第十五話 魔王、初めてのコーヒー
「我を招くにしては、薄汚れた建物であるな」
「は、はは! なにぶん築年数が古くてねェ。気にしないでくださいよ」
顔を少し引きつらせつつも、丁寧に答える屋久。
彼に連れられて魔王がたどり着いたのは、五階建てほどの四角い建物の前であった。
道路の脇に立っている都合であろうか。
元は白く塗られていたであろう外壁は灰色にくすみ、前面に張られたガラスもぼんやりとしてしまっている。
住人は少ないのだろう。
玄関にも、そこから入った奥にも人気はなかった。
屋久に連れられてガラスのドアを潜ると、そのまま彼は壁際まで進む。
節くれだった指が、すぐさま壁に張りつけられたボタンを押した。
たちまち横に備えられていた取っ手のないドアが開き、狭くて四角い倉庫のような場所が姿を現す。
「さ、乗った乗った!」
「なんだこれは。このように狭い場所に、我を押し込めるつもりか?」
「やだなあ、エレベーターじゃないですか。冗談言ってないで、早く行きましょ?」
「……あいわかった。もしこのえれべーたーとやらが我に害をなすものであれば、承知はせぬがな」
「…………大丈夫やって」
――本当に、どこの国からやってきたんだ?
魔王のあまりの世間知らずぶりに、さすがの屋久も頭が痛くなってきた。
欧米系の顔立ちをしているが、もしかしてアフリカの奥地出身とかなのであろうか。
彼の頭の中で、魔王が石槍を片手に裸踊りを始める。
「む、上に昇っているのか?」
「ええ。俺たちの事務所は、五階なんで」
「ほう、高いところにあるのだな」
話しているうちに、エレベーターが停まった。
扉が開き、殺風景な廊下が魔王の目に飛び込んでくる。
屋久に連れられてそこを通り過ぎると、やがて突き当たりの部屋の前に辿りついた。
薄いドアには、屋久から貰った名刺に描かれていたのと同じ文字が躍っている。
「社長、新入りを連れてきましたぜ!」
「おう、よくやったな!」
部屋の奥に置かれた、分不相応なほど大きな執務机。
そこに腰を掛けた五十半ばほどに見える男が、鷹揚な態度で屋久と魔王を迎え入れる。
「新入りさん、わてがこの事務所の社長や。よろしゅうな!」
「うむ、よろしく頼む」
「さて……早速仕事の話といきましょか。わてらの会社は今、取引先の建設会社から依頼されてマンション用地の取得をおこなってますのや。せやけど、どうにも出て行かない連中がおりましてな。そいつらを追い出す手伝いをしてほしいんや」
「……ようは、人間を特定の場所から叩きだせばよいのだな?」
「ええ、そういうことですわ」
「ならばよい方法がある」
そういうと、魔王は懐から黒い球体を取り出した。
親指ほどのサイズのそれは、脈打つような紫の輝きを放っている。
ただ見ているだけで、緊張感のあまり汗が出てくるようであった。
およそ、まともな物体ではないことが魔術の素養など一切ない屋久や社長にもわかる。
「……なんだ、それは?」
「魔道爆弾だ。これ一発で、どんな強固な城塞でも更地となる。かつて偉大なる初代魔王は、この強化版で地上をすべて吹き飛ばそうとしたとか」
「そ、そんなもん使えるか!!」
顔を真っ青にして、怒鳴る社長。
魔王は「そうか」と小さくつぶやくと、魔道爆弾を魔法の袋へと収めた。
魔王の隣にいた屋久が、ほっと胸をなでおろす。
爆弾など冗談だと考えてはいたが――そうとは思い切れない何かが、魔王が取り出したものにはあった。
「ならば何をすればよい? 潜入して、皆殺しか?」
「…………あ、あんたは自分の考えでは何もやらないでくれ! わてらの指示した通りに動いてくれれば、それでええから!」
「そうなのか、わかった」
社長の懇願に、魔王は詰まらなさそうな様子ではあったもののうなずいた。
――こいつ、テロ組織の一員か何かか?
