孤独な男(1)
俺は一体何をやっているんだ?
いっちょまえに、人の親代わりのようなことをしようなんて。
目の前でうずくまって泣いている一人の子供の前で、俺は呆然と立ち尽くしていた。
俺にはこんなことに関わっている暇も余裕もないし、何しろ義理がないのだ。
しかし、あんなことを言ってしまった後ではもう遅い。今からでもあの言葉を訂正できるのならば、どんなに嬉しいだろう。
こんな目に遭うのなら、あんな依頼など引き受けるんじゃなかった……。
*****
俺はいわゆる孤児だった。
俺にだってもともとはちゃんと両親がいて、貧しいながらも親子三人、汚い貧民街で細々と暮らしていた。親父もおふくろも気が短く、些細なことでよく喧嘩をしていたのを覚えている。
そんな生活をしていた頃だ。俺が八歳の時、事が起こった。
夫婦喧嘩はいつものことだったが、その日の口論はいつも以上に激しいものだった。まだ小さかった俺は、狭くて物が散らばっている汚い部屋で身を縮こませて、それを聞いていた。
いや、本当はそんなものは聞きたくなかった。耳だって両手でしっかりと塞いでいた。
でも、俺の気持ちとは裏腹に、別室から聞こえてくる罵声は手を通過してくるのだ。
そのとき、鋭い悲鳴が聞こえた。その悲鳴が部屋を振動させたほどだった。俺はびっくりして、顔を上げた。
何か嫌な予感がしたんだ、俺は恐る恐る隣の部屋を覗いた。そこで見た光景は今も忘れることはない。
汚い部屋の中に、二人の人間がいた──床に倒れているおふくろと、震える手で血のついたナイフを握っている親父だ。
そう、親父がおふくろを刺したのだ。
自分が仕出かしたことの恐ろしさと興奮で、親父はわなわなと震えていた。そして、部屋の入口で呆然と見ていた俺に気が付くと、我に返ったようだ。仮にも息子である俺をまるで敵であるかのようにぎろりと睨み、こっちの方へやって来た。
俺はそのとき、死を覚悟した。おふくろと同じように刺されて死ぬんだ、と……。
しかし、親父は俺の横をすっと横切り、部屋を出て行った。玄関のドアがバタンと閉まるのを聞いて、ようやく助かったと思った。腰が抜けて、その場にへたり込んだほどだ。
しかし、安心している場合ではなかった。俺はすぐにおふくろのもとに駆け寄って、まだ息があるかを確かめた。
俺を怒鳴りつけるおふくろでも、母親は母親だ。まだ生きているのならば、助かって欲しい。そう願いを込めながら、おふくろの顔を恐る恐る見た。
おふくろの顔は蒼白だった。声を掛けても反応しない。揺さぶっても身動きさえしない。気がつくと、俺の手はおふくろの血でべっとりと濡れていた。
──おふくろは死んだのだ。俺はそう悟った。
俺は奈落の底に落とされたような気分だった。おふくろは親父に刺されて死に、親父は殺人者として指名手配されるのだろう。そして、自分は殺人を犯した人間の子供だとレッテルを貼られるのだ。今までの生活が幸せで満足なものだとは決して思わなかったが、その生活を壊したくなかった。これ以上、非道い生活になるのが恐かったからだ。
しかし、このままにしておくわけにはいかなかった。俺は外へ人を呼びに走った。隣近所の住人たちは俺の姿を見ると、ただ事ではないと悟ったらしい。すぐに一緒に家へ来てくれた。そして、倒れているおふくろを見ると、見てはいけない物を見ているような顔でおふくろに近づいていった。
おふくろが死んでいることが分かると、他の誰かを呼びに行ってくれた。その人は特殊な服で身をまとった人を二、三人連れて帰ってきた。
その時の俺はまだ何も知らなかったが、その男達は無料で死体を引き取って処理してくれる業者だ。俺達のような下流階級の底にいる住人など、葬儀をする金のない者達がお得意先だ。もちろんその業者も、ボランティアでそんなことをやっているわけではない。無料で手に入れた死体は、裏世界の取り引きでそれを欲しがる者に譲るのだ。
おふくろに別れの言葉を告げる暇もなく、業者の連中は回収作業に入った。おふくろの体が運び出され、いつの間にか多くの住人が集まっていた野次馬も俺に一言もなく帰っていった。
