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超絶勇者ブレイブマン  作者: タチバナ
別に謎ではない転校生編
32/57

30.兄の弟

「あはは、よく来てくれたね、正義くん」

 放課後、校庭に集まったみんなの前で勇気はそう話した。

 みんなというのはもちろん正義も含まれている。希望は「素直に来たんだな」と意外そうだったが、正義は「まあな」と応えるだけであった。

 転校初日の正義ならば、このような面倒事は即座に断っていただろう。

 正義としてもこの心境の変化を自分自身で説明できない。あえて言うなら「ただなんとなく断る気にはならなかった」というだけのことだ。

 だが、彼にもひとつだけ気付いていることがあった。もしかしたらこれが自身が抱える胸のモヤモヤを晴らすきっかけになるかもしれないと。


「それで? 俺が勝負に勝ったら、もう俺のことは放っておいてくれるって話だったよな?

 まず勝負のルールを教えてくれよ」

「ルールだなんて、そう難しく考える必要はないよ。

 ただ、順番にこのサッカーボールをリフティングして、より長い時間地面につかなかったほうが勝ちってだけさ。

 泣いても負けても一発勝負。どうだい、正義くんなら朝飯前だろう?」

 ……なるほどな、脇にサッカーボールを抱えているのはそういうわけか。

 一瞬PK勝負でもするのかと思ったが、リフティング対決ならば勝負にそれほど時間はかからない。

 あまり時間を取らせるつもりはないという勇気の配慮だろうか。しかし、それにしても――、

「朝飯前ってどういう意味だ? 言っただろ、俺はサッカーは嫌いだって。

 あるいはそこのチビ女に何か聞いたか?

 おととい校庭にボールが転がってたから、気まぐれにシュートを決めたが、あれは単なるお遊びだぜ?」

 正義は正面を向いたままうしろの可恋を右手の親指で指して訊ねたが、勇気にはなんのことだか分からなかった。

 可恋はおとといの校庭で見たことを誰にも話してはいない。

 それだけではなく、自分と正義が実は赤ん坊の頃に会っていたことも、正義の父親が有名な銀行の頭取で何かと悪い噂が絶えないということも胸の内に秘めていた。

 可恋は何も言わず、ただ正義の背中越しに勇気の瞳を見つめていた。


「うん? そんなことがあったのかい?

 俺は小学生のときの友達で日入中に進学したサッカー部の子に少し話を聞いただけさ」

「……ああ、なるほど。お前も俺の身辺探ってるってわけね。……ま、別にいいけどよ」

 こそこそ嗅ぎ回りやがって、――と毒づきたい気持ちもあるが、合法的な手段で調査をするくらいならとやかく言うこともないだろう。

 そんなことより、さっさと終わらせてしまおう。こいつらと長話をしていても仕方がない。

「しかし、俺がサッカー部にいたことを知っててリフティング勝負ってか?

 随分と舐められたもんだな。さすがに素人相手に負ける気はしねえよ」

「はっはっは、そういうわけじゃないよ。これは君のための勝負だからね。

 これは俺たちが君に不愉快な思いをさせたお詫びみたいなもんさ。

 だから君に有利なサッカー勝負でけりをつけようっていうね。

 ……おっと、「けりをつける」の"けり"とサッカーの"蹴り"をかけたわけじゃないぜ?」

「…………」

 つまんねえ冗談言いやがって。しかも、そんなこと言いながらも勝算ありって顔してるぜ。本当に舐められたもんだぜ。


 ――いや、確かに一発勝負ならどんな偶然が起きるか分からない。そういう意味では、PK勝負のほうがマシか。

 PK勝負なら1度や2度ゴールを許しても、こちらがそれ以上にゴールを決めればいいだけの話だ。

 それなら"まぐれ勝ち"が起きる可能性はそれほど大きくはない。……こいつ、まさかそこまで考えてリフティング勝負にしたのか?

 だが、いいさ。乗ってやろうじゃないか。俺は本当は人並み以上にサッカーに打ち込んできたんだ。

 おそらくど素人の相手に負けるわけがない。いや、絶対に負けてたまるか。――正義はそう思った。


「ちなみにだが、もし仮に、――99%あり得ないことだが、俺が負けた場合はどうなるんだ?

