番外編「幕間2.5」
「ふわぁああぁあ、来週から期末テストかよ。マジだりぃな。
なんにも勉強してねえ」
大きな欠伸とともにそう独り言ちたのは、2年B組の学力テスト最下位常連の星野希望である。
中間テストで平均点が73点だった国語の点数が17点だったのはもはやクラスの伝説だ。
緋色勇気はやれやれといった様子で、そんなふざけた男のぼやきに応えた。
「お前な……、それ勉強してないアピールじゃなくて、本当に何も勉強してないやつだろ。
毎回散々な結果なんだから、少しはやる気を出したらどうだ?」
「中学はどれだけ成績が悪くても進級できるんだから、別によくねえ?
高校生になったら本気出す。それが短い青春を謳歌するコツってもんだぜ」
「私も人のこと言えるほどの成績じゃないけどさ、なんの準備運動もなしにいきなり本気なんか出せないでしょ」
ふたりの会話に割って入ったのは佐藤愛だ。
期末テストは一夜漬けで乗り切るつもりらしいが、彼女は希望よりは真面目に授業を聞いているし、宿題の提出を欠かしたことはない。
それで平均点くらいは取れているので、地頭はそれほど悪くはないのだろう。尤もそれは一夜漬けのヤマを外さなければの話だが……。
「ねえ、ちょっと今いいかしら? 訊きたいことがあるんだけど」
そんな中、眼鏡を掛け直しながらそう言って近づいてきたのは、愛の友人である小宅知恵だ。
彼女のほうから愛に話しかけてくるのは、共通の趣味であるオタク話であることが多い。
「なぁに、知恵? 昨日のアニメの話?
異世界プリンスはネット配信で追ってるからまだ観てないー」
「あ、違う違う。あんたじゃなくて河合さんに訊いてるの。
数学のことでちょっと分からないことがあって」
河合可恋は急に話を振られて戸惑った。
知恵はあくまで愛の友人というだけで、可恋とはそれほど親しいというわけではない。
「えっと、私そんなに説明上手くないし、訊かれても答えられるかどうか……」
「別にいいのよ。先生が朝礼に来るまでの時間を無駄にしたくないだけだから。
河合さんが上手く答えられないことなら先生に訊くから」
可恋の席の前に陣取った知恵は数学の教科書を開きながらそう言った。
可恋もそんな頼みを断り切れる性格ではない。仕方なく知恵が指差す教科書の記述に目を向けた。
「ここの公式の意味なんだけど……、どうしてこれがこうなって……」
「ああ、それは……、こっちの公式を当てはめて……」
「ふむふむ、……なるほど! そういうことだったのね。
河合さん、教え方上手いじゃない。よく分かったわ、ありがとう」
「どういたしまして」
そんなやり取りを見ながら愛はぽかんと口を開けている。
ふたりの会話に耳を澄ましていたが、話の内容についていけていなかった。
知恵も十分に理解をしたうえで、ふとした疑問を可恋に訊ねてみたという風だった。元々ふたりとも勉強はできるのだ。
「知恵、普通に勉強できるのに、それ以上勉強してどうするの?
進学校にでも行くつもりなの?」
「そんなんじゃないわよ。ただオタクで眼鏡でその上馬鹿だったら救いようがないじゃない!
せめて中学の勉強くらいは完璧にしておかないと」
「眼鏡が嫌ならコンタクトにすれば」
「そういう問題じゃないわよ! それに眼鏡キャラが簡単に眼鏡を外すなんて許せないわ!」
「それ自分自身にも適用されるんだ……」
正直なところ、愛には知恵の言うことはよく分からなかったが、周りを見れば希望以外はみんな勉強ができる組だ。
可恋も勇気も知恵もみんな学力テストの上位組だ。それにまだ席についていないが、正義だって授業の様子を見ればテストの成績もいいだろうことは予想がつく。
「まあカテゴライズすると、私は希望組ってことか……。
確かにそれは救いようがないな……」
「おい、俺のほうを見て言うな」と希望は突っ込んだが、その周囲にいた誰もが希望を憐れむような目で見つめていた。
希望に勉強ができないのは成績を見れば分かる事実なのだから、誰もそれを否定することはできなかった。
勇気は話題を転換するように疑問を口にした。
「そう言えば、正義くんは? まだ学校に来てないのか?
