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皇太子宮の庭

作者: 朝田朝子

 ふと、窓の外に目を向けると、鮮やかな黄色が目に入った。窓近くに植えられている樹木に花が咲いたようだ。自然と笑みが浮かび、深く静かな呼吸になる。丁寧に淹れられたお茶の香りを楽しみ、カップをテーブルにもどす。

 陶器のふれるかすかな音に現実に引き戻され、自分があまりにもくつろいでいたことに呆然とする。息をするのさえ忘れそうだ。

 「いかがなされました。」

 立ち上がった私に侍女が声をかける。

 「夏空の様子を見に行きたいと思うのですが。」

 動きやすい服に着替え、厩に向かう。

 夏空は、私の愛馬だ。清潔に整えられた厩で、充分に世話をされている。

 私が行っても、その首に手を触れ、瞳をのぞきこんで話しかけるくらいしか、することはない。

 そうしていると、私が落ち着くのだ。

 帰ります、と何度告げても、もう少し、と微笑まれる。

 私のちょっとした不注意が、運悪くこのような事態をまねいてしまった。

 父である大公にどんなにか心配をかけてしまっていることか。

 あの日、いつものように帝国領内で買い物を楽しみ、夏空に乗り、街道を駆けていた。もう少しで公国領に入るというとき、横を駆け抜けていった荷馬車がはねた小石が夏空の前足にあたり、驚いて立ち止まった夏空から私は落馬した。そして私も夏空も、足に怪我をしてしまった。身動きが取れなくなってしまい、共の者が助けを呼びに行ったわずかの隙に、帝国の皇太子が通りかかり、私は強引に、ここ皇太子宮に連れてこられた。

 皇太子は、裕福な商人の息子のように装っていて、馬を貸してくれる所まで私を馬に乗せてくれると言ったのだ。そこは、共の者が向かった所でもあったので、このような往来で悪事をはたらかれる事もなかろうと、私は皇太子の馬に乗ってしまった。同行の紳士が夏空の手綱をひいて、一行は動き出す。そして、私が共の者を見つけ、声をかけようとした時、気づいた皇太子が私の口を押さえ、馬を駆けさせたのだ。途中私は、口を押さえる皇太子の指に思い切り噛み付いたのだが、彼が馬を止める事はなかった。

 私の共の者は、驚きながらも事態を正確に判断していたようなので、私が帝国の皇太子宮にいることは、父も把握していることだろう。私の短慮な行動も、きっと。

 悔やんでも悔やみきれない。

 私は、浮かんできた涙をこらえ、夏空をなで続けた。

 皇太子宮の中は自由にしていいと言われている。どこにいても、常に侍女が控えているが。

 ドレスや宝飾品は、部屋に納まりきれないほどに、日々届けられる。

 他にも、珍しい異国の調度品や麗しい声でさえずり心を和ませる小鳥。装飾品のように手の込んだお菓子。それを持参し、私のお茶の相手をしながら、さりげなく帝国の作法を教える貴婦人。

 皇太子は出会ったときから、穏やかな笑顔と行き届いた配慮で、心地よい時間を私に過ごさせてくれる。連れてこられた、馬に同乗していた時以外は。馬から降ろされながら、皇太子自ら名乗り、ここが皇太子宮だと明かされた。

 私とお茶を楽しみたくて、だが、断られるのが嫌なので、強引に連れてきた。少しの時間を私と過ごして欲しい。と丁寧に請われ、大公の娘と知られていないかもとおろかにも考え、お茶を飲んだら帰してもらえると安易に思ったのだ。

 夕食は、連れて来られてから毎日、皇太子と一緒だ。私は、皇太子の私的な客人として、扱われているようで、皇太子の私室で、皇太子と2人で夕食を取る。もちろん給仕の者が侍るが。

 私が部屋に入ると、皇太子はいつものように、ソファーに座って待っていた。立ち上がって私を出迎え、自ら椅子を引き、私をテーブルに着かせる。

 皇太子が席に着き、私に微笑みかける前に、私は話し出した。

 皇太子との時間は、今夜で終わりにする。

 けれども、私の決心などお見通しだったようで、いつものように穏やかに微笑まれ、私が言葉を紡ぐ前に、皇太子が話しだす。

 今日公務で会った、私は名前も知らない遠い国の使者が話したという、異国の話を。今夜の料理に使われている、帝国の東で採れるという香辛料。その地の祭りの話。近しい臣下が妻とくだらぬ諍いをした話。

 私は相槌も打たず、うつむいて、ただ手と口を動かしている。

 けれども、気持ちは落ち着いている。皇太子の話した香辛料の味を思い出せるほどに、料理を味わっている。皇太子が何と話したか思い出せるほどに、皇太子の声が身体になじんでいる。