 俺をパシリにでもしてこき使うつもりか?」

「言っただろ、この勝負は君へのお詫びみたいなものだって。

 当然君が負けたところで罰ゲームみたいなものは何もないよ。

 ただ、その場合、俺たちは今後も"これまで通り"に君と接する。それだけの話さ」

「……もう変な因縁をつけられるのは勘弁だぜ」

 やはり勇気は勝てるつもりのようだ。一体どこからそんな自信が湧いてきやがる?

 正義は改めて相手を観察することにした。確かに身体は鍛えているようだ。

 半袖のシャツから出ている腕には筋肉がついているように見える。

 とは言え、ズボン越しに見る限りだが、サッカーをやってる連中ほど脚は太くない。野球や陸上の類の経験があるわけでもないだろう。

 おそらく何か上半身がメインの武道か格闘技、あるいは下半身をあまり使わない別のスポーツでもやっているのか。

 その点で言えば、勇気よりも愛のほうが脚力には自信があるようだ。走り込みのトレーニングでもやっている可能性が高い。


 ――そこまで考えて正義は自分が勇気たちのことを何も知らないことに気付く。

 俺は何も知らないまま、一方的にこいつらのことを毛嫌いしているのか。正義はふっと自嘲気味に笑った。

 そうだ、前の学校の連中のほとんどはろくに俺のことを知らなかったし、知ろうともしなかった。

 だが、悪い噂だけは次々と伝播していく。何が真実で何が噓か、誰も確かめようとしないままに。

 それに比べれば、こいつらは正面から俺に向き合おうとしてくれているだけマシなのかもしれない。

 そんな気持ちには少しは応えてやってもいいのかもしれないと思った。


「さてと、他に質問はないかな?

 それじゃあ先に俺から始めるよ。愛ちゃん、悪いけど、スマホのストップウォッチで時間を計ってくれるかな?