そろそろ朝礼の時間だぞ」
「正義くんならサッカーの練習してたよ。
学校入るとき校庭のほう見てなかったの、勇気くん?」
「ああ、朝から運動してる生徒がいるなと思ったけど、あれサッカー部の朝練だったのか」
テストの直前であっても運動部に休みはあまりない。夏の大会も近いからだ。
勇気が愛の回答に勇気が納得すると同時に、朝練を終えた正義が教室に入ってきた。
咄嗟に愛はクラス中に響き渡るような大声で「おはよう!!」と挨拶したが、正義は「朝からうるせえな」と言わんばかりに耳を塞ぎながら自分の席へとついた。
その日の放課後、可恋の姿は図書室にあった。
愛と勇気が道場の活動日で早く帰ってしまって暇だったというのもあるが、テスト勉強が大詰めだというのが一番の理由だ。
教科書とノートを図書室の机に広げながら真剣な表情で問題を解き進めていく。
周囲にも同じようにテスト勉強をしている生徒が何人かいたが、みんな私語を慎んで静寂な空間を保っていた。
だが、突然可恋の視界が真っ暗になり、心臓がどきりと跳ねた。誰かがうしろに立って可恋の両目を手で塞いでいるのだ。
そして悪戯っぽい声で「だーれだ?」と訊ねてくる。可恋にそんなことをする人物はひとりしか思い当たらない。しかし――、
「あ、愛ちゃん……? え、誰……?」
そう、そんなはずはない。愛はすでに下校しているはずなのだから。
それにその手の感触だって声色だって、他の人と間違えるはずもない。
女の子の声であるのには違いない。しかし知恵にしても、可恋に対してこんな悪戯はしないだろう。
そうなると心当たりは他に全くなかった。
「ぶっぶー、はずれでーす!
正解はー、どぅるどぅるどぅるどぅる……、じゃじゃーん! 星野夢ちゃんでしたー!!」
「ええっ!?」
可恋は思わず大きな声を上げてしまう。その正解発表と同時に手がどけられて視界が開けたが、周囲の視線が集まっていることに気付いて口を噤んだ。
しかし夢と言えば希望の妹だが、一昨日のプラモデル騒動のときに一度顔を合わせただけの関係だ。
彼女はそんな相手にこういう悪戯を仕掛けるような子だったのか。礼儀正しく真面目な印象を受けていたので意外だった。
「可恋先輩、ここ図書室なんですから、そんな大声出したら駄目ですよ」
「ご、ごめんなさい……。って私の名前……? 名乗ったっけ……?」
正解発表のときの声量も言うほど小さくはなかったが、夢は完全に自分を棚上げしてとぼけてみせた。
そんなことより可恋は夢に自分の名前が知られていることのほうが気になり、そのまま疑問を口にした。
「そりゃあ、先輩の名前くらい知ってますよー。お兄ちゃんがいつも話してますもん。
背の小さくて髪の長いほうの女が可恋先輩だって。……でも小さいって聞いてましたけど、ある部分は結構大きいですね?
