第一話 ガード下の焼き鳥屋
「王とはまあ、つまらぬものよ」
大人が大の字になって寝転がれるほどの大きさを誇る、黒木の執務机。
その上を隙間なく埋め尽くし、天井を伺うほどの背丈を伸ばした書類の山を前に、魔王はただただうな垂れた。
――いつから、自分は書類の山に埋もれてのみ日々を過ごすようになったのか。
並外れた魔道の技と剣術によって、一介の魔剣士より王に成り上がってはや数百年。
魔族の寿命は永劫に等しいとはいえ、時をただただ無為に過ごし続けているような気がしてならない。
毎日変わらぬ仕事を毎日変わらぬペースで行い、それが終われば適当に食事を済ませて眠る。
誰よりも重要な仕事をこなしているはずなのに、あまりにも甲斐のない日々のように思えた。
魔王による統一がなされて以降、魔界は平和そのものであった。
魔族は暴力を何よりも信仰する種族である。
力こそがこの世のすべてで、力のない者には決して従わない。
逆を言えば、圧倒的な力を持つ者には極めて忠実だということである。
桁外れの力を誇る魔王であれば、魔族たちを大人しくさせることなど子犬をしつける程度のことでしかなかった。
「ニスロクはおるか?」
「は、ここに」
部屋の陰から、メイド服を纏った少女が姿を現す。
魔王の数百年来の従者であり、この魔王城の実質的なナンバー3である悪魔メイドのニスロクだ。
彼女は前髪を軽く整えると、優雅な仕草で頭を下げる。
そのさまは一服の絵画のようで、女慣れしていない男が見ればたちまち頬を赤らめてしまうであろうほどの、洗練された色香もあった。
しかし、見慣れている魔王は彼女の悪魔めいた美貌にも何の感慨も抱かずに言う。
「何か良い暇つぶしはないか?」
「お恐れながら魔王様、仕事がご覧のありさまでございます」
「うむ、だから仕事に厭いてしまったのだ。何か良い気分転換をせねば、進むものも進まぬ」
魔王の掌の上で、ペンが踊る。
いつもよりも幾分か速くスピンするそれを見たニスロクは、魔王の病状がかなり深刻であることを察した。
こうなってしまうと、休息を取らせて何か別のことをさせない限りは絶対に仕事をしない。
例え勇者がこの城へ来たとしても、魔王は動かないだろう。
魔王と言うのはそういう人物で、ニスロクはその性格を誰よりも深く把握していた。
「かしこまりました。では、適当にうっとおしい国でも潰しましょうか?」
「そういうのはあまり趣味ではないと言っておるであろう。勇者でもおれば別なのだがな」
「さようですか。ならば、このような物はいかがでしょう?」
そう言って彼女が差し出したのは、小さな黒い宝石箱であった。
魔王が開けてみれば、古ぼけた銀の指輪が台座に収められている。
かなりシンプルな造りの指輪で、中心に渦巻きを模したような装飾がなされているだけであった。
宝石がはめ込まれているわけでもなく、さらにはところどころ黒ずんでいる。
広大な広間を埋め尽くしてしまうほどの財を所持する魔王からすれば、もはやガラクタを通り越してはっきりゴミとすらいえる品だ。
――濃密な魔力さえ、帯びていなければ。
「……ほう。そなた、これをどこで手に入れた?」
「オルフィールの古代遺跡より発掘されたものでございます。何でも、異界への扉を開く魔法具であるとか」
「それは素晴らしい! なぜ、もっと早く我に知らせなかったのだ!」
「誠に勝手ながら、お仕事に差し支えがあると判断いたしました」
そう言われてしまうと、強くは言い返せない魔王。
もしこの指輪の存在をもっと早くに知っていたら、仕事をもっと早くに放り出していたことであろう。
もっとも、知らされなくてもこうして半ば放置してしまっているわけであるが。
「この指輪をはめて、魔力を込めると異界に赴くことができるそうです。ただ、これにはいくつか制限がございまして」
「どのようなものだ?」
「はい。まず、第一にこれを起動させるためには莫大な魔力が必要です。三百万マグス――魔王様の全力とほぼ同等ですね」
「ほうほう。次は?」
「異界へ行っていられる時間に制限がございます。最大で、約三時間。それだけの時を過ぎますと、使用者は術を発動した場所へと強制的に帰還いたします」
なるほど、確かに厳しい制限だと魔王は思った。