 ボールが脚に触れたらスタートで、地面に落ちたらストップだ」

「おっけー、ふたりの応援に集中し過ぎて止め忘れないようにしないとね」

「ふたりのって……、お前勇気だけじゃなく俺の応援もする気なのか? それでいいのかよ?」

「え? あ、そうか、正義くんが勝ったら私は困るのか……。

 でも、そのときはそのときだしさ。勝負で出た結果なら仕方ないよ。

 だから、やっぱり私はふたりとも応援するね」

 愛はスマホを取り出しながら、呆れ顔の正義の問いかけに笑って答えた。

 愛は決して馬鹿ではない。

 だが、それ以上に純粋過ぎて、勇気が勝ってくれれば自分が正義に話しかけても咎められることはなくなるかもしれない、――という考えがすっぽりと抜けていた。

 こんな女は今まで自分が出会ってきた人間の中にはいなかった。どれだけうざがられても付きまとい、そのうえ損得勘定抜きで純粋に勝負を応援できる奴なんて。

 正義はそんな裏表のない愛のことが、……おそらく好きになりかけているのだ。

 だが、その気持ちはまだ心の隅に留まっている。いや、――今は無視だ。


「さあ、始めるよ。愛ちゃん、合図もしてもらっていいかな」

「いいよ、スタートって言ったらね。

 ――よし、準備はOK? それじゃあ、スタート!!」

 愛が叫ぶと同時に、勇気はボールを宙に浮かせてリフティングを始める。その動きはこなれているように見えた。

 ボールはリズム良く3連続でポンポンと宙を舞った。実は勇気は昔サッカー漫画に憧れて、愛と一緒に公園でリフティングの練習をしていたことがあるのだ。

 久しぶりの挑戦だが、そのときの経験は確かに活きていた。勇気が勝機があると思っていたのも、そのためだ。

 悪いな、正義くん。この勝負、勝たせてもらうぜ。――そう思いながら勇気はリフティングを続けた。

 だが、愛のスマホが1分経過を示そうかといったところで、蹴り損なってボールはあえなく地面へと落ちてしまった。


「あー、駄目か! もう少しいけると思ったんだけどな」

「記録は58秒だね。でも、すごいよ、勇気くん」

「ふーん、なかなかやるじゃん。自信ありげだっただけのことはあるな。

 だが、俺なら5分だろうと10分だろうと続けられるぜ。この勝負、俺の勝ちだな」

 正義は勇気を褒め称えつつも内心ほっとしていた。正義の技術ならリフティングを1分続けることなど造作もない。

 今度は正義のほうが自信たっぷりに笑う番だった。だが、一方で勇気もなお余裕の笑みを絶やさなかった。


「どうかな、勝負は時の運だぜ。何が起こるかなんて分からない。

 免許皆伝の空手家でも、素人の正拳突きがたまたま反則箇所ではない急所に入って一本取られるかもしれない。

 勝負ってのはそういうものだろ?」

「ふん、随分と知ったような口を聞くんだな。

 なるほどな。そうか、お前空手家か……」

 正義は勇気の自信ありげな態度を鼻で笑いながらも気を引き締め直した。集中だ、集中。

 技術面では負けるはずがない。心さえ揺らさなければ必ず勝てる勝負なんだ。

 正義は呼吸を整えるとボールを足で持ち上げて、「いつでもスタートしていいぜ」と愛に視線を送った。


「よーし、じゃあいくよ。スタート!」

 愛の声に合わせて正義はボールを浮かせ始めた。ボールは華麗に宙を舞い、正義自身の身体もぶれずに安定していた。

 やはり正義のサッカーの技術は勇気よりもはるかに格上のようだった。

 最初は馬鹿にするように見ていた希望でさえも、「ほう」と唸って感心した。

 正義は小学3年生の頃から本格的にサッカーを始めた。

 幼い頃から周囲に学業優秀、スポーツ万能の兄と比べられ、劣等感を抱いていた彼が苦しみもがいて行きついた先がサッカーだった。

 正義はサッカーにのめり込んで一日3、4時間、休みの日には半日だって練習を重ねていた。

 兄がどれだけスポーツ万能であろうとも、正義のほうが兄よりも習熟した技術を得られたのは当然のことだった。

 だからサッカーは彼にとって、唯一兄に勝てる分野である、――はずだった。


 ……クソ、余計なことを思い出すな。あんなのはそう、"まぐれ勝ち"だ。

 たまたまあいつの運がよかっただけさ。俺のほうがずっとずっとサッカーが上手いことに変わりはない。

 ましてやど素人なんかに負けるはずがない。あんな偶然はもう二度と起こらないんだ!