お兄ちゃん、あれでぺたんが好きだからなあ。ぼいんは要らないみたいです。よかったですね、お兄ちゃんに興味持たれてなくて」
「な、なんの話……?」
いや、夢がなんのことを言っているのかは分かるのだが、図書室のような静かな場所でそういう話をするのはやめて欲しい。
こういうデリカシーのないことを言うあたり、やはり夢も希望の妹なのだと思わされた。
「まあまあ、それは置いといて。テスト勉強ですか、可恋先輩。
いやいや、お兄ちゃんとは一生無縁の言葉ですね、テスト勉強。
夢もほどほどにしかやってませんけど」
「う、うん……」
だからせっかく集中していたのに邪魔をしないで欲しい、――なんて言えるほど親しい間柄でもなく、可恋は返答に困ってしまう。
それに彼女なりに親しみを持って話をしてくれているつもりなのだろう。その気持ちを無碍にすることもできなかった。
「あ、じゃあなんで図書室に来たんだって顔してます?
夢、こう見えて結構文学少女なんで。2学期は図書委員になろうかなって考えてるくらいです。
それで借りてた本を返しに来たら可恋先輩の姿が見えたんで、思わず声かけちゃいました」
「そ、そうなんだ……」
確かに読書が趣味というのは意外な感じがするが、訊いてもいないことを答えるのは果たして空気が読めるのか読めないのか。
少なくとも第一印象に反して、夢は意外と変わり者であるということを確信させられた。
その証拠に夢は先程から可恋が短い返答しかしていないにもかかわらず、ご機嫌そうに続けた。
「まあ、あんまり根詰めすぎると疲れちゃいますよ。
今度一緒に気晴らしにタピりに行きましょうよ、愛先輩も誘って。
あ、もちろん期末テストが終わってからでいいですよ? 夢、勉強の邪魔をするつもりは全然ないんで。
あとそれから近いうちにお弁当ご一緒していいですか? いつもお兄ちゃんたちと屋上で食べてるんですよね?
夢もいつも友達と食べてますけど、たまには先輩方との交流を深めるのもいいかなーって。
ほら、この前のプラモデルの件でのお詫びも改めてしたいですし。別にいいですよね?
お兄ちゃんにはあたしから言っておきますんで、可恋先輩は愛先輩や勇気先輩に確認してもらえます?
あー、それかアポなしで一回突撃しちゃおうかなー。屋上っていつも鍵開いてるんです?
そのままお昼に行けばいいんですよね? ね、可恋先輩?」
「う、うん……」
早口で捲し立てられて可恋は頷くだけで精一杯だった。あまりにも陽キャに絡まれる陰キャの図である。
しかも夢は一方的に喋っているだけなのに、どんどん笑顔になっていく。
楽しそうなのは結構だが、早く解放して欲しいというのが可恋の正直な気持ちだった。
ようやくその気持ちを察してくれたのか、はたまた単に喋り疲れたのか、夢はそこでようやく別れの言葉を口にした。
「それじゃまた今度よろしくお願いします。勉強、頑張ってくださいねー」
「ま、またね……」
やっと解放された。夢は嬉しそうに手を振りながら去っていった。
ほとんど黙って聞いていただけだが、なんだかどっと疲れてしまった。
勉強に集中し直そうという気持ちにもなれない。残りの問題は家でシャワーでも浴びてから片付けようか。
可恋は教科書にノート、それから筆記用具を鞄にしまって図書室をあとにした。
窓の外を見ればもう夕暮れ時だった。考えようによってはちょうどいいタイミングだったのかもしれない。
本当に集中力が持続していたのなら誰かに話しかけられても途切れることはなかっただろうし、確かに根詰め過ぎるのも逆効果だろう。
……夢と仲良くなれる気はしないが。とは言え、まあ別段嫌う理由もないような気もする。
というか、あの支離滅裂な言動は愛がたまにするそれと似ていると言えなくもないか……。
頭の中でぐるぐると回る夢の言葉に翻弄されながら、下駄箱で靴を履き替えて外に出ると、朝と同様に校庭でサッカー部が練習している姿が見えた。