もちろん彼らが両親を失くした俺の身を案じてくれることはない。彼らは自分達の生活で一杯なのであり、下手に他人に情けをかければ厄介なことになるのを分かっているからだ。両親がこんなことになるまで俺だってそうしてきたし、大人になった今だってそう思っている。
急に辺りは静かになり、俺は一人だけになった家に残された。
俺は床におふくろの血の痕が付いた家で、ただ待った。もしかしたら親父が帰ってくるかもしれないと思ったからだ。
おふくろを殺しても、残された唯一の肉親だ。もし親父が帰ってきたら、おふくろのことは責めないようにしよう。これからは二人で支えあって生きていくのだ。そんなことを考えながら、飲まず食わずでひたすらに待った。
しかし、親父は家を飛び出していったまま、結局帰ってこなかった。子供一人、金も食べ物もない家で待っていても餓死するだけだ。親父が逃げておふくろが死んでから三日後、俺は親父のことはもう諦めて家を出ることに決めた。腹が空き過ぎて、もう限界だったのだ。このまま帰ってくるとも分からない父親をただ待っていても、子供のミイラがひとつ出来上がるだけだ。
俺は三日ぶりに外の空気を吸った。冬の冷たい空気が肺に突き刺さったが、薄汚れた町の濁った空気が初めておいしく感じた。
その時、ふと考えた。もしかして今回の事件は、俺が自由になれるチャンスなのではないか、と。
今までは親の命令で盗んできた金や食べ物や、たまに真面目に靴磨きの仕事で稼いだ金も両親に取り上げられてきたが、それで俺の食事の量が増えるわけでも新しい服を買ってもらえるわけでもなかった。
それが、これからは親からの支配を受けることなく、自分で稼いだ金は自分で使うことができる。そう、自分の力で生きていくことができるのだ、と。
俺は心身解放され、晴れ晴れとした気持ちで生まれ育った町を出た。もう二度とこんな汚い町に住むものかと思いながら。
しかし、そんな考えはすぐに消えることになった。
着の身着のままの俺が向かった先は、隣町だった。この町は、俺の故郷の町よりかは治安も住人層も良く、新たなスタートを切るには最適なように思えた。どんな仕事でも良ければすぐにでも見つかるだろう。俺は甘くもそう考えていた。
仕事に取りかかるために、まずは空腹の腹を満たすことにした。もちろん金は持っていないので、残飯を漁るか、店の品を盗むかだ。
盗みがいけないことだとはもちろん知っていたし、悪いことだと思っていた。俺だって自分の持ち物を盗まれたら、ひどく腹を立てるだろう。しかし、生きるためにそんなきれいごとは言ってられない。きれいに整備された町では残飯などはなかなか見つからなかったので、俺は食料品店で盗みをすることに決めた。
その店はなかなか繁盛していて、客が頻繁に出入りしていた。誰にも見つからずに盗むためにはリスクの高いターゲットだったが、空腹が限界にきていた俺はそんなことはお構いなしだった。周りから見た俺は、ぎらぎらとした目を血走らせながら「とにかく食えるものが欲しい」と呟く、やせ細った子供だったと思う。
俺は他の客に混じって店に入った。その年では背の高い方だったので、なるべく身を小さくして、人の目に留まらないようにした。
目の前には美味しそうな果実がたくさん並べられている。これを全部、今この場で食えたらどんなに幸せか……。俺はその欲望を必死に抑えた。
そして、周りを確認した。客の大人たちは誰もこっちのことなんか気にしていない。
次の瞬間、俺の手は商品に伸びていた。できる限りの果実を、手早く上着の中に詰め込む。今思い返すと、果実のずっしりとした重量感を手に感じていたこの瞬間はとても幸せだった。
「何してるんだ、おまえは!?」
俺は振り返った。そこには、えらい見幕をした店員らしい中年の男が立ちはだかっていた。怒りで青筋が立っている。
俺はこういう時の対処法を今までの経験から知っていた。──とにかく逃げるのだ!
