一章 二節
ホワイトフレーク王国は、何代も続く王族と、それに仕える貴族たちの力により、長年の繁栄と栄華を保ってきた国である。
果敢であれ。至高の幸は花冠にあり。国の統治者である王は代々この標語を掲げ、自国の貴族たちに積極的な角逐を求める。国と民に尽くし、より大きな利を生む家は優遇するが、逆に成果を上げない家が堕落していくことには静観を決め込む。土地も名声も失った貴族たちはいずれ姿を消し、そのポストには他の有力な貴族や台頭を果たした家が着く。国をより良い方向に動かし続けることを狙いとしたシステムは、この国に根付いて久しい。
食うか、食われるか。シンプルで残酷な体制は、確かに国に豊かさをもたらした。貿易、治安、流通、職。国の平穏を脅かす要因となるものが浮かび上がれば、名を上げる好機とばかりに貴族たちはこぞって解決に動き出す。利己的な理由ではあれども、それは確かに国を、ひいては国民の暮らしを良いものにすることに繋がっていた。事実ホワイトフレークは周囲の国にも平和な王国として広く知られ、国がもたらす安寧を享受しながら、多くの人々が暮らしている。
だが、美しい花の根には毒があるのも、また常だった。
国土の一部に、通称「谷底」と呼ばれる一角が存在している。
正式名称、ヒドゥンバレー。大昔、天災によって起きた地盤沈下により、優に国土の六分の一ほどの区画が、丸ごと断崖絶壁の下に沈む大事故があった。予期せぬ不運に見舞われ、多くの人が命を落とし、生き残ったわずかな人々の生活にも深刻なダメージが生じた。
王国は、非情にも谷底に手を伸ばすことを放棄した。災害に見舞われた国土の二割弱の生活を取り戻すよりも、残り七割強の生活を維持し、より豊かにすることに利を見出した。利益の種として目を付けた貴族たちもわずかながらも存在したが、王族から評価されることはないとわかると復興事業から早々に手を引き、谷底に沈んだ人々を救うことを諦めた。
それでも、谷底では生き残った人々が独自の生活圏を形成しつつあった。それがかえって国の闇を広げることとなる。
法の守護も統治者も存在しない苦界と化した谷底は、いつからか王国の暗部とでも言うべき掃き溜めと化していく。野放しに出来ない罪人や納税を行えないほどの貧困層の人々が、汚物をゴミ箱へ放り投げるかのように谷底へと落とされ、そこでの生活を強制された。国の繁栄の代償として、谷底は長い年月を経て澱んでいった。日の光は満足に届かず、土地も資源も限られた、文字通りの谷底。その場所は、これ以上落ちる所のない場所として、王国の闇を一身に受け止め、存在している。
しかし、人々はそれでもしたたかに生きていた。廃材を寄せ集めて家を作り、限られた土地で作物を作り、家畜を育てた。谷底自体を町として成り立たせ、独自のルールを作り、仕事を持ち、貨幣による経済も存続させた。
そして、腕に覚えがある者は、その腕をもって金を稼いでいる。
「……」
ヴァニティは、切り立った谷の先端に押し込められ、狭くなった空を見上げていた。灰色の雲が薄く敷き詰められたような寒空。ただでさえ湿り気が多く、肌寒い空気が、一層冷たく感じる。
朽ちかけた木材で作られた家屋の隙間とも言うべき、入り組んだ路地裏。当然、通路の舗装などはまったくされていない。歩き心地の悪い地面からも、冷えた空気が立ち上ってくるようだ。
周囲には人の気配はない。一人、ただ空を見上げる。もう冬だ。そう遠くないうちに、雪が降るだろう。
(……雪……)
――ねえ、知ってる? ホワイトフレークの花言葉。
いつしか、そんな話をしてくれた人を思い出す。
――とても素敵なの。きっと気に入るわ。いくつもあるんだけどね、国のヒーローくんにぴったりなのは――。
自分を見上げる瞳。コバルトブルーの髪。甘やかな声。微笑みの口元。
花言葉はもう覚えていなかった。それよりも、目の前で楽しそうに話す女の子のことの方が大きかったから。今更になって、ちゃんと話を聞いておけばよかったと後悔している。
彼女はもう、会うことの出来ない場所に行ってしまった。
「待ったかしら?」
ふと、声がした。ヴァニティはそちらに顔を向ける。
「あなたはいつも早いわね。『鉄の手』ヴァニティ」
フード付きの外套で身を隠した人物がそこに立っていた。一見すると怪しいが、ヴァニティは警戒しない。その声は、長い付き合いの中で聞きなれた少女のものだ。
