初めては保健室の先生と
放課後までは授業があったこともあり、それほど長くは感じなかった。
しかしこれから三時間近く余裕がある。
フィオネは教室で勉強を続けていて、予定があるにしてはずいぶん悠長だったけど。
心に区切りをつけるために俺は教室を出ることにした。
保健室に向かい、肉体的な怪我を治療してもらいに来たわけでもないので、事務的にノックしてから入室をする。
「あら。アデルくん。いらっしゃい」
黒い丸椅子がくるりと回る。
パアッと明るい表情が俺を出迎えた。
来て欲しいとは言われてたけど。
そんなに喜ばれるとむず痒い。
「今、お時間よろしいですか?」
「ええ。そこに座って」
メリルは生徒用の椅子を指し示すと、立ち上がって俺に近づいてきた。
白衣を押しのける、あの主張の強い胸にどうしても目がいってしまう。
緩く巻かれた髪は二年前より少し長めで、茶髪で清楚を装ってる女はエロいという真理(俺発見)のもと、レイシアやフィオネたち美少女にはない大人の肉感がより一層乗っていた。
エロい。
何がどうとかいう問題じゃない。
メリルという存在そのものがエロいんだ。
エロという概念の説明に困ったら、メリルを紹介すればいいだろう。
きっとそれが一番早いはずだ。
メリルは俺に歩み寄り、そのまま俺を素通りし、背後でガチャリと音が鳴った。
えっ。
「2人でお話しましょうか」
お話するのにどうして鍵を締める必要があるんですか先生。
「お茶を用意するから、そこに座ってて」
「はい」
き、緊張する。
ビデオレンタルショップで赤い布の先を初めて覗いたときのような気分だ。
なんか、この空間はヤバい。
変なもの撒かれてないだろうな。
さすがにそれはメリルに失礼か。
「最近の調子はどう? 実技試験では大活躍みたいだけど」
「授業は順調です。特に苦労はないですよ」
思わず乾いた笑顔になる。
それを見て、メリルがすかさず切り込んできた。
「何か悩みでもある?」
ズバッと来た。
もはや理解力Aとかいうレベルじゃない。
どうしてわかる。
レイシアは毎日顔を合わせてるからまだ理解できるけど。
心を読むコツがあるなら教えてくれ。
「そう、ですね。今回は挨拶と相談を。しようと思いまして」
バレてしまっては流れを取り繕う必要もない。
俺はアーイェにしたような説明をメリルにもした。
「そう。それは難しい話ね」
メリルは俺に茶菓子を勧めながら、悩ましげに口元に指を添える。
色っぽいな―この人。
こういう気分になるの久しぶりかも。
「これから2人で会って……僕は仲直りをしたいので、どうにか許してもらえるように全力で謝罪するつもりなんですけど。最近あまり気持ちが持ち上がらなくて。少し、不安です」
こういうことを、前世で言うと鬱だと診断されるんだろうか。
表に明確に現れない心の病気。
意思と言動がチグハグになって、その結果に自ら沈んでいく。
多くの人が自覚できないというのも、今なら共感ができる。
「そういう根本的な問題を解決するのは難しいわね。でも、できないわけじゃないわ」
「本当ですか?」
「もちろん。保健の先生だもの」
自信いっぱいに語るメリル。
そうか。
この世界だと保健室の先生は養護教諭じゃなくて立派な先生だもんな。
専門知識が豊富でも不思議じゃない。
「あの、今日中にはさすがに、治りませんよね」
「それはアデルくん次第よ。さ、こっちにいらっしゃい」
メリルはベッドの仕切りを開け、俺をそこに誘導する。
メリルは一発で俺に悩みがあることを見ぬいた。
このエスパーみたいな先生なら、あるいは。
本当に俺を立ち直らせてくれるかもしれない。
「じゃ、服を脱いで」
「はい」
俺がベッドに移動すると、メリルはカーテンを閉め、白衣をポールハンガーにかけた。
「下着も全部ね。ベッドに置いてくれれば先生が畳んでおくから」
「はい」
制服を脱ぐ。
室内は病院と同じように温度管理がなされているため、寒くはない。
「……ん?」
そしてパンツに手をかけたところで、俺は止まった。
しょうきに、もどった。
「なんで俺は脱いでるんだ!?」
「大丈夫よ。先生も全部脱ぐから」
「どこが大丈夫なのか全くわからないんですが!」
そりゃ嬉しいけど。
いつか望んだ展開だけれども。
「俺は今は、そういうことする気分じゃなくて」
両手を前に出して降参のポーズ。
それを見て、メリルは小さく吹き出すように笑った。
「あらあら。それが素なの?」
へ?
