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赤の記憶と運命の恋人たち  作者: 方丈 治
それぞれの物語
9/20

あたしのやりたいこと(2)


「さあ、時間ですよ」

 リブラはソファーから立ち上がると、あたしの方を振り向いてこう告げた。

 リブラが言っているのは、作法の習い事のことだ。あたしを含め、上流階級に生まれた娘はそれにふさわしい女性になるため、幼い頃から様々な習い事を受ける。知識と教養を身につけるのが、あたしたちの義務だ。

「はあ~……。もうそんな時間~? あたし、習い事は全般好きになれないけど、作法の習い事だけはどうしても……ねえ」

 これから始まる窮屈な時間のことを思って、あたしの口から思わず溜息が漏れた。

 作法の習い事は、上流階級での立ち居振る舞いや基本的な歴史を学ぶ、あたしにとってとても退屈な授業だ。しかも、先生が厳しい。上流階級の女性としてふさわしくない言動をひとつ行う毎に課題が三つ増えるという、暗黒のシステムだ。

「お嬢様、淑女はご自分のことを『あたし』とは呼びません。『わたくし』です」

 先駆けてリブラが小言を言い始めた。ああ、今からあたしが先生に怒られるのが分かってるくせに、リブラったら。

 先生の前では、あたしは自分のことを「わたくし」と呼ぶようにしているが、普段は「あたし」を使っている。ちゃんと使い分けができるのに、リブラはそこのところがわかってない。

 あたしはふんと鼻を鳴らして、わざと淑女らしく言ってやった。

「ハイハイ、よ~くわかっていますわ。あたしがそのような不注意をするとお思い? ……あ」

 しまった。これだから習慣は怖い。言葉が勝手に口から滑り落ちてしまった。

 あたしは口を押さえて、リブラの顔を恐る恐る見上げた。案の定、リブラはニヤニヤと笑いながらあたしを見ていた。

「その調子では、今日も二十個ほど課題を与えられますね」

「うぐ……」

 あたしは言い返せなくて、苦い顔をするしかなかった。習い事の度に十個単位の課題を与えられているのは、このあたりのお嬢様ではあたしくらいだから。

「あの……リブラ? またお願いしてもいいかしら……?」

 あたしはおずおずとリブラの目を覗いて頼んだ。もちろん課題の手助けだ。一人でやりきれるはずがない。

 リブラは不敵に笑って、あたしに一言告げた。

「お嬢様が言葉遣いを改めるならば」


 苦痛の二時間が終わり、あたしはリブラを探しに屋敷の部屋を巡った。リブラは大抵、テラスのある広間か、リブラの仕事場である占い部屋にいる。

 あたしが占い部屋に行くと、リブラはそこにいた。

 占い部屋はリブラが占いに専念できるようにと、パパがリブラに与えた仕事場だ。

 パパはなんだかんだ言って、リブラの占いに頼っている。度々、この屋敷に災いが降りかかるようなことはないかをリブラに占ってもらっているのだ。

 まあ、リブラの占いのおかげなのか、我が家はいたって平和なんだけど。……あたしの運命の男性もリブラに水晶で見てもらって、相手は素敵な騎士様だってパパに言ってくれたらいいのに。

 そんなことを考えながら、あたしは部屋に入った。

 占い部屋は落ち着いた紫色の布で床と壁が覆われていて、占いの本がぎっしりと詰まった本棚に囲まれた中に占い台がある。リブラはいつも、その机の上に置かれた水晶玉に手を触れて占いをしている──のだけれど、今は違った。

 リブラは占い台の前に座って、羽根ペンを動かしていた。数枚の便箋と、一枚の封筒……手紙を書いているようだ。

 それにしてもリブラが手紙を書くなんて珍しい。唯一の肉親であるリブラのおばあ様は大分前に亡くなったって聞いたし、一体誰に送るんだろう?

 手紙を書いているリブラの顔はいつものすまし顔じゃなくて、どこか微笑んでいるような、柔らかい表情だった。リブラのそんな顔を滅多に見たことのないあたしは少し驚きながら、その場に立ち尽くしてリブラを見ていた。

 リブラは手紙を書き終わったようで、便箋を丁寧に折りたたんで封筒に入れた。そして、あたしの方を見る。

「お疲れ様でした、ジナお嬢様。新しく増えた課題はいくつですか?」

「十二個よ」

「あら、思っていたより少ないですね。そうは言っても、まだまだ多いですけれど」

「……一言多いわよ」

 あたしは呆れながら、リブラを見た。人を食ったようなこの態度はいつものリブラだ。さっき見たリブラの姿は、きっとあたしの見間違いだ。

 リブラが封筒を占い台横の引き出しに入れるのを何気なく見ながら、あたしは尋ねた。

「ところで、リブラ。あたしの結婚相手を占ってくれない? リブラの占いで指名された人なら、パパも納得するんじゃない? あなたの占いほど、パパの信じてるものはないんだから。パパもあんなに頑張って良い縁談を探さなくてもいいじゃない」

