第1章 イナンナのように欲し
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あづま君は背を向けてベッドに横になっていた。
静かにドアを閉めてから近づく。
「座れよ」あづま君は振り返らずに言う。「俺が知ってること話してやっから」
「君と僕が血縁関係にあること?」
ベッドの座り心地はあまり良くなかった。
硬い。
「知ってんじゃねえか」あづま君が上体を起こした。多少不服そうな顔をして。「俺の本当の親父は、親父じゃない。親父の親父だよ。父さんも関係ねえ。父さんは、母親の弟だから、ええっと、なんつったか」
「ややこしいね」思わず笑ってしまった。
部屋は仄暗い。カビのような埃のような臭いもする。窓から入る夜風がカーテンを揺らす。
ここは、ようじさんの寝室。
あづま君が言うところの「親父」は、艮蔵先生のこと。
あづま君が言うところの「父さん」は、ようじさんのこと。
「君は僕の甥ってことになるね」皺だらけのシーツを撫でる。「母親に会ったことはある?」
「男みたいなやつだったぞ」
「じゃあ僕に似てるのかな」
あづま君が眉を寄せる。顔を思い起こしているのだろう。
「父さんにどこまで聞いてる?」わざと話題を逸らしてくれた。
「聞くっていうか、僕の母親のこと教えてくれるって言ったのに、艮蔵先生とどっか行っちゃったしさ。本音を言えば、今更母親のことなんか知りたくもないし、興味もないよ。ねえ、あづま君」
前髪に触れる。
眼がよく見えた。
「君はあのときのあづま君じゃないんでしょ?」
「あのときってのは?」
「ここの地下にいたほうの君。僕が好きだったほうの君だよ」
「俺が何人もいるってのか?」あづま君がちょっとムッとした。
だって。
「君は僕が殺した」
あづま君は何も言わない。
0α
ジョージ=J=假冴と名乗った男は、胡散臭さを凝固したような嗤いを浮かべた。
「わたくし、財団の事務局長を務めておりまして。ご不満やご要望の一切はすべて、わたくしにお任せいただければと思いますね」
「だから、さっきから言っているんだ」
なぜ。
会ったことも見たこともない初対面の男と同室なのか。
ホテルのロビィ。
受付かツアーのコンダクタよろしく立っていた事務局長とやらに話しかけたらそう返された。
「ええと?」事務局長がわざとらしく眉間を掻く。「国立先生と同室を希望されたのは、先生でして。それで?ええと、国立先生がキャンセルされたためにですね、その代理の、ええと」
男が、万里です、と自己紹介する。
年齢は50代だろうか。うだつの上がらない、凡百に紛れる、これといった特徴のない、つまらなそうな男だった。シワだらけのシャツがこれでもかというくらいに独身だと告げている。
「万里先生ですね。知っていますとも。大変失礼しました。万里先生がいらっしゃったので、まあ、おのずとですね、お部屋は」
「能書きも言い訳もどうでもいい。部屋をもう一つ用意しろと言っている」
「ちょいとばかしお待ちを」事務局長がケータイを耳に当てる。「ああ、わたくしですが、ええと? 空き部屋って。ない。ないの? 誰かキャンセル出て。ないの? ああ、はい」ケータイを上着のポケットに入れた。「申し訳ない。ないそうです」
「その棚に陳列してる商品の在庫があるか問うてるわけじゃないんだ。まともで常識のある対応を期待する」
「そうは仰られましてもねぇ」事務局長がううんとわざとらしく唸る。「先生ともあろうお方を、こちらのミスで部屋を取っていなかったとて、この都会に夜分遅く放り出すのはわたくしとしましても、心苦しいの千万でして。妥協案としまして、当ホテル随一の広さを誇るロイヤルスイートを、こう、ぱつっと半分で割っていただいて」
「僕の部屋をお譲りしますよ?」万里という男がおずおずと手を挙げる。「知り合いがいないわけじゃないですので」
「よろしいのですか?」渡りに船とばかりに事務局長が反応する。「他ならぬ万里先生がよろしいと仰るのであれば、こちらとしても、ええ。それでは鍵をお渡しいただいて」
万里から受け取った電子キーは、手の温度ですっかり生ぬるくなっていた。
私は、実は彼を知っている。
しかし初対面なのは本当だ。
いわゆるここで会ったが百年目というやつだが、お互いに知らんふりをしていた。
我ながらよく我慢した。
国立先生の代理?