その中にはもちろん、……と言うべきか、案外真面目にやっていると言うべきか、正義の姿もあった。
一瞥してそのまま帰ってもよかったのだが、その真剣な表情になんとなく見惚れてしまう。
彼のことは好きではない。父親の黒い噂云々を抜きにしても性格が合わない気がする。
だけれども、サッカーに情熱を注ぐその姿は、少しだけかっこいいと認めてもいいと思った。
そうして可恋がしばし固まっていると、やがてサッカーの練習は中断され、振り返った正義と目が合った。
この前正義がひとりでシュートを決めていたときと同じように「何見てんだ」と怒鳴られるかと思い身構えたが、正義は穏やかな表情のまま近付いてきて言った。
「どうしたんだ、お前? 帰宅部のくせに随分遅いじゃねえか」
「……そちらこそ、サッカーの練習中じゃなかったの?」
「ああん? 今ちょうど休憩に入ったところだよ。つーか、質問に質問で返すな」
「私は図書室でテスト勉強していたから。あなたはサッカーの練習で忙しそうね」
「まあな。大会も近いしな。
近いって言っても夏休みに入ってからだから一ヶ月以上あるし、転校してきたばかりの俺は補欠メンバーだろうけどな」
「そう。期末テストのほうは大丈夫なの?」
可恋がそう訊ねると正義は愚問だなと言いたげに肩をすくめた。
「進学校や特進クラスのテストならまだしも、普通科の中学のテストなんて毎日予習復習してりゃあ、テスト勉強なんか不要なんだよ。
テスト前になって慌てて勉強する奴はあれだな。計画性のない怠け者なんだよ。
……あ、お前はそうだったか。悪い、悪い」
お昼のお弁当も一緒に食べるようになり、少しは仲良くなったはずだが、正義の捻くれた物言いは相変わらずだった。
可恋は眉間に皺を寄せて応えた。
「少しは心を開いてもいいかと思ったけど……。ありがとう、ちゃんとイラッときたわ」
嫌い、……とまでは言わないが、やはり正義のことは好きになれそうにない。
それを再確認して可恋は苛つくと同時に安心した。彼と馴れ合いのような真似をしなくて済むからだ。
噂の真偽が未だ明らかではない以上、警戒を解くわけにもいかない。
正義が父親と同様に教育関係者への圧をかける力があり、正義と近付くことで愛が不幸になる可能性も0になったわけではないのだ。
正義は可恋がそんな心境であるとは露知らず、不思議そうに訊ねた。
「つーか、お前俺と話すときだけ、なんかキャラ違くねえ?
一体何目線で話してんだよ」
「さあね。おしりの右側のほうにほくろがあることを知ってる人目線かしら」
可恋が髪をかき上げながら意味深な声色でそう言うと、正義は顔をしかめて言った。
「は、はあ!? お前、なんでそんなことまで知ってんだよ!?
勇気たちに訊いたのか? いや、でも着替えのときでも尻まで出してねえし……。
ちょ、おま! 何そのまま帰ろうとしてんだ! おい、ちょっと待てよ! 説明していけ!!」
可恋は混乱している正義の声を無視して校門へと歩き出した。質問に答えてやる義理はない。
それよりもその反応からして、おばあちゃんが言っていた赤ん坊が"この"正義であることは間違いないのだろう。
今はそれだけ確認できれば十分だった。今後については様子を見ながら考えればいい。
少しでも彼に怪しいところがあれば、そのときは……。――どうするのだろう、私は。
そして月曜日。いよいよ期末テストが始まる。
可恋の席はうしろのほうなので教室全体が見渡せる。クラスメイトたちは皆一様に緊張した面持ちをしていた。
――いや、希望は相変わらず眠そうな顔をしてるだけか。右隣の愛にしても気楽そうな顔をしている。
勉強ができる組のほうが真剣な顔をしてるというのも皮肉なものだ。あれだけ大口を叩いた正義も今日は顔を引き締めていた。
期末テストは1日では終わらない。月曜日から金曜日まで5日間かけて計9科目のテストが行われる。
