傷
「鴨部」
城主直々のお声がかりに、源次は顔を上げた。
「兄弟が敵味方に分かれ家を残す。これは乱世の習い」
「いや……いえ」
鴨部の家は、もとを正せば東讃岐に勢力を張る寒川家恩顧。兄・神内左衛門は城持ちであった。分家の弟である源次は、寒川所領の隣国・阿波の大名に仕えた。その大名こそは源次が対面している十河一在その人であった。
ここ数十年来、寒川と十河とは対立していた。
都の足利将軍家と細川家の争いが波及し、讃岐も争乱の渦中にあった。というのも細川家の内衆三好氏は阿波に拠点を置いていた。瀬戸内・摂津の海を挟み、都にも近い阿波・讃岐の覇権争いは、中央の動きと直結していたのである。そして十河一在自身、三好氏の四男の立場にある。騒乱は起こるべくして起こった。
源次は思いきって低頭した。
「御殿山に、兄の旗下に戻りとう存じます。なにとぞお許し願いたく」
十河一在は瞼を伏せた。
激しい気性のあるじのこと、あるいは……源次は額に汗を感じた。
どれほどの時が経ったろう。やがて十河一在はゆっくり、口を開いた。
「いくさのときは遠慮のうかかって参れ」
源次は顔を上げた。十河一在は目尻を緩ませていた。
「ありがたき御配慮」
慮外のことばに、源次は礼のことばも覚束ぬ。一刻も早く兄の下へ帰り着き、いくさ支度をせねばならぬ。気だけが急いた。
風雲急を告げる。
十河一在、満を持しての、寒川・池内城進攻が始まろうとしていた。
源次の兄・神内左衛門は目を細めた。
機は熟した。彼はその旗下すべてに目配せし、そして前方を睥睨する。
目指す敵陣は駆け抜け一里。十河一在の首は目前にあり。
「かかれっ」
おお、と呼応し鴨部の党、五〇騎は疾駆した。
突如の敵襲に十河の陣は混乱した。池内城攻めの隊の戦況ははかばかしく、その気の緩みを突かれたのである。
鴨部隊は右往左往の徒歩を斬り捨て、白き陣幕を蹴り倒す。率いる神内左衛門につかず離れず、源次は長剣を必死の体でふるい続けた。かくて内陣に攻め入ったが、既に十騎に満たなかった。
源次は真っ先にかつての主君を探した。
「あれぞ十河一在なり」
源次は刃を向けた。その刃の先へと神内左衛門が突進する。
「その首、貰い受ける!」
源次は兄に襲いかかる輩を斬りに斬った。
―――覚悟!
神内左衛門は必殺の槍を繰り出した。
十河一在は左上腕を貫かれた。が、その左腕に力を込める。槍を引き抜けぬ神内左衛門。十河一在は太刀を薙いだ。二度、三度。一在の甲冑が紅蓮に染まる。
源次は獣の如く吼え、飛びかかった。
十河一在まであと数歩―――
「遠慮のう、参りましたぞ」
鴨部源次は地に伏した。幾本もの太刀に貫かれていた。
一在の左右は慌てて主君に駆け寄った。
「御館様、傷の手当てを」
「触るな!」
思いがけぬ一喝に、彼らは身を竦める。
目を細めた一在、唾を飲み込み、静かに命じた。
「塩を持て」
十河一在は手ずから槍を引き抜いた。鮮血が飛び散り、溢れる傷口へ塩を擦り込む。染み入る塩、傷は激しく疼く。さしもの十河一在も、呻きをあげずにはいられない。苦痛を噛みしめ、喉に声をこもらせ、俯くばかりである。
鬼気迫る主君の形相に、居並ぶ臣下は粛然と立ち尽くしていた。
やがて十河一在は、太息を吐き、顔を上げた。「外に藤の蔓が生えていたであろう」。塩の塊を傷口に当て、採って来させた藤の蔓で固定した。そして、傷を押さえつつ目を細めた。その目線の先にはおのが身を傷つけた、兄弟が横たわる。一在は深く、ひとつ頷いた。
「鴨部兄弟の首、丁重に届けよ」
十河一在はその後、何事もなかったかのように指揮を執った。池内城が落城し、帰陣したときもその左腕には藤の蔓が絡まっていた。
時を経て、一在の傷は痕を残さず癒えた。
だがその傷の深さの程は―――誰も知らぬ事であった。