第5章 ガイアのように憤し
1
名古屋に帰る前に会っておこうと思った。
羅城学園理事長。
東海林埜凍。
「久しぶり、先生」
理事長室。
総会3日目9時。
「昼一で先生の講演会があると聞いたよ」東海林が言う。
「ああ、サボるつもりだよ」
「先生ぽいね」
まさかあの東海林が紅茶を淹れてくれた。
東海林は祥嗣先生の子であり、患者として長らく研究所にいた。
読書が好きで一日中ベッドで本を読んでいた。それ以外何もしなかったし何もさせなかった。
祥嗣先生がスカウトした、主治医の艮蔵先生との間に子を作り、自らの従兄のところに逃げ込んだ。
すべては愛する人との間に出来た息子を産むため。
「懐かしいね。昔はよくこうやって長話したよね」東海林が言う。
「紅茶、淹れられたんだね。ビックリしたよ」
「そう? 結構家事するんだよ」
「一緒に暮らしてるのか」
「ときどき帰る程度だよ。同棲はしてない」
「向こうがしたいんじゃないか」
「追々ね」
ダージリンか。朝にぴったり。
「コンロがあればなぁ。先生にホットケーキ焼いてもらえるのに」
「焼くよ、いつでも。昨日、北廉先生にも焼いてあげた」
「ずるい。僕にも焼いてよ」
導入はこの辺で。
「I・Bのことだ」
「僕にも見えるよ」
「男には見えるんだったね」
東海林の身体の性別は女だが、中身は男。
「ようじは本気で消そうとしてるみたい」東海林が言う。
「消えるのかい?」
「幻覚だから、割と気の持ちようではある、かな。僕はどっちでもいいけど」
「いないほうが楽か?」
「楽ってのがどう定義されるかだけど、飛蚊症のチラチラ見えるアレが女の姿して話しかけてくるって感じなんだよね。ああ、そうか。そう考えるといないほうが視界的にはクリアになるのかな」
「俺が昔会ったあの人とは別人なんだよな?」
「誰のこと?」東海林がわざととぼける。
「俺の初恋の人だよ」
2
6月13日。土曜日。午前10時。
昨日の夜から雨が降っていた。
おかげで僕の頭痛は昨日から続いていた。
ようじさんの研究所。
集まったのは、4人。
僕と、あづま君と、ようじさんと。
前姫さんのお姉さんという素性の、ようじさんの双子の姉。
似ていない。
I・Bにはよく似ているけど。
I・B特有の悪魔的な笑みがない。
全体的に柔らかい色でまとめた、可もなく不可もない服装。ここでの可もなく不可もないは、派手でも地味でもないという意味。褒めても貶してもいない。
1階の会議室で出迎えた。
長机を中央に並べて、パイプ椅子をそれぞれの辺に置いた。
4つ。
あづま君は眠そうにしながら一番奥に座った。
僕とようじさんが向かい合って、出入り口から一番近い椅子に客人が座った。
名を、前姫雨鏡という。
「いるの?」開口一番、雨鏡さんが言った。
I・Bのことだ。
「私に見えないのは、最大の皮肉ね」
「姉さんは何も心配しないで?」ようじさんが変に笑顔を作って言う。
ざあざあと雨の音がする。早くもうとうとするあづま君の後ろに窓がある。
「もうちょっとなんだ。もうちょっとで消せる手掛かりが」
「私の前で嘘はいいわ。でも、嘘でもないのかしらね」雨鏡さんが肩にかかる髪を払う。「私と融合させれば消えるんでしょう? 研究所の中で思いついた適当な思いつきが納得いかなかったから、何年もかけて、世界中を飛び回っていたんでしょう? 私はそのくらいのことでは揺らぎません。するなら早くやってちょうだい」
「待って待って、姉さん」ようじさんがペースを乱されている。「久しぶりに会えたのに、そんな話? そんなことより姉さんの話を聞かせてよ」
