第十話 ハーレム怖い!
魔界にも朝はある。
厚い瘴気に閉ざされた昏い空が、黒から緋色へと変わり始めた頃。
ほのかに差し込む光に、魔王はベッドの奥でもぞもぞと身体をひねる。
しっとりとした羽毛の掛布団が、はさりと衣擦れの音を立てた。
やがて、ゆっくりゆっくりと薄い目蓋が持ち上がる。
すると――
「……なぬッ!!」
いきなり視界を埋めた女の美しい横顔。
青く澄んだ瞳が、気だるげに細められている。
見覚えのある――いや、ありすぎるそれに魔王はたちまち悲鳴を上げた。
彼はそのまま布団を吹き飛ばすと、キングサイズのベッドの端へずるずると移動する。
もともと色白な顔が、血の気を失って蝋のような色合いとなった。
「おはようございますわ、魔王様」
「あ、アメル! そなたなぜここに居る!」
「何故って……。魔王様があんまりにもつれないからですわ。先日も、いきなり逃げてしまわれて。私、それはそれはショックでしたのよ?」
「……まさか!」
魔王はとっさに、自身の着衣を確認した。
上着もズボンも、特に乱れはない。
念のため臭いを嗅いでみるが、特に「それらしき」臭いはしなかった。
「やってはいませんわ。もしそんなことをすれば、ニスロクに殺されてしまいますもの。ただちょっと、添い寝を致していただけですの」
そういうと、アメルは布団を持ち上げて自身の肢体をさらけ出した。
薄く透けるネグリジェに包まれたそれの造形は、実に暴力的。
アメルの性格と種族を表すかのように、凶悪極まりない起伏を誇っている。
宙に浮いたように揺れるふくらみ、内臓を忘れたかのようにくびれた腰、長く肉付きの良い足。
さしもの魔王も、思わず息をのむほど見事なものである。
「魔王様が夜中に目を覚まして誘ってくれないかと思っていたのですが……。今でももちろんよろしくてよ? 朝に行うのも悪いものではありませんわ。私にお任せいただければ、至福のひと時を――」
「そこまでだ!!」
いきなり、寝室の扉が開かれた。
黒髪の女魔族が、ズカズカと足を踏み入れてくる。
刃を思わせる鋭くも凛々しい顔立ち。
上背があり、騎士を思わせる紅の礼装がぴったりと似合っている。
額には、種族の象徴であるねじれた角。
龍神族の姫にして、最強の女騎士と言われるベルーナだ。
彼女は二人のいるベッドへと近づくと、アメルの肩をわしづかみにした。
「抜け駆けはいかんぞ、アメル!」
「げ、爬虫類……!」
「誰が爬虫類だ! 私は誇り高き龍神族、爬虫類などとは違う!! 貴様のような低俗な魔族ともな」
「誰が低俗ですって! だいたい、なんであなたはここに来ましたの!」
「貴様が卑怯な抜け駆けをしようとしておるからではないか!」
「何を! そういうベルーナさんだって!」
アメルの細い指先が、ベルーナの胸元を指し示す。
普段は銀色の装甲によって、がっしりと守られている胸。
そこが今日に限っては、大胆に露出されていた。
紅い礼装の隙間から、白く深々とした谷間が覗いている。
堅物で風紀にうるさいベルーナには、およそ似つかわしくない格好だ。
「こ、これは……!」
「あなたも、魔王様を誘いに来たんじゃありませんの?」
「そ、それはだな……!」
言い争いを始める二人。
その隙をついて、魔王はこっそりと部屋からの離脱を図った。
やがて廊下に出た彼に、一人の少女が声をかける。
色の抜けたような白髪と華奢な体格が特徴的な彼女は、白狼族の姫ヘルネスだ。
「ん。魔王様……おはよう」
「ぬ……! そなたまで!」
「今日こそ、魔王様には私の旦那様になってもらう」
「あいにくだが、そのようなわけにはいかぬ!」
こんなこともあろうかと、城のあちこちに仕込んで置いた転送術式。