「まっ、待て! クソガキ!」
目の前から逃げ去った俺を見て、男は慌てたように叫ぶのが聞こえた。しかし、俺はあんな太った男に捕まるほど楽な生活を送っていない。他の客たちの間をすり抜けながら店を出て、表の通りを走った。
いつものように今回も上手く逃げおおせる──逃げてきた店を尻目にそう思ったときだ。
俺は何かにぶつかった。その衝撃で地面に投げ出される。
見上げると、若い男二人が怪訝な目で俺を見ていた。どうやら裏通りから出てきた男達と出会い頭に衝突してしまったらしい。そうこうしている間に、店の中年男が追いついてきた。
「おお、おまえら、いい所に! そのガキを押さえつけとけ! うちの店の物を盗みやがったんだ」
「なに、おやっさんのところに? ふてえガキだ。おい、ちょいと懲らしめてやろうぜ」
若い男は連れの男に声を掛けた。俺は直ちに裏通りに引きずり込まれ、大人三人に袋叩きにされた。男達の一撃一撃は強烈で、俺は体を丸めて身を守るしかなかった。
苦しそうな姿など見せてなるものかと思ったが、あまりの痛さに最後の方はうめき声が勝手に口から漏れていた。
「今日はここで勘弁してやる。次同じことをやったら……こんなことでは済まないからな」
店の男はそう捨て台詞を吐くと、若い男二人も俺に唾を吐いて一緒に去っていった。
しばらくの間、硬くて冷たい地面の上で身動きできずにいた。動くと、体のあちこちが悲鳴を上げたからだ。
動けるようになると、体を眺め回してみた。体の至る所に真新しいアザが浮かんでいる。幸いなことに、骨は折れていないようだった。
「くっそ……」
俺はそれだけ呟いた。気がついたら、涙が頬を流れていた。自分の面倒さえ見られない悔しさと、世の中の自分に対する仕打ちへの恨みとで、心が潰れそうだった。このまま野垂れ死にできたらどんなに楽か、とまで思った。
しかし、俺は死ななかった。心は打ちひしがれているのに、腹は容赦なく食い物を求めてくるのだ。人間はそう簡単には死なないものだと知った瞬間でもあった。
その後、俺は無我夢中で食える物を探した。死に物狂いになれば、何だってできるものだ。裏通りにゴミ箱が置いてあり、その中にひとかけらのパンくずが残っていた。俺にはそれがまるで長年追い求めていた財宝のように見えた。それにかぶりつくと、十年ぶりに物を食ったかのようで、とても美味しかったのを覚えている。
そうやって食い物を探しては貪り喰ううちに何とか生き延びることができた俺は、靴磨きの仕事を始めることにした。靴磨きのための道具は、民家の玄関先に置かれてあったのを拝借して手に入れた。そして、町の大通りの隅を陣取って、朝から日が暮れるまでそこで客を待ち、夜は裏通りの地面の上でぼろ布をまとって寝た。
こんな生活が一週間続いたが、幾ら待っても靴磨きの客は来なかった。町の連中は、汚らしいものを見るかのように俺の前を通り過ぎていった。客引きしようと声をかけようもんなら、女は足早に逃げていき、男は罵声を俺に浴びせてくるのだ。
いつものように靴磨きの布を手持ち無沙汰に弄びながら大通りに座っていたら、同じ制服を着た男達が数人、こっちに向かってやって来た。奴らは俺のもとに立つと、俺を見下ろしながら睨みをきかせた。
「おまえか、最近この通りで悪事をはたらいている浮浪児というのは!」
俺は寝耳に水だった。客の来ない靴磨きこそしているが、人の物を盗んだり人を襲ったりはしていない──この通りでは、だが。ここから少し離れた裏通りの、人の目につかない所では否定はしない。
俺は奴らに抗議した。
「オレはただ靴磨きの客を待ってるだけだ! それの何が悪いんだよ!」
奴らのうちの一人が、軽蔑した目で言った。
「それが迷惑なのだ。おまえのような汚らしい餓鬼にうろつかれては、治安が悪くなるし景観が損なわれる。それに、ここを歩く住民たちに頻繁に付きまとっているだろう! 彼らからの苦情が立て続いているんだよ。浮浪児を何とかしてくれ、とな」
(……付きまとう?)