国立先生の第一の弟子である私を差し置いてよくもいけしゃあしゃあと。
昔の私なら一晩眠れなくなるか、眠れたとしても悪夢でうなされる程度に置き土産を押しつけているが。
そこは成長か単に老いただけなのか。
翌朝、そこそこ早く起きて会場に向かったが、それなりに人は集結しつつあった。
受付で身分証明書と顔の照合。
念入りに持ち物チェック。ケータイのレンズにシールを貼られた。
会期中勝手に剥がすなという。
この莫迦騒ぎは3日もあるんだが。その間に記念撮影をしたくなったらどうするんだ。国立先生がいないのならする必要もないが。
すべての発表会場の定点カメラで撮影した、全映像記録は編集が済み次第会員に配布されるらしい。
ご本尊の貴重な動画が欲しけりゃ会員になれと。
そもそも非会員の私がこのシンパの祭りに参加している理由はたった一つ。
そのたった一つが昨日立ち消えたというのに、癇癪を起して帰らなかった理由は。
「昨晩はどうも」目当ての姿が見えたので声をかけた。
「ああ、どうも。よく眠れていたらいいんですが」万里が言う。
皮肉か嫌味か。いや、本気で言っているのだとしたら。
「ええ、それはとても。いい部屋だったので」
こちらも虚飾なしで応じてみようか。
万里にうわべだけ挨拶する会員や事務局を横目に。
「僕は腫れ物みたいなもんですからね」人がいなくなったのを見計らって万里が呟く。「今でこそ功績とやらをよいしょされてますけど、一番気を遣う部分はそもそも祥嗣先生のスカウトで、てゆうところでしょうし」
「先生はこれからどちらに?」どうでもよかったので話題を切り替えた。
「実はここだけの話ですけど、受付だけしてドロンしようかと」
ああ、それはまったく。
「奇遇だな。私もだ」
悪事を働くには道連れが必要。
誘拐も。
殺人も。
「先生が亡くなってから何年ですか?」万里が気の利かないことを言う。
「人は死んだら年はとらないんだ。知らないのか?」
なので先生はいつまで経っても少女のまま。
どこぞの天才博士も一夜にして若返ったと聞く。
勿論信じていないが。
噂をすれば。
その天才博士の弟が受付にやってきた。
まさかの女連れで。
「先生が行こうとしている場所を、もし、私が当てたら」
「ああ、別に構いませんよ。僕なんかと一緒でよろしければ」
絶対に当てられる確信があったから提案したのに。
研いだ切っ先を粘土で包まれてしまった。
こうゆう奴なのだ。
「あの、ところで、先生」万里が言う。「僕のこと」
「自惚れないでもらいたいものだな」
釘を刺しておくにこしたことはない。
国立先生。
死んでからも勝手に弟子を増やさないでいただきたい。
天才博士の作り方
―How to DlErect Dr. Julius―
第1章 イナンナのように欲し
1
雨のぱらつく梅雨真っ只中の6月4日朝8時半。
北廉会長のとびきり不機嫌な顔がまた見れるなんて。湿気でうねる前髪を、念入りにセットした甲斐はあったというもの。
「僕は反対ですよ。なんで行万さんじゃなくて」
「行万君が行方をくらましているのが悪い」編集長が無感情に言う。「まだバイトだが、見所があると思っている」
「よろしくお願いします!! 前姫です」私は、これ以上下げられないくらい頭を下げてお辞儀した。
バイトで入った小さな出版社。先輩が数日前から出勤していない。自宅に行ったが応答なし。独り身なので他に連絡の取りようがない。
今日はとある学会の三日間に渡る学術総会の密着取材の一日目。現地集合した大学の正門前で、まさかの人と再会した。といっても事前に密着する相手の名を聞いていたので、私としてはウキウキしながら現場に向かったのだが。
「お願いされたくないよ。編集長、僕は行万さんじゃないと許可していません。取材はなかったことにしてもらいます」と北廉会長は相変わらずこんな感じで。
北廉会長は、私が高校のときの生徒会長だった。美しくも冷たい目線を覆う眼鏡。白というより青白い肌。更に学年首席というパーフェクト最強スペック付き。副会長と人気が二分されるほどの美形だった。
ちなみに副会長は、会長と真逆で、軟派で女にだらしなくて成績は芳しくないけど家が超お金持ち。私の友だちがたぶらかされそうになっててちょっと冷や冷やした。
その天才北廉会長が、私が通っていた高校と同じ名前の大学で教授職に就いていたのは風の噂で知っていた。同じ名前の大学と言ったのは、エスカレータや内部枠がないから。大学が最初にあって、中高が後付けでできたので母体が別なんだとか。それに大学の偏差値が高すぎて、内部から狙おうとする人はほぼいない。中高が決して進学校ではなかったので、通った生徒は競争心とかそうゆうのがすっかり抜けてしまう。
私は大学卒業後、漫画家になりたい夢を叶えるべく、漫画を描きつつ(高校のときからずっと描いてはいるのでもはや日課なのだが)、新人賞に応募しつつ、バイトしつつという生活。そのバイト先がこの出版社だった。編集に興味があるというより、この出版社が発行している雑誌に興味があった。
リ=プリンキピア。月刊誌。
とある天才学者を追い続ける、ある意味硬派でマニアックな雑誌。
その天才学者が、北廉会長の兄であり、かの有名な後磑央氏こと、ユリウス博士その人である。
私は、とあるきっかけで個人的に北廉会長の素顔を知っている。
「じゃあ、頼むよ」編集長が北廉会長の肩をぽんと叩いて私を見る。「君ならできるよ。頑張ってくれ。あ、報告は一日ごとするように」
「待ってください」北廉会長が編集長の背中に言葉を投げるも届かず。
編集長は北廉会長との弁論大会を避けたかっただけだ。弁舌で勝てるわけがないからそもそもステージに上がらない。代理を宛がって逃げるに限る。なるほど。私も見習おう。