「覚悟が足らない弟に何か言ってあげて、えとり君」
急にパスが飛んできたので吃驚した。
「それで万事解決するのであれば一刻も早くやってほしいのですが」ようじさんに言った。「やりたくない理由はなんらかのデメリットがあるからですか」
「デメリットと言うよりは、どうなるかわからないからだよ」ようじさんが言う。「うまく行く保証もないし、最悪の場合は姉さんが乗っ取られる。それだけは避けたい」
「でもやってみないとわからない」
「やってみたらいいのよ」雨鏡さんがこともなげに言う。「だってそのために来たのだから」
正直、この幻覚が消えるのならようじさんの姉がどうなろうとどうだっていい。
たぶん、この本音は雨鏡さんにとっくに見抜かれている。だからこそ僕を同席させて嗾けた。
「そもそもあづま君に遺伝したのがショックなんだから、早く取り除いてあげて」雨鏡さんが言う。
「姉さんが犠牲になることはないよ」
「やってみないとわからないんでしょう?」
進まない。
儀式とやらに僕は必要不可欠なパーツじゃない。
「かかりそうなら一旦席を外しますが」あづま君も眠そうだし。「あづま君、一旦上に」
「いや、俺はここにいる」あづま君が大あくびしながら言う。
珍しい。
そもそも同席はあづま君本人の意思だったのか。
「ようじ」雨鏡さんが自らの弟を見つめる。
「父さん」あづま君が眠気を我慢しながら言う。
「わかった。わかったよ。やればいいんでしょ」ようじさんがテーブルを叩いて立ち上がる。「I・B。聞いてるんだろ? 今日こそお前を消す」
「やれるの?」天井付近に浮いていたI・Bは、ゆっくりと降りてきてテーブルに座った。
やっぱり僕に見えるI・Bは、僕の母校(高校)の制服を着ている。
「可能不可能を問うてるんじゃないのよ」I・Bが言う。「技術的に可能なのか、方法的に誤ってないか。念ずれば消えるんなら私はとっくに消滅してるじゃない」
「消えて欲しいって念じた場面にいなかった存在が今日はいる。いつもと条件が違う」ようじさんが言う。
何度も言うけど、I・Bはようじさんと同じ血を引く男にしか見えない。
雨鏡さんには見えていない。
「消えて」ようじさんが言う。
「どうやって?」I・Bが言う。
「私と同化して」雨鏡さんが言う。声が聞こえていたかのようなタイミングだった。
「私からはできないのよ」I・Bが言う。雨鏡さんの顔に至近距離で近づく。
「じゃあ私からします」雨鏡さんはすぐ眼の前にあったI・Bの口を吸った。
まさかこんなことでどうにかなるのだろうか。
どうにかなったらしい。
煙のように、I・Bの姿が霞んだ。
「同化するってことは、あなたの中に私が入ることだから。それを忘れないように」
「あなたは私からこぼれ落ちたすべての悪意。元に戻すだけよ」
I・Bと雨鏡さんは言葉を交わした。
見えている。
聞こえている。
そうでなければ、この状況はあり得ない。
ざあざあと雨の降る音。
窓ガラスが結露している。
「さいなら、てわけじゃねえんだな?」あづま君が雨鏡さんに言う。
「そうね。捉え方次第だけど」
「姉さん、大丈夫? どこか変なところとかない?」ようじさんが駆け寄る。「気持ち悪かったりしない?」
「なんでこんなに過保護になっちゃったのかしらね」雨鏡さんがあづま君に言う。
「俺にもこんな感じだけど?」あづま君が言う。
本当にいなくなった。
視界をちらついていたあの悪魔がいなくなった。
本当に?