俺は客引きのために、ただ少し声を掛けただけなのに! そう叫んでやりたかったが、奴らはその暇を与えてはくれなかった。
奴らは俺の周りをぐるりと取り囲むと、俺に向かって手を伸ばしてきた。このまま捕まってしまえば、終わりだ! そう直感した。
俺は素早く行動に移した。立ち並ぶ足の間をすり抜け、囲いの中から脱出した。そして、一目散に駆け出す。向かう先はどこでも良かった。この町以外ならどこでも。
後ろから、奴らが罵りながら追ってくるのが見える。しかし、すっかり知り尽くした裏通りに入り込み、奴らを巧みに撒くことができた。
俺は再び無一文で他の町を求めてさまようことになった。
次の町でも、そのまた次の町でも、俺に対する町の連中の態度は似たようなものだった。食べる物も寝る場所も心配のない、そこそこ安定した生活をしている奴らは、俺のような汚い餓鬼は邪魔らしい。
生まれつき底辺の階級だった俺はどんなに努力しても、より良い生活へ這い上がることは許されていないのだ。こうして、人に疎まれた逃亡者のような生活しかできないのだ。そうでなければ、死ぬかだ。
俺はその日その日を生き延びながら、町から町へとさすらいの旅を続けた。
それから、二年が経った。十歳になっていた俺は、いまだに安住の地を見つけられなかった。
しかし、一人でも生きていく力は着実に付いていた。その力とは、盗みや脅迫、恐喝など、社会で違法とされる行為であって、決して人様に胸を張って言えるものではないが。
俺は表の世界ではなく、裏の世界の住人となっていた。
言い訳をさせてもらえるのならば、そりゃあ俺だって、できれば表の世界で堂々と暮らしたかった。……が、世間がそれを阻んだのであって俺のせいじゃない。
裏の世界で生きていくにあたって、自分に通り名を付けることにした。新しい自分に生まれ変わったという意味で、親に付けてもらった名前は捨てたかったからだ。俺はかっこよくて、強そうな名前を自分に与えた。
その名も、『タウラス』だ。
『タウラス』は年を重ねるごとに屈強な体になっていった。そんじょそこらの野郎ぐらいなら、一発で気絶させられるくらいの自信もあった。
そんな俺のもとに、裏の世界の連中が仕事を持ってくるようになった。その内容とは、強盗の手助けや裏世界のお偉いさんの護衛のような、暴れる仕事が多かった。でもその経験の積み重ねが、今の俺を形作っていると言っても過言ではない。
気が付いたら、俺は二十歳になっていた。
町を歩けば、男たちは俺から目を逸らして道を譲り、女たちは俺に抱いて欲しいと群がってくる。『暴れ牛のタウラス』と名を出せば、誰でも俺のことだと知っている──俺はまんざらでもなかった。
そう、自惚れていたのだ。今なら、子供の時に感じた挫折と絶望など自分の力で頭の中から消し去ることができるし、どんな願いでも叶えることができる、と。
最近はこの町に落ち着き、俺は裏通りのボロ宿で寝起きしていた。昼過ぎに起き出し、新しい仕事を得るために、宿から少し離れた所にあるいつもの酒場に向かった。
俺が生業としている裏の仕事は、表立って取り引きされない。そんなことをしたら、即座にブタ箱行きになってしまうからだ。
だから、町の中でも一層寂れた裏通りの一角に、その店はひっそりと立っている。店は、カモフラージュのために、情報交換が盛んな酒場を兼ねていることが多い。その仲介屋兼酒場の店主が、裏の仕事を頼む依頼主とその仕事を実際に遂行する引受人との仲介役なのだ。
「すまないな、まだ店は…………なんだ、タウラスか」
酒場に入ると、店の準備を始め出した中年の男が一人、店の床をモップで磨いていた。顔を上げて、来客がこの酒場の常連客であることに気付いたらしい。手を止めて、俺に笑いかけた。この男こそ、ここの店主だ。
マスターは俺が昼間から酒を飲みに来た訳ではないことに早速気付いて、こう言った。
「新しい依頼か? 今や裏の世界で名を馳せているタウラス様じゃあ、仕事はよりどりみどりだぞ」
裏稼業を仲介するマスターは、依頼主から依頼を受注するとき、できるだけ詳しくその内容を聴取する。それによって、難易度を決める。マスターがそんなことをするのは、それぞれ経験も得意分野も違う俺たち引受人のためなのだ。マスターは、その引受人が遂行できそうな依頼を勧めてくれる。今のマスターの言葉は、この俺なら大体の依頼を安心して任せられると太鼓判を押したということだ。
「よりどりみどりだと? 言ってくれるじゃねえか、マスター。もし俺が引き受けるに値する依頼がなかったら、もう二度とこの店に来ないからな」
俺は得意げにそう冗談めかして、入口向かいにあるカウンターへと向かった。俺がイスに腰掛けたところで、マスターがカウンターの中に入る。
マスターはカウンターの中をしばらく漁ると、俺に紙束を手渡した。俺はそれを受け取り、一枚一枚めくってざっと目を通す。
近頃の俺はありきたりな仕事に飽きていた──もっと刺激的で、今までやったこともないような依頼がやりたかった!