ポツン取り残された私ともう一人。
「帰ってくれていいよ」北廉会長は私を見ずに言う。「編集長からは僕から報告する」
「そんな、困ります」無意味に食い下がる私。
「困ってるのは僕だよ。僕は行万さんだからオーケーしたんだ。そもそもの前提条件が覆されている。君は巻き込まれただけなんだ。大人しく帰るといい」
そう言うと北廉会長は一人で正門をくぐろうとするので、私は無我夢中で腕にしがみついた。
「放してくれ」
「付いていかせてください。お願いします」
「君、どこかで見たと思ったけど」北廉会長が眼鏡のブリッジを触る。「後輩だったのかな。名前は憶えてないけど」
「前姫迦宮弥です! 憶えて頂けていたんですね?」
「記憶はしてないよ。なんかやけに馴れ馴れしいからそう思っただけ。迷惑になるから放してくれないか」
「付いて行っていいんですね?」腕の力を緩めた。
北廉会長は上着がしわになっていないかどうか、腕をさらっと撫でる。
白のワイシャツに、濃い色のネクタイ。上着も落ち着いた色でよく似合う。
「何をすべきか知ってるの?」
「えっと、会長に密着して、来月の特集のための記事作りですね」
「やることはわかってるんだね。わかった。雑誌が発行できなかったら編集長に申し訳が立たない。僕が折れるよ」
「ホントですか?」
「ただし」北廉会長が静かに言う。「僕との会話は必要最小限。雑談はしない。僕が不快に感じたらその時点で同行は終了。これが約束できる?」
「機嫌取りなら任せてください」
「そういうことを言ってるんじゃないよ」
スーツ姿の物々しい雰囲気の如何にも頭が良さそうな集団に紛れて正門をくぐる。
羅城大学。
あるのは3学部。医学部、薬学部、心理学部。
ユリウス博士は、医学部と心理学部に関わりがある。
今日から三日間。
ここで学会が開かれる。
受付で身分証明書を提示し、撮影許可の腕章を得る。北廉会長は顔パスだった。
というより、主賓の一人といった歓迎ぶりだった。
「運営側とちょっとした付き合いがあるんだよ」北廉会長は受付を離れてから言う。「君は知らなくていい」
と言われると、知りたくなるのが編集部の性というもの。
「そんな顔しても」と言いつつ、北廉会長は廊下に貼ってあったポスターを横目で示す。
財団あかいにしん。
確か、ユリウス博士の設立した組織。
「君は、ユリウス博士のことをどれだけ知ってるの?」北廉会長が歩きながら言う。
「あの、会長、お言葉ですが、雑談禁止では?」
「僕からの話題はいいよ。ところで僕のこと会長って呼ぶのはやめてくれ。もう違うんだから」
「じゃあ先輩?」
「先輩後輩でもないだろ?」
「じゃあ、先生?」
「それが無難じゃないかな」北廉先生(うわー、慣れない)が言う。「どう? 知ってることを言って?」
「えっと、教授の兄上で、天才で、羅城大学の設立に関わってて、財団あかいにしんを作って、えっと、リプリで毎月追っかけ記事してて」
「もういいよ。世間一般の認識がわかったから」
参加者で賑わいを見せる大学の廊下を進んで講堂に入る。実は高校と大学は割と近い距離にあったにもかかわらず、私が大学の敷地に入るのは初めて。
講堂はコンサートでもするのかってくらい天井が高かった。4階席まである。参加者がわらわらと集まって、指定なのか自由なのか銘々席に着いていた。
北廉先生は、迷わず最前列の中央席に座った。
「何をぼやっとしてるのかな? 座るといい」
「いいんですか?」
北廉先生の隣が空いている。隣どころか、このブロックごと空いている。
「いいもなにも、そのために席を確保していたんだから。写真を撮るんだろ? 後ろからのほうが難しくないかな?」
「ありがとうございます」
言い方は冷たいけど、面倒見はいい。私は北廉先生の素顔を知っている。
高校時代、北廉先生(当時は会長)を騙して、私の実家に連れて行ったことがある。本家と分家の争いで絶対に負けられない頭脳勝負をすると聞き、どうしても力を借りたかった。結果、勝利を収めることができ、お姉ちゃんも喜んでくれた。
そのことを、北廉先生は憶えてくれているのだろうか。
「じろじろ見たって取材は進まないだろ?」北廉先生はあきれたような顔をする。
「あ、はい」
受付でもらった冊子によると、最初にまずこの講堂で開会の挨拶。その後、各会場に分かれての研究発表。昼休憩を挟んで、各会場ごとの発表が続く。明日も明後日もこんな感じで、各々興味のある分野を選んで渡り歩くことができる。
問題はその発表題目を見てもまったくピンとこないこと。
「どうして僕が行万さんを指名していたかわかったかい?」北廉先生が言う。「君はまだ圧倒的に自主学習が足りない。彼なら専門用語くらいはわざわざ解説なしでわかってくれていたからね」
「編集長はどうなんですか?」
「どうして敢えて現場に出ない人と比べようとするんだい? バイトだからと気軽に考えているようなら、大人しく写真だけ撮っているといい。リプリはカラー写真が充実していることが強みなんだから。紙面を埋めることだけ考えればいいよ」
北廉先生の元に挨拶に来る人が絶えない。ベテランそうな老人、エネルギィに満ちた若者、美しい女性。
先生はそのたびに「どうも」とだけ言って眼線でいなしている。
「いまから勉強しても間に合わないです」やっと人が途切れたので不満をこぼした。
「ちなみに、行万さんのピンチヒッタを君にせざるを得なかったのはいつ決まったのかな」
「今朝です」
「そうなるかも、てことはいつ想像が付いてたのかな?」
「昨日です」
「じゃあまあ、急ではあったのかな」
「そんな暇なかったんです」
「君のことは初めて見た。もちろん、高校を卒業してからの話だけど。それまで別の部署にいたってことなのかな」
