第十六話 魔王、金の代わりに知己を得る
「これは……」
思わず、ため息が漏れた。
これまでに魔王が飲んできたいかなる飲み物とも、異なる味わいである。
口全体に染みわたるような強い苦み。
ミルクによってある程度まろやかにされているが、ともすれば顔をしかめてしまいそうなほどだ。
しかし、その中には微かな甘みと酸味があって、実に奥が深い。
野性味あふれる強い苦み、その奥に秘められた爽やかで青い酸味、わずかだが際立って感じられる上品な甘み……。
一口では、味わいの全てを堪能しきれぬほどである。
やがてゆったりと喉を通せば、どことなく気分がすっきりとする。
頭の奥がスウッとして、瞳が冴えてくるかのようだ。
これは旨い。
大人の味と形容するに、相応しい一杯だ。
かなり熱いが、するすると飲めてしまう。
「これは良いな。店主、もう一杯だ」
「え、お客さんもう飲んだのか!?」
店の奥から、たちまち驚きの声が上がる。
店主の男は、あやうく拭いていた皿を取り落しそうになった。
慌てて娘が駆け寄り、カップの中身を確認する。
すると、確かに白い底がはっきり見えた。
「わ、ほんとになくなってる! お父さん、ちゃんと淹れたての奴出した?」
「当たり前だ! 温いコーヒーなんて、出すわけないだろ!」
「……お客さん、舌は大丈夫?」
大きな目をぱちくりとさせながら、娘は魔王の顔を下から覗き込んだ。
――言われてみれば、人間なら火傷していてもおかしくはない温度であったな。
魔王は軽く舌を出すと、笑って見せた。
娘はほっと胸をなでおろす。
「美味しいのは分かるけど、焦って飲んだら火傷しちゃうんだから! 気を付けてね!」
「ふ、我に限ってそれはない。炎を飲んでも平気な体だ」
「炎って、大道芸人じゃあるまいし……」
冗談もほどほどにしてよね、とばかりに両手を上げる娘。
魔王としてはまったく嘘は言っていないのだが、信じてもらえなかったようだ。
「それじゃ、今から準備するからちょっと待ってて下さいね!」
「うむ。我はその間にこいつを飲むとするか……」
屋久から預かった瓶を取り出すと、中身を煽る。
ねっとりとした液体が、たちまち口の中全体に広がった。
マズイ、どうしようもなくマズイ。
どぶ川を煮詰めた液体に、酸でも加えたような絶望的な味だ。
さしもの魔王も、これには顔を歪める。
「大丈夫? もしかして、今頃になって火傷した?」
「……そのようなことはない。それより、こーひーはまだか?」
「もう少しだから、待ってて」
「ほらよ、出来た!」
父が淹れたコーヒーを、素早く娘が受け取って魔王に差し出す。
口直しがしたかった魔王は、すぐさまそれを流し込んだ。
たちまち、口の中がうがいでもしたかのようにすっきりとする。
「ふう……おかわりだ」
「早いよ!? ほんとにお客さん、いったいどうなってるのさ! 身体平気!?」
「心配せずとも良い。次を頼む」
「……まあ、たくさん飲んでくれるならそれに越したことはないんだけどさ。せっかくなんだし、もう少し味わってよ」
「善処しよう」
三度、差し出されたコーヒー。
魔王は娘から注意されたとおり、今度はゆっくりと味わって飲む。
何とも静かで、穏やかなひと時が流れた。
古びた魔道具らしき箱が鳴らすスローテンポな音楽が、店の中へと染み入っていくかのようだ。
だが不意に、その静寂をぶち壊すかのように店のドアが乱暴に開かれる。
「こらァ! 邪魔するぞ!」
「あ、悪徳地上げ屋!」
「誰が悪徳じゃ! お、そこの男――あれ?」
倒れて泡を吹いているはずの魔王が、ピンピンとしていた。
そのことに突っ込むはずだった屋久は、逆にその場ですっ転びそうになる。
食中毒を出した弱みに付け込むつもりが、これではまったくうまくいかない。
彼はササッと魔王のもとに駆け寄ると、耳打ちをする。
「お、おい! なんで倒れてないんだ?」
「倒れるようなことが、あったか?」
「さっきの薬、飲んだんやろ? せやったら、人間なら――」
「ほれ、空き瓶だ」
魔王は瓶を取り出すと、屋久の目の前でぶらつかせた。
中に入っていた液体は、綺麗になくなっている。
「んなバカな! さ、さてはお前! ここの連中とグルになったんやな! 舐めた真似しおってからに! 俺たちのバックには組も控えてるんやぞ、わかっとるんか!」
「失礼な。我は言われた通りの仕事はしたぞ。お前にもらった薬はすべて飲んだ」
「あれを飲んだ人間が、そないにピンピンしてるわけないやろ! 捨てたに違いない!」
何とも往生際の悪い屋久。
魔王は呆れたようにため息をつくと、肩をすくめた。