 リブラは一度頷いて、ゆっくりと話し始めた。

「実は以前、私の占いがお嬢様に良縁をもたらす一助になればと思い、私も旦那様にそう申し上げたことがあるのですよ。でも、旦那様は『ジナの結婚相手は私が決める。ジナを一生困らせることのないように、それなりの地位と財と人格のある男を選ぶつもりだ。それに、いつもリブラの占いに頼ってばかりでは一家の当主として申し訳が立たないからな』と。それは自信たっぷりにおしゃっていました」

「もう、パパったら、こんな時に限って!」

 普段のパパは穏やかで優しいけど、一度こうだと決めたらそれに向けて突っ走る。あたしとパパは似ているとリブラは言うけど、とんでもない! あたしはパパほど闇雲じゃない。

 このまま、パパが結婚相手を連れて来るのを黙って見ているしかできないのかしら? あたしがもどかしそうに考えていると、あたしの背後から足音が聞こえた。

「私がどうかしたかな?」

「ひゃっ!」

 あたしはそれはもうびっくりして、前に一歩飛び跳ねた。後ろを振り返ると、この屋敷の主──あたしのパパがいた。

「今帰ったよ、ジナ」

「お、お帰りなさい。パパ!」

「屋敷のどこにもいないと思ったら、やはりリブラの部屋にいたのか。それで──何の話をしていたんだ?」

 パパはいつもののんびりとした調子で、あたしに尋ねた。やばい。さっきの話から話題をそらさなければ。

「パパ! まあ、扉の前で話し込むのもなんだし、とりあえず中に入りましょうよ!」

 あたしは極上のスマイルでパパに話しかけた。愛娘の笑顔を見れば、何の話をしていたかなどすぐに忘れてしまうのが、あたしのパパだ。

「おお、そうだな。リブラ、失礼するよ」

 やった! パパから話題をそらすことができたみたい。パパが部屋の中に入っていく様子をあたしはホッとしながら見た。

「旦那様、お帰りなさいませ。どうぞこちらにお掛けください」

 リブラがこっちにやって来て、部屋の隅にあるテーブルにパパを案内した。まずパパが座り、あたしとリブラが続いて座る。

 話題の先手を打つため、あたしはパパにすぐに尋ねた。

「パパ、今日はどこに行ってたの?」

「おお、そうだった。そのことで、おまえに伝えなければならないことがあってな」

 パパは思い出したように、膝を叩いた。何だかほくほく顔をしている。一体何だろう?

「実は今日、ある名家のお屋敷を訪問したんだ。ジナ、おまえの婚約者を決めにな」

 パパの言葉を聞いて、あたしは一瞬固まった。

 ようやく絞り出した声は裏返っていた。

「こっ、こんやく?」

「そうだ、ジナももうそんな歳になったのだな……。一人娘と離れるのは寂しくなるが、女のおまえにとって結婚はとても大事だ。適齢期のうちに婚約者を見つけておかないと、良い相手が少なくなるからな」

 しみじみとしながら、パパがそう言った。リブラと噂していたそばから、まさかその話が出るなんて。

 うちのような階級では父親が娘の縁談を決めるのは当たり前のことで、娘の知らないうちに婚約者ができるのもこの世界で普通なのは、あたしも知っている。

 でも、「知っていること」と「実際に体験すること」は違う。

 いきなり婚約者が決まったと言われて、あたしはびっくりしてしまった。どんな顔と性格の人で、どこの家の者なのか……名前さえ知らない男の人と結婚することが、今決まってしまった。


 ──結婚とは何の感情も味気もない、ただの通過するべきイベントだ。


 そう思うと、あたしは何だか虚しくなった。

 あたしがパパの話に全く反応せずに呆けていると、リブラが咳払いをしてからパパに向かってこう言った。

「話は変わりますが……お聞きください、旦那様。ジナお嬢様ときたら、今日の習い事でも散々なご様子だったようですよ。同じ年頃の他のお嬢様達にはしっかりとできていることができず、課題も十数個追加になりました」

 リブラがしれっと報告する。

 あたしはリブラがどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。何も、今この場でパパにあたしの出来の悪さを伝えなくても! リブラはそんなにあたしを追い詰めたいのかしら?

