第十一話 老パティシエの店
「……ふむ、また静かなところに出たな」
閉じていた眼を開くと、魔王の視界に飛び込んできたのは落ち着いた雰囲気の街並みであった。
二階建てほどに見える家々が、無数に軒を連ねている。
周囲に人通りはほとんどなく、この異界でよく見かける四角い馬車もどきも見かけない。
道幅は細く、脇には細くて丸い石柱がぽつぽつと等間隔で並んでいる。
そこから伸びるロープのようなものは家々と繋がり、少しごちゃごちゃとした印象だ。
おそらくは、住宅街なのであろう。
住人の少なさは、みな朝から仕事にでも出かけているからであろうか。
「何か良い土産があるとよいのだが……うむ……」
ひとまず見渡してみるが、この場に店らしきものの気配はない。
魔王は仕方なく、細い路地をゆっくりと進む。
やがて道幅が広くなり、視界がにわかに開けた。
坂だ。
密集した住宅街が、小高い丘に沿って波を打つかのように広がっているのが見える。
その家並みを割るように、一本の通りがあった。
針葉樹の並木道で、脇には洒落た商店らしきものの姿もある。
名所にでもなっているのか、坂の麓には大きく看板らしきものまで出ていた。
「む、なんだあれは」
坂の頂上付近から、長い行列が伸びていた。
このあたりの家々とは少し違う、青い屋根をしたどこぞの屋敷のような構えの建物。
その入り口に向かって、数えきれないほどの女性たちが並んでいる。
どれほどの数が居るのだろうか。
その列の長さときたら、上部が霞んでしまうほど長い坂道を、すっかり埋め尽くしてしまいそうなほどだ。
いったい何があるというのか。
気になった魔王は、最後尾に並んでいた二人連れの女に声をかける。
「そこの女子よ」
「……はい?」
「そなたたちはどうして並んでおるのだ?」
魔王に声を掛けられた女は、二人揃って顔を見合わせた。
彼女たちは黒いマントを羽織った得体の知れない魔王の姿に、おっかなびっくりと言った様子で答える。
「えっと……この先に、すっごい人気のあるケーキ屋さんがあるので……ケーキを買いに」
「けーき屋?」
「テレビとかでも紹介されてる、ル・アトランティエってところです」
「良くわからぬが……女子に人気のある物を売っているのか?」
「え、ええ……まあ」
若干、顔を引きつらせながらも肯定する女たちに、魔王は満足げにうなずいた。
そして、畳みかけるように尋ねる。
「そのけーきというのは、食べ物なのか?」
「え……? そりゃもちろん」
「ほう……。旨いのか?」
「テレビで取材されるぐらいですから、そりゃあ、おいしいんじゃないですか?」
「持ち帰りには、適するか?」
「たぶん……ほとんどの人は、家に買って帰るものだと思いますけど」
「あいわかった。我もそのけーきとやらを買うことにしよう」
眉を顰める女たちをよそに、魔王は列の最後尾へと収まった。
――これは良い土産が買えそうだ。
彼の頭の中はこのことでいっぱいで、周囲の人間たちを気にする余裕などまったくなかったのだ。
いったいどのような食べ物が、待ち受けているのであろう。
足で軽く調子を取りながら、列が短くなっていくのをただひたすらに待つ。
とにかく待つ、待ち続ける。
「なかなかに時間がかかるな……」
気が付けば、日もすっかり高くなっていた。
待ち始めてから、小一時間は過ぎたであろうか。
だが、まだ坂の半ば。
まだまだ時間はかかりそうである。
三時間という時間制限のある魔王は、少しずつ焦り始める。
「むむッ……。これは、店をかわった方が良いか?」
さらに一時間ほどが過ぎた頃。
魔王はまだ店には入れていなかった。
あと少し。
店の扉はすぐそばまで迫ってきているが、そのあと少しがどうしようもなく長い。
時間が引き伸ばされたような感覚に、魔王は苛立ちを覚え始める。
「まだ辿りつけぬのか! ええい!」
ただならぬオーラを出し始めた魔王。
彼はダンッと足を踏み鳴らす。
敷き詰められていた煉瓦が砕け、大地を亀裂が走った。
近くの街路樹が、衝撃でたくさんの葉を落とす。
あまりのことに、周囲の女性たちは顔を引きつらせて魔王から距離を取る。
「もうよい! 他の店に行くぞ!」
そういうと、魔王は周囲の視線をよそに列を離れた。
