25.獣の唸り声
翌朝の教室、獣の唸り声。それはときにうーうーと、それはときにぐるぐると響き渡り、低く重い残響となって教室を支配していた。
その音の主は机に突っ伏したままピクリとも動かない。それはまるで屍のようにも見えたが、どうやら死んではいないらしい。
その唸り声こそが彼女が生きている証だった……。
「……って、さっきからうるせえな、佐藤! 朝っぱらからなんなんだよ!」
真っ先に耐えかねてその頭を教科書で軽くはたいたのは希望だった。だが、叩かれた愛はそのまま突っ伏したまま意に介していなかった。
「うーうーうー、ぐるぐるぐる……」
「いや、マジでどうした、お前。なんか変なものでも食ったのか?」
さすがの希望も不審がり首を傾げた。愛に代わって勇気がその疑問に応える。
「昨夜道場に来たときからずっとこんな調子なんだよ。お祖父様にも稽古の邪魔だって言われてたけど……。
どうやら昨日の下校前に可恋ちゃんと喧嘩したらしくて。それでずっと落ち込んでるみたいなんだ」
「はぁー、これだから女同士の喧嘩は陰湿なんだよ。いつまでもじめじめ、めそめそしやがってよぉ。
男同士なら河原で殴り合って、すぐ仲直りして、その日のうちにいつも通り肩組んで歩いてるぜ。なあ、勇気?」
「いや、お前と肩組んで歩いたことはねえよ」
希望の言葉を冷静に受け流すと、勇気は再び愛の方へ視線を向けた。すると、愛は顔を伏せたままぼそりと呟いた。
「……私たちだって一応仲直りはしたもん」
「ああ? じゃあ、なんでまだ落ち込んでるんだよ。余計意味分かんねえよ」
「希望くんには関係ないでしょ」
そう言うと、愛はしばし黙り込んだあと、再び呟くように言った。その声色は震えていた。
「……私が悪いんだ」
「あ?」
「私が全部悪いんだ。私が可恋ちゃんの気持ち、全然考えてなかったから。
もう嫌われちゃったかもしれない。きっと怒ってるだろうな……。謝ったけど、多分許してもらえてない。
私の顔なんてもう二度と見たくないんだろうな……」
その言葉を聞くと、希望は大きくため息を吐きながら心底見下すように大袈裟に手を広げて勇気に視線を向けた。
「なあ、勇気。こいつ、実は本気の馬鹿なんじゃねえ?
一体何言ったのか知らねえけどよ。たった一日喧嘩したくらいで河合が佐藤のこと嫌いになるわけねえじゃねえか」
「……まあ、言い方は悪いけど、俺も希望の言う通りだと思うよ。
可恋ちゃんがそう簡単に愛ちゃんのことを嫌いになるわけないって。俺もずっとそう言ってるんだけど、この調子で」
勇気の言葉を聞いて、愛はようやく顔を上げたが、その表情は暗く落ち込んだままだった。
そして、愛はその顔のまま空席になっている可恋の机に目を向けた。
「……でも、だったらどうして今日はこんなに登校してくるのが遅いの?
可恋ちゃん、私と会いたくないから学校を休むつもりなんじゃ……」
そのとき朝の予鈴が鳴った。本来なら生徒はもうこの時間には自分の席に座っていなければならない。
間もなく先生もやってくるだろう。このままでは可恋は遅刻あるいは欠席ということになる。
「さあな。あいつだってたまに寝坊することくらいあるだろ。
そんなことより、お前らの喧嘩の原因ってあれだろ? どうせ転校生クンのことで揉めてんだろ。
それならどっちが悪いとかそんな話じゃねえな。そっぽ向いて聞こえない振りしてるあいつのせいなんだからよ」
希望は視線を愛に向けたまま言う。転校生、――正義のことなど眼中にないとでも言うかのように。
だが、言われた正義は黙ったままというわけにはいかない。これ見よがしに大声で悪意をぶつけられたのだから。振り向いて言い返す。
「おい、俺は聞こえない振りしてやってんだろうが。俺が会話に割り込んだって気まずいだけだろ」
「ああ? 俺はお前に言ってねえぞ。絡んでくんじゃねえよ」
「あのなぁ……」
「まあまあ、ふたりとも。ここで喧嘩しても仕方ないだろ」
一瞬触発の雰囲気となり、勇気が慌ててふたりの間に割って入った。正義はふんと鼻を鳴らすと、再びそっぽを向いた。
その後ろ顔に勇気は諭すように語りかけた。