魔王は床に手をやると、そのうちの一つを起動した。
たちまち光が彼の体を包み込み、視界が歪む。
数瞬ののち、正常に戻った彼の眼には薄暗い屋根裏部屋が映し出された。
「やはり、こちらに来られましたか」
「む、ニスロクか」
「私もおりますぞい」
振り返れば、そこにはニスロクとマンモンの姿があった。
付き合いの長い二人には、魔王が非常時に取る行動はお見通しだったようだ。
「やれやれ、ひどい目に遭った。いくら魔界会議が近づいているからと言って、あそこまで連中が積極的になることは初めてだな」
「魔王様がいつまでも結論を先延ばしにされておられるから、いけないのです」
「だからといってだな、急に行動に出られても困る」
これまでも、それとなくモーションを掛けてくることは多々あった。
みな、魔王の妃となるべく魔界の有力種族から送り込まれた姫たちである。
魔王を手に入れるために、積極的な行動に出ることは当たり前なのだ。
しかし、魔王本人の意思を無視して添い寝までするのは今回が初めてである。
「先日、アメルさまをほっぽりだして異界へ逃げられたでしょう? あれが相当、彼女には堪えたようですね。他の姫様は、アメルさまの積極性につられてと言ったところでしょうか」
「なるほど、そういうことか。うむ……」
「ここはひとつ、正式に妃を決められてはいかがかな? さすれば、皆大人しくなりましょうぞ」
「それは絶対にならぬ。我はまだまだ独身を満喫したいのだ。小うるさいのはニスロクだけで十分だからな」
魔王の言葉に、ニスロクの頬が赤くなる。
だが彼女は首を勢いよく横に振ると、すぐに気を取り直した。
「こほんッ! 魔王様がまだ結婚したくないというのであれば、強くは言いません。ですがこのような有様では、仕事にも差しさわりがございます。何とかしていただかなければ」
「それはそうだな。うーむ、なんとか連中を上手くなだめる方法はない物か……」
「魔王様、しからばわたくしめに良い考えがございます」
「言ってみるが良い」
魔王に許可を得たマンモンは、もったいぶるように咳払いをした。
彼はゆっくりと息を吸い込むと、おもむろに口を開いて言う。
「ここはひとつ、姫様たちにプレゼントを為されてはいかがでしょう。魔王様が皆のことを忘れていないとしっかりアピールすれば、過度な行為は慎むのではないでしょうか」
「プレゼントですか、良いかもしれませんね。しかし、何をプレゼントしたものでしょうか……。あの姫様たちを喜ばせようと思うならば、相当の品が必要かと」
魔界の姫ともなれば、贅沢は普段からし尽くしている。
簡単に手に入るような財宝では、喜ばせることは至難の業だ。
かといって、七人全員に相応の品を用意しようとすると、流石の魔王にも大きな負担となる。
「そうだな、ならば……異界の品など良いかもしれぬな。それならば連中にも珍しいであろう」
「妙案でございます。ラーメンとかラーメンとかラーメンとか、良いかもしれませんね」
「……言ったであろう。ラーメンは持ち運びに向かぬと」
珍しく目を輝かせて「ラーメン」と連呼するニスロクに、魔王は申し訳なさそうにいう。
先日の土産話をして以降、彼女はすっかりラーメンの虜となってしまっていた。
是非一度食べさせてやりたいものだが――こればかりは魔王にもどうしようもない。
さすがの彼でも、ラーメンをそのままの状態で魔界へ持ち帰るような器用なことは難しかった。
「まあよい。一度、向こうで良い品が無いか確かめて参ろう」
「出来れば食べ物が良いです、魔王様」
「……そうだな。そなたの分も、こっそりと用意しておこう。では、行って参る!」
そういうと、指輪に魔力を込める魔王。
こうして彼は、また異界へと飛んだのであった――。