 正義は腸が煮えくり返るような想いを抱えながらもリフティングに集中していた。

 まるで心と身体がバラバラになったかのようだ。だが、それは悪い意味じゃない。

 いくら過去のことを思い出して心が乱れようとも、その乱れは身体にはほとんど現れなかったのだ。それこそが真の意味での集中だった。


 愛のスマホのストップウォッチが指し示す時間は、すでに50秒を過ぎていた。

 愛はその時間を見ながら「51、52、53……」と読み上げ始めた。

 ――よし、いける! 正義はすでに勝利を確信していた。だが、そのとき彼の脳裏には、かつて自分を追いつめた兄の姿がよぎっていた。

『正義、これで分かっただろう。お前の努力など一切無意味だ』

 そう言って正義を嘲笑った兄の姿は、今もなお正義の心に深く刻みつけられている。

 その記憶を振り払うように正義はボールを強く蹴り上げる。力加減を少し間違えてしまったが、焦ることはない。

 この程度の誤差なら簡単にカバーできる。正義がそう思った、――その瞬間だった。


「きゃっ……!」

 校庭に吹き荒れた突風が可恋と愛のスカートを揺らした。

 可恋はそれぞれの手で自身の長い髪とスカートを抑えたが、愛はスカートが太ももまで捲れるのも気にせずそのまま真剣な瞳で正義のリフティングを見守っていた。

 正義の集中もそんな風くらいでは途切れることはなかった。だが、しかし、その風はボールを思いもよらない方向へと運んでしまう。

 正義はそれを追いかけてリフティングを続けようとしたが、突風のせいで狙いを外して変な方向へと蹴り飛ばしてしまい、そのボールは遠く離れた地面へと着地した。

 そして、そこで愛はストップウォッチを止めて、その時間を読み上げた。

「記録は、……55秒。ええっと、でも、今のは……、」

 記録の上では勇気のほうが3秒長い。愛は突然の決着に勝敗を告げることを戸惑い、口を噤んだ。


 正義は無言のまま、悔しそうに唇を噛み締めた。こんな、こんなことがあり得るのか……。

 あんな風さえなければ負けるはずはなかったのに、ここぞというタイミングであんな突風が吹くなんて……。

「残念だったね、正義くん。俺の勝ちだよ」

 勇気は容赦なく正義にそう告げた。記録の上では確かに勇気の勝利だ。

 だが、これは不意のトラブルによる結果だ。愛はこんな決着には納得がいかず、勇気に嘆願した。

「ま、待ってよ、勇気くん。今のは仕方ないって……。

 あんな突風が吹いたら誰だってバランスを崩すに決まってんじゃん。

 だからさ、これはノーカウントってことにして、もう一度挑戦してもらおうよ。……ね?」

「ん。まあ別に俺はそれでもいいけど。正義くんはどうかな?」

「……いや、そういうわけにはいかねえな」


 正義は不機嫌そうな顔のまま絞り出すような声でそう言った。

 彼自身納得がいっていないのは明白だった。だが、それでも彼は再挑戦することを拒んだ。

「ど、どうして……? 別にいいじゃん、勇気くんもいいって言ってるんだから。

 もう一回挑戦して、正義くんの本当の実力を見せてよ」

 愛は困惑していた。無論、彼女にだって真剣勝負の重みは分かってる。

 だが、それ以上に彼女は正義の気持ちを心配していた。こんな不完全燃焼な形での決着なんて、きっと正義は望んでいないはずだ。


「駄目だな。ああ、全然駄目だ。さっきこの空手男も言ってただろ、勝負は時の運だってな。

 真剣勝負の場でQBK(急に暴風が来たので)なんて言い訳にもならねえ。

 だから俺はこの結果を受け入れてやるよ。これで再勝負になるほうが俺は納得がいかねえ」

「……正義くん。君がそれでいいならいいけど……」

 正義の言葉を聞いて、愛は悲しげに俯く。正義はそんな彼女に近付くと、その髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。


「んなっ!? 何をするのさ!?」

「なんでお前がそんな顔してんだよ。ホント訳の分かんねえ女だな。

 ……まあ、なんていうか。笑ってるほうが似合うよ、お前は」

「え、えと、それってどういう」

「そのまんまの意味だよ! これ以上言わせんな!」


 小首を傾げる愛の言葉を遮るように怒鳴り、正義は両手で彼女の頬をつまみ上げて無理矢理笑顔にさせた。

「いひゃい! いひゃいよ、ましゃよしきゅん!!」

「うるせえな、このまま洗濯ばさみで顔固定してやろうか」

「まあまあ、正義くん。それくらいで勘弁してやってよ」

 勇気がそう制止すると、ようやく正義は愛の顔から手を離した。愛の顔には正義の指の跡がはっきりと付いている。

 愛は自分の顔をこねくり回して、その跡をなんとか消そうとしたが、そんなことをしてもしばらくは消えないだろう。

「酷いな、正義くん……。乙女の顔を傷物にして……。

 ……って、あれ? あの人たちは……」


 愛が顔を上げるとそこにはサッカー部らしき生徒たちが集まっていた。もう部活が始まる時間なのだろう。

 勇気たちは彼らの邪魔をしてはいけないと思い、「すみません、すぐに場所を空けるので」と校庭から立ち去ろうとしたが、その部員のひとりから意外な言葉をかけられた。

「すごいじゃないか、君。さっきのリフティングを遠くから見ていたよ。

 どうだい、我々のサッカー部に入部してみるというのは?」

 その言葉は正義に対してかけられたものであった。正義は目を見開いて応えた。

「いいのかよ、見てたんだったら知ってるだろ。

 俺はさっきそこのど素人とリフティング勝負をして負けたんだぜ。

 サッカー部に入る資格なんかあるのかよ」

 正義が自嘲気味に吐き捨てると、また別の部員が口を開いた。


「あんな一発勝負の結果だけで、君の実力が決まるわけじゃないだろう。

 記録は負けでも君のほうがずっと安定してボールを蹴り上げていたんだしな。

 それに君は確か、日入中のエースストライカーじゃなかったか? こっちに転校してきたばかりの花道正義くんだろ?」

「……ああ、そうだよ。けど、俺はもうサッカーは……」

「いいじゃん! 入部しちゃいなよ、正義くん!」

「いや、なんでお前が口を挟んでくるんだよ、デカ女。……まあ、考えておいてもいいけどよ」

「おお、そうかい。今日とは言わないが、体験入部だけでも楽しみに待っているよ!

