5.お風呂場にて
「大した怪我ではありませんよ。骨にひびなどもありませんし、すでに血も止まっています。
初めは痛みがあり歩きにくそうにするかもしれませんが、すぐに良くなるでしょう」
動物病院に猫を連れて行った勇気と愛は、お医者さんにそう言われた。お医者さんは眼鏡をかけた若い男性で優しそうな雰囲気だ。
よかったと胸を撫で下ろしながら、愛は質問をする。
「この子、お風呂で洗ってあげたいんですけど、それも大丈夫そうですか?」
「ええ。むしろ傷口にばい菌が入ると大変です。消毒もしておきましたが、よく洗ってあげるといいでしょう。
ただ傷口にしみると嫌がるでしょうから、なるべく水道水ではなく生理食塩水で洗い流してあげるのがおすすめです。消毒液と合わせてうちで処方しましょう」
お医者さんはそこで一呼吸置くと、何か考え込むように右手を顎にやる仕草をした。
「ひとつだけ気になるのは、この怪我は殴ったり蹴られたり、どこかにぶつけたりしてできた打撲痕ではないということです。
そうではなく、これは何かで撃たれたような傷跡です。……たとえばエアガンか何かで」
「エアガン、ですか……。それは子供の悪戯ということで……?」
「そうとも限りませんね。大人でもエアガンを嗜まれる方はいますし、そこまでは私も判断しかねます」
勇気の質問にお医者さんは冷静に答える。犯人は子供か大人か、断言できないのは当然のことだろう。
エアガンで撃たれたというだけでは判断のしようがない。しかし、勇気はおそらく子供だろうと思った。
何故ならダンボール箱に書かれていた『たすけてください』という拙い文字は子供のもののように感じられたからだ。
その子供はおそらくちょっとした悪戯のつもりで、この猫にエアガンを撃ち怪我をさせてしまい、どうしていいか分からずダンボール箱にその猫を入れて見知らぬ誰かの助けに期待したのだ。
そうなると、この猫はそもそも飼い猫ではないのかもしれない。いくら怪我をさせてしまったからとしても、それだけの理由で飼い猫を捨てたりはしないだろう。
そんなことをすれば親にこっぴどく叱られてしまうだけだ。つまりこの猫は元々野良猫で通りすがりの子供にエアガンで撃たれたのだ。少なくとも勇気はそう判断した。
「分かりました。本日はどうもありがとうございました」
「いえいえ、また何かありましたらすぐに来てください。大丈夫だとは思いますが、これから傷口が化膿するようなこともあり得ますから」
勇気と愛はお医者さんにお礼を言うと、受付を済ませて処方された生理食塩水と消毒液を手に動物病院をあとにした。背伸びをしながら愛が言う。
「んー、とりあえずまた勇気くんの家寄ってっていい? 私が連れて帰ってあげたいけど、私のお父さん、猫アレルギーだしさ。
勇気くんの家のお風呂で洗ってあげて、そのあとのことはまた考えよう」
「そうだね、このまま元の場所に帰すってわけにもいかないし、飼い主を探すことも考えないとね。
できればうちで飼えればいいんだけど……」
「お爺様が反対するんじゃない?」
「なんだかんだ飼うこと自体には反対しないと思うよ。子猫を見捨てるなんてことはないだろうから。
ただ道場の掛け軸やら柱やらに傷をつけられると困るから何か対策は考えないといけなくなるね……。
まあ、そのあたりの話はあとにしよう。とりあえず行こうか」
空はすでにうす暗い。愛が家路につく頃にはもっと暗くなっているだろう。
普段通りなら愛のお父さんかお母さんが車で道場まで迎えに来るが、今日は帰りがいつになるか分からないとすでに連絡済みらしい。
いっそのこと自分が一緒に歩いて家まで送ったほうがいいかもしれない。勇気がそう思いながら歩いているうちに、勇気の家へとついた。
玄関の引き戸を開けると、待ち構えていたのか勇気の母の真実が居間から顔を出した。
「お帰りなさい、勇気、愛ちゃん。その子の怪我はどうだった?」
「ただいま、母さん。別に怪我は大したことないってさ」
