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値段のわからない世界

余りものの値段

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/03/29

少し書いてみました、初投稿です。

朝は、だいたい同じ時間に目が覚める。

目覚ましは使っていない。

カーテンの隙間から入る光と、外の音で十分だった。


冷たい床に足をつけると、季節の変わり目がわかる。

キッチンは狭いが、使いやすい。やかんに水を入れて火にかける。


音が立つまでのあいだ、パンを切る。

昨日の残りで少し固い。

軽く焼くあいだに庭に出ると、朝の空気はまだひんやりしていた。


土はちょうどいい湿り気だった。指先に少しだけ冷たさが残る。

ナスをひとつ収穫し、手のひらに乗せて少し見る。濃い色が鈍く光る。


ひとつで足りる。

もうひとつは余る。


しばらく考えて、家の前に置いた。

小さな紙を添える。


――ご自由にどうぞ。

それでいいと思った。特に理由はない。




夕方、女が立っていた。置いた野菜の前だった。

光の中で、少しだけ浮いて見える。

肌だけが妙にきれいだった。


「これ、いくらですか」


声は小さいが、迷いがなかった。

余りだからタダでいいと伝えると、少し困ったように笑う。


「タダって……どういうことですか」


遠慮ではなかった。本当に分かっていない顔だった。

一個だけ持っていけばいいと説明すると、ゆっくりうなずく。


それでも、すぐには手を伸ばさない。

しばらくナスを見てから、そっと持っていった。


去り際に振り返る。


「これ、ほんとに大丈夫ですか」

「うん」


それだけ答えた。




次の日も、同じ時間に来た。少しだけ律儀だった。

小さなしわのある紙幣を差し出す。

払わないと困るかもしれない、と言う。


理由は曖昧だった。

自分でもよく分かっていないようだった。


ナスを渡すと、女はそれを見て言った。

「これって、高いですか」


視線はまっすぐだった。

だが、考えが進んでいない。


「どう思う?」

そう聞くと、少しだけ考える。


すぐに止まる。

「……わかんないです」


そのまま答えた。




市場の端で見かけた。

昼の光の中だった。


女は通りの端に立っていた。

夜になると、人が増える場所だ。


男と話して、金を受け取る。

短いやり取りだった。

額は、少ない。

見れば分かる程度には。


女はそれを受け取り、少しだけ見る。

数えるでもなく、ただ見ている。

合っているかどうか、判断できていない。


そんな止まり方だった。


風が吹く。

布が揺れる。


レイは視線を外す。


(関係ない)

そう思う。




ギルドの仕事は単純だった。

金額、数量、日付、署名を確認する。


問題はない。

そう思って進もうとして、手が止まる。


ほんのわずかなずれ。

誤差とも言える差。


だが、それが続いている。

同じような形で残っている。


小さく抜かれた金。

気づかれない程度の歪み。


確信に変わる。

偶然ではない。


ペンを持つ。

そのまま止まる。


相手は年上で、女。

自分は年下の男。


(言う立場じゃないか)


小さく思う。

そのまま書類を流した。




夕方、女が紙を見せてきた。

少しだけ息が荒い。


「これで合ってるのか、分からなくて」

手の中の紙は軽い。金額も少ない。

「それ、おかしいよ」

そう言うと、女の顔が止まる。

空気が少し冷える。


「じゃあ、私が悪いんですか」

言葉が刺さる。すぐに返せない。


違う、と言いたい。

だが形にならない。


女は小さく謝る。

そのまま離れていく。




しばらく来なかった。


静かな時間が戻る。

それでいいはずだった。

だが、少しだけ引っかかる。


正しいことを言ったはずだった。

それでも、届いていない。


(やり方が違うか)


小さく思う。




次に来たとき、少しだけ距離があった。

それでも立ち止まる。


簡単な食事を出す。

湯気がゆっくり上がる。


ナスを指す。

だいたいの値段を伝える。


別の皿も示す。並べて見せる。

教えるのをやめる。 比べさせる。


女は少し考える。

今度は止まりきらない。


「これとこれで……これくらい?」

少し不安そうに言う。


「そんな感じ」

短く答える。




朝、トマトを取る。

少しだけ赤みが強くなっている。


女が来て、それを見る。視線が止まる。

「これ、いくらくらいですか」


値段を伝える。

女は少し考える。


今度は、止まらない。


「……これ、安すぎるよね?」

そのまま言う。


レイは少しだけ驚いて、うなずく。


風が吹く。

庭の葉が揺れる。


昨日と同じはずの景色が、少し違う。


完全に分かったわけではない。

全部が変わったわけでもない。


それでも。


(これで、足りている)


静かに思う。




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