こうしてできた合間を、他の女性たちは恐る恐る埋めていく。
ケーキは数量に限りがある。
購入するために、少しでも前へ行きたいのだ。
たとえ、よくわからない男が空けた隙間だとしても――埋めておきたい。
一方の魔王は、他に「けーき」が売っている店がないかと探し始める。
すると――
「けーき、けーき……うぬ?」
目的としていたケーキの、通りを挟んですぐ向かい側。
大きな建物に挟まれ、やや奥まった場所に小さな店があった。
山小屋を思わせるような雰囲気で、少し寂れているようだが、看板らしきものを出している。
よくよく見れば、目の前の店と同じようなマーク――おそらくはケーキを模したものだろう――を掲げている。
魔王はすかさず、通りがかりの人間に声をかけて聞く。
「すまぬ。あの看板には何と書かれている?」
「え!? えーっと、ケーキショップ・マツバって書いてありますけど」
「けーきしょっぷというのはつまり、けーきを売っている店ということか?」
「そうですけど」
「分かった、礼を言うぞ!」
尊大な態度でそういうと、魔王はすぐさま通りを渡った。
そしてそのまま、ケーキショップ・マツバの前へと歩み寄っていく。
近くで見ると、その寂れ具合が遠目で見るよりもずっと深刻なものであることが分かった。
陰気な雰囲気がそこかしこから溢れている。
軒下には蜘蛛の巣まで張っていて、ドアの握り手の部分が少しさびていた。
しかし、こうなってしまった以上は後には引けない。
魔王はゆっくりとドアを開く。
そして――
「これは……良い匂いだ」
魔王の脳にあった、店への不信感がみるみる消えていく。
鼻孔を通り抜ける優しく甘い香り。
砂糖を焼いたようであるが、独特の粘るようなしつこさがない。
むしろ、すっきりと爽やかな風味すらある。
――なるほど、けーきというのは菓子だったのか。
ケーキの正体を知った魔王は、納得したようにうんうんと頷いた。
魔界においてもそうだが、この異界においても女は菓子が好きらしい。
「お客さんかい?」
やがて店の奥から姿を現したのは、白くパリッとした衣を着た男であった。
かなりの高齢で、頭は雪を被ったかのように白く、腰もくの字に近いほど曲がっている。
だがその目にはしっかりとした光が宿っていて、男がまだまだ活力に満ちていることをはっきりと示していた。
魔王は皮膚の厚くなった手を見て、その男が職人であることを一目で見抜く。
「うむ。この店で、けーきとやらは売っているか?」
「そりゃ、ケーキ屋なんだから売ってますよ。何になされますか?」
男はカウンターの裏へと回り込むと、何かの操作をした。
するとたちまち、ガラス製のケースに光が灯る。
中に浮かんでいる菓子の数々が、発光のもとに照らし出された。
宝石か、はたまた芸術か。
並べられた美しいケーキの数々に、魔王の眼がみるみる見開かれる。
今まで見たことがないほどに、それらは完成された姿を誇る食物であった。
砂糖を溶かしたものを塗っているのであろうか。
宝玉にも似た輝きを放つものさえある。
「これは……!」
「あんまり人が来ないから、普段は照明を落してましてね。ご新規さんが来たときだけ、つけるようにしてるんですよ」
「流行っておらぬのか? これほど美しい物を売っているのに?」
「隣の店が出来てから、ぜーんぶ客を持っていかれちゃいましてね。なんでも、超イケメンパティシエとやかで。うちに来るのは、古い常連さんぐらいのもんです」
「イケメン?」
「男前って意味ですよ。私が、もう少し若ければ……! 負けなかったはずなのに……!」
そう言った店主のは、どこか遠い眼をしていた。
きっと、自身の若かりし頃を思い起こしているのであろう。
ほんのりと顔が赤いのは、恥ずかしさゆえか。
――それよりも、もっと勝負をすべき点があるのではないか……?
魔王はそんなことを考えつつも、早速注文を出す。
「ではそうだな……。まずはこの透明な棚に入っている物を、すべて貰えるか? 少し足りぬから、追加もしてもらえるとありがたい――」
いつの間にか、日間八位……!
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