四章
厚い雪雲の向こうで、日が昇る。
明け方に降り始めた雪は、すでにうっすらとホワイトフレークに積もり、国を白く染めていた。
「…………」
まっさらな白い地に足跡をつけ、ヴァニティは目的の墓石を探す。流れる血の跡が、点々とその道筋に残される。
一歩ずつ、噛み締めるように歩を進める。体は冷え、傷は痛む。だが気にはならなかった。
「……っ」
立ち止まる。白い吐息が、目の前で煙のように上って消えた。
目の前には、目的の場所。……ホワイトフレークの一角にある墓地だ。
雪を被った厳かな門をくぐり抜けた先には……。オードリー・ウォルコット。そう刻まれた墓標があるはず。
彼女の遺体がウォルコット家に送られ、この墓地に埋葬されていたことだけはヴァニティも知っていた。
ただしここに訪れたのは初めてだ。谷底で暮らしている以上、ここに来るのが難しかったのも事実。だがそれよりも大きな理由が、自分の脚を鈍らせていた。
でも、今はここにいる。
ヴァニティは表情を緩めながら、静かに声を投げかける。門の外側から、墓地の方へと。ここからでは見えない墓標に向かって。
「…………。悪かった、オードリー」
帰ってくる言葉はない。墓標まで届いているかすら定かではない。
「惨い思いをさせた。そのくせ、今までお前に会おうとすら思えなかった。……最低だよな。自分でもそう思う。俺は……。……どうせそのうち、俺は死ぬって。最低なクズ野郎にふさわしい、みっともない最期が俺には訪れる。……それでいいんだって。その時、お前に謝りに行くんだって、そう思ってたんだ」
目を閉じて、少し顔を俯ける。
「でも……俺は……」
心も体も傷だらけだ。
だが、それでも生きている。
「…………。エヴァと会ったよ」
目を開いて前を向き、ヴァニティは白い歯を見せた。
「似てないなぁ、お前ら。……本当に、姉妹だなんて思えない。ははっ」
乾いた笑いが、しんしんと積もる雪の合間に消えていく。
「たぶん……お前たちに同じところがあるとすれば……。……同じ男に、幸せに生きていて欲しいって、そう願ってくれたことくらいさ」
だから。
「オードリー。……俺は生きるよ。……ただ、お前が望んだような、多くの人を救う英雄にはなれない。もう生き方を変えることは出来ないだろう。でも俺は、せめて俺が望む未来のために生きて……そんな俺の道に胸を張って生きていく。そんな生き方もあるってことに、エヴァは気付かせてくれた。だから……俺はヴァニティ。イーサン・ヒューズじゃない。もう、イーサンは死んだ。……お前のところに逝ったんだ」
オードリーに声が届くわけではない。何を伝えようとも、彼女の心に受け止めてもらえるわけではない。
「これからの俺が進むのは、これまで以上に血と火薬にまみれた道だ。死んでも、お前の眠る楽園には行けないだろう」
それでも、こうして語り掛けることには意味があった。言葉を声の形に乗せて飛ばすことで、胸の中に生まれた気持ちが、より確かな形を持った。
「俺は英雄じゃない」
この言葉が、本当の決別になる。
それでいいのだ。ただそれを伝えるためだけに、ヴァニティはここに来たのだから。
「これからは、お前だけの英雄と幸せに。ゆっくり眠ってくれ、オードリー」
じゃあな、と小さく告げて、ヴァニティは踵を返した。墓標の前に立つどころか、墓地の門に手をかけることすらなく。
ようやく再会出来た二人の邪魔なんて、野暮な真似は出来ないから。
遠くに、燃え上がる炎と黒煙が見えた。その熱さも、取り巻く喧噪も聞こえない静かな墓地に背を向けて歩き出す。
ヴァニティはそのままホワイトフレークの市街のはずれを歩いていく。途中、物々しい武器と焼けた重傷を体にぶら下げたヴァニティと、何人かの人がすれ違った。誰もが目を見開き、小さな叫び声をあげる者すらいた。その全員がヴァニティと関わることを避けた。結果ヴァニティは、コールドウェル家の屋敷から墓地前へと無事に着けたように、何の騒ぎも起こさぬまま谷底へと続く昇降機に到着する。
昇降機前には決まってその管理をする人間が駐在している。今日も軽装ながら武装した男が二人いたが、やはり彼らも、ヴァニティに対して特別何も言わなかった。
通行手形を昇降機の装置に反応させ、作動させる。年季の入った木製の昇降機は、がたがたと揺れながら谷底へと降り始めた。ホワイトフレークの街並みは、壁となる崖の肌に隠れてすぐに見えなくなった。
十数分も揺られて、谷底へと到着する。寂れた町に、凍てつくような寒さが沈み、溜まっている。ヴァニティは、ほっと息をつく。途端に、傷の痛みが強くなったように感じた。
「……いつつ……」
傷を押さえながら、ヴァニティはピジョンへと足を向けた。体がふらふらと揺れているような気がした。
「おう。『鉄の手』じゃねえか」
穴の開いた自宅の壁を補修していた男が、声をかけてきた。見覚えはあるが、ヴァニティはその男の名前を知らない。
「仕事上がりか?」