本気で怒ろうという気にもならない。
「ならば屋久よ。そなた、もう一本あの薬を持ってはいないか?」
「……一応、予備は用意してある」
「だったらそれを渡せ。お前の目の前で飲んで、証明してやろう」
「待て待て! あれは危険な薬なんや、二本目なんて飲んだら死んでまう!」
「この我が、出せと言っておるのだ」
物静かだが、強烈な威厳に満ち溢れた言葉だった。
――逆らってはならない。
人間にもわずかに残されていた、動物的本能がそう叫ぶ。
屋久の小さな肝っ玉は、一瞬にして縮み上がる。
彼はすかさず軍隊式の敬礼を決めると、うやうやしく瓶を差し出した。
それを手にした魔王は、すぐさまその中身を煽る。
「あ、ああ……!」
「……ふう。不味いな、もう二度と飲みたくはない味だ」
「あ、あんた人間か!? ち、致死量に近いはずやで……!」
「そうだな、もし人間ではないと言ったら?」
瞳に魔力の光を宿らせながら、笑う魔王。
超越的な存在感に溢れた顔は、とても人間のものではありえなかった。
神か、悪魔か。
屋久の穿いているズボンが、暖かく湿る。
「す、すんませんしたー!!」
彼は雄たけびを上げると、そのまま店から逃げ帰っていった。
急ぐあまり、靴が片方飛んでしまう。
後に取り残された魔王は、気を取り直すかのように落ち着き払った態度でコーヒーを口に運んだ。
――いったい、この人は何者なのか。
突然のことに固まっていた店主親子は、ゆっくりとした動きで魔王の顔を見た。
そして、緊張の糸がほぐれていくとすぐさま叫ぶ。
「す、すご!! あのウキウキフィナンシャルを、一瞬で追い払っちゃった!!」
「すげえなお客さん!! 何者ですか!?」
「名乗るほどの者ではない。……はあ」
「な、なんです? 浮かない表情ですなあ。まさか、さっき飲んだ奴が効いてきたんですか!?」
「仕事料をさっきの男から貰い忘れてしまってな。半分、我の方からやめたようなものだから仕方ないと言えば仕方ないのだが……金がない……!」
懐から人物の顔が描かれた札を取り出すと、数える。
だが、どれほど正確に数えようとしても四枚だ。
その数が増える残念ながらなかった。
「……お客さん、そんなに金がないんですかい?」
「ああ、手持ちがこれだけしかない」
「そうですか。だけど、それだけあれば十分じゃないですか? 私なんて、小遣い二万ですよ……とほほ!」
やるせない顔をしながら、言う店主。
立ち退き騒動の影響は、彼の財布を直撃していた。
「しばらく食うには、十分かもしれぬ。だが、我にはやらねばならぬことがあるからな」
「いったい、何をするの?」
「近々、城でパーティーが開かれてな。その準備を、この四万でやりくりせねばならないのだ」
「城でパーティーって、すごいですねえ! お客さん、どこかの国の貴族さんかなにかで?」
「すっご! ほんとなの!?」
目を輝かせる店主親子に、魔王は軽くうなずいた。
貴族階級の出身ではないが、現在は王なので間違っているわけでもない。
「そんなところだな。貴金属などはあるのだが、都合で変えられぬのだ」
「ああ、日本はそういうことにうるさそうですからねえ。お可哀そうに」
「ねえ! それだったら、私がお手伝いしようか!?」
突然、娘の方が切り出して来た。
彼女の言葉に、魔王だけでなく父親の店主までもが目を丸くする。
「おい、若菜――」
「お父さんはちょっと黙ってて! お客さん、この国の人で知り合いは居るの?」
「いや、居ない」
「じゃあ、料理人の知り合いは?」
「居るにはいるが、こちらには来られぬ」
「そう! だったら私、役に立てると思う。これでも料理人の卵なの、いろいろとアドバイスできると思うわ!」
思いっきり胸を張る少女。
栗色の髪が揺れて、翡翠の瞳が強く輝く。
生気に満ち溢れたその顔からは、ただならぬ自信のほどがうかがえた。
魔王は彼女の様子に、ほほうと目を細める。
「良かろう。そなた、名は?」
「若菜よ! 葵若菜、覚えやすいでしょ」
「うむ、ではこれを持っておけ。近々、またこっちに来る」
「え?」
魔王は若菜にマーカーとなる石を手渡すと、そのまま光に包まれて消えた。
日本に滞在できる期限の三時間を過ぎてしまったのだ。
いきなり姿を消した彼に、若菜は呆然としながらつぶやく。
「あ、コーヒー代まだもらってないや」
――怪しいガイジンさん、コーヒー三杯計九百円。
この日、コーヒーショップ葵の伝票に初めて魔王のことが記載された――。
魔王様に現地妻……ごほん、案内人がつきました!
いつかニスロクと対決しそう……!