(5)
慌ただしくなった修道院。
その中で身ををもて余すように主は一人立ち尽くしていた。
フランはそんな主を部屋まで連れて帰り、椅子にかけさせて体を暖めるための薬草茶を入れた。
「まさかこんなことになりますとは……」
フランはお茶を差し出しながら主の心を落ち着かせるために他愛ない言葉を紡いでいった。
「昨夜、薬草園の白い花を眺めながら談笑していた際には、まさかこのようなことになるとは……」
「待て」
突然主様から鋭い口調で呼び止められた。
「薬草園に咲いていたのは白い花なのか?」
そう言えば主様はあの薬草園の光景をご覧になってはいなかった。
フランは突然の質問にびっくりしながらも落ち着いた口調で答えた。
「他に咲いていた花はございませんでした」
フランの返事を受けて主はピタリとその動きを止めた。
長い長い静止の後、急に部屋を飛び出した主は忙しくしていた院長のもとに駆け寄り、尋ねた。
「ヴァレンティン氏は、ツバインにいたことが?」
「え、ええ。養子先を点々とした中に一度」
突然の質問に院長は一瞬驚いたようだったが、このガルマニアの地でのツバインの評判を思い起こしたのかすぐに弁明に入った。
「もしや彼がツバインにいたことでかの国の傀儡になっているとお疑いですか?」
ツバインとは世界の三大大国の一つだ。ガルマニアに隣接していることから何かと揉め事が多い国でもある。
今までにも様々な陰謀が明るみに出ており、気を緩めれば力ずくで併合されかねないとガルマニアからは仮想敵国として用心されている国でもある。
「いくらなんでもそんなことはございませんでしょう。ツバインにいた頃にかなりひどい目にあったことがあったらしく、『あの国は薄情だ』と言っておりましたから」
そのような内情は主様には関係のない話だったようだ。与えられた情報を咀嚼するように深くうなづいた。
「道理で。マテリアの花に白色はない。色々の色で咲くが白はない」
「……実は『マテリアの花が夜目にも鮮やかに咲いていた』と聞いて疑問には思ったのです」
今さらながらに院長は主様にそっと打ち明けた。
「マテリアの花はそれほど派手なものではありませんから。ですが場の空気を乱したくなかったので、おそらく昼にでも見つけていたのだろうと思っていました」
「白い花は同じく衰弱に効くロフィアの花。これをマテリアと呼ぶのはツバインしかない。……院長」
主は見えぬ目で眼前の院長を見据えた。
「あの人を止めたいですか?」
主の鋭い眼光にさらされながらも院長は力強くうなづいた。
「従者に何も言わず連れ去るのは誘拐です。私は彼を犯罪者にしたくありません」
「おそらく、あの人は本当に若君の母君の知り合いで、彼を実家に連れて行くでしょう。そうでなくてはあの人の望むものは手に入らない。誘拐と言うには難しい。それでも止めたいですか」
「……やり方というものがあります。ちゃんと段取りも踏めただろうのに、これは酷すぎる」
院長の覚悟を聞いた主様は深くうなづいて尋ねた。
「……馬車は見つかりましたか」
「四方に手を尽くしましたが……。子供と言えど成人間近、荷物として隠しは出来ぬと二人連れを探しましたが、大人の男性と子供の組み合わせは皆目見つからず……。
商人から手に入れたという女性用の訪問着のこともありますし、もしかしたらその女性としめし合わせて三人連れの可能性も……」
「探すのは」
枯れた声で主様は囁くように言った。
「大人の女性と子供の組み合わせです」
※
主様は「これ以上は力になれない」と半ば強引に修道院を旅立ってしまった。
中途半端な時間で旅立ってしまっては主様とその世話人であるフランは次の修道院にたどり着くこともできない。
今宵は野宿することになった。
……フランが気を効かせて野宿の用意をしておいてよかった。
パチパチと炎の中で薪が弾けている。
見えぬ目で主様が炎を見つめている。
主様の今の視力では夜の闇の中、炎の明るさぐらいしかわからないだろう。
温めたスープの器と匙を持たせ、フランが手を添えて主が飲むのをそっと助けた。
「……それにしても、ヴァレンティン氏はどこに行ってしまったのでしょうか」
夜の静かな空気に耐えかねてフランがそう呟いた。
「……若君を連れて領地に行ったのだろうね」
「でも、主様は若君と女性の二人連れを探すようにとおっしゃいましたよね?」
そう、そのことをフランは気にしていたのだ。
主様が間違ったことを言うとは思えない。それでもそれではどうしても理屈に合わないのだ。
「ヴァレンチティン氏が買い与えた訪問着を着た女性と若君の二人連れなら、ヴァレンティン氏はいったいどうしたのだろうと思いまして」
主様は闇の中の押し掛け従者の疑問に、不意をつかれたかのように目を丸くした。
「……まさかそういう受け取り方をされるとは思わなかったな……。守秘義務違反すれすれでこちらもかなり覚悟を持って知らせたのだが」
主様は顔に浮かんだ苦笑をおさめると、また目の前の炎の明かりを見据えたまま言った。
「若君と一緒の、大人の女性が、ヴァレンティン氏なのだ」