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全8話。毎日2話ずつ投稿します。
「じゃあ行ってくるね、大雅! 食費と、こっちは非常用。本当に必要な時にだけ、使うんだよ? 杏、お兄ちゃんの言う事ちゃんと聞いてね!」
8月のとある早朝、都内の端っこにある住宅街に建つ、いささかくたびれた賃貸マンション。
その3階に住居を構える、立花家の玄関先で。
淡いグレーの夏用スーツをぴしっと身に着けた立花遥は、2つの封筒を小学生の息子に渡しながら、娘もまとめてギュッとハグした。
「明日になったら、楓お姉ちゃんが来てくれるから! 今夜だけ、戸締りとか気をつけるんだよ?」
『楓お姉ちゃん』とは、別居中の夫の妹。
元々遥とは親友同士で、子供達とも気の置けない間柄だ。
「はいはい、分かったから! ほらもう出ないと、新幹線乗り遅れるぞ?」
クールに返す、アイドル予備軍のような整った顔の兄と。
「あん、ちゃんとお留守番するよ? ママもお仕事頑張ってね?」
カラフルなヘアゴムでまとめた、ツインテールの髪を揺らして、潤んだ瞳できゅるんと見上げて来る妹。
「うっ――2人共、まじ天使! 1週間も離れ離れなんて、ママつらたんっ!
毎晩7時台に、お兄ちゃんのキッズフォンに電話するからね!
冷蔵庫に常備菜と、冷食も買っといたから、今日はそれで間に合わせて?
あとは部屋の中でも、熱中症には気を付けるんだよ! 夜もちゃんとエアコンを……」
あれこれ注意事項を伝える母親を遮ったのは、スマホがピロリンと表示した『新幹線発車30分前』の通知。
「やっば――行ってきます!」
慌てて玄関を飛び出して、『入院した同僚の代理で急遽決まった、1週間の関西出張』に。
キャリーバッグを引きずりながら、ダッシュで出かける母。
「「いってらっしゃーい!」」
と口を揃えて見送ってから、やれやれと兄はため息を吐き、妹はにんまり口角を上げた。
「母さんがいなくても、『午前中は宿題タイム。食事は3食バランス良く』で行くからな!」
兄の小学5年生の大雅(11歳)が、少し癖のある茶色の前髪をかき上げながら、今後の予定を発表すると。
「えーっ! せっかくの夏休みだし、もっと自由をまんきつしようよー!
明日からは楓ちゃんが来るし。何しても怒られないの、今日だけなんだよっ?」
小学3年生の妹、杏(9歳)が、ぷくーっと頬を膨らます。
「お願いっ、お兄ちゃん!」
両手を合わせて首を傾げる、可愛い妹に
「ったく……今日だけだぞ?」
わくわくする内心を隠して、しぶしぶと許可を出す兄。
そんなお気楽兄妹はわずか1時間後に、己らの無力さを思い知る事になる。
「朝からポテチ、さいこーっ!」
「今日だけ、だからな! 明日からはきちんと宿題を――あっペプシ、もうカラだ」
リビングのソファに転がって、スナック菓子をつまみながら、録画しておいた今期話題のアニメを見る――という『自由』を、全力で満喫中の兄と妹。
「お兄ちゃん、リンゴジュースもお願い!」
「わかった――!」
空のペットボトルを手に、キッチンに向かった大雅。
その直後
「何だこれーっ!」
兄の絶叫が、3LDKの室内に響いた。
「お兄ちゃん? どーしたの!?」
もしや『G』で始まる、あの黒い生き物が?
恐る恐るキッチンを覗いた杏が、兄の背中に声をかける。
返って来た返事は
「壊れた」
「えっ? 壊れたって――うわっ!」
足を踏み入れたキッチンの床は、水浸しだった。
「この水なにぃ!? どっから来たの?」
「冷凍庫」
短く答えてから、くるりと振り向く大雅。
父親似のきりっとした眉をしかめて、
「冷蔵庫が壊れて、冷凍庫から水が溢れてるんだ」
噛み締めるように、妹に伝えた。