「ただちょっときれいにしてあげたいのでお風呂場借りていいですか?」
「もちろんいいわよ。ご飯はそのあとにする?」
「はい!」
「……あ、今日も食べていくつもりなんだ」
「当たり前じゃん。せっかくおばさまが多めに料理作ってくれてるんだから」
結局のところいつものような感じだ。少し違うのは道場のほうから賑やかな稽古の音が聞こえてくるというところだろうか。
それなのに自分たちが住家のほうにいるというのはなんとも不思議な感じだ。
途中からでも稽古に参加するという選択肢もあるのだろうが、今日のところはこの猫のことに集中すべきだろう。ひとまずお風呂場へと連れていく。
「きれいなタオル、ここに置いておくわよ。これで拭いてあげなさい」
「ありがとう、母さん。あとは俺たちだけで大丈夫だよ」
「あら、そう?」と言いながらも真実はお風呂場から離れようとしない。心配なのか、勇気と愛のふたりにちょっかいをかけたいのか、どちらかと言えば後者だろうか。
その証拠に真実は突然突拍子もないことを言い出した。
「それにしても、こうしていると思い出すわね。ちょっと前まではあなたたちも一緒にお風呂に入っていたのよねえ……」
「……ぶっ! いつの話ですか、おばさま! そーとー昔ですよ、それ!
もういいですから、さっさと出てってください!」
「あらあら、ほんの少し前のことだったような気がするのだけど……」とつぶやきながら、ようやく真実は姿を消した。
しかし、そんな言葉を残されていくと、思春期の愛としてはなんとなく気まずい。
そ、そうだよね、私たちってお互いの裸見たことあるんだよね……。ぜんっぜん覚えてないけど……。
え、いつまで一緒にお風呂入ってたっけ。さすがに小学校の低学年くらいまでだったよね……?
うわー、意識するとなんか急に恥ずかしくなってきた……。っていうか、ここお風呂場だし……。
服は着ててもふたりきりでいるってだけでもなんか緊張するって言うか照れ臭いって言うか……。
これならまだおばさまがいてくれたほうが良かったような……。いやいや、でもまたなんか急に変なこと言い出しそうだし……。
ゆ、勇気くんは今のおばさまの発言、どう思ってるのかな……? 勇気くんも多分意識しちゃってるよね!? 今どんな顔してるのかな、勇気くん!?
「うーん、シャンプーって人間用のでいいのかな……? というか、今はそれしかないか。
愛ちゃん、悪いけど、そっちのシャンプー取ってもらえる?」
「あ、はい」
愛の想いとは裏腹に勇気はまったくもって平常運転だった。照れ臭そうにしている様子はまったくない。
愛はおそらく真っ赤になっているであろう顔を見られたくなくて、そして自分だけが意識しているのが悔しくて、片手でシャンプーを渡しつつ、頬を膨らませながらぷいっとそっぽを向いた。
「え、なに。何怒ってんの、愛ちゃん」
「怒ってないよッ!!!」
「怒ってんじゃん……」
鈍感な勇気に愛はかっとなって怒鳴りつける。
それにしたってちょっとくらいは意識してくれてもいいじゃんか。私ら年頃の男女だよ? 勇気くんの馬鹿……。
勇気はそんな風にむくれる愛を無視して猫を洗い続ける。
「にしても、この子おとなしいね。全然嫌がる素振りもないよ。洗うのも楽でいいや。
……うん、これくらいでいいかな。愛ちゃん、シャワー出してくれるかな?」
「はい、どうぞ!!」
そう言いながら愛はシャワーヘッドを勇気に向けると、独楽回しの如く水のハンドルを勢いよく回した。
「わぷっ!? こ、こっちに向けるんじゃないよ、愛ちゃん!?」
「あれ!? 勇気くんがシャワー浴びたいってことじゃなかった!?」
「違うよ!? 猫のシャンプーを洗い流すんだよ!? さっきからどうしたのさ、愛ちゃん!!」
そうして勇気は訳も分からぬまま愛に水を浴びせかけられ、ずぶ濡れになってしまうのだった……。
女心の分からぬ勇気が悪いのか、勢い任せに突っ走る愛が悪いのか、はたして……。