「単独で現場に出してもらうのは初めてです。それまでは行万先輩の後を付いてました」
「リプリの僕との窓口は行万さんだから、たまたま今日の今日まで僕以外の取材をしているところを、君が付いて回っていたってことかな」
「何が言いたいんですか?」
回りくどい。
のではなく、私に自分で気づかせようとしている。
「君がバイトをし始めてから今日まで、どのくらい時間があったのかなってことだよ」北廉先生が言う。「リプリがどういう雑誌かわかってて入ってきたなら、少なからずその必要性については気づいてもいいようなものだけどね」
「忙しかったんです」
「なるほど。バイトはあくまでバイト。おカネを稼ぐための手段にすぎないってことかな。じゃあ悪いことは言わない。この取材が終わったら別のバイトを探すことを勧めるよ」
「なんでそんなこというんですか」
と反論しながら、私は北廉先生の意図を探っていた。
「本業が忙しいなら、本業に差し障りのない無難なバイトを探せってことだよ。行万さんになれとは言わないけど、行万さんの後輩である以上は、僕が何を話しているのかわかるような努力をしてもいいんじゃないかな」
いつものわかりにくい世話焼きだ。
文字面だけを追って怒りモードに入っちゃいけない。
北廉先生に挨拶に来た人を5人くらいやり過ごして息を整えた。
「落ち着いた?」
さすが北廉先生は、私の内心までしっかり見抜いているようで。
「ここで怒って帰らないところが君の長所だから。そこは誇っていいよ」
「先生が教えてくれたら身に入りやすいと思うんですが」
「他人任せなのは感心しないな」北廉先生は大きな溜息を吐いた。「そろそろ時間かな」
9時。
開会の挨拶。
会場の照明がやや落ちた。私は慌ててカメラを構える。動画を撮るのは禁止なので写真のほう。
壇上に胡散臭い雰囲気の男がマイクを持って上がった。運営の事務局長らしい。
一言二言当たり障りのない前置きをして、開催委員会の委員長を呼び込んだ。
なぜ北廉先生が最前列に座ったのか、いまわかった。
先生はステージ横の階段から壇上に上がり、冷やかな口調で難しいことを喋り出した。
唯一内容として拾えたのは、本当は委員長は先生の父だったんだけど、体調が芳しくないために代理でここに立っているということだけ。
割れんばかりの拍手を浴びながら、北廉会長が席に戻ってきた。
「僕の仕事はこれで終わり。ただの客寄せパンダだよ」先生は私にしか聞こえない音量でぽそりと呟いた。
会場の照明が元に戻り、参加者が席を立ち始めた。銘々目当ての研究発表の場に移動しようというところ。
「先生はどこに行くんですか」
「どうしようかな。知り合いのところに行くか、それとも妖怪相手におべっか使うか。実は何も考えてないんだよね」
「行万先輩ならどうするんですか」
「こうゆうとき? そうだね。行万さんなりに行きたいところを決めてるから提案してくれるのかな」
マジですか。
編集長は私に厄介払いをしただけではないのだろうかという疑惑が立ち込めてきた。
「だから自主学習が必要だって言ったのに」
冊子はめくれどもめくれども何が書いているかわからない。知らない外国語の羅列と言っても過言ではない。このなかから北廉先生のお眼鏡に叶いそうな会場を見繕えと?
無理にもほどがある。
「ほら、移動しないと」北廉先生が言う。「ちなみにここも会場の一つだから。迷ってたらこのままここで記念公演が始まっちゃうよ」
「すみません、私にはそんな能力はないです」
「諦めるのが早いね。ごめん、ちょっと意地悪した。知り合いのところに顔を出すことにするよ」
北廉先生に付いて移動した。大学の構内を歩いて、キャパ300人くらいの大きな講義室に入った。発表はすでに始まっていたので後ろからこっそり入った。
「さ、遠慮なく仕事をしておいで」北廉先生が私に囁いた。
なるほど。
先生が見に来たのは、知り合いの研究発表じゃない。
知り合いの研究発表を撮影する私の仕事ぶりだ。
知り合いなら、撮影で小娘がちょろちょろしてもあとでなんとでも言えるという高を括った見通し。
先生なりに気を遣ってくれたのだろう。
では、お言葉に甘えて。
映像に収めるのが禁止なのは、あとで全記録が参加者に配られるためそもそも映像撮影に意味がないということと、無闇に関係者以外の眼に触れることを防ぎたいという意図から。
撮影しながら気づいたのだが、やけにこの会場だけ女性が多くないだろうか。席はほぼ満席で立ち見も出ているほどの盛況ぶりだったが、9割以上女性で埋め尽くされている。女性たちの熱のこもった眼が前方のパワーポイント出力先のスクリーンではなく、ただ一人の男性発表者に向けられてはいまいか。
あ。
カメラ目線もらった。
わかったかもしれない。
確かにその人はイケメンの部類に入る。一挙一動に女性たちの眼が釘付けになっている。
私は冊子を確認した。
三仮崎先生というらしい。40代くらいのがっしりとした体格の心理学者。
「カメラ映りよさそうでしょ?」一旦最後列に戻ったとき、北廉先生が機嫌よさそうに言った。「三仮崎先生はファンが多いからね。もともと女性人気の高い学部ではあるけど、先生のお陰でさらに輪をかけて女性の入学が増えたって聞いたよ。ゼミは毎年希望者多数で抽選になってるくらい」
学会総会は、会員の他に、一般(といっても最低限専門知識を有していることが条件だが)参加者もいて、羅城大学の学生も少なからず(というか大多数)この場にいるらしい。
「顔以外もちゃんと見てるかどうかは怪しいけどね」
質疑応答の時間も挙手が絶えず(北廉先生が言うには、一応内容は耳に入っていた上での質問だったみたい)已むなく時間が来て切り上げた。終わってからも壇上近くに女性が殺到して近づけそうにない。
