二章 四節
「奥で話すことにしよう」
マスターはカウンターの中から指を鳴らし、ウェイトレスの一人を呼びつけた。
「『鉄の手』さまですね」
ウェイトレスは呼ばれた意図を理解していた。エプロンドレスのエプロン部分をまくり上げると、その下に隠されていた物たちが露わになる。パイプホイッスル、懐中時計、ナイフが収まったシース。それらに並んでいる鍵束を手にとり、その中のひとつを外してマスターへと手渡した。
「どうぞ」
しかし、それは鍵と言うには不完全な形をした金属片だった。鍵山の部分が露骨に欠けていて、鍵としての用途はなさないように見える。
「ヴァニティ。蒼鴉の拾い物を」
ヴァニティもパンツのポケットから、同様の金属片を取り出し、マスターへと渡す。蒼鴉の拾い物と呼ばれたそれは、ピジョンを拠点にして仕事をする傭兵たちが手にする、いわば認識票のような物だ。
ふたつの金属片が、マスターの手によって重なり、組み合わさる。そうして初めて、それは鍵としての姿を取り戻した。
マスターはカウンターから出て、その脇にある扉へと向かう。カウンターを挟んで、ヴァニティもそれに続いた。出来上がった鍵を差し込んで開錠し、二人は部屋の中へと入っていく。
部屋の内装は、とても谷底に存在する空間だとは思えないほどだった。小さな部屋ではあるが、家具もインテリアも、裕福層が手にする物だと言われても通用する物ばかり。小さな暖炉には温かな火が灯り、マントルピースには、大口を開けた猛獣の頭部の剥製。口に収まりきらない湾曲した巨大な犬歯が特徴の、サイズウルフと呼ばれる珍しい種のものだ。
「お前は飲まないだろうから、こっちは勝手にやらせてもらうぞ」
マスターは棚から琥珀色の蒸留酒の瓶をグラスと共に取り出し、中身をグラスの半分ほどまで注いだ。それで口の中を潤しながら、片手でヴァニティにソファに座るよう勧める。
「話ってのは?」
ソファに体を落ち着けたヴァニティが問いかける。
「おれは長いこと谷底にいる」
マスターもまた、ヴァニティの向かい側のソファに身を沈めた。
「ここには王もいなければ法もない。だが、だからこそ存在する秩序というものがある。その道理を弁えているからこそ、長くここで仕事をしてこられた。……その分、秩序を軽んじて死んでいった人間も多く見てきた」
「ああ。それで?」
「道理に反することだとわかっていて、あえて訊く。お前が会っていた依頼主の女は貴族だな? どんな仕事を受けた」
「……」
ヴァニティは、マスターの前置きの意味を理解した。仲介人といえども、依頼主と傭兵の間に過度な干渉をすることは望ましくない。人によっては取るに足らないたったひとつの情報や名前が、別の人間にとっては重要な意味を持つこともある。詮索はそれに手を伸ばす行為だ。たとえ一度でも信頼の失墜に繋がり、時には命が危険にさらされる事態に発展する。
「彼女はコールドウェル家の現当主、エステル・コールドウェルだ」
ヴァニティは真実を口にした。さほど迷わずに発された返答に、マスターは微笑する。
「あっさり答えやがる」
「マスターにはさんざん世話になってきた。このくらいいいさ」
エステルの名を明かした所で何か大きな問題に発展するとは思えなかった。それに今回の依頼は、何か重大な秘密に接するようなことでもなさそうだ。ヴァニティはそう判断していた。
「人を捜して欲しいと言われた。ただそれだけだ」
「人を」
「ああ。……」
「……。なるほど」
マスターはグラスの蒸留酒を飲み干し、テーブルにグラスを置く。カツン、と硬質な音が響いた。
「それが『ミス・デスブリンガー』だってわけだ」
「……さすが、マスターだ」
「初めて見た時から気にはなっていたさ。この谷には似つかわしくない身分に見えるが、かといってここに仕事をまわしてくるクソ貴族どもとは匂いが違う。おおよそ何か事情があって家を出てきたってところだろう、とはな」
一度会っただけでも、マスターはエヴァの人となりをほぼ正確に掴んだようだ。
「腕利きの傭兵に仕事を頼みたい、と言っていたか。相場も知らずにそんなことを言ってくるのは、個人的な、しかし強い感情を持っている証だ。地位や政治のことしか考えてない奴らとは根本的に違う。そこにあるのは恨みか……あるいはそれに匹敵するほど強い、何かか」
背もたれに背中を預け、深く息を吐き出すマスター。
「まあそれはいい。それで? お前はどうするんだ。あの貴族の依頼を受けるのか」
ヴァニティはポケットに入れていた二枚の金貨を取り出し、マスターに見せた。
