自分探し
昔、自分探しの旅に出たことがある。
自分の将来を考えた時、自分がどういう方向に進んで行ったら良いのかわからず、自分というものを一度しっかりと見つめ直したいと思ったのだ。
僕は世界中を旅して、自分というものを必死に探した。
自分というものはなかなか見つからなかったが、僕は自分というものを見つけることを決してあきらめなかった。来る日も来る日も世界中を歩き回り、走り回り、駆けずり回って自分というものを探した。
そして僕はとうとう本当に自分というものを見つけてしまった。
そいつは僕と容姿も背丈も声色もすべて同じだった。一瞬、鏡ではないか?とも思ったが、僕が右手を上げると、そいつも右手を上げた。もし鏡だったら、僕が右手を上げたら左手を上げるはずだ。
他にも、50m走のタイムを計ったら、コンマ何秒に至るまで僕とそいつはまったく同じタイムだったし、トイレに行きたくなるタイミングなんかもまったく同じだった。現実には考えられない出来事だが、そいつは間違いなく自分なのだ。
見つけた瞬間はとにかく驚いた。自分の目の前に自分がいるというのは、とても奇妙な光景だった。でも、そいつは間違いなく自分だった。
その日から僕は自分と共同生活をすることになった。何をするにも、どこへ行くにも自分と一緒だった。
常に自分が横にいるというのは、結構うっとうしいものだった。
自分のしぐさや体臭が父親に似てきたことに気づかされ、げんなりすることもあった。
それだけではなく、嬉しいことがあっても、横でフンフン鼻歌とか歌われると、能天気な奴だなぁと思って、嬉しさが冷めてしまったりもした。
そのかわり、物凄く腹立たしいことがあっても、横でプリプリ怒っていると、馬鹿らしくなって、怒りが冷めてしまったりもした。
悲しいことがあっても、横でシクシク泣かれると、逆にしっかりしなくちゃと思うし、おもしろいことがあっても、横でゲラゲラ笑われると、そこまでおもしろくもないよなぁと思ってしまう。
そうやって見ていくと、結局プラスマイナスゼロのような気がするが、自分というものを客観的に見ることによって、自分を律することができているようにも思える。さらに言えば、危険な道を歩く時など、自分を先に行かせて様子を見るということだってできる。そういう意味では、僕は自分というものを見つけて本当に良かったと思う。
ただ、自分を見つけて間がなかった頃は、それでも自分は自分だという思いがあったが、常に自分が横にいると、段々本当の自分がどっちなのかわからなくなってくる。
自分探しの旅に出た自分が本当の自分であって、自分探しの旅に出てから発見した自分というものは、どちらかと言えば第二の自分と呼ぶべき存在だと思うのだが、それはこっちが勝手にそう思っているだけで、第二の自分の方はむしろこっちのことを第二の自分だと思っているのかもしれない。と言うか、自分は自分探しの旅に出て、第二の自分を発見したと思っているが、第二の自分の方も自分探しの旅に出て、こっちを発見したのかもしれない。そうなれば当然こっちのことを第二の自分だと思っているわけで、自分こそ本当の自分だと思っているのに違いない。でも、こっちはこっちで、こっちこそ本当の自分だと言いたい気持ちはあるのだが、それを立証する手立てが何もない。
結局、自分と自分の横にいる自分と、どっちが本当の自分なのか、自分でもわからないという状態になってしまう。
横にいる自分を見て、父親に似てきたなぁ、と思っている自分と、そう思われている方の自分とでは、どちらが本当の自分なのだろうか?
嬉しいことがあって、フンフン鼻歌を歌っている自分と、それを見て、能天気な奴と思っている自分とでは、どちらが本当の自分なのだろうか?
物凄く腹立たしいことがあって、プリプリ怒っている自分と、それを見て、馬鹿らしいと思っている自分とでは、どちらが本当の自分なのだろうか?
悲しいことがあって、シクシク泣いている自分と、それを見て、しっかりしなくちゃと思っている自分とでは、どちらが本当の自分なのだろうか?
おもしろいことがあって、ゲラゲラ笑っている自分と、それを見て、そこまでおもしろくもないよなぁと思っている自分とでは、どちらが本当の自分なのだろうか?
自分では、自分こそ本当の自分だと思いたいという気持ちは持っているが、結局よくわからない。
今、この文章を書いている自分も、自分こそ自分だと思ってはいるが、横にいる自分を見ると、やっぱり違うかもしれないなぁと思ってしまう。
横にいて同じように何やら文章を書いている自分は、どう思っているのだろうか?そして、どんな文章を書いているのだろうか?
僕よりもおもしろい文章を書いていたとしたら……ちょっと嫌だなぁ。
-終わり-