少女はフードを指で少しだけ持ち上げ、ヴァニティに顔を見せる。透き通るような白い髪と、見目好い容姿。同時に、外套の隙間から下に来ているドレスの上質な生地が覗いた。
エステル・コールドウェル。ホワイトフレークの貴族の名家に生まれ、若年ながらもその当主の座に就いた少女である。二人は幼かった頃から関わりがあり、ほとんど幼馴染みと言っていい。もっとも、傭兵と雇用主という関係でもあるのだが。
「俺が勝手に早く来てるだけだ」
「感心感心。女の子を待たせるよりはずっといいじゃない?」
エステルはヴァニティのすぐそばに立ち、外套の下をまさぐり、小袋を取り出した。
「さっそくだけど、はいこれ」
ヴァニティはそれを受け取り、その場で中を検めた。
入っていたのは千グロー金貨だ。ホワイトフレーク国内で流通している貨幣のひとつ。その一枚は、富裕層にとっては午後に飲む茶に付け合わせる焼き菓子の値段、貧しい者にとっては数日分の食費になる。
その金貨が、三枚。これが昨晩の仕事の報酬だった。昨晩死んだ貴族の少女とその護衛の命の値段であり、ヴァニティが人を殺めた対価でもある。いずれにしても、高いとは言えないはずだった。だがヴァニティは異を唱えない。
「お疲れ様。またお願いね」
「……ああ」
いつも通りの値段だ。ヴァニティは袋の口を閉じ、パンツのポケットに押し込む。
「いつでもやるさ。あの程度なら」
「いい仕事だったわ。これであのスミス家も少しは大人しくなるはず」
「死体はそのままにしておけと言っていたが。よかったのか?」
「ええ。回収はこっちでやったわ」
「どうするんだ」
「送ってあげた。あの子の両親のところに」
「……顔がわかる状態じゃなかった」
「だからいいのよ」
エステルはふっと白い息を吐いた。
「文字通り顔面蒼白。……富と権力を使って好き勝手するのはいいけど、限度っていうものはあるって、そうわかったはず。時に乱暴なやり方でしかそれが伝わらないけどね、ここでは」
常に貴族の頭には、いかにして功績を上げて王からの評価を高めるかと、他の貴族をいかに蹴落とすかがある。通常は抱えた騎士や財、コネクションを利用するのだが、時には公に出来ない方法で他者を出し抜かなければいけない状況もある。血なまぐさい荒事、殺し。それに直近の部下を使い、足が付くことを多くの貴族は避ける。
その際に使われるのが傭兵だった。どんな仕事であろうと、金銭さえ払えば動かせる。必要以上の情報を伝える必要もないため、足も付きづらい。ほとんどが谷底に身を置いて仕事を待つ傭兵は、苦界に沈んだこの町と同じように、貴族たちの後ろ暗い部分を身に吸い込むようにして生きている。
貴族間での争いを主とした水面下での諍いを主として、時に周囲の国や辺境へ踏み込む危険な仕事も請け負う。命さえ落とさなければ、傭兵が生業として成り立つだけの仕事は十分にあった。
エステルも時にその手を血に汚しかねない手段を取ることがある。その時に動くのは、決まってヴァニティだった。
「毎日贅沢尽くし、少年少女の奴隷を買って、弄んで飽きたら捨てる。やり過ぎたのよ、あの子は。……今回はわたしがやっただけ。いつか誰かに付け込まれてたわ」
エステルは自分にそう言い聞かせるように言った。
(そのために買われていたのか、あの双子は)
ヴァニティは兎の耳が生えた双子の怯えた双眸を思い出す。インピュアと総称される、いわば人間の変異種だ。出生時、もしくは幼年期に至るまでの期間で、人間以外の動物の特徴を持つ形に体が変化した人間のことを指す。特徴が発現する確率は、一割に満たない。
発現しインピュアとなった者は、多くの場合忌み嫌われ、人道的な扱いをされることはほとんどない。人であるようでいて、人ではない。普通のカテゴリーに属せない少数派が嫌悪、迫害される。どんな環境であってもあり得る、冷酷な常識。インピュアについての人々の認識は、まさしくそれだった。
あと一歩でも襲撃が遅ければ、二人は精神的な傷跡を負っていただろう。インピュア相手では珍しいことではないが、あの少女、虫も殺せぬような顔をして、とんだ食わせ物だったようだ。
「お金は時に人を狂わせる。……ね、あなたにもそんな時があるの?」
「? ……さあな」
含みを持たせた言い方を、ヴァニティは不思議に思った。
