逃さなかった。
「何か、御不満な点でも?」
「いやな。確かに冷やすことで、エールは格段に旨くなったのだが……やはりビールと比べてしまうとダメでな」
「ダメでございますか。これでも、魔王様に供するエールは最高峰のものを用意させているのですが……」
申し訳なさそうに、顔を下に向けるニスロク。
自分が不甲斐ないばかりに、主に不満を抱かせてしまっている。
その事実が、自他ともに完璧な従者を自称する彼女には心苦しくて仕方がなかった。
魔王はそんな彼女の痛切な表情を見ると、慌てて手を振る。
「いや、そなたの用意したものに特別不満があるというわけではないのだ。ただ……うむ……」
「……かしこまりました。では、城をしばらくお預かりしますので、また行って来られるとよいでしょう」
「すまんな、世話をかける」
「これが私の仕事でございますので」
「出来たら、土産を持ってこよう」
マントを羽織ると、指輪に魔力を込める。
たちまち魔王の身体は光に包まれ、異世界へと消えたのだった――。
「おお……。この間とは、まるで違った雰囲気の場所に出たな」
先日魔王が出現した場所は、目もくらむような高層建築の立ち並ぶ何やら都会めいた場所であった。
街の隅々まで砂利を潰したような黒いものに覆われていて、自然と言えば道の端にぽつぽつとならぶ木々ぐらいしかなかったことを、彼は覚えている。
しかし今回彼が現れた場所は、そこと比べると田舎の趣が強かった。
建物の背は低く、建材こそ魔王が見たことのないものが用いられているが、いずれも二階から三階建てほど。
その奥には緑を抱いた山があって、その中心を石の階段が貫いている。
何かの社であろうか。
石段の上に、微かにだが神気を纏う木造建築が見えた。
かなり古い時代に作られた物のようで、この場が纏うノスタルジックな雰囲気をより盛り立てている。
「兄さん、観光客かい?」
道の端にある商店の主らしき男が、景気よく声をかけて来た。
――観光客、か。
あながち間違いというわけでもないので、魔王は頷きを返す。
「そうかいそうかい。しかし珍しいな、外国人とはよ。ここのお稲荷さんも、ずいぶんメジャーになったもんだ」
「おいなりさん?」
「ああ、外人さんは知らないか。お稲荷さんってのはな、狐の神様のことだよ。拝めば商売繁盛の御利益があるのさ」
「狐か。面白いものを祀るのだな」
魔界に神は居ない。
すぐ隣の人間界に行けば宗教もあるが、そこで祀られているのは天地創造の唯一神がほとんどだ。
動物を神として崇めている地域は極めてまれで、あるとは聞いたことがあるが魔王も実際に行ったことはない。
「それはそうとして。店主よ、このあたりにビールを売っている店はないか?」
「ビール? ああ、そうだなァ。このあたりは観光客向けの店が多いからな。飲むことはいくらでもできるだろうが、買うなら三丁目のスーパーぐらいか」
「む、すーぱーとやらは遠いのか?」
「歩くと少し距離があるぞ」
「そうか、ならばビールの買い出しは後の方が良いな。すまぬが店主、もう一つだけ聞きたいことがある」
「なんだい?」
「このあたりで、どこか旨い食事処はないか?」
腹を軽くさすりながら、魔王は尋ねる。
先日食べた串焼きのこともあるので、彼はあえて空腹のままでこの世界へと来ていたのだ。
すると店主は、すぐさま向かいの建物を指さす。
「そういうことなら、そこのうどん屋が一番だ。このあたりの名物だからな」
「ほう。うどん、か。聞き慣れぬ語感の食べ物であるな」
「騙されたと思って食べてみな。そこの店のは、本当に旨いんだぜ。ついでに、看板娘もいるしな」
「うむ、行ってみるとしよう」
店主に言われるがまま、魔王は通りを挟んで向かい側にあるうどん屋へと足を延ばした。
入口に掛けられている布を割って、中に入る。
見たところ、あまり広くはない店であった。
魔王が普段使っている執務室よりも、少し狭いぐらいであろうか。
折れ曲がった形をしたカウンターが正面にあり、その奥に一段高くなった場所が見える。
「いらっしゃいませー!」
たちまち若い娘が声をかけてくる。
なるほど、器量の良い娘であった。
束ねられた黒髪には艶があり、大きくぱっちりとした目元はなかなかに愛嬌がある。
魔王からしてみると顔立ちがやや平面的ではあったが、それでも可愛らしいと思える娘だ。
「はい、どうぞ。ご注文が決まったら呼んでください」
「む、私はこんなもの頼んではいないぞ?」
「へ?」
間の抜けた声を出す娘に、魔王は水の入ったグラスを示した。
透明な器に入れられたそれは、混ざり気が一切なく澄み切っていた。
さらに、氷まで浮いている。
これだけの物、魔界で頼めば下手をすれば銀貨を払わなければならないだろう。
「ああ、お水のことですか。うちは……というか、日本では基本的にこういう水はタダですよ。高級店だとたまにお金を取るところもあるみたいですけど」
「金が要らぬ……のか? この水が?」
「ええ。完全なサービスです。あ、おかわりも自由ですよ」
そういうと、娘は魔王の座った席のすぐ脇に大きな水差しを置いた。
水が無くなったら、ここから自由に足してよいということのようだ。
魔王の眼がわずかに見開かれる。
魔界の店で、これだけのサービスをするところが果たしてほかにあるだろうか。
「じゃあ、メニューはこちらです。ゆっくり選んでくださいね」
つるつるとした質感の、紙なのか布なのかよくわからないものが手渡される。
文字らしきものがびっしりと描かれたそれは、どうやらこの店で扱う料理が記されているようだ。