そんなに簡単にいなくなるだろうか。
俄かに信じがたい。
「また現れたら私を呼んで?」雨鏡さんが言う。「何度でも消してあげるわ」
それはなんとも心強い。
3
雨鏡さんは東京を観光して帰った。
何県に帰ったのかは知らない。
連絡先を聞いた。僕から聞いたわけじゃない。向こうが勝手に登録してきた。
僕の兄の姉だから、僕にとっても姉ってことになるんだろうか。
翌日、前姫さんからメールが来た。
姉が迷惑をかけていなかったらいいのですが、という内容。
想像に任せる、と返信した。
父さんが病室に戻ってきたのでお見舞いをしなきゃいけない。
未来永劫行かなくてよくなればいいのに。
「退院するよ」父さんはそれだけ言って部屋の荷物をまとめた。
これで晴れて僕はお役御免になる。
父さんの代わりをしなくてよくなる。
父さんの身代わりとして父さんのように過ごさなくてよくなる。
でも、
住むところがなくなった。
自分でマンションを借りた。
引っ越しは簡単だった。僕の私物なんか大したことない。
やっと一人になった。
部屋が広すぎる。
あづま君と一緒に住むでもいいかもしれない。
4
昼休み。
確か昨日、ようじの姉貴が来たとか何とか。
「本当に消えたんだよ」ようじは神妙な顔をして言った。
昨日から降り続いていた雨は今日は已み、晴れ間がのぞいた。一時的なものだと天気予報は言っていた。
「姉さんにはくれぐれも体調観察をお願いしたけど」
「体調不良が出るとするなら何なんだよ」
救急車の搬送口。
ここなら非常時以外誰も来ないので話しやすい。
「頭痛か、腹痛か」
「ねえ、冗談だと思ってる?」ようじが訝しげな顔で見てくる。
身内のこととなると急に盲目的になる。
だからこそ、遺伝した幻覚を消す方法をずっと探していたんだろうし。
「よかったな。消えたんだろ?」
「事例研究にすれば再現性が不可能でも」ようじがぶつぶつ呟く。「いや、そもそも科学は再現性だし」
「論文にすんのかよ」
「当たり前だよ。俺の本業忘れてるんじゃない?」
「お見逸れしました」
自分を切り売りするようなもんじゃないのか?
俺の感覚が間違っているのか?
「財団あかいにしんも使えるところまで使ってやる」
財団といえば。
「ニセモノでしょ? 別に好きにすればいいよ」ようじが言う。「むしろコントロールしやすくて扱いが楽。向こうのほうが財団の求める天才博士だよ」
「お前がそう言うなら俺はどうでも」
そろそろ昼休みが終わりそうだった。
「あ、また飯食い損ねた」
「これあげるよ」ようじがランチボックスを寄越した。「あづまの手作り」
「お前のじゃねえの?」
「二人分作ってた」
「じゃあ尚のこと俺のじゃねえじゃん。えとりのだろ?」
「えとり君は固形物食べないから」
医者の前でそうゆうことを言うなよ。
また飯に連れ出さないといけないか。
「そのうち、一緒にご飯とか行けるといいよね」ようじが言う。
「メンバー次第だがな。悪くなってもあいつに悪いし、もらうわ。サンキュー」
弁当は片手でつまみやすいかつ高カロリーなラインナップで助かった。5分で食い終った。
よし。
午後の仕事だ。
5
「さすがに一緒に住むのはな」
「そっか」えとりはちょっと寂しそうに言った。「そうだよね」
えとりが夕方に、研究所を訪ねてきた。
父さんはこもって論文書いてるし、親父は当直だし。
「お前は俺のこと好きなの?」
「え、知らなかったの?」えとりが恥ずかしそうに言う。
俺が寝転がってるベッドにえとりが座っている。
「ああ、なるほど。それで」
やけに一緒にいたがるのは。
それが理由だったのか。
「何がなるほどなの?」えとりの顔が赤い。
珍しい。
いつも蒼白い顔をしてるのに。
「夕飯食ってかねえ? 弁当の残りがある」
「君が作ったの?」えとりが意外そうに言う。
「俺じゃなきゃ誰が作るんだよ」
キッチンに行って冷蔵庫を開けた。
あ。
「悪い。父さんに食われた」仕方ない。「いまから作るわ」
「別にいいよ。お腹空いてないし」えとりが首を振る。
「俺が空いてるんだよ」
材料はあまりないけど、チャーハンとスープならできそうだった。