「じゃ、次だ」北廉先生が立ち上がる。
「挨拶とかいいんですか?」
「僕が来てたのは見えてたぽいし、あの荒波を超えて話すようなこともこの場ではないし。行くよ」
次の会場、その次の会場も北廉先生の知り合いの発表だったらしかった。私が仕事をしやすそうな会場を選んで連れて行ってくれている。やっぱりお世話焼きのお節介なのだ。
12時前。
「お弁当もらえるけどどうする?」北廉先生が言う。「僕は要らないけど」
「先生の分をもらうわけにいかないです」
「参加者全員の分を用意してあるんだよ。だから食べないほうが迷惑をかけることになる。その分廃棄になるだけなんだから。悪いけどもらってくれる?」
北廉先生から横流しで、お弁当(ずっしり重い)とお茶のペットボトルを受け取った。北廉先生が自販機で水を買おうとしたので、ガンバって割り込んで私がおカネを払った。
「要らない気を遣わなくていいけど、揉めても仕方ないし、ありがとう。もらっておくよ」
「お腹空かないんですか?」
「何もしてないからね」北廉先生がどうでもよさそうに言う。
会場のどこで食べてもいいとのことだったので、北廉先生のおススメの場所に行って座った。構内から少し離れた公園内の遊歩道脇のベンチ(屋根とテーブル付き)。
生憎の雨模様でなければ、静かで居心地が良さそうだった。
「また降ってきたね」北廉先生がペットボトルに口を付ける。
「あの、どれか食べたいおかずありませんか?」
お弁当は豪華という言葉が具現化したような最上級のランクで。一人で食べれるかどうかもわからない量と品数とで。食べる前からにおいと見た目だけでお腹いっぱいになりそうだった。
「嫌いなものは?」北廉先生が言う。
「いえ、特には」
「じゃあ食べなよ。滅多に食べれなさそうな料理が詰まってそうだ」
「あ、はい。いただきます」
一品ずつ味わって食べた。
北廉先生は私の正面に座っていたが、特に会話もなく雨か雲か木を見ていた。時折水を飲んだり、ケータイをいじったりしていた。
雨脚が強くなってきた。私の癖っ毛の髪もくるんくるんと荒ぶっている。
「ごちそうさまでした」手を合わせて挨拶する。
「美味しかった?」
「はい、とっても。ありがとうございました」
傘を差して会場に戻る。
13時。
午後も北廉先生に付いて講義室を渡り歩いた。写真もそれなりの枚数撮れた。話している内容は1ミリもわからなかったけど、そこは編集長も期待していないだろう。
本日の最後の公演。
最初に北廉先生が開会の挨拶をした大きな講堂へ移動した。明らかに開会式のときより参加者の熱量が違う。席の埋まり具合も、期待に満ちたどよめきも。
ホール前方の入り口から入ると、最前列の中央ブロックだけ朝と同じく空席になっているのが見えた。関係者用と手書きで書かれた養生テープが、立ち入り禁止のロープのように貼られていた。
北廉先生はそのテープを手際よく剥いで床に捨て、開会式と同じ位置に腰掛ける。
「これはこれは、お手間を取らせて申し訳ないですねぇ」くたびれた白衣を着た眼鏡の50代くらいの男性が近づいてきた。「このね、どうにも触りがたいテープをね、はい、私なんぞがどうにかしていいものか。先ほどから逡巡していたところだったのですよ、ええ」
15時5分前。
白衣の男性は不精髭に手を遣り、北廉先生の隣に「よっこいしょ」と言いながら腰を落とす。
「診察はいいんですか?」北廉先生が言う。
診察?
お医者さんかな?
「ええ、はい。ちょうどね、切れ目というか、この時間は気を遣って空けておいていただけたというか。馳せ参じたというわけですよ」白衣の人がようやく私に気がついた。「ええと? そちらのお若い方は?」
「リプリの記者の代理です」北廉先生が言う。
「前姫です。よろしくお願いします」
「はいはい、どうも。私は結佐とね、いいます。そこの病院で精神科医をね、しているしがない雇われ医者ですよ、はい」結佐先生が言う。この勿体つけた話し方はクセなのか。「しかし、珍しいですね、ええ、その、あなたが女性をお連れになっているだなんて」
「他に選択肢がなかったんです。話すと長くなるので敢えて言いません」
「わかりました。はい。こちらのほうでね、ええ、勝手に想像しておきますよ」そう言うと、結佐先生は描写しづらい表情を私に向けた。
これは、笑顔?なのか?
ちょっと判別が付きづらい。嘆いているようにも困っているようにも、果てはあきれているようにも見えた。
「あの、艮蔵先生は?」北廉先生が結佐先生に尋ねる。
「さあ、ついぞお見かけはね、しておりませんが。袖にいらっしゃるのでは? 関係者ですしねぇ、ええ、はい」
「そうですか」北廉先生は何かを言いたそうにしたのを呑み込んだ。
照明が徐々に暗くなる。開会式のときのように仄暗い感じではなく、映画館やコンサートのときの暗さに近い。
眼が慣れる前に、ぱっと、壇上に明かりが集中した。
開会式のときに出てきた胡散臭い司会者が呼び込みの挨拶を残し、袖に引っ込んだ。
会場全体が息を呑む絶妙な間合いがあった。
強い照明に瞬きを強要される。
不規則的な靴音。
白くたなびく白衣の裾。
反対に真っ黒な髪と眼。
最初にもらった冊子によるなら、今日どころか今回の総会のメイン公演。
壇上に現れた彼こそが、本学会一の天才研究者。
「はじめましての方ははじめまして。二度目以降の方はお久しぶりです」
心理学者。
後磑央氏博士。
「勿体つけても仕方がないので最初に結論から言います。俺は今日この日を以って引退します」
そう言って、博士は後ろのスクリーンに絵画の写真を出力させた。
デッサンの若い女性。私の母校(高校)の制服を着ていた。
え?
