【戦後日本の状況】
みなさん、おはようございます(^▽^)/
今朝のイラストは戦艦『陸奥』……なのですが、素人に戦艦はムズイです( ̄▽ ̄;)
ステータス低くて、ごめんなさいm(_ _"m)
そんな陸奥ですが、陸奥の建造に当たっては国外に限らず、国内からも反対や疑問を呈する意見が沢山あったそうです。
なにしろ戦艦の建造費は莫大なお金がかかりますから(^^ゞ
しかもワシントン海軍軍縮条約にギリギリ間に合わせるために、陸奥1隻の譲歩を得るためにアメリカには戦艦3隻、イギリスには戦艦2隻の建造を認めることとなりました。
つまり陸奥1隻(しかも長門型2番艦)を得るために、当時の仮想敵国に新造艦5隻って、全く理に適っていないと言うか、逆に不利になりますよね(◎_◎;)
さて、そのような経緯で配備された陸奥なのですが、実際の活躍はどうだったのでしょう?
条約で不利になった1対5を覆すような活躍は出来たのでしょうか??
1940年、高知県沖で長門等と夜間演習に参加中、駆逐艦が発射した訓練魚雷1本が陸奥左舷に命中し110トンの浸水被害!って、早くも損傷‼
1941年12月の真珠湾攻撃では、戦艦6隻、護衛空母2隻からなる艦隊と共に、何故か小笠原方面に進出しますが、その道中に舵が故障(~_~;)
1942年6月のミッドウェイ海戦では、ご存じの通り戦火の届かない遥か後方に物見遊山に着いて行っただけ(^^;)
同年8月に勃発したガダルカナルの戦いに備えて、南方のトラック島に移動したものの、低速力の陸奥は、空母機動部隊、巡洋艦打撃群、水雷戦隊と共に行動することなく、確認できる戦果としては8月27日に接近してきた敵水上機1機に主砲を発射して蹴散らしたくらいなものでした。
トラックに停泊するだけで一向に作戦に参加しない陸奥は他の将兵から「燃料タンク」や「艦隊旅館」とまで言わるようになりました(-_-;)
1943年1月にはトラック島から横須賀に移動しますが、同年5月に起きたアッツ島の戦いには、参加準備はしたものの結局参加は見送られたまま、同年6月8日、瀬戸内海にある柱島に停泊中に突然3番砲塔付近から爆発があり乗員約1000人と共に海底へ沈みました( ̄▽ ̄;)
戦争って、何なんだろうね?
陸奥の生涯をこうしてみると、そう思わずにはいられませんでした。
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「明治天皇の血⁉」
今までそのような話は聞いたことが無かった。
だいいち祖父こそ居ないものの、父は普通の企業に勤めている技術者で、生活は左程裕福とも言えないから私もお金のかかる普通の大学には進学せずに陸軍大学に進学したのだ。
にわかには信じがたいが、今までに腑に落ちない事もあった。
特命大尉と言う地位や使命もそのひとつなのだが、その私が報告を行う時に陛下がいらっしゃりお言葉を頂戴することもあり、そのお言葉はいつも温かいものだった。
ただ、問題なのは、どうやって実行するかだ。
今の立場(大本営情報部特命大尉)をそのまま利用するにしても、本当に10年前の日本に来たのであれば私の年齢は24歳から10年さかのぼって14歳でなければならない。
いくらなんでも14歳の特命大尉なんて居やしないし、こんな子供の言うことを真に受ける大人も居ない。
「まあ、その辺は何とかなるとして、これまでのおさらいと、未来の日本がどうなっているのか一緒にお勉強しましょう」
まだ動けない私のベッドの脇に座った結城薫が、私の顔を覗き込むように見てニッコリと笑う。
“む、胸が、近い……”
それから私はベッドで横になりながら、結城薫とその後の日本について教えてもらった。
サイパンに続いて行われたグアム島の戦いでは、間違った情報により多くの住民が崖から飛び降りて自殺したこと。
敵の手に落ちたサイパンとグアムの飛行場から、B-29新型爆撃機が東京をはじめ日本の各都市へ無差別爆撃を行ったこと。
