(3)
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「実は私、ウソを申し上げておりました」
個室に備えられた燭台の灯りの下に老婆は照らし出された。宿坊の乏しい灯りでは分からなかった、貴人に仕える侍女のような気品が老いの中に隠れていた。
「ぼっちゃまは私の孫などではなく、さる御領地の若君なのでございます。
小さな所領ではございますが国境にほど近いところにあり、ガルマニアでは重要地として扱っていただいております。
若君はその御領地の跡継ぎで、今まで領地で母君とお暮らしになられておられました」
燭台の灯火がじじ……と静かに燃える中、主様は老婆の告白を何も語らずに聞いていた。
「若君には、よんどころのない事情からご養子に来られました血の繋がりのない義兄上がおられます。
今は対外的なお仕事の関係上ティーナイでお暮らしで、私が雇われましてからご領地にお帰りになったことはございません。
というのも、ぼっちゃまの母君である奥方様が信用できないと仰せになって、帰郷をお許しになられなかったのです」
老婆の言葉に何か気になる点でもあったのだろうか。
静かに語り手の言葉を聞いていた主様の眉間に、思考時特有の皺が現れ始めた。
「まだ若君がお生まれになる前に父君と兄君がお亡くなりになりまして。跡継ぎのいなくなった領地にティーナイやツバインから跡継ぎ候補の方々がつめかけたことがございました。
若君がお生まれになったのは義兄上が後継者として決まった後で、いろいろと話し合いがございました。
結局のところ義兄上とは、一族の血を受け継ぐぼっちゃまがご成人の暁には当主の座をお譲りになられるとのお約束をなさっておいでです。
ですが奥様はそれを反古にするのではとご心配なされておいででした」
何かの記憶が主様の中で呼び起こされたのだろうか。主様の光を失った両目が老婆の方に向けられた。
「私の見たところ、義兄上にはよく季節の贈り物も送っていただきますし、ぼっちゃまには毎年誕生日のお祝いのカードもありました。
ぼっちゃまなどは毎年『マッテオ義兄上様から誕生日カードが来た』とお喜びになっていらっしゃったのですけれども、奥様は頑なに『こちらを油断させる策』とご信じになりませんでした。
そんな中、あと数年でぼっちゃまもご成人となられる今年の誕生日に届けられた誕生日カードの内容が……」
それは老婆にとって辛い記憶なのだろうか。しばらくのかっとうの末、ままよとばかりに吐き捨てた。
「『子供の君が死に、再び会う時が近づくのは喜ばしいかぎり』とありまして……」
老婆が語った言葉に、フランは思わず自分の顔がひきつるのを抑えきれなかった。
「奥様は『とうとう本性を現した』と半狂乱になられ、こうまで殺害予告を堂々とするのはガルマニア、ティーナイともに手が回っているのでは、と。
とにもかくにもぼっちゃまの命を守るため、奥様の命で私とぼっちゃまは巡礼者を装い外へと逃げ出すことにいたしました。
奥様からは成人して正式に当主となる日まで姿を隠せ、と。ですがガルマニアもティーナイも義兄上様の係累だから頼るな、と。
それでどちらでもない教会の高貴な方のお慈悲にて守っていただけないかとつてを探しておりました。どうかお話をお伝え願えませんでしょうか」
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老婆の話を聞いていた主様は、最終的に軽く頭を抱えた。
「……どうやら私は、その領地も義兄上にも心当たりがあると思われる……ですが、まずお教えすべきことが」
面と向かって老婆に向き直った主様に、老婆は何を言われるのかわからないのかおずおずと耳を傾けた。
「『子供としての己が死に、大人として生まれ変わる』という言い方がラティーナ帝国時代にはありました」
耳慣れない言葉に老婆が怪訝な表情を浮かべるのも分からぬまま、主様は言葉を続けた。
「これは成人して社会に出る時には度々使われる常套句で、末期に異常な少子化の中、顔見知りの子供を甘やかさないために対等な社会人として扱うという意味合いもありました。
ティーナイは帝国文化の流れを色濃く組む国。成人の挨拶として日常的に使っていた可能性はあります。ただ、他国でも同様に用いられていると思ったのは残念であったと」
「では!ぼっちゃまは別に、逃げ出さなくても……?」
思いもよらない事実に言葉も出ない有り様の老婆に、思いもよらず主様は首を横にふった。
「愚見ではありますが、おそらくそれは正解であったと」
主様の言葉の意味が取れなかったのだろう。困惑する老婆に主様は話を続けた。
「また聞きになりますから事実その通りかはわかりませんが、話を聞くかぎり、奥様はかなり心が不安定な様子。成人前のお子さんが落ち着いて成長できる環境か疑問に思えます」
不安に苛まれた結果とは言え、日常的に吐かれる悪口雑言。子どもの安全を守るためとは言え、あてもなく過酷な旅路に送り出す所業。
……そう言われても仕方がないかもしれない。
「朝まで待っていただければ、心当たりへの紹介状を書くのでもここの院長への取り次ぎでもしなくはないですが」
「それはぜひ……。お願いできますでしょうか」
主様の申し出に老婆はすがるように頼み込んだ。
主が頷くのを確認した上で、フランはそっと口を挟んだ。
「主様。義兄上様にお心当たりがございますならご連絡をお取りして、ご本家に謝罪のお手紙など出されるようお伝えになってはいかがでしょう」
返ってきたのは無言の拒否だった。
さもありなん。主様が果てのない巡礼の旅に出たのは過去から逃れるためだ。いくら知り合いの失態を知ったからと言って、過去に追い付かれる危険を犯したくはないのだろう。
「居どころを知られたくないとお考えなのでしたら、この修道院をたつ際に手紙をお言付けになられるのは?追っ手がもし来たとしましても、もはや後を追うことも難しいと存じますが」
主様から返ってきたのは深い深いため息だった。
「……やむを得ないか」
フランが部屋に備えつけの筆記用具を準備しようとすると、主様はそれを押し留めて老婆の方を指し示した。
「……ご婦人が一人で宿坊に帰るには遅い時間だ。送って行って差し上げなさい」
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老婆を送って行った宿坊の前では、なかなか帰って来ない彼女を心配して少年が待っていた。
「お婆ちゃん!どこに行ってたの?!目を覚ましたらいないから心配したよ!」
「申し訳ありません、ぼっちゃま。実はことの一件を相談しに参っておりました」
彼女が相談事の顛末を少年に告げると、彼は大喜びで言った。
「やっぱり!義兄上様がそんなこと企むわけがないって思ってたんだ!これで安心して母様のところに戻れるね!」