二章 二節
夕刻。ヴァニティは、ピジョンの扉を開く。
まだ暗くなるには早いが、店の中は灯石の照明が点灯しており、ほんのりと明るい。薪ストーブのおかげで暖かな店内のカウンターにはマスターが立ち、いつもの通りグラスを磨いていた。
「ヴァニティか。……む」
マスターは、その変化にすぐに気が付いた。
「ほう。見違えたじゃないか」
「……」
ヴァニティはどこかバツが悪そうに頭をかいた。
仕事にくたびれて、綻びだらけだったヴァニティのシャツとパンツ。だが今はどちらも修繕が施され、ほとんど新品同様の状態になっていた。足元を包むブーツも、きれいに磨き上げられている。
灰色のマントに至っては完全に新調されていた。エヴァは強度に優れた布地を調達し、それを縫い合わせて、ヴァニティの体に見合う大きなマントを見事作り上げていた。大きく厚めに作られた襟元と裾の長さも相まって、これから訪れる冬には防寒具としても役立つだろう。
「あの娘の手製か? 甲斐甲斐しいことだ。……さしずめ、『ミス・デスブリンガー』と言ったところか」
「からかうのは勘弁してくれ……」
どうにも気まずく感じ、ヴァニティは話を逸らす。
「マスター、俺に客人は?」
「いいや、今日は来ていない」
「……少し早かったか」
「何だ、約束があるのか。そこで何か飲みながら待っていればいい」
マスターはカウンターの一席を顎で指した。
「何にする」
「……バブルを」
席に腰を下ろしたヴァニティはそう答えた。正式名称、シトラスバブル。谷底の子供たちが好む、瓶入りの炭酸飲料だ。
「もう寒くなるっていうのに、バブルとは」
「いいだろ、好きなんだから」
「お前だけだぞ、ここでこんなものを飲むのは。お前のために仕入れているようなもんだ」
言いながら、マスターはカウンターの下に備えられた保冷庫からバブルの瓶を取り出し、そのままヴァニティに差し出した。
瓶の先を手で押し込むと、爽やかに弾ける音と共に透明な瓶の中が泡立った。特殊な形状の蓋で中の炭酸を封じ込める造りだ。資源が限られる谷底では、硝子製の瓶は基本的に再利用する。
ヴァニティは瓶をあおり、喉を鳴らして飲む。心地よい清涼感が体にしみ入る。申し訳程度の香料の香りも、これはこれで味というものだ。
今一度瓶に口をつけ、傾けたところで、店の扉が開く音がした。扉を通り抜けた足音が、迷いなく自身に近づいてくるのを、ヴァニティは背中で感じていた。
「待ったかしら?」
「……。いいや」
聞きなれた声、決まりの文句。ヴァニティは振り返らずに応えた。
「隣、失礼するわね」
そう言って、エステルは隣の席に座る。いつも通りの素性を隠す外套を着込んでいる。無論、その姿を確認するまでもなかった。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
エステルはフードを被ったまま、マスターに返す。
「葡萄酒はある? 赤がいいわ」
「谷底では上物、谷の上では安物。そんな品で良ければ」
「グラスでいただくわ」
マスターはすぐに葡萄酒をグラスに注いで提供し、すぐに離れて行った。これから交わされるのは仕事の話。他人の耳が近くにあっては都合が悪いことを、彼は弁えている。
話を始める前に、エステルは葡萄酒の香りを確かめる。
「……触れ込み通りね」
満足がいくレベルの物とは言い難いようだ。口をつけることなく、エステルはグラスを遠ざけるようにしてカウンターの上に置いてしまった。
「服、新しくしたのね」
「ああ……まあな」
「いいじゃない。似合ってる。谷底にも、腕のいい針子が手掛けた物が売ってるのね」
やはり気付かれるか。ヴァニティはそれ以上突っ込まれることを避けた。
「それよりも、話があるんだろ。仕事か」
「なによぉ、せっかちなんだから。ちょっとおしゃべりするくらいいいでしょ?」
「まあ駄目じゃないが。……急に呼び立てたのはそっちじゃないか」
「それは、まあそうなんだけど。……まいっか。じゃあ、さっそく」
一息おいて、エステルは本題に入った。
「捜してもらいたい人がいるの」
「捜す? ……いつもの殺しじゃないのか」
