実〈前編〉
時の刻みの歪み。秋名井紅葉が語った、霜月家にまつわる出来事。そして、奇妙で怪奇な現象。
物語りは、史。作蔵の“今”に、危険が迫っていたーー。
***
ーーうふふ、かくれんぼ。おじさま、かくれんぼして……。
霜月家に踏み込んで幾多の“渾”を判断した。みえない“象り”は、子ども。無邪気な誘いに乗るわけにはいかない。
「ーーーーっ」
作蔵は声を発する気力を失っていた。左頬に張り付く、冷たい板張りの感触。寒さで悴む指先、突っ張る脚の痛みを、作蔵は声で表せなかった。
ところがーー。
「瑠璃様、悪戯にも程があります。もう、限界です。いえ、あなたへの躾を今まで甘くしていた責任は、秋名井紅葉。すなわち、わたし自身にあります。あなたは罰を、罰をわたしと受けなさい」
ーー待って、紅葉。ああ、どうしよう……。
「瑠璃様、何を困られているのですか。時の刻みの向こうからお越しになられた作蔵さんにあなたが何をされたかは、わたしがしっかりと見ていました。さあ、覚悟をなさってくださいっ」
ーーうっ、うっ。こわい、紅葉、こわい……。こわい、こわい、こわい……。
荒々しくいきり立っている呼び掛けと怯える受け答え。
作蔵の、目蓋が閉じられる瞬間に耳を澄ませていた“声”だったーー。
***
作蔵は、目を覚ました。あたたかいと、微睡んだ。
「……。ふう」
布団と炭の薫りがする暖のぬくもりが心地良い。それにしても、此処にはどうやって……。
作蔵はうつ伏せに寝返りをした。そして「くっ」と、枕に左頬をつけると襖が開く音が聞こえた。
「よかった、動けるのですね」
襖の隙間で、秋名井紅葉が呼びかける。そして、襖は直ぐに閉められた。
「おいおい」と、作蔵は苦笑いをしながら掛布団を脚に被せたままで起き上がった。
「まだ寒いのであれば、火鉢の火をもっと焚かしましょうか」
「いえ、十分です」
秋名井紅葉は、作蔵がいる六畳一間に湯呑を乗せた盆を抱えて戻ってきた。
「甘酒です。身体があたたまりますよ」
「え」
「どうされたのですか」
秋名井紅葉は驚きのさまをする作蔵に訊く。
「子供の頃、食卓に出された瓜の漬物を食べたらほわん、と、した感覚のあとに卒倒した。今おもえば、酔いだった。それ以来『酒』とつくものが……。」
「酒といっても米麹ですので酔う心配はありませんよ」
笑いを堪える秋名井紅葉に、作蔵は耳まで真っ赤になっていたーー。
***
今度こそ。と、作蔵は屋敷の廊下を歩いた。今一度“見えない相手”に会うを決めた。
──作蔵さん、おひとりで廊下を歩くのは危険です。
──同じ手に引っ掛かるはしない。そういれば『屋敷のご令嬢は目を覚まさない』だったよな。
──え、ええ。……。ですが、わたしは何度も瑠璃様のお声を聞いております。貴方に悪さをしたのは、瑠璃様であると……。
──其処まで聞ければ十分だ。
秋名井紅葉を振り切るに手間取ったが、真の“依頼主”に会う手掛かりは揃った。
作蔵は、前掛けのポケットに手を添える。
これが切り札だ。作蔵は「がさり」と、紙が擦れる音をたてる。
ーーふぅん。おじさま、結構強かったのね。
作蔵は声を聴いて、歩くを止める。
「どういうことかな」と、作蔵は訊く。
ーー『お兄さん』には“通せんぼ”をやめるよ。
作蔵は目付きを細く、鋭くした。
耳を澄ませると、板張りの廊下に毬をついて跳ねる音が聞こえてきた。
わたしの手毬はよく跳ねる。
ついて、つく。
跳ねて、跳ねる。
わたしの手のなかに戻ってくる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
どこにいるのかわからない。
手鞠をついてかえり道がわからない。
うしろをみたらお手玉が落ちていた。
手鞠をつくのをやめてお手玉をひろう。
よっつ、いつつひろってもお家は見えない。
通せんぼで道がわからない。
毬が跳ねる音に交ざる少女の歌声だった。
ほぼ真っ暗な廊下の空間にひとつ、ふたつ。粒状で眩しいかとおもえば淡雪がとけるような瞬きの灯が照らされた。
ーー『お兄さん』ついてきて。
少女のか細い声に「ああ」と、作蔵は返事をした。




