第十八話 魔王、ワサビに顔をしかめる
「回っている、回っているぞ……!」
広くて明るい店内を、縦横無尽に走る道。
その上を、皿に乗った食べ物が延々と流れていく。
楕円を描く通路の上を、繰り返し繰り返し進んでいく様は、回転しているとでもいうべきだろうか。
魚の切り身に白い何かを組み合わせたらしいそれらは、種類も豊富で目にも鮮やか。
見ているだけで、興奮するような光景だ。
魔界の宴会でも見られない珍しい景色に、さしもの魔王も興奮した声を上げる。
「そんなに騒がないの、恥ずかしいでしょ?」
「すまぬな。だが、これは……!」
「まあ、外国の人には珍しいかもねー。特に寿司とか知らない人にしたら」
からからと笑う若菜。
そうしていると、店員と思しき制服の女が近づいてくる。
「お待たせしました! お二人様ですか?」
「はい」
「かしこまりました。では、奥のボックス席へどうぞ」
「お、ラッキー! この時間なのにボックス空いてるんだ」
「今日は平日なので」
苦笑しながら答える店員。
彼女に案内されて、魔王と若菜は壁際の席へと向かった。
『ボックス席』というだけあって、そこは四角く区切られたような造りだ。
大きな座席が、セットで二つ向かい合わせとなっている。
魔王と若菜は中心のテーブルをはさんで向かい合うと、そのままゆっくり腰を下ろした。
「まずは何を食べる?」
「何をと言われてもな……。これだけ種類があっては、なかなか選べぬ」
「あはは、確かにそうかも」
「何かおすすめの寿司とやらはないか?」
「そうだなあ、じゃあサーモンとか? 一番人気らしいし」
そういって若菜が指差したのは、オレンジがかったピンク色をした寿司であった。
脂がたっぷりと乗っているらしく、表面が軽く光っている。
見たところ生のようだが、顔を近づけても匂いはそれほど漂ってこない。
鮮度管理はしっかりとしているようだ。
「そうか、では……」
箸を手にすると、そのままサーモンを摘まむ魔王。
動いている相手に合わせ、上半身を軽くひねる。
するとたちまち、若菜のストップが入った。
「待った! 皿ごと取って!」
「む、そうか」
箸を引っ込めると、代わりに手を出して皿を持ち上げる。
いかなる材質か、随分と軽い皿であった。
それをテーブルに置き、いよいよと手を伸ばすと、またも若菜が声を上げる。
「醤油つけないの?」
「しょーゆ?」
「お寿司に付けるソースのことよ。そこに置いてあるでしょ」
若菜が指差した先には、底の太い円筒形をした半透明の容器があった。
中には真っ黒の液体が入っている。
よくよく見ると微かに赤みを帯びたそれは、独特の強い匂いを放っていた。
魚の臭み消しなどに用いるもののようだ。
「これはつけた方が食べやすそうだな。では……」
容器から直接、寿司に醤油を落す。
ぽたり、ぽたり。
切り身の三分の一ほどが濡れたところで、魔王は容器をテーブルに戻した。
いよいよ準備万端。
若菜が微笑ましい視線を送ってくる中で、寿司を一口で頬張る。
すると――
「……甘いな。これは良い」
口全体に広がる、脂の豊かな甘み。
肉のそれよりも、さらに数段強く感じられた。
魚にありがちな生臭さはほとんどなく、微かにある分もしょうゆの風味によって上手く消されている。
白い物――おそらく、かつて東方で食した米だろう――も、味を増幅させるのに良い働きをしていた。
それ自体は強い旨みを持つわけではないが、魚の切り身と一体になることで、全体の旨みを何倍にも膨れ上がらせ、さらにしっかりとした食べごたえを産みだすことに成功している。
二つセットになっていた寿司であったが、気が付けば無くなっていた。
一つ目の食感が残っているうちに、二つ目も口に運んでしまったのだ。
しかし、まだまだ足りない。
次から次へと、テンポよく口に放り込みたくなるような料理だ。
物を食べた後だというのに、逆に食欲が刺激されてしまったかのようである。
「実に美味であった」
「それは良かった良かった。気に入ってもらえたみたいだね」
「うむ。これならば、我が城の饗宴に出す料理としても相応しいであろう」
「饗宴とはまた……すごいなあ」
魔王の古風な物言いが珍しかったのか、反笑いになる若菜。
彼女は赤い魚が乗った寿司を取ると、テーブルの端に置かれた透明な容器の中から、小さな白い袋を取り出す。
「む、それは何だ?」
「ん? ああ、マグロだよ」
「まぐろ? いやそうではない、その袋に入っている物体だ」
寿司の名称を答えたらしい彼女に、魔王は首を横に振った。