 あたしはリブラの嫌がらせが頭に来て、リブラをじとっと睨んだ。

 そんなことをやっていると、驚いたパパがあたしの方を見た。

「なに! それは本当なのか、ジナ?」

 そう問われて、嘘なんか言えるわけがない。あたしは身を縮ませて、おずおずと答えた。

「え……、あの…………その通りです」

 あたしの返答を聞いて、パパは手をこめかみに当てて、深々と溜息をついた。

(もう! パパにこんなこと告げ口したリブラが悪いんだからね!)

 リブラには後できつく言わないといけない。

 この気まずい雰囲気を壊したのはパパだった。パパはゆっくりと首を振って、諦めた様子で呟いた。

「……今からまた出かけなければいけないな。先方に頭を下げて、婚約の話はなかったことにしてもらおう」

「えっ……、それ本当?」

 あたしは目を輝かせて、パパの顔を見上げた。

 パパは肩をがっくりと落として、頷く。

「確かにジナは昔から元気の有り余る娘ではあったが……。いまだ上流階級のマナーを身につけていないようでは、この家から出すことはできない。不出来なジナを良家のご子息に押し付けるのは忍びないからな」

「そうよね、あたしもまだ結婚は早いかなーって……。……あれ? パパ、今何て言った?」

 あたしの言葉を聞き終わる前に、パパは立ち上がった。リブラに「ジナの面倒を頼む」と声を掛けてから、パパはトボトボと部屋を出て行った。

 リブラと二人取り残されたこの部屋に、しばらく何とも言えない静けさが漂った。

 この時、あたしは今の一連の出来事を思い返す。そして、ひとつの考えが頭に浮かんだ。


 ──もしかして、リブラはあたしを助けてくれたの?


 パパから縁談の話を聞いたあたしは、あんまり良い顔をしてなかったと思う。それに気付いたリブラはわざとパパにあたしの出来の悪さを伝えたのだ、縁談の話をなくさせるために。

 リブラの目論見は当たって、めでたく──あたしにとって、だけど──縁談の話はなくなりそうだ。

 リブラはにやっと笑って、あたしの方を振り向いた。

「お嬢様、私に何か言うことはありませんか?」

 リブラにこんなことを言われるのは少し悔しかったけど、あたしは素直に礼を言った。リブラの機転のおかげで、あたしは「寂しい結婚」から逃れることができたのだから。

「うん……ありがと、リブラ。助かったわ」

「どういたしまして」

 リブラはそう言うと、微笑んだ。

 ──ああ、やっぱりリブラはすごい。


 パパが持ってきた縁談の話はなくなった。

 パパは婚約を結んだ同じ日に再び訪問し、先方に婚約の解消を頼み込んだ。普通、一度結んだ婚約を解消するのはとても大変なことだ。しかも、パパの方から持ちかけた縁談をパパから断るなんて、さらに一大事だ。

 良かったことに、先方もあたしについての事情を察してくれたみたいで──それにしても失礼な話だ──、穏便に事は済んだようだ。

 でも、今回のことで、あたしに縁談の話はしばらくないだろう。婚約を解消した娘というのはイメージが悪い。しかもその理由が、上流階級の女性としてマナーを身につけていないから、だ。

 だから、あたしが最低ラインの作法を習得するまでは、パパは縁談のことを考えないみたい。というか、こんなあたしを嫁にもらってくれる人なんか上流階級にはいないに決まってるからだ。

 あたしとしは、しばらく縁談の話がなくなってせいせいとした気分だ。作法その他については今まで以上に口うるさく言われるだろうけど、決まりきった流れ作業みたいに決められる結婚をするくらいなら、そっちの方がずっとマシだ。

 ああ、おとぎ話に出てくる女の子のように普通に恋をして、素敵な人と結婚できたらいいのに! ……まあ、到底無理な話なんだけど。

 縁談話を逃れたことで、空想に浸れる期間が延びたのも嬉しい。結婚なんかすればそんな時間は今までのようには取れないだろうから。

 それに、永遠の議題──そう、この世に赤い糸は本当に存在するのか──の答えをまだ解決していない。

 赤い糸がおとぎ話以外の何物でもないと、誰が確信を持って言えるかしら?

 いいえ、誰にも言えないわ。

 だって、誰も赤い糸を見たことがないということは、「赤い糸が存在する」と同じくらい「赤い糸は夢物語だ」と言い切れないもの。だから、みんなに「赤い糸はおとぎ話だ」と諭されても、どんなに呆れられても、あたしは赤い糸の跡を探し続ける。


 それが、あたしのやりたいことだから。


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