この身を賭けて
当初は、ジナと女占い師に会わずにデスティネに誘導できるとテルは踏んでいた。しかし、ジナ達が思わぬ行動を取り始めたのでこの作戦は諦めることにした。
代わりに、最終手段ではあったが、接触を図るしかもう手はない。相手はたかが女二人だ。顔を合わせた瞬間に当て身で気絶させ、その軽い体を背負ってデスティネまで運ぶのは簡単だろう。人目につかない道を選べば問題はない。
(できればこの方法は取りたくなかったが……でも仕方ない。おまえが今まで通り、糸を追ってこなかったのが悪いんだからな)
テルとタウラスはジナ達の後ろ姿を遠目に見ながら作戦を練った。人目のない場所に入ったら、即座にジナたちに近づき、後頭部か鳩尾に手刀を一発与え気絶させる。それから、両手両足、そして口を縛って、目覚めた時に抵抗できないようにさせる。
そこまでできれば、後は体を担いでデスティネの別荘まで移動するだけだ。危険で直接的な方法だが、これが本来のやり方だったのだ。迷っている場合ではない。リミットは次の街に着くまでだ。
そして好機はやってきた。
街道にはジナと女占い師、そしてテルとタウラスしかいなくなった。テルはタウラスに目で合図すると、足音を立てずにそろそろと女達に近づいていく。
「はあ~、でももったいないわね。せっかくデスティネで遊ぶチャンスだったのに」
「『遊ぶ』……?」
「!! ……んんっと、何でもないわよ! それより早く次の街に着かないかな~、赤い糸の後をたどり直さないといけないしね」
苦し紛れにごまかすジナに、リブラは何かに気付いたかのように顔を上げた。
「……どうしたの?」
ジナがリブラの様子に気が付いたその時──
「すみませんがね、お嬢さん方」
「え?」
後ろから掛けられた男の声に、ジナは素直に振り返った。
「いけません、お嬢さ…………!」
リブラは血相を変えて、横のジナに忠告しようとした。
しかし、遅かったようだ。突然背後に現れた男が、振り返ったジナの鳩尾を一発殴ったのだ。
ジナは訳の分からないうちに意識が遠のいていった。薄らいでいく意識の中に、自分に害を与えたらしい男の顔だけがジナの目に鮮明に焼き付く。
バンダナでくしゃくしゃにまとめられた栗色の髪に、目つきの悪い、自分と同じ年頃の顔をした青年────。
(何よ、レディに失礼なことするのね……でも……何だか…………)
ジナの意識はここでぷつんと途切れた。
ガクリと崩れ落ちるジナの体を、テルの後ろに控えていたタウラスがしっかりと支える。
「すまねえな、あんたに恨みはねえけど」
テルは意識を失ったジナに言い放った。
いつも血色の良い顔を今は青くしながら、タウラスは手際良くジナの手足を紐で結んでいった。そんな様子を見ていたリブラがはっと息を呑む。
「あなたは……」
タウラスはわざとリブラと目を合わそうとせず、自分のするべき仕事を続けた。
「悪いけど、あんたも眠っててくれないか。騒がれると厄介だから」
テルがリブラの前に立ちはだかる。
このジナという女は綺麗な女だが目の前の女占い師も相当な美女だ、とテルは内心で思った。ジナとは違う美しさ、そう、神秘的な美しさがある。だからと言って手加減してやる訳にはいかない。依頼主はこの女も連れて来いと言ったのだ。
その時、威圧感たっぷりの襲撃者にリブラは意外な返答をした。
「その必要はありません。デスティネまで大人しくお供すればいいのでしょう?」
「…………!」
テルは──そしてタウラスも──女占い師の言葉に目を見張った。どうしてこちらの目的地まで知っているのか? それは彼女の職業が答えだった。
(さすがは占い師ってとこか……)
テルはにやっと笑うと、リブラに対する構えの姿勢を解いた。もうこの占い師を気絶させる必要はない、と思ったのだ。
