一章 四節
イーサン・ヒューズ。それは一時期、ホワイトフレーク国内の誰もが知る男の名だった。
十代半ばにして、数々の戦場で武勲を立てた勇猛なる騎士。卓越した剣術、圧倒的な身体能力、そして高潔な正義感。そのすべてを併せ持ち、多くの人の期待を集めた人物だ。
仕えていたウォルコット家は貴族の中では弱小の部類だったが、イーサンの活躍はその地位の維持と向上に多大な貢献を果たしていた。面倒を見ていた領地内のトラブルや犯罪者の検挙、近隣区域に出没した猛獣、あるいは魔物の類の討伐。そのいずれにもイーサンは参加し、そして解決に一役買っていた。
彼自身、人を助けるために戦うことを喜びとして生きていた。他の貴族の招集にも必要とあれば客員騎士として参加し、その力を振るった。貴族、国民、そのいずれにも多大な信頼を向けられ、若き英雄として持て囃すものもいた。
だがその名は、ある日を境に地に堕ちた。
三年前、彼は隣国、ヒートヘイズが保管していた、アーティファクトと呼ばれる特異な物体の強奪を図り、その輸送部隊を仲間と共に襲撃する。その際、強大な力を秘めたそのアーティファクト、「咎の種火」が暴走。護衛していたヒートヘイズ兵と、襲撃をかけた者たちを巻き込み、大爆発を起こす。その火に飲まれた者は誰もが命を落とし、爆心地となった草原地帯は、咎の種火とその灰から生じる毒性によって汚染され、人や動物が住めない焦土と化した。
強奪の首謀者は、当時のコールドウェル家当主、パトリック・コールドウェル。行き過ぎた野望を抱えて多大な死者を出した上に、他国との関係性を悪化させたとして、その罪を娘であるエステルによって告発され、処刑された。咎の種火はホワイトフレーク側に回収され、今も専用の施設に保管されている。ヒートヘイズとの交渉による紛争予防、保管施設の建設に尽力したのもまたエステルだ。
そして、強奪の主犯とされる、イーサン・ヒューズ。その名は首謀者と並び、和平を揺るがした大罪人として認知された。それからしばらくしたある日、咎の種火を握りしめた左腕が発見される。その左腕の甲には、イーサンの象徴として知られていた、炎をかたどった焼印の痕跡があった。
遺体の他の部分は今も発見されていない。爆発に巻き込まれ、左腕以外のすべてが吹き飛んだのだという者もいれば、しぶとく命を繋ぎ、どこかで息を潜めながら生きているのだという者もいた。一時期は多額な懸賞金をかけられ、その行方を捜す者もいたが、今やそんな人間はほぼいない。
結果、イーサンはふたつの国に打撃を与えた大罪人、歴史の汚点のひとつとして記憶される存在となっている。
ただし、それは多くの人々に信じられているに過ぎない、ひとつの事実。
ごく一部の人間は、彼が生き延び、名を変え、谷底で傭兵として生きているという真実を知っている。
ヴァニティもそれを知る一人だった。
知らないはずがない。イーサン・ヒューズが今、『鉄の手』、あるいは『デスブリンガー』、ヴァニティと呼ばれていることなど、他の誰よりもよく知っている。
「…………」
長く沈黙した後、ヴァニティはエヴァにこう言葉を返す。
「名前を間違っていないか?」
「間違いありませんわ」
即答が返ってくる。
「だが、死んだはずだ。……イーサン・ヒューズ。それはあの、イーサン・ヒューズだろう?」
「ええ、あなたが思い浮かべている人物で間違いないかと。……彼は生きていますわ」
「まさか。……どうしてそう言える」
「……これ以上は――」
エヴァは、口の端をわずか持ち上げる。
「――依頼を受けると決まった時に」
「……」
再び沈黙し、その時間を使って、ヴァニティは考える。
とにかく、エヴァは大人しく谷の上に戻るつもりはないらしい。そしてこのまま彼女を放っておくのも得策とは言えないようだ。
過去の大罪人の殺害依頼に、赤い液状の宝石。彼女は何を思い、何を知り、何を掴んでいるのか。……それを確かめる必要がある。
「わかった。……先に言っておくが、俺の家は居心地が悪いぞ」
その返事に、エヴァはひと際明るく微笑んだ。
「ではまずはお掃除からですわね。道具をいろいろと買って行かなくちゃ」
「余計な物には触ってくれるなよ」