「とりあえず、今回は違うわ」
「……少し前は石、こんどは人か」
「傭兵に頼む仕事じゃないのかもね、本当は。……あ、そうそう。指輪はどう? 手に入れた?」
「……いや……」
所在はわかっているが、手に入れたとは言えない。ヴァニティは返答に迷った。エステルはその間を否定として受け取ったようだ。
「……手に入ってないならそれでいいわ。それよりも、今はこっちが優先」
「?」
「傭兵には適任じゃなくても、あなたになら適任かもしれないのよ」
エステルは、カウンターの木目をなぞるように指を滑らせた。視線も、それに沿うように横にわずかに流れる。
「あなたは知ってる? オードリーに、妹がいたこと」
「っ」
ぴたりと、ヴァニティの動きが止まった。そのまま、数秒、硬直した。
「……? どうしたの」
「いや、知ってるも何も……」
それどころの話ではない。彼女は突然谷底に姿を現し、さらには半ば強引に自分の生活に入り込んできたのだから。
「もしかして、最近どこかで会った?」
「っ……。そういう、わけでは……」
事実は口に出来なかった。ギルバートですらあの反応だったのだ。少女を何日も家に寝泊りさせているなどと、エステルに知れればどんな顔をされるか。
(ギルの奴め。おかげで言いづれぇ……)
さらにエステルとの長い付き合いが枷となり、ヴァニティの反応を濁らせた。
「……。それで? 彼女がどうかしたのか」
「会ったことは?」
「まあ……一応」
「なら顔もわかるわね。オードリーとよく似た、コバルトブルーの髪の女の子よ」
オードリーほど美人じゃないかもだけど、と、エステルは冗談っぽく繋いだ。
「彼女、エヴァンジェリン・ウォルコットが、十日前くらいから姿を消してる。探してもらいたいのは彼女のことよ。ウォルコット家から直接わたしにも話がまわって来たの。何か知らないかって。コールドウェル家とウォルコット家は、昔から変わらず友好的に付き合って来てるし……。伯爵は家族を大事にする人だから」
「ああ。……だろうな」
かつて自身を重用してくれた恩人の顔を思い起こす。誰が相手でも分け隔てない優しさをもって接する、寛大で愛情にあふれた人物だ。今や一人娘となったエヴァが失踪したともなれば、心穏やかにはいられないだろう。
「…………。どうしてだ」
気付けばそんな問いが口をついて出ていた。
「? なに?」
「どうして彼女は家を出た。……生活に不満でもあったのか? 少なくとも不自由な暮らしをしているわけではないと思ったが」
エヴァと数日間暮らしてみたが、まだ彼女に関しては謎が多い。
病弱ゆえに家から出られない、という話だったが、彼女はいたって壮健だ。体が弱いような様子は見られない。何故エンゼルブラッドの宝石を所持していたのかについても不明。そして捜索依頼が出ているのなら、それは彼女が家の者に何も告げずに出奔したことの証拠にもなる。直接確かめられるのならそうしてもよかったが、ヴァニティ自身も自分の正体を明かせない関係上、彼女の身の上に踏み込むような話は出来ずにいた。
彼女は、イーサン・ヒューズを殺して欲しいと言った。そしてその名は、かつては未来の英雄と目された男で、今や稀代の大罪人として語り継がれていく汚名だ。
胸の奥にあるのは、姉を置いて消えたイーサンへの憎悪か、あるいは復讐心か。
……もし、その男が目の前に立ったとしたら。そしてその男が、自分が丹精込めて縫い上げた衣服を身に着けていると知ったら。
彼女は、どのような感情を、さらけ出すのだろうか。
「あなたが思うほど貴族の暮らしも楽じゃないのよ?」
エステルはまずそう返した。
「……悪い」
「ううん、いいの。裕福なのは事実だし」
一度そこで言葉を切り、エステルは懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
「……でも、そうね。やっぱり彼女もそう思ったってことじゃない? 何か暮らしに不満があって、そして、行動に移した。きっとそれだけよ」
「それだけで十日も家を空けるのか? 親に心配までかけて」
「そういうこともあるでしょ」
「あるでしょ……って……」