彼は手にしていた箸で、若菜の手に握られた袋を指し示す。
「ああ、こっち! これはワサビだよ」
「わさび?」
「お寿司には普通は入ってるものなんだけど、ここの奴は子どもも食べやすいように抜いてあるからさ。食べたい人は、こうやって袋に入ってるやつを使うの」
「ほう……」
魔王の眼が、たちまち興味深げに細められる。
すると若菜は、ふふんっと鼻を鳴らした。
「ここのお寿司屋さんの奴は、かなり辛いからね。外人さんには多分、キツイと思うよ?」
「ふ、この我が辛みごときで騒ぐものか」
魔王は透明なケースの中からワサビの入った袋を取ると、すぐさま皿の上で中身を出した。
緑色の物体が、にゅるりと顔を覗かせる。
鼻をつく、爽やかな刺激臭。
目まで刺激してくるそれに、少しばかり顔をしかめつつも、魔王はためらうことなくそれを口に運んだ。
「うぐッ!?」
「直接食べるからだよ! バカッ!」
「いつぞやの毒物よりも、効いたかもしれぬ……!」
舌――いや、口全体を走り抜けた辛み。
その刺激は、魔王がこれまで感じたことのない類のものであった。
鼻の奥が刺激され、目に涙があふれてくる。
これまで様々なものを食べてきたが、このような物は産まれて初めてだ。
不味くはない。
強いが一瞬で収まる爽やかな辛みは、先ほどのような甘い魚とは相性が良いであろう。
全体の味を引き締め、さらに臭みも根こそぎ取り去ってくれるに違いない。
だが――魔王にとってそれは、とにかく辛かった。
「ふう、これは単体で食べるものではないな……」
「そりゃそうだよ。薬味なんだから」
「まあよい。それよりも、次だな」
「だったら、マグロがいいんじゃないかな。やっぱ、お寿司と言ったらマグロでしょ」
そう言いながら、二皿目のまぐろを取る若菜。
どうやら、彼女はかなりまぐろが好きなようであった。
魔王はそんな彼女の言葉に従い、新しいまぐろが流れてくるのを待つが――ここで、館内放送が流れる。
『十九時となりました! ただいまより、お待ちかねの本マグロ解体ショーを始めたいと思います!』
「む、なんだ? この声はどこから流れてきているのだ?」
「やったじゃん! このお店の解体ショー、不定期開催だからなかなか見られないんだよー」
「そうなのか?」
なかなか見られないと聞いて、俄然、興味が湧いてくる魔王。
やがて数名の男たちが、巨大な魚を載せた台を店の中央へと運び入れた。
銀色に輝く巨体は丸々と太っていて、大人二人分ほどはありそうだ。
既に死していることは明らかだが、その顔からは風格すら感じ取れる。
「あれがマグロだよ」
「なかなか、大きな魚ではないか」
「うん。あれだと、百キロ以上はあるんじゃないかなあ」
寿司が回っている通路の内側へと運んだところで、男たちは手を止めた。
代わりに、白い服を着た職人が大きな刃物を手にする。
短剣を思わせるほど、鋭く光る刃。
客たちの視線が、一斉にその先端へと集まる。
「それでは、早速解体を始めたいと思います!!」
通路に囲まれた、長方形の空間。
その端で、青いひらひらとした服を着た男が声を張り上げる。
それに合わせて、職人が刃物を振り上げた。
まずは、首の付け根に当たるえらを狙って。
勢いよく刃物が振り落とされる――のだが。
「あれ、なかなか切れないね?」
「うむ、どうやらあまり熟達した職人ではないようだな」
まぐろの解体に、やたらと苦戦する職人。
上手く刃先を立てることが出来ていないようだ。
魔王はしばらく若い彼の様子を見守っていたが、やがてそのたどたどしい手つきが我慢できなくなってくる。
「もうよい、我がやろう」
「……え?」
「こう見えても、我はもともと『神速の魔剣士』と呼ばれた男だ。昔は狩った獲物を解体していたこともあるし、あれぐらいはどうとでもなる」
「ど、どうとでもなるって……え、ええ!?」
混乱する若菜をよそに、魔王は席を立った。
そして魔法の袋から、愛用の魔剣「エルルトース」を取り出す。
漆黒の剣身が、照明を反射して冷たく輝く。
「いざ、行くぞ!」
踏み込み、駆け抜ける魔王。
並の人間では認識すらできない速さで、斬撃が放たれた。
鋼をも容易く裂く真空の刃が、瞬く間にマグロの身を切り分ける。
数秒後。
そこには見事に三枚に下ろされたマグロと、唖然とする職人たちの姿があった――。
少しばかり、お久しぶりとなってしまいました……!
急に冷え込んできて、なかなか体調が……。
でも湯たんぽを導入しましたので、これからは大丈夫のはずです。
よろしくお願いします!