 私は、こんなにも、皇太子に気を許している。

 そのことに今日まで気づいてもいなかった。

 愚かな、救いようのない私。

 結局私は、一言も話さず、皇太子を見ることもなく、与えられた部屋に戻り、侍女にかしずかれて着替えをし、寝具にもぐりこんだ。

 私はこの広大な帝国に隣接する大公領の、大公の娘だ。私の公国は、本当に小さな国だが、天候に恵まれた港と、古くから続く交通の要所を持ち、帝国にも、どの国にも、属していない。古く続く歴史と、領民達の気概と、大公の外交手腕とで、自治をもぎ取っている。

 それなのに、私は今、帝国の皇太子宮に居る。私を人質に、帝国は公国にどんな要求をしているのだろう。

 連れて来られて、もう五日。策も講じずただ漫然と過ごし、先ほども、毅然とした態度を示せなかった。

 こんなにも愚かな自分に、ただ呆然としている、本当に救いのない、私。

 いてもたってもいられず、私は動きやすい服に着替え、厩にむかった。夏空に鞍を着け、手綱を引く。

 ここまでは誰にも会わなかった。けれども、この先は?

 衝動に任せてここまで来たが、途方にくれて、私は立ちすくんでいる。月が中庭を照らしている。今朝見かけた、花をつけた樹木がここにもあるようで、おぼろに浮かび上がっている。手入れの行き届いた整然とした庭が、月の光に照らされ、その幻想的な光景に、私は自分がどこにいるのかわからなくなる。

 物音がしてそちらに目を向けると、皇太子が立っていた。いつもの穏やかな笑みで。そして、なんでもないことのように、言う。

 「明るい夜ですね。こんな夜に馬を駆けさせるのも、楽しそうだ。」

 おそらく私は、迷子の子供のように、皇太子を見つめている。

 「出掛けますか?」

 と、問われ、うなずく。

 皇太子は自分の馬の手綱を引いてきた。

 私が夏空にまたがるのを待ち、自分もまたがると先に立つ。

 私たちは、何も話さず、長い間、緩やかに歩く馬の背に揺られていた。

 帝国の宮殿の広大な庭は森といってもいいほど広く、月光のさす緑の中を、私たちは馬に揺られている。

 愚かで臆病な私は、この時が永遠に続けば、と願ってしまう。

 けれども、私は、小さな公国といえども、一国の姫。

 もうこれ以上、甘えていてはいけない。

 私は夏空をとめ、前を行く皇太子が馬をとめ、振り向くのを待った。

 けれども皇太子は、馬をとめたが、振り返らなかった。

 「もう戻りましょう。」

 皇太子の落ち着いた声が、月光をまとって私に届き、私の心を包み込む。 「明日は馬車を出して、貴方を公国まで送ります。私のわがままにつきあわせて、すまなかった。」

 皇太子はそのまま振り返ることなく馬を進め、厩に着いても無言で、夏空から鞍を降ろす私を、ただ見守っていた。

 私も無言のまま、戻り、寝具にもぐりこむ。

 眠れないと思ったが、うつらうつらしていたようだ。侍女に起こされ、そのまま部屋で朝食をとる。

 そして、ここに連れてこられた時と、同じものを身に着ける。

 馬車と使者が用意されていたが、固辞して、私は夏空にまたがる。門を出ようとした時、横に、皇太子が並んだ。裕福な商人を装っている。

 昨夜と同じように、無言で、私たちは馬を歩ませる。先を行く皇太子は速度を上げようとせず、私も、それに従う。

 街道の賑やかな往来が、私達を包んでいる。寄り添って馬を走らせる二人は、裕福な商人の若夫婦にでも見えるだろうか。

 どれほどゆっくり進もうが、終わりは来る。じきに公国領に入ろうかという時、公国の騎士が私たちの前で馬を降り、頭を下げた。

 父の近くに侍る、私も見知っている男だ。

 私は騎士に促され、騎士の馬の横に、夏空を進める。

 皇太子に顔をむけると、皇太子はいつもの穏やかな笑顔で私を見ていた。

 そしてその笑みを深くすると、踵をかえし、馬を走らせた。

 いつも私を包んでいた、落ち着いたあの声を、聞くことはできなかった。

 この先もずっと、それは叶わない。

 私を伺う騎士に笑顔をむけると、騎士は安心したように笑みを返し、先にたって馬を走らせた。

 私は、抜けるような青空の下、夏空を駆けさせる。

 不思議と涙はこぼれなかった。


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