テルの予想外の判断に、タウラスが慌てて反論した。
「テル! 予定通り、この付き人も気絶させた方がいいんじゃないか?」
「運ぶ人数は少ないほうがいいじゃねえか。それに、変な動きを見せたらすぐに眠ってもらうしな」
テルはそこまで説明すると、タウラスのいつもと違う様子を感じ取った──何かを恐れているような感じだ。
「……にしても、珍しいな。いつものおまえだったら、『可哀想だから必要以上に力を振るうことはない』とでも言いそうなのに」
「…………」
タウラスはテルの意見が変わらないとわかると、それ以上口を開こうとはしなかった。難しい顔でジナを背負う。
「変なヤツ」
そんなタウラスを見てテルが呟いた。
ジナとリブラを伴って半日が過ぎた。
人が通らない山道を選んできたので、足が動く限りのスピードで進めるという順調な行程だった。あと半分の道程でデスティネに到着する所まで来て、テルは足を止めることにした。夜を越すため、山の中腹で野宿をするのだ。
「明日は朝早いからな、しっかり寝とけよ」
テルは後ろに付いて歩くリブラに声を掛けた。リブラは落ち着いて頷く。
テル、リブラと続く最後尾を歩いていたタウラスは、野宿場所に着いたところで背中のジナを地面にそっと降ろした。そして、極力目を合わせないようにしながら、リブラにジナを預ける。
「お嬢さんがそろそろ目を覚ますはずだ。騒がないように面倒見てやってくれ」
「……分かりました」
タウラスからジナの体を預かると、リブラは一瞬タウラスの目を覗き込んだ。しかし、タウラスはリブラからずっと目を逸らしているので、視線が合うことはなかった。それから、リブラは何事もなかったようにジナに視線を移す──。
一部始終見ていたテルは、この二人の奇妙な関係を訝しんだ。
「なあ、あの占い師と知り合いなのか?」
ジナを介抱しているリブラから少し離れた場所で野宿の用意を始めたタウラスに、テルは質問した。
「……いや」
素っ気無い答えしかしないタウラスに、テルは溜息をついた。
「それならいいけどなあっ、もしこの仕事に支障が出るなら……」
「旅慣れたおまえにゃ、一晩くらい寝袋は要らないな? 借りるぜ」
テルの文句を途中で遮ったタウラスは、丸くまとめられた寝袋を二つ担いで立ち上がった。そのままリブラの元に歩み寄る。
「二人で使え」
突然目の前に投げられた二つの寝袋を、リブラは眺めた。そのうちのひとつに、何か白い紙が挟み込まれているのに気が付いた。しかし、何年前のものだろうか、それは所々黄ばんでいて、くしゃくしゃだ。
リブラはタウラスを見上げる。視線を合わせてこなかったタウラスが、ほんの一瞬だけリブラを見つめた。
「野宿は初めてだろ、冷えるからな」
少しの間呆然としていたリブラは、目に優しさを浮かべてタウラスに礼を述べた。
「ありがとう……ございます」
冷たくしたかと思えば優しくするタウラスの様子を見たテルは、ますます怪しんだ。
(……タウラスのヤツ、絶っっ対なにか隠してやがるな)
そうして野宿開始から数時間後、眠っていたジナが唸り声を上げた。
「う……、う~ん……」
「お嬢様!」
ジナが苦しそうに目を覚ますと、横にいたリブラがジナの顔を覗き込んだ。
ジナは今の状況に理解が追いついていないらしく、混乱しているようだ。縛られた手足をばたつかせ、猿ぐつわの奥から必死に叫ぶ。
「……う? むーー、んーーーーっ」
「お嬢様、この状況に驚いたと思いますが今は静かにしてください」
「ひふは? ひっはい、ほへは、ほーひふほほ!?」
自分の顔を心配そうに覗き込むリブラを認識したらしく、ジナがリブラに詰め寄った。
とその時、二人の顔に影がかかった。ジナが背後を振り返ると、襲撃者の男が立っているではないか。
(あっ、こいつ……!)
