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三章 五節

「……雪……」

 温かな部屋の窓から、エステルはホワイトフレークに降り始めた雪を見ていた。

 あまり眠れなかった。目頭に、痛みに似た違和感がある。ベッドに入ろうとはした。だが、そうしている時に彼が来たら。そう思うと、横になり続けるのは無理だった。

 目を閉じる。……まぶたの裏に思い浮かぶ、記憶たち。

 いつもそうだ。目を逸らしたくなる現実に直面する時には、いつも雪が降る。

「あなたもそう思わない? ねえ、イーサン」

 今も想い続ける男に、静かに呼びかける。

 出会った時から、惹かれていた。正義感に満ちた眼差し。その強さ。初めての抑えきれない胸の鼓動に、心奪われた。

 けれど、彼の瞳が自分に向けられることはなかった。よりにもよって、彼が愛したのは自分にとって数少ない心通わせられる親友。高鳴った胸に、押し潰されるような衝撃が走った。

 だが、どうしようも出来なかった。……あの二人を引き裂くような真似など、とても。

 しかしある日、事件が起こった。支配欲にまみれた父の、悪魔の如き所業。

 ヒートヘイズは戦争を起こす気などなかった。ただ老朽化した施設から、新造したより安全な保管施設へと咎の種火を移送しようとしていただけだった。父はそこに付け込むため、他の貴族の懐刀だったイーサンを体良く利用した。……彼の生還など考えていない、杜撰で不完全な計画だった。

 自身がその計画を知った時にはすでに遅かった。信頼出来る配下を連れて救援に行こうとした矢先、はるか遠くの草原地帯に、すべてを飲み込むような劫火の輝きを見た。

 舞い散る雪をかき分けて、急ぎ向かった道中に、彼は倒れていた。咎の種火を片手に握ったまま、ホワイトフレークを目指して歩いたのだと、すぐにわかった。気は失っているが、まだ息はある。

 ……その時だ。父と同じように、自分も心に悪魔を飼っていたのだと気付いたのは。

「左腕を、斬り落として」

 そう、口をついて出ていた。

 動揺するギルバートに左腕を斬り落とさせ、虫の息のイーサンを谷底で匿わせた。咎の種火は無論利用するつもりだった。だが、何よりも、この状況が重要だった。

 今ならば、彼を自分の物に出来る。

 この状況と左腕を証拠に、公には彼が死んだことにすれば、彼の生存を知る者は自分だけになる。……自分だけが、彼の側にいられるようになる。すべてが自分の思い通りになる。

 咎の種火を手に入れ、父を失脚させて新たな当主として動きつつ、影でイーサンの命を繋いだ。意識は戻らず、咎の種火の毒性に蝕まれていたが、それでも彼なら生き延びると信じた。その先に、自身との新たな未来があると信じた。

 しかし、オードリーがイーサンの生存に感付いた。彼女もまた、彼を信じていた。自分が羨み、妬み続けた、あの愛情の絆を頼りにして。……自分との友情を信じて、それを打ち明けてきた。

 もう一度、二人が出会う? あんなにも愛し合っていた、二人が?

 嫌だ。……嫌だ、嫌だ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 傭兵を雇った後、オードリーと共に谷底へ向かった。谷底に下り、その路地裏で殺すように依頼した。

 だが予定とは違った。雇った傭兵の他に、二人の男。たまには慰安も必要だ。雇った傭兵はそう言った。話が違うと言った。傭兵は聞く耳を持たなかった。

 傭兵たちに捕らわれるオードリーと、その叫び声。傭兵たちの笑い声が、悲痛な声を黒塗りにしていった。

 裸に剥かれ、散々殴られ、汚され。まず、目が死んだ。やがて抵抗も止まり、悲鳴が止み、それでも力なく投げ出された四肢が揺さぶられ続け……。

 オードリーは、その尊厳と心を入念に踏み潰されてから殺された。その首がナイフで斬られる時、もう彼女は一声も上げなかった。

 それを、最後まで、わたしは見ていた。……そう。あの時も、雪が降っていた。

 今日のように……どこまでも清らかで、美しく見える雪が。

「っ、ぅ……!」

 吐き気がする。……何も入っていない胃の中から、何かがこみ上げてくる。それを、どうにか奥の方に押し戻す。

 すべてが終わり、報酬を受け取った傭兵たちが去った後、オードリーに近づいてみた。

 それが、あの美しい友人だとは思えなかった。何度も殴られて、顔も体も、皮膚が破れるほどに膨れ上がっている。濁り、光を失った目は、もう何も見ていない。首からまだ流れ出る血だけが、それが生き物であったことを物語っていた。

 最期に人として、女性として、すべてを蹂躙されて終わった親友が、そこに転がっていた。

 思わず吐いた。ただただ、おぞましかった。体が震えた。気持ちが悪かった。

 これをやったのは、自分だ。……自分がやった。彼女を汚し、殺した。

 その時、耳の奥には、自らの口が繰り返す言葉が響いていた。

「わたしじゃない。わたしが悪いんじゃない。わたしは悪くない、わたしは悪くない、わたしは、わたしは悪くない。わたしは……わたしは……!」

 そうだ、わたしは悪くない。……人を愛して、やったことなんだから。誰よりも優しい悪魔が、わたしに寄り添ってくれているのを感じた。

 それから間もなくして、イーサンが意識を取り戻した。回復し、どうにか口が利けるようになった彼は、もちろん、オードリーのことも訊いてきた。

「殺されたわ。あなたを捜しに、谷底に来た時に」

 悲哀に目を潤ませる彼に、こう続けた。

「仇を取って。あなたになら、出来るはず」

 満足に戦えるほど体は動かない。だから武器は銃を選んだ。片手が動けば人は殺せる。

 オードリーの仇とその仲間を偽の依頼で呼び出し、その場で復讐を遂げさせた。傭兵は、オードリーのことを覚えてすらいなかった。

 それが後に、『鉄の手』、『デスブリンガー』ヴァニティと呼ばれる男の、初めての仕事。騎士ではなく、依頼で人を殺す、傭兵としての。

 その時自分が感じたのは、安堵だった。快楽にも似ていたように思う。

 オードリーを殺した仇に鉄槌を下せた。自分の力で、しかも自分の手を汚すことなく。己の闇を、闇の中に葬れた。

 そしてそれを成した男が、自分のすぐ隣にいる。

 イーサンにはそのまま傭兵として生きてもらうことにした。自分の、ウォルコット家の闇の部分を支える傭兵として。ごくわずかな報酬でも、何人も、誰であろうと殺した。大きな拳銃と、新たに手に入れた左腕を使って。

 彼と自分の間に、確かな繋がりが出来上がった。

 だが今日、この雪の日に、それは形を変えようとしている。

「……っ」

 窓から見下ろせる屋敷の門に、大きく見える黒い人影が姿を現した。

 彼だ。……やはり、彼は来た。

「イーサン……」

 大丈夫。彼がわたしのために生きてくれたように、わたしも彼のために生きてきた。他の誰にも与えられない幸せを、わたしなら彼に与えることが出来る。それが出来ないオードリーやエヴァに、彼の隣は相応しくない。

 誰にも負けない愛がここにある。だから、大丈夫。……きっと、大丈夫。

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