「……どうしたの? らしくないじゃない」
エステルはヴァニティの方に顔を向ける。少し戸惑いを含んだ笑みが、フードの下に隠れていた。
「どうして傭兵のあなたがそんなことを気にするの?」
「……」
「オードリーの妹だから?」
「……。何か、探すための手がかりに繋がるかもと、そう思っただけだ」
自分でもそうだとわかる、誤魔化すだけの返答。明確な答えは、ヴァニティの中にもなかった。
「他に情報は?」
「…………。谷の上はもう何日も探しているわ。ひょっとしたら谷底かもしれない。貴族の娘だもの、良からぬ人の手に落ちたのかも」
「だとしたら、厄介かもな」
「その時はあなたの腕に頼るしかないわね。……受けてくれる?」
「……。俺が仕事を断ったことがあったか?」
そう返す間だけ、ヴァニティはエステルの方を向いた。
「情報が少ない。少し時間がかかるだろうが、それでもいいなら」
今すぐ彼女にエヴァを引き渡すことは出来る。指輪の件もそれで解決だ。
だが、この機を逃せば、もうエヴァと会うことはないかも知れない。そうなれば、彼女が胸中に秘めているあらゆることを、永遠に知ることが出来なくなる。
彼女を谷の上に戻す前に、それを確かめたい。エヴァを連れて行くのはその後でも遅くないだろうと、ヴァニティは結論を出した。
(ちょうどよかったじゃないか。何も問題なんてない。……何も)
彼女は谷底にいるべきでない。豊かで幸せな生活を送っている人間が立ち入るべき場所ではないのだ、ここは。
かつて、彼女と同じような者がいた。平穏な生活からはみ出して、この薄暗い谷底に足を踏み入れた。しかもその理由は、自分という人間を捜すためだった。
その結果何が起きたか。……思い出すだけでも、胸糞が悪い。
(エヴァをオードリーと同じ道を歩ませるわけにはいかない。……ただ……)
ただ、あと少しだけ時間が欲しい。エヴァがまだ言葉にしていない気持ちを確かめるための時間が。
ヴァニティは、バブルの瓶を見つめる。人の心は、この透明な瓶のように見透かすことは出来ない。もしそれが叶うのならば、もっとずっと、すべてが簡単なのだが。
「ありがとう。じゃあ、これを渡しておくわね」
エステルはカウンターの上に、ことりと金貨を二枚置いた。
「前金よ。成功報酬の一割。残りは依頼が成功した後に渡すわ」
「人捜しで金貨二十枚も?」
「ウォルコット家にとってはそれだけ大事な人だもの。お金だっていくらでもかけるわ」
「……そういうことか」
「わたしにとっても、かつての親友の妹だもの。無事に帰って来てくれるのならそれが一番だわ」
「……だが、本当にいいのか? 成功するとは限らないんだぞ」
金貨を見ながらそう問うヴァニティに、エステルは迷わず答えた。
「成功するわよ。だってあなただもの。昔からずっとね」
エステルは立ち上がり、金貨とは別に、一枚の銀貨を並べるように置いた。五百グロー銀貨。その価値は金貨のちょうど半額にあたる。
「飲み物代、ここに置いておくわね。それじゃあよろしく」
「……ああ」
「信頼してるわよ」
小さく手を振って、エステルは店を後にした。
一人残されたヴァニティは、金貨をじっと見つめる。
(……信頼、か)
もはやそれを裏切った後であることには、少なからず心が痛む。考えてみれば、谷底に落ち、傭兵として生きるようになってから、エステルに嘘をついたり、その信頼に背いたりした覚えはなかった。
何でもしてきた。殺せと言われればいくらでも殺した。そこにのみ、自分の価値があると思えた。金など最低限あればいい。いつかそんな生活の中で命を落とすまでは、血に汚れた価値を自分の中に見出して生きていく他に道はない。
(……傭兵失格かもな)
頭を下げる準備はしておくことにしよう。ヴァニティはそう思い、金貨を懐に収めて、バブルを飲み干した。口をつけられていないワインのグラスに、空の瓶が並ぶ。
「話は済んだようだな」
マスターが歩み寄り、すぐにグラス類を下げる。
「ああ。代金はこの銀貨で……」
「少し時間をもらえるか」
マスターの眼差しは、いつもよりも険しい印象を受けた。
「話がある」