中間テストは国語、数学、英語、理科、社会の計5科目のみだが、期末テストには副教科の音楽、技術・家庭科、保健体育、美術の4科目が加わる。
最初のテストは数学だった。数学は可恋の得意科目だ。――いや、可恋に苦手な科目などない。
当然のようにすらすらとシャープペンシルを淀みなく走らせていく。
それは正義も同じだったが、わずかに可恋のほうが解答を埋めるのが早かった。
その分見直しに時間を割り当て、間違いがないかどうか確認していく。それは他の科目のテストでもすべてそうだった。
すべてのテストが終わった翌週の月曜日には成績とクラス順位の発表が行われることになる。
帰りの会に松永先生がその結果が書かれた成績表を、生徒一人一人を教壇の前へと出席番号順に呼んで渡していくのだ。
「えー、染五郎くん」
「はい」
染五郎と呼ばれた男子生徒、――藍沢染五郎は教壇の前に進み出た。
「えー、この場であえて成績は読み上げませんが、ま、もう少し頑張るように。
それでは次、鏡子くん」
先生が一言添えながら一人一人に成績表を渡していくと、出席番号8番の知恵の番となった。
「うむ、君は中間テストに引き続き、いい成績だった。これからもその調子で勉学に励みなさい」
「はい、ありがとうございます」
知恵はそう応えながら成績表に目を通すと、ほんの一瞬だけ驚いたような顔をした。
愛は遠くから人差し指を立てて「1位だった?」とジェスチャーで訊ねたが、知恵の指は3本立っていた。3位だったという意味だろう。
どうやら知恵は今回のテストに手応えがあったらしい。すると、先程驚いたのは自分より上の成績の者がふたりもいるとは思わなかったからだろう。
その次に呼ばれたのが出席番号9番の可恋である。正義はその姿を見ながら思った。
――ま、あいつは勉強できるみたいだしな。5位以内には入ってるか。1位は俺だろうけど。
そう、正義には自信があった。転校してきてすぐのテストなんてことは関係がない。
自己採点でもほとんど完璧に正答できたことが分かっている。いくつかの科目では100点を取っているかもしれない。
出来の悪かった科目でも90点以上は取れているはずだ。だからそう、誰にも負けるはずはない。そう思っていた。
だが、そんな自信は先生の一声であっさりと打ち破られた。
「えー、実に素晴らしい! 今回のクラス1位は君です、可恋くん。
さらに数学、英語、音楽、技術・家庭科は満点です。皆さん、可恋くんを模範とするように」
おおーっとクラス中から歓声が上がった。正義は自分の耳を疑った。
確かに授業中の様子からしても可恋の学力は高い。だが、自分が負けるほどだとは思わなかった。
可恋は自分の席に座る直前に、正義のほうに目をやった。正義は椅子に座っていたから見下ろす形となった。
そして、可恋は「ふっ」と勝ち誇るような笑みを浮かべて椅子に腰かけると、すぐに前を向いてしまった。
「おい、今こいつ鼻で笑ったぞ!? 見たか、お前ら!?」
「は? 可恋ちゃんがそんな人を見下すようなことするわけないじゃん」
「いや、お前も聞こえる距離だっただろ、デカ女! こいつお前が思ってるより性格悪いぞ!!?」
正義は必死に訴えかけたが、愛はその言葉に首を傾げるばかりだった。
それどころが大声で騒ぎ立てていたので先生に注意をされてしまった。そんな正義の成績はクラス2位であった。
ちなみに勇気は4位であり、愛は16位であった。今回も最下位が希望であったことは言うまでもない。
――それから。闇夜と静寂に包まれた花道邸にて、ノックの音が鳴り響いた。
それを受けて、中にいた男は扉の向こうの彼女を呼び入れた。
「入りたまえ」
「失礼致します」
その部屋はまるで書斎のように本棚が並べられており、奥には机と椅子が置かれている。