あ、やば。
焦ってつい前世口調に。
「俺、ね。いいじゃない。アデルくんらしくて」
「らしいですか」
友達とのやりとりを見られてれば、こういう俺のこともメリルは知ってるのか。
素でいいって言うならそれには甘えさせてもらうけど。
「まあ、その、前はあんなこと言いましたが。先ほども言ったとおり、今は気分が乗らなくて。できれば後日改めて……」
ってなんか、卑しいか。
ここで断っておいて、調子良すぎるかな。
「安心して。先生だって、落ち込んでいる生徒相手に変なことをするつもりはないから」
メリルはなおも脱ぎながら言う。
それはつまり落ち込んでいなければするってことだよな。
まあ知ってたけど。
「でもね、本気で落ち込んでいるときこそ、立ち返るべきは原初なの。よく寝て、よく食べて、それでも回復しなかったら、性欲に頼るのが一番」
そう言って、メリルはピコーンと人差し指を立てる。
それってお前らエキセントリックガールズの専売特許だよな。
こんなひでぇアドバイスはさすがの俺も初めてだ。
「とは言ったけど。まあ、真面目な話をするとね。君も小さいときは、お母さんによく抱いてもらってたんじゃないかな。裸で抱き合えばきっと安らぐものがあるはずよ。生意気かもしれないけど、先生にはそれを提供できる自信がある。もちろん、嫌ならしないけど。どうする?」
そう言われると、な。
現に今は、興奮よりも安心が勝っている。
安心というより、好奇心に近いような、それで俺の深層心理に居座っているしこりをとりのぞけるなら、ぜひそうしたいという願望が俺の背中を強く押している。
「脱いだら、どうすればいいんでしょうか」
「好きに寝ていいわ。恥ずかしかったら、こっちを背中にするといいかな」
俺に気を遣うような口ぶりで、しかしメリルは微笑っていた。
俺を癒やしたいということについて、メリルは嘘をついてはいない。
そういう人じゃないのはわかる。
でも、確実に楽しんでいる。
隠せてないのか、隠すつもりがないのか。
メリルがやりやすいようにしてくれればどっちでもいいや。
「電気、消すわね」
う、うん。
眩しいと寝づらいしな。
「あの、業務の方は」
「いいのいいの。どうせみんな大した怪我なんてしてこないし。いつもお茶してるだけでお金もらってるような仕事だから」
自由過ぎるだろ。
そりゃ才能がものいう仕事だからな。
俺もこの力がなければさぞ恨んでいただろうよ。
「それじゃあ、後ろから失礼します」
「は、はい」
背後から近づいてくる温度。
ベッドをきしませる音と共に徐々に迫ってくるのがわかる。
俺の背中に胸の先がつくかつかないかぐらいのところで、メリルは腕を回してきた。
そうして俺の身体を包み込む。
ピッタリとお腹と背中をくっつけて、ギュッと全身が押し付けられた。
その衝撃は今までで最も優しいもので。
しかしかつてないほどに凄まじいものだった。
水などで濡れていない分、レイシアのときより遥かに生々しい。
「こうしてると、鼓動が伝わるでしょ? 先生はアデルくんのお母さんじゃないからそこまで意味はないけど。聞いてると落ち着くんじゃないかしら」
いや、先生。
すみません。
思ってた以上に興奮します。
アーイェとかレイシアに相談して心が軽くなってたせいか?
このままだと……まずいかも。
よく考えるんだ俺。
ほ け ん し つ で な に や っ て ん だ。
「先生。幸せ過ぎるので、これはダメです」
「あら。どうして? 今の君に一番必要なものじゃない」
「俺にはまだ、そんな権利はないですよ」
同等とはいかないけど。
あいつが苦しんだり怒ってる間は、少なくともな。
「自分が楽になってはいけない。そう思ってるの?」
その通りだよ。
俺は人を傷つけたんだ。
本人に許されるまでは、快楽なんて求めるのはダメなんだよ。
「そんなに責めないで。君が自分を責めたところで、誰も救われない」
「そうでもない。少なくとも、俺が大口開けて笑ってる姿を見るよりは、フィオネは救われるはずなんだ」
「なら聞くけど。君のお姉さんがある男に殺されて。逮捕された犯人が、いかにも反省してますという態度を取り続けているのを見たら、アデルくんはどう思う?」
ムカつく。
いや、ムカつくけど。
なんでムカつくんだ。
演技にしか見えないからか。
でも、俺の立場をひっくり返したものなら。
反省は、してるんだよな。
だったら俺は、それを見て、楽になってないと。
いけないんじゃなかったのか?