フィリピンも陥落し、それと同時に連合艦隊も事実上消滅してしまったこと。
やがて硫黄島や沖縄も失い、昭和20年8月には広島と長崎に新型爆弾を落とされて信じがたい数の犠牲者が出てしまったこと。
日本の終戦(降伏)に関しては、7月26日に連合国が発したポツダム宣言に対して一旦黙殺したものの、8月に入り広島と長崎の新型爆弾による被害に加えソビエトの参戦と事態が急速に悪化したため日本政府はようやくポツダム宣言受諾を決めた。
「と言う事は、積極的に戦争を終わらせようとする人は居なかったのですか?」
「なかには居たらしいのですが、その様な方々は皆『特別高等警察』によって逮捕されて、結局地位の高い政治家や軍部から自らが先頭に立って終戦を主張する人は現れなかったわ。……もちろん、いざ終戦と決まると、降伏に尽力してくれる人たちは居たのですが」
「なるほど、柳生さんが言っていた、様々な“しがらみ”があって現状を変えるだけの力のない人たちですね」と私が言うと、結城薫は悪戯っぽい眼を向けて「アナタは、どうなのかしら?」と艶めかしい口調で言った。
私は一旦引き受けたからには命を懸けて成し遂げる覚悟でいたが、このようにされると何だか心が違う方向に揺れ動いてしまいそうになるのは何故だろう……。
戦後の日本社会の状況は、ひょっとすると戦争に勝つことよりも困難のように感じた。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は敗戦した日本に入り様々な悪さをした。
私が感じた中で最も愚策なのは、農地改革。
これは大地主の持つ土地を小作人が耕していたのを廃止して、土地を小作人に分け与えるもの。
一見すると、とても素晴らしい改革だと思えるが、この仕組みには罠がある。
先ず自分の土地を持つことになった小作人たちは、その農地に縛られてしまうと言うこと。
農地は簡単には工業用地や住宅用への使用目的を変えることはできない上に、今までは地主から借りていた機材なども買って揃える必要も出て来る。
大地主の土地で働いていた頃は、農業を辞めることもリスクは無かったが、自分の農地となるとそうもいかない。
また個人持ちの農地が増えることで、大規模農業や農業の株式会社化が困難になる。
大規模農業の場合は機械の導入や肥料や農薬の一括購入などでコストが削減できるし、農業の会社化は他分野の職種からヤル気のある人材を確保できるほかに、流通や販売などの自社一括化による経費節減の可能性も模索できる。
未来の資料によると、やはり私が思うように、農地改革後から米の収穫量は年々落ちているし、米農家だけでは生活すらできない状況になっていることが分かる。
つまり農家が個人になることで交渉能力も落ち、米の利益は様々な業者に吸い取られてしまっているのだ。
また個人では面倒を見れる面積には限界があり、特に手のかかる野菜の栽培は困難を極め、これが食物自給率の低下に拍車を掛けている。
更に変わったのは、公務員の数。
公務員は税金で雇われていて、その役割は国民への奉仕。
戦前は多かった公務員も、戦後は極端に少なくなっていた。
例えば戦前は小さな土木工事や測量なども行っていたが、未来では事務手続きしか行われず、工事などは業者に丸投げ。
業者は税金で雇われているわけではないので、運営資金を確保するための利益が必要になり国や地方自治体はその支払いに余分に税金を投入する。
これでは税金がいくらあっても足りなくなる。
また公務員は失業率を下げるための受け皿としての意味合いも持っているはずなのだが、未来の公務員は就業者平均賃金を大きく上回る特権階級化していて、とても失業者の受け皿にはなり得ない。
しかも公務員の数は少なすぎるので、特定の部署や特定の人に掛かる負担は多く、迅速な対応を迫られたときに人数が足りなくて上手く機能しない。
戦前の日本もそうだが、私には戦後の未来の日本も、何か間違った方向に進んでいるとしか思えなかった。