椅子の座面と背もたれには何やら豪華な刺繍が施されている。おそらくはオーダーメイドで作られたものなのだろう。
それはまるで玉座のようでもあり、そこに座れるというだけでも、その者は特別な存在なのだと感じさせられた。
そこに座る男、――いや、まだ高校生なのだが、貫禄溢れるその者の名は花道勝利といった。
対する女は幸田幸子、彼女は勝利の父である花道蔵之助に仕えるメイドであり、同じ屋敷に住みながら勝利と顔を合わせることはほとんどない正義の近況を伝えるスパイでもあった。
勝利は初め幸子に背を向けて座っていたが、椅子を回して正面から向き合うように座り直して訊ねた。
「本日の様子は? おそらく期末テストの結果が返ってくる頃合いかと思われるが」
「はい、本日成績と順位が記載された用紙を担任教師より手渡されたようで、こちらにございます。
それで、結果をお伝えする前に、ひとつ申し上げたいことがございます」
「なんだ? 言ってみろ」
「正義坊ちゃまの学業の成績は非常に優秀です。
それを素直にお受け止めなされてください」
「ふふ、これは異な事を。学力テストの点数という確かな数字が出るものに、ねじ曲げた解釈などできようはずもあるまい」
「……そうであれば、よろしいのですが。では、こちらを」
幸子は不安げに正義の期末テストの成績表を差し出した。本来クラス2位という成績なら誉められることはあっても貶められるようなことはないだろう。
だが、勝利は完璧な結果でなければ認めないことがある。
その評価が直接正義に伝えられることはないが、この男が不機嫌になれば何が起こるかは分からない。幸子はそれが不安だった。
「ふむ、9科目で900満点中876点でクラス2位か。なるほど、素晴らしいではないか。
この結果で何を気に病むことがある。これからもこの調子で励むように伝えておくがいい」
「……かしこまりました」
幸子は思案した。この男の言葉は本心なのか。
少なくともクラス2位ということは、正義よりもいい成績を残した生徒がいるということだ。
つまりそれは完璧な結果ではなかったということだ。そのことをこの男が気にしないわけがない。
だが、言葉通りに素直に受け取るならば、自分から伝えることはこれ以上なかった。
「それよりも」
勝利はそこで一呼吸置いて幸子に訊ねた。
「正義は新しい学校に馴染めているのか? サッカー部に入ったとは聞いているが」
「詳しくは存じ上げませんが、」
「詳しく調べろ。正義と親しい人間すべてだ」
「……………………」
幸子の言葉を遮って、勝利は短い命令に強い圧力を込めた。
そのとき眼鏡の奥の勝利の瞳が鋭く光ったことを、幸子は見逃さなかった。
だが、幸子はそれに屈するような女ではなかった。
「お断り致します。如何に勝利坊ちゃまのご命令とあれども、それには従えません」
「何故だ? 私はただかわいい弟が悪い友人と付き合っていないか心配をしているだけだ。
それを調べて何が悪い?」
「正義坊ちゃまもご自分で正しい交友関係を見極められるお年頃かと存じます。
もし仮に悪い友人との付き合いがあったとしても、いずれは気付き反省し、その後の人生に役立つ経験とされることでしょう。
勝利坊ちゃまの”手助け”は不要にございます」
「ふん、生意気なメイドめ」
「わたくしに不調法がございましたら、どうぞ旦那様にご報告なさってください。
それからご忠告差し上げますが、あまりわたくしの前で不穏な動きはお見せにならないほうがよろしいかと。
わたくし、二重スパイですので」
「もういい、下がれ!」
「はい、それでは失礼致します」
幸子は勝利に向かって深々と頭を下げると、音もなく部屋から出ていった。
勝利は苛立たしげに唇を嚙んだが、すぐに思い直し、ひとり呟いた。
――やはりあの女ではあてにならん。あいつは正義に肩入れしている。それならば――、
「もうひとつ、別の駒を使うか」




