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二章 三節

 リビングと併設された簡素なキッチン。火にかけられた鍋からは、温かな湯気とかぐわしい香りが立ち上っている。

 エヴァは鍋のスープを味見し、一人満足そうに頷いた。

「ん。いい感じ」

 初めてヴァニティと出会った時、彼が食していた魚の燻製を使ったスープ。初めて使ってみたにしては上出来と言える味だった。

 家で料理が出来るようになるまではかなりの苦労を要した。ほとんど使われることもなく放置されたままのキッチンを掃除し、その後はまるで足りない料理道具の調達。ヴァニティが自炊を嗜む人間だとは最初から思っていなかったが、まさかキッチンナイフの一本すらないとは、エヴァも予想していなかった。

 独特な気候と環境のせいで、谷底で手に入る食材は谷の上とはまるで異なる。基本的には保存を優先された加工食材が多く、塩気が強い傾向にある。生の肉や魚、野菜も手に入りはするが、基本的には鮮度に劣り、生食には適さない。当然、それに合わせた調理が必要となってくる。

 しかし、エヴァにとってそれはさしたる問題ではなかった。掃除、料理、裁縫。家事と呼べる物をこなす能力は、高いレベルで身についている。

 物心ついてからの長い時間を、生家である屋敷の中で過ごして来た。一般的な家庭が持つ家よりはずっと広いが、ことひとつの世界としては小さな箱庭に過ぎないその空間だけが、自由に過ごすことを許されたスペースだった。

 だからその中で、出来ることは何でもやった。覚えられることは何でも覚えた。エヴァ自身、それを楽しんでもいた。その成果が、貴族の娘らしからぬ生活のスキルだ。

 現に、初めて扱う食材の数々を前にしても、エヴァは容易にそれらを生かした料理を作ってみせた。食堂へと出かけている家主の舌も、きっと満足させられることだろう。

「さて、と。後は仕上げ」

 最後に臭み消しの香草を刻み入れれば、スープは完成だ。口元を綻ばせ、エヴァがキッチンナイフを握った瞬間。

「!」

 ドアを何度も激しく叩く音がした。

 思わず肩が跳ねて、拍子にキッチンナイフを床に取り落としてしまう。金属が鳴らす耳障りな音が、キン、と耳の奥を震わせた。

 エヴァはすぐに冷静さを取り戻した。鍋下のかまどで燃えていた炭に灰を被せて消火し、じっと息を潜める。家に一つしかない窓は雨戸を閉め、中を伺うことは出来ないようにしてある。

 中に誰かがいるかどうかの、判断は出来ないはずだ。

 ……先ほどの音を、聞かれてさえいなければ。

(気付かれてなければいいけど)

 ドアから十分距離をとったまま、エヴァはただじっと、気配を殺して待つ。

 またドアが、何度も叩かれた。ドンドンドンと、さらに激しく。

(礼は重んじろって教育されて来たけど。……出ないわよ)

 ヴァニティからはちゃんと注意を受けている。それに谷底では、時に礼儀がまかり通らないこともわかっている。

 強張る体を落ち着かせ、出来るだけ静かに呼吸を繰り返す。

 汗が、じっとりと体を濡らしていることがわかる。

 大丈夫。怖くない。

 エヴァは、心の中で自分に言い聞かせた。

「………………」

 息を押し殺したまま、長い時間が経った気がした。しかし過ぎたのはせいぜい一分程度だろう。鍋からはまだ暖かな湯気が立っている。

 扉が、三度叩かれることはなかった。

「………………。ふぅ」

 ほっと、一息ついた時。

 家のドアは、外から強引に蹴り破られた。

「っ!」

 古びた木製のドアは、いとも簡単に破壊され、もはやその用を為さなくなった。ドアの残骸を踏み砕き、何人もの人間が家になだれ込んでくる。まず薄汚れたベージュの服を着た人間が二人、どちらも同じ色の覆面で顔を覆っている。さらに四人、完全な黒色の外套で身を包んだ人間が続く。うち三人は覆面で目元以外を、一人はマントについたフードと仮面で顔全体を隠していた。さらに全員が剣を腰に帯びている。方法といい、出で立ちといい、招かれざる客であることは明らかだった。

「……スープの匂いにつられたにしては、不躾ではなくって?」

 こうなれば居留守を使う理由もない。エヴァは大きく嘆息した。

「ここがどなたの家なのかご存じ? 高くつくわよ」

「探せ」

 仮面をつけた人物が、短く声を発した。容姿は伺えないが、声から青年であることはわかる。どうやら指揮を取っているのは、仮面の青年のようだ。

 指示を受けた他の男たちが、乱雑に家探しを始める。テーブルを蹴り飛ばし、数少ない家具をひっくり返す。キッチンにもその手が伸びた。スープの満ちた鍋が中身ごと叩き飛ばされ、床にぶちまけられる。

「……もうっ」

 苦労して掃除した部屋も、丹精込めて作ったスープも、これでは台無しだ。エヴァは唇を尖らせる。

 そう広い家ではない。奥のトイレなどを含めても、ほんの数分のうちに男たちは手を止め、首を横に降った。目当ての物は見つからなかったようだ。

「……。指輪はどこだ」

 仮面の青年がエヴァに問いかける。近くにいた手下が剣を抜き、その切っ先をエヴァの首元に向けた。

「まぁ、怖い」

「早く答えろ」

「さあ、何のことかしら。指輪が欲しいなら、金物屋さんでうかがったらどう?」

「……」

 仮面の青年が合図を送る。男が剣を翻し、その柄でエヴァの腹を強烈に打ち据えた。

 突然襲ってきた暴力に、エヴァはたまらず腹部を押さえてうずくまる。

「っ! がはっ、がはっ……」

 胃の奥が冷えたように痛い。うまく息が出来ない。

 続いて、男がエヴァの体をまさぐり始めた。雑な手つきで至る所に触れ、目当ての物をどこかに隠し持っていないかを探る。エヴァも身をよじって抵抗はしたが、さほどの効果はなかった。

「……。持っていないようです」

 男の報告を受け、再び青年がエヴァを問い詰める。

「答えろ。指輪はどこだ」

「…………」

 途端に全身に噴き出した冷や汗。

 それが振り落とされるほど、確かにエヴァは首を横に振った。何度も。

 耳のすぐ横で、足音がした。涙でにじんだ視界に、剣の刃が映り込む。

「よせ」

 止めたのは仮面の青年だった。

「『鉄の手』が帰ってくる前にここを出る。……そこの二人は家に残れ。どこかまだ隠し場所があるのかもしれない。くまなく探せ。残りは隠れ家だ」

「女はどうします?」

「指輪の在り処は必ず明かしてもらう」

 簡単に解放してはもらえそうにない。目当ては指輪だ。如何なる方法を取っても、彼らは指輪を手に入れようとしている。

「立つんだ」

 青年がそう言うのとほぼ同時に、剣がすぐ眼前にまで迫ってきた。

「抵抗は考えない方が身のためだぞ」

「…………」

 エヴァは少しの間床に倒れたままだったが、やがてゆっくりと立ち上がった。痛む体をかばいながら、仮面を見る。

「来るんだ」

「……わかったわよ」

 男たちからの威圧を感じながら、エヴァは青年の後ろについて家を出る。

 その足元に、ぽたりと、赤い血が滴り落ちた。

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