「でもね、正義くん。君がもっとクラスに馴染むように努力していれば、こんなことにはならなかった。
それは自覚しておいて欲しい。そして、この事の顛末を君は見届けるべきだと思う。
すべてが君の責任ではないとしても、その義務はあるはずだよ。君はもうこのクラスの一員なんだから」
「……ああ、分かったよ」
正義は不貞腐れたような声色だったが、勇気の言い分には一応納得したらしい。それ以上は反論しなかった。
だが、代わりに愛が正義を庇った。
「私は正義くんは悪くないと思う……。全部私のせいだから。
あとそれから、私はもう二度と正義くんに近付かないって約束したから。
希望くんも勇気くんも、もう正義くんのことは放っておいてあげて欲しい……」
愛は弱々しい声で申し訳なさそうに言う。こんな調子の愛を見るのは希望はもちろん勇気ですらも初めてのことだった。
その暗く沈んだ表情に、いつもの太陽のような笑顔の面影はどこにも見つけることはできなかった。
「……愛ちゃん」
「何? 勇気くん」
「君にもひとつだけ言いたいことがある」
「お説教なら聞きたくないよ」
「あはは、そうじゃないよ。ただ心配しないで欲しいってだけさ。
お互いがお互いを想い合ってるなら、たとえすれ違っても絶対バッドエンドなんかにはならないからさ」
「……それ、誰の台詞だっけ?」
「ん? 今俺が考えた台詞だよ」
「……そっか。ありがとう」
愛の瞳に少し光が戻った。勇気の言葉で多少なりとも元気が出たようだ。
「うん、やっぱり愛ちゃんにはそっちの顔のほうが似合うよ」
そんなやり取りを見て、希望も少し安心したらしい。ぶっきらぼうな口調だが、笑顔を見せて言った。
「まあ、そんなわけだからもう落ち込むな。
今日はせっかくお前に見せてやろうと、とっておきのものを用意してきたんだからよ」
「……とっておき?」
「ガンターだよ、ガンター! ディスティニーガンター!
プラモデルが完成したら見せてやるって言ったの忘れたのかよ!
今はもうすぐ先生も来るから駄目だが、昼休みになったら見せてやるから、それまでに元気出しとけ!」
「……うん、希望くんもありがとうね」
「いや、礼とか言うな! 調子狂うな!」
「おい、廊下から足音がするぞ。先生かもしれない。そろそろ席につこうぜ」
勇気がそう促すと、希望は自分の席へと戻っていった。そして椅子に腰かけた瞬間、教室の扉が勢いよく開いた。
その扉の先にいたのは先生、――ではなく汗だくになっている可恋であった。
「おはよう、可恋ちゃん。今日は珍しく遅かったね」
「はぁはぁ……、お、おはよう、勇気くん。ちょっと寝坊しちゃって……」
慌てた様子で息を切らしながら扉を閉めて、スカートをなびかせながら自分の席へと向かう可恋に勇気が優しく挨拶をした。
可恋は昨夜はほとんど眠れなかったらしい。原因はもちろん愛と喧嘩をしたせいだ。
可恋もどうしてあんな風に激情してしまったのか自分自身で分からず落ち込んでいたのだ。
もしかしたら自分は何かを間違えたのだろうかと思い悩み、目が冴えてしまい、眠れない夜を過ごすことになった。
そして、いつの間にか考えるのにも疲れ果てて眠りこけていたが、気が付けばいつも家を出る時間より30分も遅く目が覚めたのだ。
だが、それでもギリギリセーフだった。普段から時間に余裕を持って行動していたのが幸いだった。
可恋は横目に愛を見ながら自分の席に座ろうと椅子を引いた。
「お、おはよ」
――と、愛が可恋に挨拶をしようとしたとき、再び教室の扉が開いた。今度こそ松永先生だった。
その声にかき消され、愛の声は可恋には届かなかったようだ。
「えー、それでは朝礼を始めます。日直、号令をお願いします。
…………日直? 号令してください。佐藤愛くん?」
「え、あ、……私か! す、すみません!」
「えー、どうしましたか? 顔色が悪いようですが。えー、保健室に行きますか?」
「い、いえ、大丈夫です! き、きりーつ!!」
今日の日直は出席番号順で14番の愛だった。可恋のことで頭がいっぱいの愛はそんなことはすっかり忘れていた。
慌てて立ち上がり、大きな声で朝の号令をする。元気そうな声とは裏腹に相変わらずその表情は冴えないままだった。