「彼女は俺の双子の姉です」
ウソ。
博士の双子の姉?
嘘ウソ。
だってそれは、
私のお姉ちゃんにそっくりで。
「彼女は俺が10歳のときに養子にもらわれ、それ以来会っていません」
なんでお姉ちゃんが?
他人の空似?
そうに決まってる。だってそうじゃなきゃおかしい。
だってそれは、博士の双子の姉なんかじゃなくって。
私のお姉ちゃんのデッサンにしか見えないんだから。
いけないいけない。
ようやく自分の仕事を思い出した。でも席を立ってカメラを構えた途端、北廉先生に肩を叩かれた。先生が黙って首を振る。
話を聞けということなのか。写真を撮るなということなのか。
会場がようやく博士の電撃引退宣言の意味を取り、ざわざわし始めた。
「おかしいと思ったんじゃないですか? なぜ10歳のとき以来会っていない双子の近影を絵画として描けるのか。想像図? モンタージュ? 違います。俺は、双子の姉の成長した姿を知っています。見たことがあります」
北廉先生が小声で「いいから」と言う。
私はカメラを下ろして仕方なく席に戻る。
「双子だから? それも違います。そうゆう双子的で超常的なアレでもありません。俺は今日この話を公に向けて初めてします。その覚悟を買っていただき、どうかこのあとは静かに余生を過ごさせてもらいたいんです」
会場のざわざわが已まない。
博士は気にせず話し続ける。
「もう一度この写真を見てください。写真というか、素描の写真ですけど。これは俺が知り合いに頼んで俺が言う通りに描いてもらった絵です。苦労しました。眼で見た特徴を口で伝えるのは。まあそれは余談ですけど。とにかく、彼女は双子の姉の外観ではあるものの、実は中身は姉とは別物であるということです」
会場のざわざわが一瞬消えた。
博士が身を乗り出す。
北廉先生は、絵の写真が出た瞬間から博士に釘付けだった。
「彼女の正体を言いましょう。彼女は俺たち家族を呪う存在。インクルーディング・バイオリティ。略してI・Bと俺は呼んでいます。名付けました。名前がないと話ができなかったので」
ついに北廉先生が立ち上がってしまった。
壇が高いので後ろの人には迷惑になっていないと思うけど。
「彼女は、俺を含め、同じ血を引く男にのみ見えます。幻覚というには生々しい。イマジナリーフレンドというには非友好的で悪辣です。彼女の目的は、俺たち一族を呪い祟ること。何の怨みかはわかりませんが、そういう存在なんです。存在非存在、いるかいないかはここでは問わないで、あくまでいる前提で話を進めてください」
なんの話をしているのかわからなかった。
わかっていないのは私だけではなさそうだった。
おそらく、ここにいる参加者で博士の語ろうとしていることを理解できているのはただ一人。
博士と血のつながった弟の、北廉先生だけ。
「俺は彼女を消滅させるためにいろんなことを試しました。それこそなんでも。その手掛かりを得るために、いろんなところに行きました。日本全国、世界中にも、どんな辺境にも。俺がなかなか総会に顔を出さなかったのはそうゆうことをしていたからで。俺がいない間に勝手に財団あかいにしんができていて、学会のトップに祭り上げられていた。そんなことはどうでもいいです。財団も学会も好きにすればいい。欲しい人がいればあげるし、存続させるも終わらせるもお好きにどうぞ。俺はそんなことどうだっていい。俺が気がかりなのはこの」博士が教卓を叩いた。「信愛する姉のガワを被った呪いをどうにかすること。放っておいたらいい? 中にはそう思った方もいるでしょう。では逆に放っておけますか? この呪いが遺伝するのだとしたら。自分の子孫に受け継がれてしまうのだとしたら。自分の愛する子に、呪いを背負わせられますか?」
会場の温度がしんと冷えた。
いまようやく世界が気づいたみたいだった。
博士のこの話が、妄想でもなんでもなく、事実だということに。
「長くなりましたが結論です。この呪いは消えない。自分が消えても消えない。だから俺はこのあとの余生を人のためじゃなくて自分のために使いたい。つまりは引退です。許してもらえますよね?」
袖から胡散臭い司会が重い足取りで顔をのぞかせた。
博士はマイクを持ち直して司会を見遣る。「質問は受け付けないから」
「ええーっと? 博士? あらかじめこちらに提出されていた内容やお題目とまったく違うように思われて仕方がないのですが、そのへんは如何と存じましょう」
「二度は言わないよ。質問も意見も受け付けない」
「ええっと? あの? どうしましょうね。ちょっと、ちょっとこちらへ博士」司会が顔をひきつらせながら手招きする。「ご会場の皆さまはしばしご歓談をば。それでは一時失礼」
博士と視界が袖に消えてからワンテンポ置いて、照明が戻るや否や、会場が混乱に包まれた。おもむろに立ち上がって嘆く者、互いに肩を抱き合って慰め合う者、床を殴って打ちひしがれる者。
学会というより何かの宗教を思わせた。
博士の存在はそれくらい大きなものだったということなのだろう。
「先生?」
北廉先生も立ちつくしている。
「お座りになってはね、ええ、どうでしょうか。まずは落ち着いて」結佐先生が声を掛ける。
「ごめんなさい、ちょっと」北廉先生が眼を合わせないまま会場を出て行ってしまった。
追いかけるのは場違いだろう。
取り残されてしまった。
私だって気にならないわけじゃない。
だってあれは紛れもなく、私のお姉ちゃんだったんだから。
2
走るまでもなく、ちょうどステージのバックヤードにつながる扉から、ようじさんが出てきたのを見つけた。
「ようじさん!」
「なに? あづまなら研究所で寝てるよ」ようじさんは一秒でも早く立ち去りたいような素振りで僕をかわす。
その原因が追いかけてきた。
「博士! 博士博士!! 困りますよ、困りますって。こんな中途半端なところで」先ほどの司会だった。