その栗色のぼさぼさ頭に目つきの悪い男を見た瞬間、ジナは思い出した。この男が自分を気絶させたのだ。キッとテルを睨みつける。
「はんはへ!? ははひをはふっはほは!!」
「静かにしねえとまた眠ってもらうことになるぜ、お嬢さん?」
テルが鋭い目でジナを刺した。それだけは嫌だと、ジナはぐっと押し黙る。
テルはジナの様子に満足した。水も飲ませずに弱らせたまま連れて行けば、あの依頼主に何を言われるか分かったものではない。水や食料を与えるために猿ぐつわを取らなければいけないが、大声で暴れられては困るのだ。
「よーし、それでいいんだ。喋らないという条件付きで猿ぐつわを外してやってもいいんだが?」
ジナはコクコクと首を縦に振った。とにかく息苦しい状態から解放されたかったのだ。
テルはその様子を見届けてから、ジナの猿ぐつわを外してやろうと両手を上げた。その時、ジナの目に赤いものが目に入る────
「あーーーーーーーーっ!!」
(このアマっ──)
猿ぐつわを外した途端に大声で叫んだジナを、思い切り殴ってやろうかとテルは思った。が、雀の涙ほどの良心がそれを思いとどまらせる。
「おい、黙らねえと──」
「あなただったの!? 私の運命の人は!?」
そう、テルの右手を見た時、自分の左手と繋がっている赤い糸にジナは気付いたのだ。遂に、ジナの旅の目的である赤い糸の先にいる人物に会うことができた。だがそれは、決して望まないような形で叶えられてしまったようだ。
ジナは自分の目が信じられなかった。まさか自分の運命の男性が、自分を襲い、このような扱いをした張本人だったとは夢にも思わなかったのだ。
「そんな……王子様どころか、こんな野蛮で小汚い犯罪者だったなんて!」
ジナの頭の中の王子や騎士、勇者の美化像が次々と崩れ落ちていった。残るは目の前の目つきの悪い男が一人、だ。ジナは改めてテルを品定めしてみた。
(まあ、ルックスはそれほど悪くはないわね。目つきは悪いけど。……でも──)
そう、外見がどうであろうと、自分をこんな目に遭わせた男を運命の相手と認める訳にはいかない。しかも、この男にも赤い糸が見えているだろうに、共に結ばれている自分にこのような扱いをするとは!
「最低なオトコね」
ジナは軽蔑の眼差しでテルを見上げる。
驚愕の事実から立ち直ったジナを見ていたタウラスは、テルの心境を思うと居ても経ってもいられなくなった。
(みろ、テル。こうなることは目に見えていただろう?)
すぐ横でジナの心の変化を読んでいたリブラは、何かを考えているかのように黙ったままだ。
しばらくの間、テルは無言のまま地面に目を伏せていた。──が、何の前触れもなく、突然笑い出した。
「ははは……」
「な、何笑ってるのよ?」
ジナはテルの行動に戸惑った。大の男が女にこてんぱんに言われて、笑い出すとは考えてもいなかったからだ。
「取り越し苦労だったなあ、タウラス? これで後悔することなく、依頼を受けられるってもんだ」
少し離れたところで事の顛末を見守っているタウラスにテルは言葉を投げた。このテルのセリフが再びジナの心を乱した。
(ほんっっとに、サイテー!!)
この赤い糸は無効よ、とジナが心の中で叫んでいる一方で、横のリブラは冷静にテルの言葉のある部分に注目していた。
(……『依頼』……)
夜が明ける前に出発したが、道中は特に問題もなく進むことができた。というのも、完全に目覚めたジナが道中激しく抵抗することが予想できたものの、とりあえずは素直に歩いてくれたのだ──終始無言だったが。
テルとのひと悶着後、ジナの不機嫌さはかなりのものだったが、怒りを顔には出さないように努めているようだった。ジナとしては、テルとかいう最低の襲撃者にまた馬鹿にされたくなかったのだ。
リブラはそんなジナのすぐ後ろを歩き、先頭のテルと後尾のタウラスでこの二人を挟んだ。そうして、日が高く昇る前にはテルたち一行はデスティネの街に到着した。
セバスチャンの依頼内容は、ジナと女占い師リブラの二人をこの街の別荘に連れて行くこと。テルはタウラスが調べてくれていた道順──街人に姿を見られないように外壁をたどって、湖のほとりに立つ別荘に向かった。