「生憎、頭がおかしくなるほどの金を持ったことなんて今までにないんだ」
「例えば、目の前に高価な宝石がずらりと並んでいたりしたら? 仕事の最中、それを偶然見つけて……この中から、もしひとつくらいなら……なんて。そう思ったりすることはあるでしょ」
エステルは一度、周囲を見やった。
「いい場所でいい暮らしをしてるとは、とても言えないもの。……でもそんなことする前に、わたしを頼ってくれても良かったんじゃない? 貴族と傭兵っていう関係は抜きにしてもね」
「? 暮らしを良くしようなんて思ってないさ。それに俺には宝石を集める趣味はない」
「だから、集めるじゃなくって。ちょっと盗んだりすることが――」
「傭兵は傭兵だ。強盗でも泥棒でもない。……一体何が言いたい? エステル」
「――……じゃあ単刀直入に」
エステルは手のひらを上向け、ヴァニティの前に差し出した。
「昨日、屋敷から指輪を盗んだわよね? 出して」
「……何だって?」
「わかってるのよ。あなたが盗んだことは。ほら早く出して。大切な物なの」
身に覚えのない悪事を責められ、ヴァニティは顔をしかめるしかなかった。
「そんなこと、俺はしてない。盗んでもいないものをどうやって出せばいいって言うんだ」
「…………。あなたじゃないの?」
ヴァニティと目を合わせて、そこに嘘がないことをエステルは感じ取った。前に出した手を下げる。
「でもイーサン、あなたしか――」
ヴァニティは無言で圧をかけた。エステルはすぐに訂正する。
「――ごめん。じゃああなたじゃなきゃ、誰があの屋敷からあの指輪を盗んだっていうの?」
「そう言われてもな。……知らないことは知らない。そうとしか言えない」
「……そうよね。もっと良く調べなきゃいけないか……」
エステルは露骨に表情を曇らせている。
「そんなに貴重なものなのか、その指輪とやらは」
「……そうね、あなたにも教えておいた方がいいかも」
今更忘れてなんて言えないし。エステルはそうとも零した。
「あの子、特別な宝石がついた指輪を持っていたはずなの」
「宝石の指輪……」
まさかと思い、ヴァニティは昨晩の路地裏の記憶を引きずり出す。頭を抱える細い腕、その両手十本の指。あそこに指輪はつけられていなかったはずだ。
「一応聞くけど、あの子は指輪をつけていなかったのよね」
エステルも同じことを考えていたようだ。
「ああ、つけていなかった。……俺の記憶に間違いがあれば、一緒に吹き飛ばしてしまったのかもしれないが……」
「それはないはずよ。それならそうだとしたらわかると思うし。……あなたが気付かなかったとも思えないし」
「どんなものなんだ、それは」
「一目見ればそれだとわかるものよ」
「宝石に興味のない俺でもか?」
エステルは迷わず頷いた。
「エンゼルブラッド。わたしはそう呼んでる。赤い宝石なんだけど、中が液体状になってるのよ」
「宝石なのに?」
「宝石なのに。今のところ、二つと見つかってない希少なものよ。それがあしらわれた指輪をあの子は持っていたはずなんだけど……それが昨晩、あの屋敷からなくなったの」
「ふむ……」
今一度、昨晩の仕事を思い起こす。やはり、それらしいものを見た覚えはない。
「もともとはわたしの持ち物だったの。以前家で会った時に、ちょっと油断しちゃって。その隙に彼女に……ね」
「一度欲しくなった物は、どうしても手に入れないと気が済まなかった、か」
「そうみたい」
欲というのは際限ない。時に人を動かし、行き過ぎれば人を狂わせる。裕福な暮らしをしていても、歯止めが利くことはないようだ。
「ねえ、よければあなたも探してみてくれない?」
「それが次の仕事か?」
「ただのお願い。もちろん、見つけてくれたらそれなりのお礼はするけど」
「まあ、構わないが……」
谷底には盗人も多い。その中の誰かが例の屋敷に忍び込んだ可能性はゼロではないだろう。幸か不幸か、昨晩、あの屋敷には盗みを邪魔する人間はいなかった。ヴァニティの襲撃以降に限り、ではあるが。
「必ず見つけるって保証は出来ない。谷底にあるとは限らないからな」
「わかってる。それでも宝石のことは教えちゃったし、一応ね。あまり話を大きくしたくないし、あなたの手が届く範囲で探してくれればいいわ」
「人に知られれば、それだけ狙う人間も増える、か。……わかった。そういうことなら」
