さあ、新しい顔だよ
作蔵は寝床で窓越しに空高く昇る月を仰いでいた。歯を噛み合わせて足裏を擦り、ふう、と、呼吸をする。
昼飯食ったあとおもいっきり寝ちまった所為ではない。寒すぎて、寝れない。作蔵はとうとう布団から出る。そして、枕元に置いていた袢纏を羽織る。
床に就くより暖かいと、作蔵は真冬の深夜に起床したーー。
***
早朝の陽光が眩しいのは構わない。腹立たしいのは、我が中で蠢く焦り。
「畜生」
作蔵は台所で悔しがった。昨晩中途半端に起きたことで、今朝は空腹が倍増されている。直ぐに腹を満たしたいところだがその壁は余りにも分厚く高い。
伊和奈が帰っていなかった。その所為もあって、今朝は何一つ食事が用意されていなかった。炊飯器、鍋の中は昨日の夕食で食い尽して空っぽ。
ここで自炊をすればいいだろうと言いたいところだが、作蔵はその行動に於いて伊和奈より禁止を言い渡されていた。
それは、伊和奈が外出したのがきっかけだった。
ひとり自宅にいる作蔵は、昼食に焼きそばを食べることにした。材料は焼きそばの麺、キャベツ、もやし、豚肉のこま切れ。それらを熱したフライパンで炒めて調理する。
しかし、作蔵はその過程をぶち壊した。
素手で切り裂いたキャベツ一玉、もやし三袋と豚肉のこま切れ五百グラム。家庭用のフライパンの大きさで炒めるとなれば、大体は想像がつくだろう。
恐ろしいことに、作蔵はやってのけた。
具材はフライパンから溢れ、ガスコンロの周りに散布。それでも作蔵は袋麺を三袋投入して、調理を続行。仕上げに粉末ソースをからませ、完成させた。そして、味が薄いのに不満を覚えた作蔵は醤油と塩を間なしで加える。当然、舌が痺れるほどしょっぱい。
しかし、作蔵は食べることを諦めなかった。
説明するにもうんざりするが、作蔵は鍋で焼きそばの味を薄める。そう、お湯でだ。
例えるならば、ちゃんぽん。
もう、見た目と味にけちをつけられない。腹を満たすことを優先した作蔵は食べて、気を失った。とてつもなく、不味かったからだ。さらに追い打ちにと、帰宅した伊和奈に喧しく怒られる。買い置きしていた食材を無駄に使われ、惨状と化された台所に伊和奈は激昂した。以来、伊和奈は作蔵に調理禁止をした。そして、外出の際には作蔵に食べさせる食事を用意するで、事故防止の対策を執るのであった。
「……。だったよな」
食に関しては、一般人の二桁は軽くある作蔵にとっては辛い経緯だった。伊和奈からの決まり事を破れない、かといってご飯が食べられないのは最大の苦痛。何か手立てはないかと、作蔵は腹の虫を鳴らせながら頭の中を振り絞って考えた。
食事を作るはできないが、湯を沸かすは止められていない。作蔵はその考えに辿り着く。やかんに水道水を注ぎ、ガスコンロを点火させる。やかんの注ぎ口よりしゅんしゅんと、噴く湯気。そして、湯呑で湯を飲む。
腹は空いているが、身体は温まる。伊和奈が帰ってくるまでの辛抱だ。作蔵はポットに湯を注ぎ、蓋をすると取っ手を持つ。向かった先は四畳半。ポットを炬燵の台の上に乗せて、炬燵布団の中に足を伸ばす。
作蔵は、天井を見上げる。物事の順番を間違った。どうして先に伊和奈を考えなかった。昨日は市松人形たちに翻弄して疲労の余りに就寝した。今朝はといえば、腹を空かすが思考を撹拌させた。
伊和奈、何故だ。何故、帰ってきてない。
「畜生」