「ここか……」
テルは大きな屋敷を目の前にして思った。
(依頼を聞きに訪れた依頼主の豪華な屋敷に、この別荘……。あのクソ依頼主は最低野郎だが、金だけは持ってるんだな)
テルには遠い世界の人間だ。物心の付いた頃には既に街の掃き溜めで過ごしていたテルは、毎日を生きるので精一杯だった。しかし必要以上の金を持つというのはどんな感覚なのだろうか、とテルは考えた。
(……ま、そんなこと考えるだけ無駄だな。俺には無縁の世界なんだから)
「……一体誰の屋敷なのよ、ここは?」
ジナがそんな言葉をぽろっとこぼした。その時、横にいたリブラが大きな屋敷を見上げて、一言呟いた。
「この屋敷から黒い霧が漏れ出しています……」
「ちょっ……、リブラ、大丈夫?」
リブラにしか見えない「黒い霧」にあてられたのだろうか、リブラは気分が悪そうによろめいた。咄嗟にジナがその体を支える。
テルはジナとリブラを屋敷の中に入らせた。この女達は客室にでも入れとけばいいのだろうか? そう考えたテルはそれらしき部屋を手当たり次第に探し始めた。
「おい、この部屋にでも入っとけ」
高価そうなテーブルや椅子、絵画などが配置された豪華な客室を見つけると、テルは女達を部屋に入れた。あとは依頼主のセバスチャンに到着したことを知らせるだけだ。
テルはそのことを確認をしようと口を開いた。
「タウラス、あのクズ男に……」
「何をやっているんだ、貴様達は!?」
その時、部屋に一人の男が驚いた顔をして入ってきた。後ろには大男達──十人はいるだろうか──がぞろぞろと付いてきている。
「たまたま別荘に遊びに来たと思えば、不法者が中に入り込んでいるではないか!」
その男はテル達に依頼をした男、そう、セバスチャンであった。
突然部屋に入ってきた男の顔を見た途端、ジナが「あっ」と声を上げた。
「あなたは確か……」
(どこかで見た顔だと思ったら、あやうく結婚させられそうになったあの男じゃないの!)
驚くジナを見て、セバスチャンもわざとらしく驚いてみせた。
「なんと! そこにいるのはジナさんではないですか! どうしたのですか、こんなところで……!!」
そこでセバスチャンはジナとテルを交互に見遣り、何かに気付いたように首を大仰に振った。
「なるほど……この男達に誘拐されたのですね!? ……いいでしょう、ここで出会ったのも、私と貴女が運命で強く結ばれていることを物語っている。及ばずながらお助け申し上げましょう!」
そこで、セバスチャンは後ろに控えていた大男達に合図を出した。巨漢がぞろぞろと部屋の中に入ってきて、テル達を囲む。
「そういうことだったか……」
大勢の大男に囲まれたテルは、だるそうに頭を掻きながら呟いた。横にいたタウラスも同じことを思っていたらしく、テルの言葉に頷いた。
そう、セバスチャンがこの大男達にではなく、わざわざテル達にジナを連れてくるよう依頼したのはこのためだったのだ。誘拐犯テルとタウラスを、「偶然」現れた元婚約者のセバスチャンが倒し、ジナを助け出す──もちろん直接手を下すのはセバスチャンその人ではなく、連れてきたこの大男達だ。そうすれば、ジナはセバスチャンに惚れ直し、元の鞘に収まる。さらには、この台本の内容を知るテルとタウラスを始末すれば口封じにもなるという特典付きで、めでたくハッピーエンドという訳だ。つまり、セバスチャンはテルとタウラスに悪役を押し付けているのだ。
いつの間にかテルから一番遠い所で手下の男達に守られるようにして立っているセバスチャンが、意気揚々と声を上げた。
「残念だったな、誘拐犯。このセバスチャン・ヨーズの別荘に立て篭ろうとしたのが運の尽きだ。さあ、おまえ達。あの不埒者共をやってしまいなさい!」
セバスチャンの言葉を聞いていたテルが、遂に耐えられなくなったらしい。大きく口を開いた。
「あーあ、バッカみてえ。おい、帰るぞ」
テルがタウラスに声を掛けた。そして、立ちはだかる大男達の間を、いとも簡単にスルスルとすり抜けて行く。そんなテルの後ろ姿を見ながら、タウラスは慌てて声を掛けた。