「返事だけはした」
「金貨二枚。……それがあの娘の値段か」
「これは前金、報酬の一割だとよ」
「そう来るなら割のいい仕事だな。家に帰ってあの娘を連れ出し、はい終わり、だ。だが、お前はそうしなかった」
「……」
沈黙したまま、ヴァニティは金貨をしまう。
「情が移ったか?」
ヴァニティは首を横に振る。
「……最初からさ」
「?」
「あいつが店で絡まれてたのを、俺は放っておけなかった。……なあ、マスター。あんたは覚えてるか? 二年半ほど前、貴族の娘が谷底で殺されたことを」
「ああ。名前は忘れたが、確かウォルコット家の令嬢だったな。おれも死体を……!」
はっとマスターは顔を上げた。
「あの髪色。まさか」
「妹なんだよ、あいつは」
「そんな話は聞いたことがないぞ。ウォルコット家には跡取りが……」
「ああ、いないってことになってる。オードリーが生きていた頃から、彼女は……エヴァはあの家には存在していないものとして扱われてた。だが確かだ。病弱だからって家の外には出されてなかったが……。かなり前になるが、片手で数えるほどだが会ったこともある」
「……病弱? あれでか?」
「同感」
二人は同時に、小さく笑った。
「……エヴァは谷底に来た。俺を捜していた、姉と同じように。……そして、何の因果か、彼女は俺の前に現れた」
「……」
「放っておけない理由にはなるだろ?」
「ああ。……そうだな」
腕組みをし、マスターは少し視線を右に向けた。
「まだ『デスブリンガー』ではなかった頃のお前を、今夜少しだけ知った気がするよ」
「……ずっと訊かなかったじゃないか」
「訊いたところで話さなかっただろう? それでいいさ。……とにかく、お前はまだ彼女を引き渡す気はないんだな」
「ああ。……まだ、確かめなきゃならないことがある」
その心の内を少しでも知るまでは、やはり彼女とは別れられない。
「おれが口出しすることでもない。好きにすればいいさ。……さて、話が逸れていたな。本題に戻すぞ」
マスターは姿勢を正す。
「今回お前が受けた仕事とは関係がなさそうだが、警告だけはしておく」
「? 何かあったのか」
「谷底で活発に動いている貴族たちがいる。どこの家の者かはわからないが、確かだ」
それ自体は珍しいことではない。確かに谷底は貴族たちが暮らす場所ではないが、エステルのように、傭兵たちに直接接触するため身分を隠して下りてくることはままある。だがマスターの言い分からして、それとは話の規模が異なるようだ。
「ウォルコット家がエヴァのことを捜してるって話をさっき聞いた。それとは違うのか?」
「人捜しをしているようには見えない。それに、あの子がここに現れるよりもだいぶ前からのことだ。谷底で、とにかく、何か良からぬことをしている」
「何か……」
「相手が相手だ、下手に手出しは出来ん。その動向を何人かに探らせてはいるが……。まだ何もわかっていない。どこに身を潜めているのかすらもな」
マスターは両手を軽く上げて、手のひらを上向ける。マスターは独自に私兵を集め、谷底の情勢に目を光らせている。ピジョンが表向きは食堂の体を成しているのも、人々の暮らしの中で流動する情報の流れを掴む狙いがあった。店のウェイトレスを含め、仲間は手練れの者が多いが、それでも詳細を掴むには至っていないようだ。
「そしてそれとほぼ同時期に、灰にやられて死ぬ者たちが増えた」
ヴァニティは、少し前に路地裏で見かけた男を思い出す。灰とはもちろん焼尽灰を指している。眉間に皺が寄った。
「何か関係がある、と?」
「もっとも谷底では珍しくない。自分や未来に絶望し、いっそすべてを忘れたい人間が灰を吸って終わっていくのはな。……しかし、だとしても腑に落ちない。どれだけ一気に吸引したのやら、気がふれた挙句に死ぬ、というケースが多すぎる。……そしてそれだけでもなくてな」
「?」
「少し待て」
マスターは立ち上がり、背後の戸棚を開けた。そこから取り出したものを、テーブルの上に並べて置く。それぞれ形が微妙に異なるが、蒼鴉の拾い物に間違いなかった。
「ドラウト、バリー、サッドスマイル、ロウ、プライド。……名の通った傭兵たちも、焼尽灰に堕ちている」
「!」
「何人かは我を完全に忘れ、手がつけられないほど暴れまわったらしい。居合わせた他の傭兵が、数人がかりでやむなく殺したそうだ」
聞くまでもなく、この蒼鴉の拾い物はその傭兵たちが持っていたものだ。そしてその名は、どれもヴァニティもよく知る腕利きの傭兵ばかり。金銭的にも、精神的にも、自分を見失う絶望とは程遠い。