魔王の危険すぎる思想に恐れをなしつつも、社長は気を取り直して言う。
「ごほん! 屋久、ひとまず資料を」
「はい!」
屋久から魔王が手渡されたのは、二枚の絵と地図であった。
社長はまず地図の方を手にすると、その中心に描かれた四角形の端を指さす。
他は全部白く塗りつぶされているのに対して、そこだけ赤く塗り分けがされていた。
「まず、マンションの建築計画があるのがこの四角い場所や。現在までにほとんどの用地取得は完了しておるんやけど、この赤い部分に住んでおる親子が頑固者でねえ。ちっとも出て行かねえのさ」
「その親子っていうのが、写真に写ってる二人やで」
恐ろしく精密な絵――写真というらしい――を手に、屋久が言う。
二枚の写真には、それぞれ四十代ほどの男と十代前半ほどに見える少女の姿が映されていた。
男の方が父親で、少女の方が娘らしい。
眼元がよく似ていて、両者ともに意志の強そうな瞳をしていた。
「ほう、これは確かに頑固者のような雰囲気だな」
「せやろ? かれこれ一年近くに渡って粘っててな。うちとしても、本当に困ってますのや」
「それで、我は何をすればいい?」
魔王が尋ねると、社長はクイッとメガネを持ち上げた。
彼は魔王たちの方に向かって前のめりになると、囁くように言う。
「この親子は、小さな喫茶店を経営してましてな。そこでちょいと、問題を起こしてほしいんや」
「具体的には?」
「ここに、わてらが用意した強力な下剤があります。あんたはまず中に入って、コーヒーでも頼んでこっそりこれを飲み干すんや。んで、腹を下したところで食中毒やと大騒ぎ。店の信用はがた落ち、連中も土地を手放さざるを得なくなるはずや」
楽しげに眉を歪める、社長と屋久。
彼らは魔王に、ゆっくりと紫色をした瓶を手渡す。
中には黒くてどろりとした液体が入っていた。
実のところ、この瓶の中に入っている液体は下剤などではない。
それより遥かに強力な劇薬だ。
さすがに死ぬほどではないが、飲み干せば長期入院は免れないような代物である。
彼らは魔王をも、捨て駒にするつもりだった。
「これを飲むだけで、三十万! どや、ぼろい商売やろ?」
「そうだな、時間のない我にはうってつけだ」
「そうと決まったら、行動開始や! 早速行って来い!」
「へーい! すぐに!」
屋久は魔王の手を引くと、すぐさま事務所を発った。
彼と魔王は住宅街の道を突き進み、やがて一軒の店の前で立ち止まる。
こじんまりとしたその建物は、屋久達の言う通り、広々とした更地の端にぽつねん立っていた。
緑のスレート屋根が、広い青空によく映えている。
「ずいぶん、良い匂いのする店だな」
風に乗って流れてくる香ばしい匂い。
それは微かに甘く、ほろ苦かった。
魔界では嗅いだことのない類の匂いに、たちまち魔王は鼻をひくひくとさせる。
上品で奥深いそれは、魔王をしてすばらしいと思うほどの匂いだ。
「本格コーヒーを売りにしてる店ですからねえ」
「本格こーひー?」
「……まさかあんた、コーヒーまで知らないのか?」
「知らぬ。どのような食べ物だ?」
「……おいおい。まあいいや、試しに一杯飲んでみな。あの店の奴、俺が言うのも変だが結構うめえからよ」
そういうと、屋久は魔王の肩をポンポンと叩いた。
そして彼の背中を軽く押して言う。
「俺はここで待ってるぜ。じゃあ、せいぜい上手く演技しろよ」
「任せておけ。こいつを飲めばいいのだな」
「そうだ、もし何かヤバいことになっても俺たちの名前は出すなよ!」
「あいわかった」
こうして魔王は屋久と別れると、喫茶店の扉を開けた。
たちまち、カランカランと気持ちのいい音がする。
ドアに鈴がつけられているようであった。
「いらっしゃい!」
すぐさま、若い娘が声をかけて来た。
栗色の髪をした、溌剌とした印象の少女である。
この喫茶店の制服なのであろう、ひらひらとした給仕服のようなものを着ている。
それが写真に写る少女と同一人物であることを確認した魔王は、軽くうなずく。
「こーひーとやらを一杯」
「あいよ。ブラックでいい? それともミルクつける?」
「……良くわからんが、お勧めの方で頼む」
「じゃあ、ミルクかな。初めての人にはそっちの方が飲みやすいし」
「わかった、ではそれで頼む」
「オッケー! お父さん、お願い!」
「おう! じゃあお客さん、そこに腰かけてください。すぐお持ちしますから」
カウンターの奥で、白い皿を拭いていた店主らしき男。
その誘導に従って、魔王はゆっくりとカウンターに腰を下ろした。
やがて彼の目の前に、ほこほこと湯気を立てる黒い液体が出される。
そのあまりの黒さに、魔王は思わず目をぱちくりとさせる。
「これがこーひーか?」
「そうだよ。お客さん、もしかして初めて?」
「……恥ずかしながら」
「ま、ゆっくり飲んでみるといいよ。ちょっと苦いけど」
恐る恐る、魔王はコーヒーを口へと運んだ。
すると――
「これは…………!」
魔王の脳内を、電撃的な衝撃が走り抜けたのであった――。