まず、三百万マグスというのが並の者ではおよそ達成不可能な数字だ。
これは人間の魔術師ならば三百人分、高位魔族でも三十人分の魔力総量に相当する。
個人ではまず用意することなど不可能で、国家単位で準備をするような値だ。
もっとも、魔王からしてみれば一晩ゆっくりと休めば回復できる程度であるが。
続いて三時間という制限。
一見して長いようにも思えるが、本格的に異界探索をするなら物足りない時間だろう。
探求心に富んだ学問の徒であれば、小石一つ調べるだけでもそれぐらいの時間を消費しそうだ。
異世界とはそれほどに行くのが困難で、謎と不思議に溢れた場所なのである。
「なかなかに難儀であるな。だが、暇つぶしには良さそうだ」
「かしこまりました。では、こちらを」
そういうと、ニスロクは黒いマントを差し出した。
流水のような光沢と滑らかさを持つそれは、黒竜の皮を丹念に鞣して作られた逸品である。
魔王が魔将軍と呼ばれていた頃より愛用している品だ。
通常の布であれば朽ちてしまって使い物にならなくなるほどの年月を経ているが、魔界一の力と凶悪さを誇っていた竜の革より作られたこれは、魔王の魔力を吸い込んで頑強になる一方である。
「では、行って参る。しばし城のことは任せた」
「はい、どうかお気をつけて」
「案ずるな、余は魔王ぞ」
口元を歪めて笑う魔王に、ニスロクはゆっくりと指輪を差し出した。
魔王はそれを左手の中指にはめると、魔力を込め始める。
指輪の中心にあしらわれた、渦を模した装飾。
それが見る見るうちに強い光を帯びていった。
心臓の鼓動のように、脈打ちながらも次第に勢いを増す光の洪水。
やがてそれが臨界を超えると、魔王の姿は一瞬にして消失した――。
「ここが異世界か……。面白い」
周囲に広がる景色を眺めながら、魔王はひとり呟く。
魔王城にも匹敵する高さを誇る、長方形をした塔。
それらが無数に立ち並び、夕暮れの弱い日差しを滑らかに反射していた。
光っているのは、すべてガラスであろうか。
高価なはずのそれらが、ごくありふれた建材として多用されている。
どちらを向いても、ガラスのない場所がないほどだ。
人間であれば、富に目がくらんでこれらを砕いてでも持ち帰ろうとしたことであろう。
だが財にさほど執着のない魔王は、それらを興味深げに眺めるだけであった。
彼はそのまま、見慣れない異界の街をフラリフラリと散策する。
細かな石を潰して敷き詰めたらしい黒い道。
その上を走る、馬車から馬を取り外したような謎の乗り物。
連なった橋を通り抜けていく、長くくねった銀色の蛇のような何か。
見るものすべてが新しく、魔王の好奇心を大いに刺激する。
「む、この匂いはいったい……」
巨大な蛇に興味を惹かれ、それが通る水道橋のようなものへと近づいていた時のことであった。
これまでに嗅いだことのないような香ばしい匂いが、魔王の鼻を刺激した。
肉が焼けるような匂いが混じっている。
炭の風味もした。
だが、メインはそれではない。
もっと濃厚ながらも、臭みの全くないすっきりとした香りだ。
恐らくは食物の匂いであろうが、魔界の王として美食の限りを尽くしてきた魔王でも知らないものだ。
「そろそろ、夕食時でもあるな。異界の食事というのも悪くはあるまい」
魔王の胃袋は頑強である。
並の魔族が泡を吹いて倒れる様な毒でも、平然と食すことができる。
むしろ、調味料の一種として劇薬を用いるようなことすらあった。
異界の食物でも、よほどのことが無ければ問題なく食べられるだろう。
何より――鼻をつく食欲をそそる香りに、彼はたまらなくなっていた。
犬のように、匂いを頼りに歩く。
こうしてたどり着いたのは、橋の下の何ともひなびた雰囲気の店舗であった。
悪く言えば薄汚れているが、よく言えば独特の趣があると言った感じであろうか。
奥行きが狭い代わりに間口が随分と広く取られた店で、長いテーブルが備えられている。
入口には赤い円筒形をした照明器具のようなものが、ぼんやりと輝いていた。
文字のようなものが描かれているが、魔王には良くは分からない。
時間がまだ少し早いせいか、客はいない。
だが店自体は開いているようで、店主の男が何やらパタパタと煽っていた。
よく見れば、串に刺した肉を炭火で焼いているようだ。