「君は勝手に、窮屈をすれば相手が喜ぶと思い込んでるだけ。それは本当に必要なの? 何をすれば相手が喜ぶかなんて、聞いてみなければわからないのに」
自分勝手な、窮屈。
そういうことか。
レイシアの言ってた、都合のいい都合の悪いさって。
「君が声をかけたとはいえ、フィオネさんから話し合いを申し込まれたんでしょ? だったら、そのときだけは、喧嘩する前の関係に戻ってあげて。お願い」
「……」
それが、人の心ってやつか。
どうやら、見えてないものばかりだったようだな。
メリルたちの言葉を、信じよう。
「わかりました」
俺はただひとつの覚悟だけを決めた。
フィオネに言われたことには絶対に従うと。
それがいくつであれ、どんなものであれ、必ず。
そうしたら、不思議なぐらいに心が軽くなった。
心臓に張り付いてた嫌な感じもない。
結局のところ、俺のジタバタなんてフィオネには無関係で。
意味のないことをやって救った気になってるより、さっさと話をしにいくべきだったんだ。
まだ、間に合うよな。
今日フィオネに話しかけたのは正解だったと思う。
嬉しくなってきた。
俺はようやく償える。
全身が奮えてきた。
早くフィオネに会いたい。
「げーんきーになったかな?」
「あっああっ――!」
こっ……の人は。
何考えてんだ。
「かーわいんだ」
「な、なにしてるんですか!」
「何って。先生の、シュ、ミ」
本気で節操ない人だった。
「今日は手を出さないんじゃなかったんですか」
「そんなこと言ったかしら。身に覚えがないわ」
メリルの声が耳に近づく。
人の声ってこんなにゾクゾクするもんだったか。
体が熱くなってきた。
やっぱりおかしい。
これは……この俺の男を突き動かす異常物質は…………そうか。
「そろそろ我慢も限界じゃない?」
性フェロモンだ。
成熟して交尾が可能なことを他の個体に知らせ、性的に発情を誘発させるなど様々な効果をもたらす危険な分泌物。
これはメリルの魔法なのか。
それとも、女としての個体性能なのか。
どっちにしてもこれは…………逆らいようがない。(意志の崩壊)
「あらあら。こんなになっちゃって」
メリルはベッドに膝をつく。
「こんな状態で廊下を歩くわけにもいかないわね。先生が手伝ってあげるから、ここで全部出していきなさい」
メリルに手のひらで擦られる。
「先生、そんな、いきなりは」
「ふふっ。そういう反応はいつ見てもいいのだわ。安心なさい。根こそぎ持っていこうなんて思ってないわ。今までも、これ以上のことはしたことがないし」
メリルは腰を降ろす。
「先生」
「どう、したの」
「どうして、その、そんなになってるんですか」
互いに息を詰まらせながら言う。
「それはね」
メリルの顔が近づく。
「君みたいに可愛い子が大好きだから」
メリルは俺の口を塞いだ。
「もう、出るよね」
何が、とは、聞けない。
「10歳だもの。出せるわよ」
メリルは励ますように言う。
「まさか。最初からそれが目的で」
「あら。バレちゃった」
ダメだこの人。
教員以前に人間として失格のレベルだった。
「でも、覚えておいて。そんな先生のエゴで、アデルくんは救われてるんだよ」
たしかに、らしくない自分は消えた。
元々俺は、エゴイストで、フェミニストで、周りになんと言われてもヒロイズムを突き通して、それで人を救って、結果色んな奴らに感謝されてきた。
フィオネの件だけが裏目になったけど、メリルやレイシアが言ってたような客観的な行動価値を、俺は持っていたはずだったのに。
それを今、教えてもらった。
もう女々しく振る舞うのはやめようか。
「仲直りしたら、フィオネちゃんともしてみたらいいわ」
「いやそれはさすがに」
関係の修復具合にもよるけど。
メリルは動きを止めて俺を見下ろした。
「あら。こういうのは、いけないことだと思ってる?」
少なくとも俺の前世ではいけないことだと社会が吹いて回ってました。
「酷く落ち込んだとき、大声で歌ったり、ときには誰かに当たったり、そういうのを人は仕方ないことだと言って、でも、こういう行為は不謹慎だなんて咎める。一番必要なことなのに」
そりゃ、なんでだろうな。
そもそもが悪いことだと小さい頃から教えられてるからかも。
「さっきのだって、冗談で言ったつもりはないのよ? 悲しんでる女の子が立ち直るには、異性と肌を重ねるのが何より早いの。それが親の死でも、恋人との喧嘩でも、なんでもね」
メリルは再び動き始める。
「だからこれは立派な治療行為。アデルくんも、我慢せずに発散して」
言われなくてももう爆発四散しそうです。
「ふふ。また元気になった。ついに吹っ切れたのかな」
うん。
ありがとう、メリル。
「先生、もう」
「あんっ。すごい脈打ってる」
やがてやってきた眠気に、俺は意識の半分を落とし込む。
そのまままどろみが覚めるまで。
俺はこれからのことを考えながら、残りの時間を保健室で過ごした。