「……それに、貴族たちが関係してるっていうのか」
「繋がりはもちろん見えん。さしもの馬鹿貴族どもも、それを感づかせるほど馬鹿じゃない。だからこそ匂う。死んだ傭兵たちは有力な貴族にも目をかけられている者ばかりだった。奴らを雇うだけの金がある人間というのも、それこそ貴族くらいのものだろう」
「それにしたって……」
ヴァニティも思案してみるが、今得ている情報からは何の答えも導き出せなかった。暗躍する貴族と、焼尽灰の被害、実力者たちの死。そのすべてを繋ぐ線が見えない。
懐に携帯している銃弾をひとつ取り出し、ヴァニティは視線を落とした。
焼尽灰。時に人を焼き尽くし、時に人を廃人にする、悪魔の火薬。ホワイトフレークが独自に作り出した新型の火薬であると、一般的には認知されている。
だが、ヴァニティは別の見解を持っていた。
(……くそ。また、こいつが……)
なぜ焼尽灰がこの国に蔓延ってしまったのか。その理由をヴァニティはよく知っている。だからこそ、やり切れなかった。
本当は、存在するべきではなかったのだ、こんなものは。だが、三年前のあの日。あの日をきっかけに、これは生まれてしまった。
人が銃で吹き飛ばされて死ぬのも、正気を失って死ぬのも。すべては、あの日が。……あんなことが、あったから……。
「とにかくお前も気をつけろ」
マスターの言葉で、ヴァニティは我に返った。
「人の信頼関係にとやかく言うつもりはないが、お前を重用している貴族たちが関係していないとも限らん」
頷いてみせて、ヴァニティは銃弾をポケットに押し込んだ。
「……俺なら大丈夫さ。怪しいそぶりを見せる雇い主と付き合ったことはあまりない」
「わからんぞ。灰の力の強大さは貴族たちもわかっている。その力だけを利として得て、リスクは他者に背負わせようというのが奴らお決まりの手口だ。そのツケを払わされるのは、決まってお前たち傭兵なんだぞ」
「言ったろ。俺なら、大丈夫だ」
自身の左腕に右手で触れ、力をこめる。
「俺が今まで何回引き金を引いたと思う? ……それでも生きてる」
「次も無事とは限らん。拾った命を、むざむざ捨てるつもりか?」
「そうなったところで」
自嘲するように、ヴァニティは笑った。
「ただ、それだけだろ?」
「……。まったく」
マスターがこめかみに手を当てたのと同時に、何かを叩く音が三回鳴った。
「!」
暖炉からだ。不自然な方向からの物音に、ヴァニティは瞬時に銃に手を伸ばす。
「心配いらん。おれの仲間からだ」
マスターはヴァニティに手を向けて落ち着かせると、暖炉の方へと向かった。マントルピースの剥製、その口に手を突っ込む。引き抜かれた手には、小さなメモが握られていた。
「なにかときな臭いからな。仲間の何人かには、不審なことがあればすぐに知らせろと言ってある」
「……そんな仕組みまであるのか、この店」
「お前が知らないだけでまだまだあるぞ。おれはこういうのが好きなんだ」
遊び心があっていいだろう? とマスターは真顔で付け加えた。
「……。お前宛てだ」
マスターはメモをヴァニティに投げ渡す。二つ折りにして飛ばされたそれを空中で捉え、ヴァニティは中を開き、見る。
急な来客、『鉄の手』宅にあり。
書かれていたのは、ただその一文。
「何か約束があったのか?」
「……晩飯は食わずに家に帰る、って約束ならしたが」
ヴァニティはメモを握り潰して席を立った。腰のホルスターから愛銃スケープゴートを引き抜き、シリンダーを手動で回転させて、六発分の装填がなされていることを確認する。
「ゲストは招いてないな」
自分を狙った誰かの仕業か。それともエヴァや宝石のことをどこかで掴んだ人間か。何にせよ、見過ごすことは出来ない。
(……俺のせいで、また……)
結局、エヴァを危険な目に遭わせてしまった。心の中には、確かな後悔が生じている。やはり関わるべきではなかったのだ。自分と、彼女は。
だが打ちひしがれるだけなら後でも出来る。それよりも先に、今はやるべきことがあるはずだ。
「手伝いはいるか?」
「いや。俺一人で十分だ」
ホルスターへと銃を戻す。自分が招いたことのケリを、ヴァニティは自分でつけるつもりだった。
マスターは「そうか」と返し、部屋の鍵にしていたヴァニティの蒼鴉の拾い物を取り外す。
「いい夜にしてこい。幸運を。『デスブリンガー』」
投げて返された蒼鴉の拾い物をポケットに押し込み、ヴァニティは扉の鍵を内側から外し、ノブに手をかけた。
「礼儀知らずどもには、不運な夜を見せてやるさ」