 よし、それじゃあ、みんな練習を始めよう!」

 サッカー部たちはそう言って校庭にばらけていった。その様子を眺めながら、愛は嬉々として正義に声をかけた。


「よかったね、正義くん。うちのサッカー部も結構強いらしいからね。

 全国大会とか狙えちゃうかもよ!」

「まだ入部するとは言ってねえけど……、まあやるからには全国優勝だな。

 それ以外は眼中にねえ」

「うんうん、頑張ってね、正義くん!」

「だからまだ入部するとは言ってねえ!」

 愛はニコニコ笑いながら、さっき頬をつねられた仕返しとばかりに、正義の背中をぽんぽんと叩いている。

 そんなふたりのやり取りを勇気は微笑ましく見つめていた。そして、安心した気持ちなのは希望も同じであった。

 ――可恋は少し複雑だ。このまま正義を仲間の輪に受け入れてもいいのだろうかという想いが彼女にはある。

 だが、愛は笑っている。今はそれだけが大切なことなのだと彼女は自分に言い聞かせた。

 だから彼女は胸の内にモヤモヤをしまい込むと、自分を納得させるように薄く微笑んだ。


 その次の日の昼休み、正義の姿は屋上にあった。

 もちろん勇気も愛も可恋も希望も一緒だ。5人でのお弁当はそれが初めてのことだった。

「別に一緒に弁当まで食う必要はないんだぜ?」と希望はからかったが、正義はそっぽを向いたまま正直に応えた。

「弁当食うくらいなら付き合ってやってもいいさ。

 それにあの勝負じゃ、俺のほうが態度を変えることには何も言及されてなかっただろ。

 俺は俺の好きにさせてもらうぜ」

 そう言った彼の顔は転校してきてからずっと険しかったものとは違い、穏やかだった。

「それにしても美味しそうなお弁当だね。出来合いのおかずばかりというわけでもないようだし。

 正義くんのお母さんが料理してくれたのかい?」

「いや、そういうわけじゃないけど、……まあお袋みたいなもんだな」

「え、それってどういうこと?」

「さあな」

 弁当の出来の良さに感嘆した勇気の問いに意味深な答えを返す正義の顔を覗き込み、愛は不思議そうな顔をしていた。

 しかし、まだすべてを話すほど心を開いているというわけでもないのだろう。

 正義はそのまま黙り込んでしまったので、愛は諦めた様子で箸を取った。

 それに他のみんなのお弁当だって十分に美味しそうだった。みんなで分け合って食べるお弁当は特に格別で、楽しいひと時を過ごした。


 そして、夜の帳が下りる。学校から帰ってきた正義の姿は豪邸の目の前にあった。

 その屋敷は、お姫様が住んでいるようだと形容される可恋の家と比較してもはるかに大きく、見栄えもよかった。

 正門の扉も堅牢な鉄柵が嵌められており、厳重に警備されていることが窺える。

 さらに複数の防犯カメラが死角がないように設置されており、セキュリティーは万全であった。

 だが、正義がその正門を潜ることはほとんどない。彼が通るのはいつも裏門だった。

 無論、こちら側のセキュリティーに不足があるというわけではないのだが、正義はいつも忍び込むようにひっそりとこの屋敷に帰宅していた。

 何故自分の家に帰るのに、こそ泥のような真似をしないといけないのかと思うと悔しい気持ちもあったが、それで兄の顔を見なくて済むのならば、むしろ好都合だと自分に言い聞かせている。