――なんだ、ただの串焼きか。
どんな料理が出るかと期待していた魔王は、ほんの少し落胆した。
だが、この方が逆に安心できるというものである。
気を取り直すと、ゆっくりと店に近づき、下げてあった布を潜る。
「……いらっしゃい」
店主の男は、魔王の姿を見て一瞬戸惑ったようであった。
地面に擦るほどの長くて黒いマントを纏った男など、めったに見かける者ではないからだ。
しかも、彫りが深く目鼻立ちのハッキリとした顔立ちは明らかな外国人である。
「あんた日本語、大丈夫かい? ユーキャンスピークジャパニーズ?」
「うむ、分かるぞ。どうやら、あの指輪には翻訳機能があるようだ」
「翻訳機能……。ああ、スマホのなんかか」
良くは分からないものの、適当に納得する店主。
昔気質な彼にしてみれば、最新のスマホも異世界の魔法もさほど変わらないものであった。
「串焼きを一つ頼む。今焼いている奴だ」
「これかい? タレでいいかね?」
「ん、それでよかろう」
「ビールはどうする、付けとくかい?」
「ビール?」
聞き返した魔王に、店主はやや困ったような顔をした。
彼は空のジョッキを取り出すと、それを傾けて中身をグビグビと煽るようなジェスチャーをする。
――エールか何かだろうか。
彼の仕草からビールが酒か何かだとあたりを付けた魔王は、適当にうなずく。
強すぎるためにほとんど酔わないが、酒は昔から嫌いではなかった。
「よし、ちょっと待ってな」
魔王の前に、濡れた布が差し出された。
彼がそれで手を拭いていると、すぐに金色に輝く液体が手渡される。
相当に冷えているようで、透明なガラスの器が結露していた。
さらに、液面の上には濃密で細かな泡。
彼の知っているエールとは、かなり違った雰囲気だ。
「おお……!」
一口含んだ途端、思わずため息が漏れる。
舌全体に広がる心地よい苦みとしびれるような炭酸の刺激。
限界まで冷やされたそれは、喉を通り抜けるときもすっきりとしたキレがあった。
たまらない。
自然とジョッキに手が伸び、魔王の喉がグビグビと鳴る。
「いい飲みっぷりだねえ。はいよ、タレモモだ」
「いただこう」
平らな陶器に乗せられた、三本の串焼き。
それを手にすると、すぐさま頬張る。
たちまち、酒の残り香と炭の風味が混然一体となる。
悪魔的な組み合わせだ、と魔王は思った。
肉自体の脂が少なくあっさりとした旨みと、濃厚なタレの風味。
その両者だけでも十分に互いを引き立てているのだが、そこへ酒が加わることによってさらに倍以上となった。
旨い。
香ばしい串焼きとビールの産みだすハーモニーにとらわれた魔王は、自然と次を注文してしまう。
口に放り込んでは、飲み。
飲んでは口に放り込み。
無我夢中で、幸せな時間がしばらくの間続く。
「うむ、満足だ」
「ははは、気に入ってくれたようで何よりだ。またちょくちょく来てくれや」
「そうだな、機会があれば。して、勘定だが――これで足りるだろうか?」
そう言って魔王が取り出したのは、金貨であった。
それも、魔界で流通している中では最も目方の多い物である。
店主はたちまち目を丸くすると、それを手にして重さを確かめる。
「どこの国のかしらねえが……本物みてえだな。うーむ……」
「足りぬのか?」
「足りると言えば足りるんだがなあ。金貨を使おうとする客なんて、初めてでねえ。お客さん、円は持ってないのかい?」
「円?」
「日本円だよ、日本円」
きょとんとする魔王。
――この様子では、円は持っていなさそうだな。
店主はとっさにそう判断すると、金貨を受け取る代わりに一万円札を五枚握らせてやる。
「円が無きゃ日本じゃ不便だろう。それ、持っていきな」
「良いのか、この紙は金であろう?」
「いいんだよ。金相場には詳しくねえが、むしろこれだけ釣りを出しても足らねえぐらいじゃねえかな。ま、困ったときはお互い様だ」
「では、ありがたく受け取っておこう」
そういうと、店主から受け取った五万円を大事そうにマントの内側へと仕舞い込む魔王。
彼はそのまま店を出ると、すっかり暗くなった街並みへと消えていった。
後に、魔王から受け取った金貨を換金しようとした店主が、それに三十万円もの値がついたことに仰天するのだが――それはまた別の話である。