しかし、魔王には字がさっぱりわからない。
「ううむ……。おすすめの料理などは、ないか?」
「おすすめですか? それだったら、やっぱりきつねうどんですね。稲荷様の名物ですし」
「ではそれにしよう」
「はーい! きつね一つ、入りまーす!」
娘の声に応じて、奥に居た中年男が声を上げる。
彼は何やら白く細い物を取っ手の付いた金網に入れると、そのまま鍋へ放り込んだ。
やがてそれを引き上げると、ビャビャッと勢いよく水を飛ばして器に入れる。
「できました、きつねうどんでーす!」
「これが……うどんか」
「熱いので気を付けて食べてくださいねー」
薄い茶色のスープに、白く長い麺が浮かんでいた。
さらにその上に、黄色くて四角い物体が乗っている。
スープの一種であろうかと、魔王は思った。
しかしそれにしては、中に入っている麺が重量級だ。
彼が食したことのあるパスタの、軽く三倍ぐらいは太さがありそうだ。
通常のスープと同じように飲み干すには、かなり面倒な存在である。
その上に載っている四角く平たい物体も、スープの具にしては大きすぎる。
「娘よ、これはどのようにして食べるのだ?」
「どのようにって、お箸を使って食べるんですよ。あ、お箸の事がわからないんですね?」
「そうだな。教えてもらえるとありがたい」
「わかりました、ちょっと見ててください」
ほかに客が居ないこともあってか、娘の対応は非常に丁寧だった。
彼女は適当な割りばしを手にすると、さっそくレクチャー始める。
「いいですか、お箸っていうのはまずこれのことです。これにご飯を挟んで食べます」
「挟むとは、このような感じか?」
娘の手に掴まれた箸。
その動きを、魔王は見様見真似で再現してみた。
さすがは、魔界の王というべきか。
ほとんど教えてもらっていないのに、娘とほぼ同じ動きを返す。
「すご……! それであってますよ」
「そうか、なるほどな。これは便利かもしれん」
具合を確かめるかのように、パチパチと箸を鳴らす魔王。
その手つきにもはやたどたどしさはなく、箸先の動きにも一切の迷いや無駄がなかった。
「もう自由自在じゃないですか!」
「うむ。この程度の動きをまねること、我にとっては造作もない」
「おお……なんだかすごいですね! では、麺が伸びないうちにうどんを食べましょう! 麺をお箸で挟んで、口に持っていくんです。そしたらそのまま啜っちゃってください!」
「あいわかった」
娘に言われた通りに行動する。
ズルズルっと、気持ちの良い音がした。
たちまち、口いっぱいに広がるモチモチとした食感。
パスタとはまた違った、柔らかくも歯を押し返してくるような独特の感覚だ。
さらにそれを彩るように、ほのかな魚介の風味が広がる。
スープのベースとして用いられているらしいそれらは、丁寧な下処理がされているらしく臭みは全くしなかった。
代わりに、微かな海の風味と濃厚な旨みだけを残していく。
「これは……新しい感覚の麺料理だな」
魔界において、麺料理と言えばパスタぐらいのものである。
このようなタイプの物は、想像したことすらなかった。
だが、悪くない。
むしろ、このあっさりとした風味はパスタには出せない類のものであろう。
夢中になって手が伸びる。
「揚げも食べてくださいね?」
「もちろんだ」
最後に、取っておいた四角い物体を口に入れる。
溢れ出すスープ。
揚げ自体の持つ風味をたっぷりと孕んだそれは、油が混じった分だけ濃密になっていた。
さらに、香ばしさも加わっている。
素朴ながら、魔界の宮廷料理にも匹敵するほどの複雑かつ繊細な味だ。
噛み締めれば噛み締めるほど、揚げの風味も出て味が変わっていく。
思わず、飲み込むのが惜しくなってしまうほどだ。
「……素晴らしい。噛めば噛むほどに味が広がってゆく。何と奥深い」
「そんなにおいしかったですか?」
「ああ。長く生きてきたが、初体験の味であった。これほどのもの、もう食べられぬかもな」
「そんな。ちょっと大げさですよ、お客さん!」
はにかむ娘。
魔王はそんな彼女に向かって、先日手に入れたばかりの「日本円」を手渡してやる。
これだけの料理だ、かなり高級に違いない。
彼は所持していた日本円をすべて――つまり、一万円札を五枚差し出していた。
「お代だ。これで足りるか?」
「え……あ、あの! これは貰いすぎですッ!」
「む、そうなのか。では」
一万円札を一枚引っ込めて、四枚にする魔王。
その常識の無さに、娘は思わずため息をついた。
「きつねうどんは、一杯五百円です。なので、その八十分の一で結構ですよ!」
「……なに? それほどに安いのか!?」
「はい、このあたりは田舎で物価も安いので」
そういうと、娘は魔王の手から一万円札を一枚だけ抜き取り、レジからお釣りを出した。
彼女は丁寧に札を数えると「九千五百円です」と言って魔王に付き返す。
こうされてしまっては、さしもの魔王もどうしようもない。
不満に思いつつも、金を受け取る。
「むむ、だがこれでは我の気が……。よし、こういうことにしよう」
「何です?」
「少しじっとして居るが良い」
指をパチンッと鳴らす魔王。
指先から魔力が迸り、淡い輝きが娘の顔全体を覆った。
すると顎の下あたりに出来つつあった吹き出物が、あっという間に消えてしまう。
「これでよい。後は何もせずともドンドン肌が良くなっていくことだろう」
「…………はあ」
「ではな」
意気揚々と、店を出て行く魔王。
うどん屋の娘が町内のミスコンで優勝したのは、その半年後のことであった――。