「おかえりなさいませ、正義坊ちゃま。今日は随分とご帰宅が遅かったですね」

 正義を迎え入れたのは小娘と言うほど若くはないが、年増と言うにはまだ早いつり目のメイドだった。

 かわいらしい西洋風のメイド服は、敏腕秘書のような雰囲気の彼女には似合っていないようにも思えるが、使用人としての風格は備えていた。

 それにしても、別に帰りの連絡を入れていたわけではないのだが……。

 裏口の扉を開けた先の玄関でちょうど待ち構えていたのは、正義のスマホのGPS情報をリアルタイムで確認していたからだろう。

 正義にしてみれば常に監視されているような気分だ。……いや、実際監視されているのだろう。それでも、毎日こうして出迎えてくれるのは彼女の気遣いなのだと理解している。


「ああ、サッカー部に入ることにしたからな。その見学とか手続きとかでいろいろ」

 大袈裟な反応をされるとうざったいので何気なく言ってみたつもりだったが、そのメイド、――幸田幸子こうださちこは大きく目を見開いて驚いた。

「もう一度、サッカーをおやりになられるのですか? それは喜ばしいことです。

 今後あまり帰りが遅くなるようでしたら、車で迎えに参りますが……」

「そこまではしなくていいよ。ただユニフォームの洗濯は追加で頼むぜ」

「了解致しました。それでは……」

 幸子はそこで正義に向かって、すっと両手を差し出した。

 何事かと思ったが、すぐにその意図を察して正義は弁当箱の包みを幸子に渡した。


「いつも悪いな。弁当美味かったぜ」

「……? ええ、ありがとうございます……」

 いやに素直な正義に幸子は少し戸惑いながらも、礼を口にした。

 本来、正義が捻くれた物言いをするのは学校だけではなく、屋敷でも同様だった。

 弁当箱の催促もいつもは嫌がられるのだ。たとえ嫌がられようとも早いうちに洗っておかなければ汚れがこびりついてしまうのだが。

「何か、嬉しいことでもございましたか?」

「はあ!? なんでもねえよ、このババア!」

「わたくしはまだ27ですが……。あら、何か物音が……?」

 そのとき幸子が持つ弁当箱が揺れて、かさかさという音がした。

 幸子が何事かと弁当箱を開けると、その中にはエビフライの尻尾があった。

 だが、本日幸子が作った弁当にはエビフライなどなかったはずだ。それは愛の弁当から分けてもらったものだった。


「これは一体?」

「いや、だからそれは、なんでもねえって!

 ただちょっとダチに分けてもらっただけだよ!」

「正義坊ちゃまが? ご学友に? お弁当を分けてもらった?」

「なんだよ、その反応! 別にいいだろ!!」

「いえ、もちろん喜ばしいことですわ。正義坊ちゃまにそのようなお友達ができたとは……」

 見れば幸子は目を潤ませていた。まるで世話のかかる息子の成長を喜ぶ母親のようだ。

 それはあまりに大袈裟だろう。別に正義だって、これまで一度も友達ができなかったわけではない。

 だが、転校する前の学校で正義が孤立していったことを知っている幸子にとっては、それは涙が出るほど嬉しいことだった。


「あーもう、鬱陶しい! 俺は部屋に戻るぜ!」

「はい、夕食の時間になりましたらお呼び致します」

 正義は逃げるように階段を駆け上がっていった。照れ臭いという感情とは違う。

 幸子にはあまり自分自身のことを話したくない事情があるのだ。

 尤も黙っていたところで、何故か情報は筒抜けになっているのだが。伝わるのが遅いか早いかの違いだけだ。


 ――幸子はメイドであると同時にスパイでもあった。自分が知り得た正義に関する情報を、その兄である勝利かつとしに伝えているのだ。

 そう、彼女は正義にとって良き理解者でもあり、心からの信頼はできない相手でもあった。

 そして、彼女自身の想いも複雑だ。正義とは1年ほどの付き合いだが、初めて会ったときから彼のことをとても愛おしく感じていた。

 しかし、彼女には正義の世話と同時に監視をする任務が与えられた。その父・花道蔵之助によって。

 蔵之助は今はアメリカに住んでいるため、幸子は代わりに勝利に正義の近況について報告している。

 裏切りのつもりはないが、心が痛む。正義だって、そのことを知ったうえで接してくれているのだから、そこまで気にする必要はないのだが。


 そして、弁当箱を洗い終えた幸子の姿は今、勝利の部屋の扉の前にあった。

 彼は同じ屋敷に住んでいながら、正義とはほとんど顔を合わせることがない。

 幸子が扉をトントンとノックすると、落ち着いた低い声で「入りたまえ」と返事があった。

 幸子は促されるがままに部屋に入ってお辞儀をした。


「それでは今日も聞かせてくれ、私のかわいい弟について」

 口元は笑っていない。その眼光は異様なほどに鋭かった。

「はい。かしこまりました」

 そして、幸子はゆっくりと口を開いた。

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