くすんだ色の入った眼鏡をかけた、縦にひょろ長い男。
高級そうな生地のスーツ上下が浮かずに似合う。メッシュの入った長めの髪を後ろで結わえており、首から関係者用のパスを下げ、インカムを付けていた。
彼とは幾度となく面識がある。
財団あかいにしん事務局長。ジョージ=J=暇冴。総会運営の最高責任者だ。
「ごめん、いろいろ話したいことあると思うけど、俺は帰るから」そう言い残して、ようじさんは行ってしまった。
司会も追跡を諦めた。
というより、絶好のタイミングで鴨がネギを背負ってやってきたので、渡りに船と縋りつこうと方針転換をしたようだった。
「先生~。いいところに~」暇冴はいつもの猫撫で声と揉み手で僕に向き直った。「このあとお暇ですか。お時間ございますか。ございますとこちらとても誠に有難く存じ上げまして~」
「厄介な人に見つかりましたね」
「厄介だなんてとてもとても。わたくしは常に皆さま先生方の第一の味方。もしよろしければなんですけれど」
「いいですよ。というか、それ以外に方法がないでしょう」
「さっすが先生~。頼りにしかなりませんね~。さ、そうと決まればこちらへこちらへ。ずずい~っと奥へ」
バックヤードは混迷を極めていた。運営側の沈痛な雰囲気が、ドアを開けた瞬間に伝わってきた。
しかし、暇冴が僕の存在を知らしめると、雰囲気は一転、からっと晴れ渡った。わかりやすく単純だった。
暇冴に招かれてステージに出ると、参加者が一斉にこちらを向いた。
結佐先生の隣に座っていた前姫さんも、僕に気づいたようだった。
僕は彼女に撮影禁止のジェスチュアを送って、マイクの前に立った。
「先ほどは兄――ユリウス博士がご迷惑をおかけしました。彼の真意は彼が語った通りだと思います。それ以上でもそれ以下でもなく。ちなみにこの場であの話をすることは、僕には知る由もなかったことだけはご理解いただければと思います。僕はもう捌けますが、皆さんの質問に一つだけ答えるとするなら、僕にもあの女――I・Bは見えています。以上です」
僕が喋る間だけ静かになっていた会場も、僕が袖に戻ると再び騒がしくなった。余計に騒がせてしまったように思えなくもない。
その証拠に、暇冴が額の汗を拭いながら近づいてきた。
「あの~、先生。これは一体どうゆう」
「僕はこの場をどうにかするとは言っていません。兄がそうしたいと思ったのなら、そうしてあげてください。では」
暇冴や他のスタッフが呼び止める中、無視してバックヤードを出た。講堂に戻って群衆に囲まれるのも本望ではないし。さて。
編集長に連絡して、前姫さんのケータイ番号を聞いた。編集長は職員の個人情報保護はどうでもよさそうだった。
「順調ですか?先生」編集長は当たり障りのない質問をする。
「ええ、ほどほどには」
「そうですか。前姫さんはどうです? ご迷惑かけてないですか」
傘を差して表に出る。
雨脚は弱まりつつあった。
「行万さんと比べると圧倒的力不足は否めませんが、前向きな姿勢は悪くないですね」
「でしょう? 彼女ね、漫画家を目指してるらしいんですが、私に言わせるとね、彼女、漫画よりこうゆう記者のほうが性に合ってると思うんです。一度ね、彼女の書いた記事、ご覧になっていただきたい」
「メールで送ってくれれば空いた時間に眼を通します」水たまりを避けた。「ところで、行万さんのことなんですが」
「ああ、ええ、そうなんですよ。いまだに連絡がつかないもので」
「つかないってのは、ケータイがつながらないということですか? 自宅にも行かれたんですか?」
「ケータイは電源が切れてるっていうアナウンスですね。自宅は昨日の夜に行きましたよ。中には入れませんでしたが、ポストにチラシやらなんやらが溜まってて。帰って来てはなさそうでしたね。電気も消えてたし。先生の密着、あいつ本当に楽しみにしてましたんでね。今回の総会はついに博士が帰って来るとか言って。初めて会えるって、それはそれは意気込んでたんですから」
やはり自主的にいなくなった可能性は低そうだ。
「警察に届け出とかは? よろしければ紹介しますよ?」
「いや、それもやりはしたんですけど」編集長が言う。「大人の場合、事件性がなければ特別に捜索してくれるってわけではないらしいんですね。ああ、そうか。それで紹介ってことなんですか。それは助かる。先生から言っていただければ話は早い」
なんらかの事件に巻き込まれた可能性。
そのほうが自主的な家出よりもあり得そうだ。
「あいつ、親兄弟は遠くに住んでて完全な独り身で、付き合いもこれと言って少ないみたいでしたし。なんにもなかったらいいんですけどね」
「早く戻ってきてほしいですね。捜索願のほうはこちらに任せてください」
「ありがとうございます。ところで前姫さんの番号をお聞きになるってことはあいつ、迷子にでもなりましたかね」
「そんなところです。では、また」
電話を切った。
足が勝手にようじさんの研究所の前に来ていた。
電子ロックのかかったドア前に、ビニール傘を差して佇んでいる、白衣の後ろ姿。
「ようじさん?」
何をしているんだろう。
キーを持っているんだから、そんなところに立っていないでさっさと開ければいいのに。
「鍵忘れたんですか?」
振り返った顔を見て。
僕は一歩後退した。
「はじめまシて」
ようじさんじゃない。
後ろ姿はようじさんにそっくりだったし、振り返ってもようじさんにしか見えないけど。
違う。
僕にはわかる。
「あなたが、北廉先輩でスか」
さしすせその発音が特徴的だった。
歯と歯の間から空気が抜けるような、掠れた音になってしまっている。
「誰?」
彼はようじさんと同じ顔をして、ようじさんと同じ声で言った。
「僕は、後輪りょうじと言いまス。ユリウス博士に成り変わるために作られまシた」
悪い夢だろう。
3
学会総会?