「何かいかがわしい物でもお持ちなの?」
「おい……」
「見つけても見なかったことにしますわ」
あるのが当然、と言わんばかりの物言いに、ヴァニティは頭を抱えた。
「では、よろしければ案内していただける?」
「……。ああ、わかった」
とにかく食事は終わり、ここでの用事は済んだ。代金もすでに支払ってある。後は家に帰るだけだ。ヴァニティが立ち上がると、エヴァもそれにならった。
「ヴァニティ」
扉に向かう途中、その背中をマスターが呼び止める。
「伝えておこう。例の双子だが、引き取り手が見つかった」
見捨てるのも目覚めが悪く、エステルには秘密で昨晩屋敷から連れ帰ってきたインピュアの双子のことだ。ヴァニティは足を止めて振り返る。
「どこの誰だ」
「インピュアの双子でも不幸になることはない人物の元、とでも言っておこうか」
マスターはちらりと視線を横に向けた。その先には、地下へと向かう階段があった。
「いずれまた会うこともあるだろう」
「……そうか、わかった」
「またのご来店を。……気を付けてな」
頷き、ヴァニティは背後のエヴァの方を向く。
「行くぞ」
「……。ええ」
エヴァは真顔でヴァニティの顔を見ていたが、すぐに笑顔を浮かべて返事をした。ヴァニティはエヴァを連れて店の扉へと向かい、開く。
「よぉ。待ってたぜ」
店のすぐ外に待っていたのは、先ほど見たばかりの顔だった。エヴァにちょっかいをかけ、ヴァニティに店を追い出された傭兵の男だ。
痛めた右手には雑に布を巻き付け、左右に一人ずつ仲間を連れている。その得物のマチェットと、顔に浮かぶ恨みは、先ほどまでと変わらない。
「ピジョンの中では揉め事厳禁。……それは店の中での話だ。つまり、てめえが一歩そこから出りゃあ、そんな掟なんぞ関係ねえってことだ」
男はマチェットを握りしめる。仲間の二人も、木製の棍棒と、レバー式の散弾銃をそれぞれ構える。
「覚悟はいいな?」
やれやれと肩を落としたヴァニティの脇から、ひょこっとエヴァは顔を出して様子を伺う。
「あら、誰かと思えばさっきの人。お仲間を連れていらしたのね。やっぱりあなたがお目当てかしら?」
男はエヴァの姿を見て、つまらなそうに舌打ちする。
「んだよ、その女には結局てめえが手を付けやがったか。……カッコつけやがったくせに、気に入らねえんだよまったく。結局いつも、てめえみたいな顔がいいだけのスカした野郎ばっかりが女にモテやがるんだ。心底気に入らねえ」
その後、ヴァニティを見下げるように笑った。
「『鉄の手』。その女を今すぐ素直に渡せば、見逃してやらねえこともねえぞ」
マチェットを使って手招きをする男から視線を逸らさぬまま、ヴァニティは背後に声を投げる。
「俺なんかに関わったばっかりに、面倒なことになったな」
「それは違いますわ。あなたが私なんかに関わったから、面倒なことになったのですわ」
でしょう? と、エヴァは首をかしげて微笑んだ。
「……そうかもしれない。どっちでもいいさ。似たようなもんだ」
「ふふふっ。ええ、そうですわね」
自身が狙われているにもかかわらず、エヴァに不安そうな様子は見られない。その口が紡ぐ問いかけも、どこか自信や、確信めいたものが含まれていた。
「どうしますの? 私をあの人に差し出します?」
「もう決まってる」
ヴァニティは、店の外へと一歩を踏み出した。
「少し、そこで待ってろ」
「はい」
エヴァは言われた通り、店から出ずに灰色のマントを視線で後押しした。
「女を渡す気はねえってか。……はっ。いい根性してやがる」
砂利を踏み鳴らして前に出るヴァニティを、男たちは一笑に付した。
「だがな『鉄の手』。さっきとは状況ってのが違う。三対一だぜ? それでも臆さねえのはただの馬鹿ってもんだ。……感謝しな。今から馬鹿は早死にするってのを教えてやるぜ」
「そうしたいってんなら」
ヴァニティの足が、一瞬止まり。
「もう遅い」
突如、その左足が地面を蹴り飛ばした。
砂煙が巻き上がるほどの踏み込みで、一気に男たちへと肉薄する。大人でも数歩程度では埋まらない距離、男たちは十分余裕があると見ていたが、誤りだった。すでにヴァニティの間合い内だ。