「……ああ。大仕事だった」
「らしいな。見りゃわかる」
男はヴァニティの体を一瞥した後、家の壁に向き直り、廃材同然の木材を使って家の壁に出来た穴を塞ぎ始めた。
「そっちの穴もさっさと塞いだ方がいいぞ」
「……ご親切に」
本当に親切なのかどうかは判断が付きづらいが、ヴァニティはこう思った。
やはり谷底こそが、俺の居場所だ、と。
どうにかピジョンへと到着し、その扉を押し開く。
薪ストーブのおかげで外よりずっと温かい空気が、体を包む。店内にいた人間たちの目が、一斉にヴァニティの方を向いた。
「ヴァニティ……!」
テーブル席に着いていたエヴァが立ち上がり、誰よりも先に駆け寄った。ヴァニティに抱き着いて、ぎゅっと力をこめる。
「いっつ……」
「もう、おっそい。……いっつも私を待たせるんだから、あなたは」
「よせよ、見ての通り血だらけだ。汚れるぞ」
「いいの。それよりも言うことあるでしょ?」
「……ああ。……待たせて悪かった、エヴァ」
ヴァニティは、右腕でエヴァの背中を優しく抱き締め、その抱擁を受け入れた。
「始末はついたか。『デスブリンガー』」
「ああ、何とかな」
カウンターでこちらを見ていたマスターにも頷いてみせる。
「マスター、悪いんだが」
「部屋と傷の手当てだな、任せておけ。……とは言ったものの、何をどうしたら出来るんだ? その傷は」
マスターは苦々しく顔を歪めてヴァニティが負った傷を見やる。
「出来る限りのことはさせるが、うちのウェイトレスだけじゃどうにもなりそうにないな。医者を呼ぶ。少しそこに掛けて待ってろ」
「助かる」
近くのテーブル席の椅子に、どっと腰を下ろす。サクリファイスをシースごと外して床に落とし、脱出前に回収したスケープゴートと箱型弾倉も同様に落とす。
「はあっ……」
ようやく、終わった。……そんな実感が、ヴァニティの全身を包んだ。このまま眠ってしまえたら、どれだけ気持ちいいだろうか。
「『鉄の手』さま。まだ気は抜かないように」
応急処置用の道具を持って来たウェイトレスが釘を刺した。
「似たような状況で、眠ったまま目を覚まさなかった人間を見たことがあります」
言いながら、ウェイトレスはまず腹部の傷を布で押さえた。疼痛にヴァニティは顔を歪める。寝ようとしたところで、これではどだい無理だろう。
「『ミス・デスブリンガー』。あなたも手伝って」
「ええ」
エヴァは肩の傷を同様に押さえて止血を図る。布がじんわりと赤く染まる。
「本当に、すごい傷。……平気? ヴァニティ」
「……見ればわかるだろ?」
顔を覗き込んでくるエヴァに、ヴァニティは笑って見せる。
「生きてるぜ」
「……。うん、そうね」
少し涙ぐみながら、エヴァは頷き返す。
「……。よかった、本当に。生きて帰って来てくれて」
心から心配して待っていたのだろう。エヴァの声には、それだけの優しい響きがあった。
ふと、その声が緊張感をもって問いかける。
「ねえ。ちゃんと終わったのよね?」
「ああ。……少なくとも、これから液状焼尽灰が新たに生み出されることはない」
それを生み出す物も、生み出そうとする者も、もうこの世には存在しない。
もっとも、咎の種火は保管施設に現存しているはずであり、通常の焼尽灰は広く国内に流通してしまっている。エステルが振りまいた種火、もはやそれは、個人の力ではどうしようもない。
だがヴァニティにとっては、それでもよかった。過去を清算することは出来なくても、もう戻れない過去に自分自身を縛ることを辞められた。自分で戦う意味を見出し、立ち向かうことを選べた。それが何よりもの意味を持ち、自信へと繋がっている。後のことは、未来でひとつずつ片付けていけばいい。
「……そう」
その短い返事をしただけで、エヴァはそれ以上詳しく聞こうとはしなかった。
声を明るくして、ヴァニティに尋ねる。
「ね、考えた? 報酬は何にするか」
「報酬?」
言いながらヴァニティは鼻で笑った。そんなことを考えている余裕など、どこかにあっただろうか。
「言ったでしょ、戻るまでには考えておくって」
エヴァは、形のある答えを求めている。
「あなたの望むすべてを叶えるつもりよ、私。私の出来るすべてで。……あなたと同じように汚れる覚悟なんて、出来てるんだから」
黒みがかった真紅の汚れに指を沈めるように、エヴァはヴァニティの血塗れた手に手を重ねる。
「でもやっぱり、ちゃんとあなたの口から聞きたい。言って? あなたが欲しいものは何?」
ヴァニティは視線を横向けた。彼女の期待に応えるのは、やはり気恥ずかしかった。
「……なら――」
だが、出来なくても今はいい。
「――昨日食いそびれた、手作りのスープを」
ヴァニティはしっかりとエヴァと目を合わせ、今、心が求めているものを伝えた。
「今日だけじゃなく。……これからも」
これからも、彼女と共に生きていく。
形になり始めた想いを伝える機会は、必ず未来にある。