「テル! このまま帰るのか?」
「当ったり前だろ? 俺たちはこのクズ野郎の依頼通り、この女達をこの別荘に連れてきた。この依頼は終わったんだ、こいつの茶番劇に付き合ってやる義理はねえだろ? ……なあ、依頼主さん?」
テルは手下共の壁に隠れているセバスチャンを真っ直ぐ見据えた。テルの口元が意地悪そうに曲がっているあたりが、セバスチャンに対する報復であることを示している。
「な、何を言っているんだ、貴様は?」
「ああ、一つ言い忘れた。あんた、まあまあ尾行の上手い手下を持っているみたいだけど。俺達の動向を監視させて、逐一報告させるってのは良い趣味とは言えねえな」
「なっ……」
得意げだったセバスチャンの顔が一瞬だけ真顔になった。
そう、テルとタウラスはたまに見え隠れする尾行者に気付いていた。あの依頼主のことなので、自分達の行動を監視しておかなければ気が済まないのだろうと放っておいたのだが。この別荘に着いてから依頼主に任務完了の報告をしようと思っていたのだが、その前に依頼主がタイミング良く現れたのが監視されていた証拠になるだろう。
「だからこそ、俺達がいつこの別荘に着くか分かったんだよな? ご丁寧に、まあ強そうな手下を連れて。脅迫されて仕方なく依頼を受けてやったのに、この扱いはひどくねえか?」
ジナの前で言われたら困ることをテルは全て暴露した。逆上した依頼主が今後テル達を抹殺しようと追ってきても受けてたってやる、とテルは開き直っていたのかもしれない。ジナのためというよりかは、とにかくセバスチャンに対する自分の怒りを発散させたかったのだ。
テルの口から言葉が出るにつれ、セバスチャンの顔が引きつっていく。
「だっ、黙れ、外道が! ……ジナさん、こんな男の言うことなど、よもや信じていませんよね?」
多くの人間の視線を一斉に浴びたジナは、男達のやり取りを聞いて今や理解していた──セバスチャンという男は本当につまらない男だということを。
テルの言葉を信じるわけではないが、この状況はあまりにも他の説明がつかない。何より初めてセバスチャンに会った時のジナの直感がそう告げていた。つまり今回の件は、元婚約者セバスチャンが婚約破棄された恨みを晴らすために、このテルとタウラスとかいう男達を使って自分とリブラをここまで連れて来させたのだ。テルにも腹が立っていたが、このどうしようもない元婚約者にはさらに腹が立つ。
ジナは怒りに任せて口を開いた。
「あの時無理を言ってでも、お父様に婚約を断ってもらって本当に良かった。もしあのまま結婚していたらと思うと、ゾッとするわ。ねえ、リブラ?」
「お嬢様のワガママもたまには役に立ちますね」
女達の言葉による攻撃に深手を負ったのか、セバスチャンは顔色を変えて──しかしいまだ取り繕おうと笑おうとしているので、何とも不気味な笑みを浮かべた。
「ははは……恥ずかしがらなくてもいいんですよ、ジナさん。貴女がそうおっしゃるのは照れ隠しなのだと私には分かっているのですから」
セバスチャンは大男の背中から出てくると、ゆっくりとジナの横にやって来た。
「こんなむさくるしい場所で申し上げるのははばかりますが──貴女にもう一度だけ機会を差し上げましょう。もちろん、私と婚約し直していただけますね?」
そう言うと、セバスチャンはジナの肩に触れた。その瞬間、ジナは身の毛がよだった。
「触らないでちょうだい!」
肩に置かれた手を、ジナはバシッと叩き払う。
「あなたが何を勘違いしているのか知らないですけどね、お父様からちゃんとお断りをさせてもらったはずよ。もう金輪際、私に近づかないで!」
ジナが啖呵を切ると、のっぺりとしたセバスチャンの顔が豹変した。穏やかな笑みは消え去り、醜い侮蔑を含んだ笑みに取って代わられた。
ジナの判断は正しかった。以前セバスチャンと会った時の彼は、終始穏やかな人柄であったが、こんな恐ろしい面を隠し持つ男だったのだ。もしあのまま父親の言うがまま、この男と結婚していたら悲惨な一生になっていただろう。
(お父様ったら、男を見る目がないんだから!)