明日買い物に行かないと。
えとりはしばらくレンゲで米の山をつついていたが、ちょっとずつ口に運んでくれた。
「味、濃くない?」
「そうか? いつもこんくらいだけど」
「味付け濃いと血管詰まるよ」
「マジか」
気を付けよう。毎食ラーメン食ってる親父が心配だ。
「でも、美味しいよ」えとりが言う。
「でもってなんだよ」
完食は無理だったが、半分くらい食べてくれた。
味が薄いもっと健康的な料理を作ったら食べてくれるだろうか。
「食べれそうなものあれば教えてくれ。次までに練習しとく」
「いいの?」えとりが嬉しそうにした。
ああ、こうゆうのは悪くないかもしれない。
6
I・Bは本当に消えたのか。
それはこれから確かめる。
『天才博士の作り方‐How to DIrEct Dr.Julius‐』登場人物一覧
・北廉干支利 主人公 羅城大学心理学部教授
・後磑央氏 財団あかいにしん本尊 天才博士 えとりの兄
・万里耀爾 ようじのもう一つの人格
・東海林奏 ようじの甥
・北廉天儀 羅城大学心理学部名誉教授 前学部長 えとりの父
・東海林埜凍 羅城学園理事長 あづまの生みの親
◎王城病院
・艮蔵十識 外科医 あづまの兄
・結佐鳳晟 精神科医 診療部長
・正親理睦 院長 小児科医
◎■■■大学
・三仮崎訪久 心理学部准教授
・万里司子吾 心理学部教授 ようじの育ての親
・朔世翳冬 精神科医 りゅうしの双子の兄
・祥嗣翏紫 心理学者 かげとの双子の弟
◎財団あかいにしん
・後輪寥爾 ユリウス博士のスペア
・逆灘覚史 環境人格研究所邦内最年少世代分室長 小児科医 りょうじの主治医
・火灘覚 上記人物の本名
・ジョージ=J=假冴 財団事務局長
◎国立更生研究所 (E-KIS)
・国立硝子 JuRA-SIK創始者 国立更生研究所長
・瀬名関シゲル 精神科医 ショーコの弟子
◎月刊『リ・プリンキピア』編集部
・何森 編集長
・行万究跡 雑誌記者
・前姫迦宮弥 バイト えとりの元後輩
◎その他
・岡田真三 フリーのなんでも屋 元警察官
・小新田恵穫 数学講師
・前姫雨鏡 かぐやの義姉 ようじの双子の姉
7
1ヶ月経った。
7月。
梅雨も明けてすっきりした。
ようじさんの論文を読んだ。
内容は概ね理解できたけど、本当に消えたんだろうか。
確かにあの日から一度も姿を見ていない。
I・Bは完全に消滅したと言っていいのかもしれない。
ようじさんも、あづま君も見てないって言うし。
僕はだんだん食事が採れるようになってきた。
あづま君が作ってくれてるからってのが大きい。
美味しい。
美味しいってこうゆうことかって思ってる。
口から食べるのも悪くない。
薬の量も減ってきて、調子が悪くなることが少なくなった。
主治医の結佐先生も喜んでくれている。
これであづま君と一緒に住めたら言うことないんだけど。
過保護なようじさんが認めてくれない。
本当の息子でもないのに。
としきさんは好きにしろって言ってくれてるのに。
気にするのは世間体かはてさて。
今日食べたいメニューについて、あづま君からメールがあった。
うどん。て返事しておいた。
何うどんか質問があったので、きつねうどん。て返した。
もっとがっつりした物のほうがあづまくんは喜ぶけど、今日はそんな気分だった。
夏。
魔の6月を乗り越えられたのが、僕的には御の字で。
6月はようじさんの誕生日があって。
父さんがようじさんに刺された月。
そして、僕が飛び降りたくなる月。
飛び降りなかっただけでもよかったと思ってほしい。
そうか。
しばらく飛び降りてない。
ようじさんの研究所の屋上に行ってみた。
夕方。
蒸し暑さが居心地を悪くする。
フェンスに触れる。
ここから、
あづま君は飛び降りて死んだ。
「うどん伸びるんだけど」あづま君が見に来た。屋上に通じるドアからのぞいている。
「やっぱりあづま君は死んだよね?」
「だったらなんだって?」
「でも、僕はいまいるあづま君を愛することにする」
「なんだよそれ」あづま君が口をへの字にする。
さて。
お手製のきつねうどんを食べに行こうかな。
「一緒に暮らすの、諦めてないからね」