ヴァニティがまず狙ったのは散弾銃を持った男だった。男は驚きながらも反応し、銃口を向けて引き金を引く。だがすでに懐に入り込んでいたヴァニティの右腕に銃身を跳ね上げられ、銃は虚空へ向けて無駄弾を放った。
驚愕し、隙だらけの男の腹部に肘が叩き込まれる。口から胃の内容物を吐き出し、たまらず男は体を折って、そのまま動けなくなった。まずは一人。
続いて散弾銃を奪い取り、慣れた手つきでレバーを操作して再装填を済ませると、その銃口を棍棒の男に向けた。殴りかかろうとしていた男が、一瞬怯む。その一瞬で十分だった。
ヴァニティは素早く接近し、散弾銃を横薙ぎに振るって男を殴りつける。男は反射的に棍棒で防御したが、衝撃を殺しきることが出来なかった。横に吹き飛んで転がり、目を白黒させた後、気を失う。
これで二人目。ふと目をやると、散弾銃の銃身が歪み、曲がっていた。
「とんだガラクタだな」
ヴァニティは、それを用済みとばかりに投げ捨てる。
「くそっ、役立たずどもが! おらぁ!」
残り一人となった男が、マチェットを振りかぶってヴァニティに襲い掛かる。立て続けに繰り出される攻撃を、ヴァニティはひらりひらりとかわした。
そして機を見て、その刀身を左腕で掴む。突然強力で動きを束縛され、男は動けなくなる。
「ぐ、この……!」
「そろそろ馬鹿はどっちかわかっただろ」
そして力を送り込み、マチェットの刀身を、一息に砕き割った。
「!?」
マチェットの切っ先が落ち、自身を拘束する力から解放されて、男がたたらを踏む。ほとんど柄だけとなった得物を見て、男はぎょっと目を丸めた。
「呼び名は鉄でも、この腕はただの鉄じゃない。なまくら一本砕く程度のこと、造作もないんだよ」
「う……く……」
「まだわからないってんなら、今度はその頭で試してみるか?」
「っま、待て。……待てって」
マチェットの柄を放り投げ、男は手のひらを前に向けながら後ずさる。戦意はすでに失ったようだ。
「ならもう二度と関わるな」
ヴァニティはちらりと、店の入り口で待つエヴァを振り返る。
「俺にも、彼女にもだ。……さもないと」
閉じたままだった左手を、ゆっくりと開いて見せる。粉々になった刀身のかけらが、ぱらぱらと舞い落ちる。
「不運なことになるぞ」
「く……。わ、わかったよ。ああ、わかったわかった、覚えてやがれよ、このくそったれが!」
決まりきらない捨て台詞を吐き捨て、男は走り去っていった。仲間だったはずの男たちは、置いて行ってしまった。
(やれやれ。……まあ、放っておいてもそのうち目を覚ますだろ)
二人とも死んではいないはずだ。その程度の加減はしてある。助ける義理もないため、ヴァニティは二人をそのままにしておくことにした。
ぱち、ぱち、ぱち。控え目な拍手が耳に届く。
「お見事ですわ」
最後に一つ、大きめに手を叩き、エヴァはにっこりと微笑む。
「あなたを選んで、やっぱり正解でしたわね」
「……まだ依頼を受けるとは言ってないぞ」
「受けないと決まったわけでもないでしょう?」
エヴァはヴァニティに歩み寄り、目線の少し上にある顔を見上げた。
「色よい返事がいただけること、期待していますわ」
「……」
どう返事をしていいものか迷った。エヴァの依頼は、イーサン・ヒューズの殺害。彼女が持つ宝石はどうにか手に入れたいが、そのためには自分殺しの依頼を受けなければならない、ときた。こういう時、ヴァニティは上手く立ち回れるほど、器用ではなかった。
「……あ、そう言えば」
「? 何だ」
「あなたのことは、何とお呼びすれば?」
首をかしげるエヴァ。またどうも、応えづらい質問だった。
「いろいろな呼ばれ方をされてる方のようですので」
「何でもいい。俺だとわかれば、それで」
「ではやはり、ご主人様、でしょうか。あるいは、旦那様?」
「……ふざけないでくれ」
「ふふふっ、わかりましたわ。……では『鉄の手』さん。そう呼ばれてることが多いようですし、私もそれに倣えばよろしいですわね?」
「……ああ」
それでいい。とにかく、自分が持ち続けていられなかった名に、エヴァが気付かないのであれば。
「好きに呼んでくれていい」