自分の洞察力の優秀さに鼻高々なジナだったが、この状況でピンチなのは変わりない。目つきの悪い男は自分を助ける様子は全くないだろう……味方はリブラだけだ。しかし優れた占い師とはいえ、大男達に囲まれたこの状況で所詮は力弱い女だ。
その時、ジナは思い出した。家を出る時に、護身用のダガーナイフを一つ持たされていたことを。まさかこれを使う日が来るとは思ってもいなかったが、今がまさに使い時だ。ジナはそっと腰に手を当てて、服の中に隠してあるダガーの柄を握り締めた。
ジナの後ろ側に立っていたテルは、隠し持っていたダガーをジナが戦々恐々として握り締める様を見ていた。
「…………」
テルはこの女に武器を振るわせたくなかった。何故こんなことを思うのかは分からなかったが、女が傷つくのを見たくないのだけは確かだった。
そうは思っても、堂々と守ってやるには踏ん切りがつかなかった。まさにたった今タウラス達にあれだけ啖呵を切ったのに、今更趣意替えかと思われたくないからだ。
そんなつまらないプライドがテルの行動を阻んでいた。曇った心を抱えながら、テルはこの状況を見守っていた。
「ふーーーーっ、ふーーーーっ、こんな筈はないっ、私はこんなに富も名声も持っているのに! こんなに貴女を愛しているのに!」
鼻息荒く興奮し始めたセバスチャンは、ブルブルと震えながらジナを見据えた。そしてジナの横の人物──女占い師が目に入ると、彼女に向かってさっと指を差した。
「おまえかっ。私は知っているんだぞ、おまえの下手な占いで主人をたぶらかしているんだろう! このペテン師が!!」
セバスチャンのこの言葉にはジナも頭にきた。
こんな男なんかに、一体リブラの何が分かるというのか? ジナがセバスチャンの前に一歩踏み出そうとした時、リブラがそれを制した。
セバスチャンはしばらく呼吸を繰り返して、落ち着きを取り戻したようだ。元ののっぺりとした顔に戻って、リブラに紳士的な話し方で声を掛けた。
「……いえ、失礼しました。今のはさすがに、紳士としてあるまじき言動でしたね。お詫びとして、貴女の占いの腕を証明するチャンスを差し上げましょう。さあ、占ってください。私とジナさんが最高の相性であることを!」
セバスチャンの言葉と同時に手下の男が一人、リブラの真後ろに寄り添った。ジナはその男がしていることに気付いた──ナイフの切っ先をリブラの首に押し付けている!
そう、占いの結果がどうであれ二人は最高の相性であると言うように、リブラに脅しをかけているのだ。ジナの堪忍袋の緒は今にも切れそうだった。
しかし、ナイフを首筋に当てられたリブラは依然冷静を保っている。ジナの怒りが爆発する前にリブラは頷き、占うことを了承した。
「いいでしょう。私の拙い占いで、あなたとジナお嬢様の相性を占って差し上げましょう」
リブラが水晶玉を掲げ念じた。一呼吸おいてから、リブラは口を開いた──大胆不敵な笑みを浮かべて。
「……あなたとジナお嬢様は最低最悪の相性でしょう。あなたの異常で独りよがりな愛情表現がジナお嬢様を苦しめています。ジナお嬢様の幸せを願うのであれば、大人しく身を引くのが吉でしょう。ふふ……占いをせずとも明白ですね」
(……バカ!)
テルは心の中でそう叫んだ。あの占い師は首にナイフを当てられているのに気付いていないのか、それともナイフを引き抜くよう命令を下す勇気などセバスチャンにはないと踏んでいるからなのか。そうだとしたら見当違いだ。テルの経験上、ああいう男こそヤバいのだ。しかしテルの不安は的中した。
リブラの後ろでナイフを握る男は、女占い師は怖気付いて、二人こそが史上最高のカップルであると告げるだろうと思っていた。しかし、この結果だ。男はまさか女の首を切ることになろうとは思ってもいなかったため、一瞬躊躇したようだ。セバスチャンの顔色を窺う。
当のセバスチャンは爆発寸前だった。頭の血管をはち切れんばかりに膨らませて叫ぶ。
「そのペテン師を殺ってしまえ!!」
「…………!」
それを見たジナが決心したように歯を食いしばるのを、テルは見た。とうとうダガーを振りかざそうとしているのだ。
リブラの首筋に当てたナイフを引き抜こうとする男──。
服の中からダガーを抜こうと、震えながら腕を引くジナ──。
(……ちっくしょう!)
その瞬間、テルの体は反射的に動いていた。後先のことなど、何も考えずに。
男のナイフがリブラの皮膚に食い込もうとしたその時、男の大きな体とナイフが天井に向かって勢い良く飛んだ。