作蔵は起床して、間を置いてだったが二度目の悔しがりをする。拳を叩こうと、炬燵の台に振り上げるがぴたりと動きを止める。置きっぱなしの、伊和奈が残していた作蔵に宛てた書き置きが目にとまる。手にすると、二枚重ねになっていたことに気付く。
〔一応、わたしが帰ってこない場合に。次の日以降の食事は緊急用で凌いで。流し台の上の棚の中にあるから、でも一気に食べ尽すはしないでよ。でないと、作蔵。あんた本当に干からびてしまうよ〕
読んだ作蔵は呆然となった。なんだ、この意味ありげな文面は。いや、伊和奈は……。
「……。飯」
作蔵は台所に行った。そして、棚の扉を開く。
【あっという間に鳥さんラーメン】
作蔵は即席食品を掴み、どんぶりと箸、蓋にする皿を抱えて四畳半に戻る。それから三分後、ずるずると麺を啜って、汁まで飲み干す。
「はあ、ごちそうさまでしたっ」
空になったどんぶりに箸を置き、ぱんと、手を合わせて食事に於いて感謝の意を表すーー。
***
空腹の危機は回避された。だが、払拭されない事実がある。今日の昼間になっても、伊和奈が帰宅していない。
作蔵は掃除に洗濯と、食事をこさえる以外の家事をこなしながら、伊和奈の帰りを待っていた。
あの書き置きは、伊和奈の悪戯ではない。伊和奈を監視するはしない、疑念も同じく。
冬の気候は日中が勝負だ。晴天であったにもかかわらず、庭で物干し竿に吊るしていた洗濯物が生乾きで腹立たしい。作蔵はカーテンのレーンを竿代わりにして、ハンガーのクリップを掛ける。
伊和奈、どうした。おまえの中で、何があったのだ。
日没の空に浮かぶ、満月の色が悍ましい。血飛沫で染められているような月を窓越しで見上げる作蔵は身震いしながら伊和奈のことを考えた。
ところが。
ーー作蔵、何処にいる。
ーー作ちゃん、もう怒ってないから出ておいで。
おい。
作蔵は眉を吊り上げた。そう、屋外から聞こえる切羽詰まった呼び掛けにだ。
半纏を羽織り、玄関で下駄箱から桐の二枚歯下駄を取り出して履いて、向かった先はーー。
「あ、作蔵さん。違います、違います。あなたのことではありません」
黒の短髪、猟虎に似た顔立ちの青年が、般若の面のような顔をしている作蔵に睨まれて怯えた。
「あなた、無理もないわ。だって、私たちの家で飼っているポメラニアンが作蔵さんと同じ名前だから、作蔵さんがびっくりしてしまった。ごめんなさい、作蔵さん。さあ、あなた。作ちゃんを早く見つけましょう」
青年の傍に、泣き顔の女性がいた。優しそうな声色、ベージュのジャンバースカート。肩からすっぽりと巻き付くフェルト生地の赤いストール、ピンクのセーター。
「奥さん、身重でこんな寒空の下では駄目ですよ」
作蔵は女性の膨らむお腹と足に履く平底のブーツを見て言う。すると女性は「はい」と返事をしてお腹を擦り、翻した。
「で、お宅の『作』はなんでいなくなったのだ」
作蔵は、女性の後ろ姿が遠くなったところで青年に切り出す。
「些細なことです。うちの『作』は、カミさんが縫ったぬいぐるみをかじって遊んで綻ばせてしまった。家の部屋床いっぱい、摘めていた綿を撒き散らせるほどでした。見たカミさんは茫然としていました。僕は作に喧しく言った。カミさんは、洗濯物を取り込んでいたから窓を開けていた。隙間から、作は飛び出すように逃げたのです」
「……。だんな、あんたも家に帰れ。お宅の『作』は俺が必ず連れて帰って来てやる」
作蔵は翻して「かたん」と下駄を鳴らしたーー。