財団の事務局長を名乗る胡散臭い男が、わざわざ職場に招待状を持ってきたが追い返した。
本当に心からどうでもいい。
ようじの出番があるとしてもどうでもいい。
本当はようじの出番は総会最終日のトリだったのを、ようじが「三日目まで待てない」とわがまま言って変更させたらしい。まったくもって、ようじらしい。
あいつは学会にとっても財団にとっても神なんだから。
あいつの都合を最優先して然るべきだろう。
三仮崎は発表があるとか言い、結佐はようじの公演だけ駆けつけるらしい。
えとりは、ユリウス博士を追いかけてる雑誌記者を引き連れて、三日間参加するんだとか。
よくやる。
俺は今日も今日とて人間の切り貼り。切って貼って繋げば生き返る。
総会1日目。
16時。
そろそろ終わる頃だろうか。
休憩で仮眠を取っていたら来客があった。
来ると思っていた。
「先輩、ご無沙汰しています」大学の後輩は恭しく頭を下げた。
火灘覚。小児科医。
「何しに、つうのもカマトトすぎっつう話だよな」
目覚ましついでに院外へ出た。誰にも聞かれないために、というほうが主目的だった。
昼に強めに降っていた雨だったが、夕方には弱まっていた。蒸し蒸しとした湿気が鬱陶しい。傘を置いてきたので是非に降らないでおいてほしい。
屋根のある裏口。救急車が止まったら解散だと覚に伝えた。
「ありがとうございます。要点は一つです」覚が言う。「先ほど博士が引退を宣言されました」
「へえ。そりゃいい」
聞いていないが、そんなことだろうとは想像がついた。
もともと学会も財団もあいつにはどうでもよかった。
「引退されたら困る人が多すぎます」覚が言う。
「だろうな。で? あいつに成り変わる大義名分ができたって?」
「お見通しですね」覚が苦笑いする。
「連れて来てるんだろ?」顔を拝んでやろうと思ったが。
「会いたい人がいるようで。いま待ち伏せしているところです」
「なんだそりゃ」
サイレンを鳴らした救急車が到着したので覚とはそこまで。
処置が終わるまで待っていたらまた対応しよう。
覚の代わりにようじが待っていた。
院長も一緒に。
詰所。
まさかの院長がいたので他のコメディカルがそわそわと調子を崩していた。
「揃いも揃ってなんだよ」
「何時に終わる?」ようじが言う。「話があるんだけど」
「今日当直なんだが」
「僕が代わるよ」院長が言う。
話を聞いていたナース集団がこちらを振り返っていた。
それはそうだろう。
「いや、先生が代わっていただく必要は」ナースが言いたいことを代弁して言ってやった。
「急すぎて代理見つからないって。僕に任せていいよ」
「ね? 王城先生だってそう言ってるわけだし」ようじも言う。
ナースが俺をじろじろ見ている。わかっている。俺だって代わってもらいたくない。
でも、院長よりもさらにようじのほうが権力を持っている。それをわかってほしい。
逆らえる人間はこの世にはいないのだ。
しかし、院長には代理医が務まらないれっきとした理由がある。
「院長って、小児科じゃなかったでしたっけ?」
俺は外科医で、救急の当直。
「あ、そうか。そもそも無理だった。ごめん、ようじ君。無理そう」院長が顔の前で手を合わせる。
「先生役に立たないな」ようじがあきれたように言う。
院長にそんな口を叩けるのはお前くらいのもんだよ。
ナースやコメディカルが顔筋をひきつらせながらこちらをちらちらと伺っている。
「あの、院長も総会に?」と言いつつ詰所の外へ。これ以上謂われなき非難の視線を浴びていたくない。
裏口から出て、救急車の邪魔にならない場所に移動した。
雨はまだぽつぽつと。
「話ってのは?」ようじに言う。壁にもたれかかる。「手短に済むんならだが」
院長は気を遣って席を外してくれた。本当に当直を代わるという申し出だけのためにわざわざ来てくれていたらしい。
「明日は休み? 当直明けか」ようじが言う。「ちょうどいいや。一緒に来てほしいところがあるんだ」
「どこだよ」
ようじがケータイ画面を見せる。
そこは、
俺が。
ようじのニセモノと初めて会ったあの施設だった。