しかし、この紙束にはどれもこれも似たり寄ったりの依頼しかなかった。この世の中はなんと退屈なことで溢れているんだ。
俺はカウンターの上に依頼書の束を放り投げた。マスターにむっつりした顔を向けて、こう言ってやった。
「つまらねえな。もっと、こう……変わった依頼はないのか?」
とどめに溜息をつくと、マスターは慌ててまくし立てた。さっきまで俺が見ていた紙束を手に取り、その表紙を軽く叩きながら。
「そんなこと言ってくれるなよ、タウラス! おまえさんぐらいの奴しか出来ない、難易度の高い依頼があったろう?」
「そうは言っても、どうせ脅迫とか強盗とかだろ。こうも同じような仕事内容だと、さすがに飽きてきてな。……そうかそうか、この店に来るのも今日が最後になるのか」
「ちょ、ちょっと待った!」
最後にぽつりと呟いた俺の言葉がマスターを観念させたようだ。カウンターを乗り越えそうなほど身を乗り出して、俺の方に近寄った。近寄られるのは女だけにして欲しいと思ったが、マスターは“とっておきの”仕事を紹介してくれようとしている。マスターが話し始めるまで、じっと待った。
「いいか、タウラス。大事な引受人に逃げられちゃ、この店が潰れちまうから言うぞ」
マスターは俺の耳元で声を潜めた。
(──やはり、「変わった依頼」を持っていたか)
俺は思わずニヤリとした。人は追い詰められないと、奥の手を使おうとは思わない。これは裏の仕事をしてきた経験上から学んだことだ。
「実はな……この前、怪しい野郎が五、六人ぐらいかな、依頼しに店に来てな」
「だいたいこんな裏の世界で依頼しようと思う人間なんざ、怪しいに決まってるがな」
「それはそうなんだが、その、依頼内容が……何となく薄気味悪い」
「薄気味悪い?」
マスターは苦虫を噛み潰したような表情で頷くと、カウンターの中を漁り始めた。奥の、そのまた奥に隠すように置いてあるらしい。しばらくすると、一枚の依頼書を俺の前に出した。依頼書の束とは別にしてあるということは、その依頼の仲介をするつもりはなかったのか、もしくは目につかせたくなかったのか。
俺はその紙を、声を出さずに読んだ。そこにはこう書かれている。
『労働者の確保──引受人一人につき二十人から受付、十人単位で募集。労働者は未成年者のみに限る。性別は不問』
「…………」
俺は無言になった。マスターの言う通りだ。この依頼は何か臭う。
労働者の募集なんざ、表の世界で求人すればいいだけの話だ。それをわざわざこの裏の世界に持ってくるのは、表の世界では決して目に触れられてはいけない理由があるからだ。
「『引受人一人につき二十人から受付』……無理矢理引っ張ってでも、それだけの人数を俺一人で連れてこいってか。無茶言うぜ。しかも労働者は子供に限定されている……。一体、そいつらにどんな『仕事』をさせるつもりなのかねえ」
俺は皮肉たっぷりに笑ってやった。マスターはいまだ渋面で呟く。
「どこかの国で大掛かりな事業でも始めるのか……、それとも」
「闇市で人身売買、か。若い人間の方が、高く売れるからな」
マスターの言葉の続きを俺が引き継いだ。マスターがハッとした顔で、俺を見た。
「何だ、検討が付いてるんじゃないか」
「ったりめえだろ。この世界に何年いると思ってるんだ」