「よろしく。……あ、そうだ」
エステルは再び開いた手をヴァニティへと向けた。
「忘れるところだった」
「……ああ」
ヴァニティは懐から長方形の札を出した。木製で、角に鉱石が埋め込まれている。通行手形だ。谷底とホワイトフレークとは、専用の昇降機を利用して行き来する。この手形に埋められた鉱石には特殊な力が秘められており、それと昇降機の装置とを反応させることで、始めてその操作が出来るようになる。
昨晩は仕事のために谷を出る必要があった。だが、もうその必要はない。
「そうだったな」
ヴァニティはエステルに通行手形を差し出した。
「また必要になりそうだったら貸すわね。……それじゃあ、お疲れさま」
手を振って路地裏を後にするエステルを、ヴァニティは身動きせずに見送る。通りに出ようという時、そこに控えていたらしき二人の従者がエステルの横についた。そのまま、一行は視界の外まで遠ざかっていった。
ヴァニティは小袋を取り出し、手の上で軽く振るようにしてその重さを確かめた。ちゃりちゃりと、軽い音がする。
(……メシにするか)
どんな生活をしていようと、腹は空く。それを満たす楽しみは、どんな場所、どんな人間にとっても平等だ。特に仕事を終えられた直後くらいは、せめて美味い物を食おうとヴァニティは決めていた。
今日は、何を食おうか。そんな思案に片足を突っ込んだヴァニティの背後で、物音がした。
「!」
袋をしまい、代わりに腰の銃に手を伸ばす。
今の今まで気づかなかったが、人の気配がある。……今の話を聞かれていたかもしれない。もし、そうならば……。
ゆっくりと振り返る。物音はすぐそこ、路地裏を曲がったすぐ先で聞こえた。音を立てないよう注意を払いながら、近づいていく。……あと三歩、二歩……一歩。
一息に飛び出して、銃を抜き、構える。
「っ……」
そこにいたのは大男だった。ヴァニティよりも一回り体が大きく、身に着けた衣服越しにも筋肉の隆起がくっきりと見て取れる。腰に手斧を提げているのを見る限り、同業者なのかもしれない。
だが、様子がおかしい。足元はおぼつかず、目元はとろけ、だらしなく開いた口元からは涎を垂らしている。そんな男が、壁に手を突きながら、それでもようやくといった様子でそこに立っていた。
「おまえ、ひとり?」
男はふいに、そんなことを言った。
「ふふふ。ふたり、いたのに。おまえは、ひとり? ふたりでいいのに、ひとりより。ひとりきりより、ふたりがいい。ふふふ」
「……」
ヴァニティは銃口を下げる。男が正気を失っていることは明白だ。
「ふふふ。……おまえは、だあれ? ここにはふたり。おまえとおれと、ここにはふたり。ふたりでいれば、さみしくない。ひとりになるほど、ちかくにいれば。ふたりでいるから、ひとつになれる。いつかふたつに、なるときまでは。ふふふ、ふふふ。ふふふふふふふ」
男はやがて力なく腰を下ろした。もうヴァニティの方すら見ていない。ただ笑っているだけだ。
(……灰を体に入れすぎたか)
使う意味はないと悟り、ヴァニティは愛銃に一度目を落とした後、それを腰のホルスターに収めた。
男が陥った症状は今までに何度も見たことがある。ヴァニティの銃の銃弾にも利用されている特殊な火薬、焼尽灰。それには強い毒性があり、人体に入ると中毒を引き起こす。服用すると強烈な幸福感をもたらすが、認知力の低下や妄言、幻覚をはじめとして、痙攣や嘔吐、無論度が過ぎれば死に至る。この男はもう手遅れだ。自分が誰なのか理解出来ない状態のまま、そう遠くない未来に呼吸が止まるだろう。
その危険性を認知されていながら、威力の高さから焼尽灰を利用する者は多い。その需要の高さに見合うだけの供給もされ続けているのが現実だ。しかもそれを行っているのはホワイトフレークという国そのもの。公には軍事力強化のために開発され、生産されているとされる。だが利己的に利を求める人間たちによってこれ以上の商売道具はなく、彼らによって横流しされた物が市井にも出回っているのだ。
そしてそれは時に、一時的な快楽を求める者に、火薬のものではない利用法を取られる。目の前の男も、灰の魔力に敗北したに違いなかった。
もう誰も、彼を助けることは出来ない。
「……」
ヴァニティは男に背を向け、路地裏を後にする。
その背中には、先細るばかりの笑い声が、まだ聞こえていた。