「じゃあ、この依頼はもちろん引き受けないな? 隣町の仲介屋仲間からも、同じような依頼をしてきた奴がいるって幾つも聞いた。これはかなりの大規模な、いかがわしい組織が絡んでるんじゃないかって話だ」
「そうだな……。興味はある」
俺は今の考えを正直に伝えた。
「どうせこの依頼主は、浮浪児が多い地域に目を付けて依頼をしているんだろ? はっ、ずる賢い連中だぜ。居なくなっても誰も困らない──いや、むしろ町の連中は喜ぶな──浮浪児を連れてこいって言っているようなもんだ。この辺りも浮浪児で溢れているから、二十人程度ならすぐに集まるだろ。おまえらに仕事をくれる奴がいる、って甘い言葉で誘えばいとも簡単にな」
この依頼に好感触を示し、冷静に分析している俺に、マスターは衝撃を受けたようだ。俺の肩をがっしりと掴んで、目をまっすぐ見据えた。その目力は鋭かった。
「何、馬鹿なことを言ってるんだ! まさに浮浪児だったおまえさんなら、あの子達が逆境の中で、どんなに必死になって生きているか分かるだろう! 大抵の子供は寒さと飢えで路上で死に、おまえさんのように無事大人になれるのはひと握りだ。あの子達に、今以上の絶望を与える気か?」
マスターには、ずっと昔に俺の生い立ちを話していた。同情してもらうつもりで話した訳ではなかったが、マスターは裏通りに住む人間のように冷たくなく、俺を不憫に思ってくれた。今回の依頼を俺から隠していたのは、マスターの優しさなのだろう。浮浪児だった俺に、同じ境遇の子供を奴隷にさせる依頼など知られてはいけないと。仮にその依頼を知ったときの俺の胸の内に推し量って、マスターは心苦しかったに違いない。
そんな心優しいマスターが今、俺に忠告している。しかし、俺はこの依頼を見た瞬間から、引き受けることを決めていた。それは、今までと一風変わったこの仕事をやってみたかったからだ。
でも、理由は他にもあった。元浮浪児の俺が浮浪児どもを冷酷にも「奴隷送り」にできれば、惨めだった子供時代をキレイさっぱり忘れることができると思ったからだ。この依頼をやり遂げたとき、俺はさらなる発展を遂げるのだ。そのときの俺は、本気でそう思っていた。
どんどん手に力が入ってきたマスターの手を掴むと、肩からそれを下ろした。そして強い眼差しでマスターの目を見返した。
「ガキどもが闇市で売られることで今より幸せだと感じるかもしれねえし、そうじゃないかもしれねえ。それは周りが決めることじゃない。その依頼、引き受けるぜ、俺は」
「…………! タウラス……」
マスターの目が大きく見開かれた。しばらくの間、マスターは信じられないといった顔で俺のことを見ていたが、やがて諦めたように仲介の手続きに入った。
マスターには悪いと思ったが、俺はどうしてもあの過去を克服したかった──血の付いたナイフを握る父親と床に横たわる母親。冷たい地面の上で、容赦なく俺を袋叩きにする大人達。俺に突き刺さる軽蔑の視線。今でも夢の中にその場面が出てきては、俺は空気のない世界に迷い込んだかのように喘いで飛び起きるのだ。
マスターの俺を見る目がこの日を境に変わるのだろうか? でも、マスターは俺と同じ経験をしてきた訳ではない。俺のことを気の毒に思うマスターの気持ちは本物でも、俺が思っていることや感じていること、何を求めているかは理解できないのだ。
だから、マスターが俺に失望しても、俺は怒りも後ろめたい気持ちも湧かない。
仕方のないことだ、と思うだけだ。