24.保健室にて
可恋と別れた愛は顔面蒼白になっていた。顔を洗うために飛び込んだ女子トイレの鏡に映るその姿は自分でも見たことがないほど絶望に満ちていた。
可恋ちゃんに嫌われた、可恋ちゃんに嫌われた、可恋ちゃんに嫌われた……。壊れたレコードのように愛は脳内でその言葉を繰り返していた。
「駄目だ、今のはどう考えても私が100%悪い……!」
可恋ちゃんはただ私のことを心配してくれていただけじゃないか……。それなのに私は酷いことを言って可恋ちゃんを傷付けて泣かせてしまった……。
最低最悪だ、私……。こんなんじゃ可恋ちゃんの親友なんてもう二度と名乗れないだろう。愛は洗面台に両手をつきながらそんな自責の念にとらわれていた。
愛はスカートのポケットに手を突っ込んでスマホを取り出したが、一瞬悩んだあとすぐにまたしまった。
「スマホじゃ駄目だよね。直接顔を見てもう一度ちゃんと謝らないと……。
可恋ちゃん、もう怒って帰っちゃったかな……?」
そう思い直した愛は再び校舎裏へと戻ったが、すでにそこに可恋の姿はなかった。やはりもう帰ってしまったのだろうか。
……いや、その前に一ヶ所確かめておきたい場所がある。可恋はあれで意外と芯が強いところがあると最近の彼女の様子から愛は知っていた。
そして「意外」なんて言うのは本当は失礼なんだろう。愛は可恋のことを本当の意味で知ろうとしていなかった。それでもずっと親友でいられると思っていた。
だけど、もうそんな認識じゃ駄目なんだ。本気で向き合ってくれた可恋の気持ちに応えるためにも、本気で可恋のことを知ろうとしなければいけない。
だから愛は迷わずにその場所へと足を向けて歩き出していた。
――保健室。正義はいつの間にかそのベッドで眠りこけていた。本当は6限の時間だけサボるつもりだったが、目が覚めて時計を見ればとっくに下校の時間になっていた。
まさか熟睡してしまうほど疲れ果てていたとは自分でも予想外だった。愛との追いかけっこだけのせいだけではなく、慣れない環境で疲弊していたせいもあるのだろう。自分が思う以上に身体は休みたがっていたのだ。
ベッドから起き上がり室内を見渡したが、保健の先生は席を外しているようだった。どうやら書類仕事があるらしい。
実は正義が寝ている間に松永先生も様子を見に来ていたが、保健の先生が書類仕事が終わってもまだ寝ていたら帰らせると言うと、職員室へと戻っていったのだ。
そんなことを知る由もない正義はそのまま帰ろうとした。あとで先生に何か言われればそのときに説明すればいいだろう。
そう思いベッドから降りたとき、保健室の扉ががらりと開き、少しして閉まる音が聞こえた。保健室の先生かと思ったが、白いカーテン越しに見えるシルエットは少し小さかった。
こんな時間に生徒が? 正義の疑問はカーテンが開いて姿を現した人物の顔を見るとあっさり解決したが、それと同時に意外でもあった。
「お前か。一体なんの用だよ?」
「……あなたに言いたいことがある」
校舎裏で泣き腫らし、目を赤くした可恋が正義に鋭い視線を向けた。そうだ、最初からこうするべきだった。
悪いのは愛ちゃんじゃない。元はと言えばすべてこいつのせいだ。こいつが愛ちゃんの前に現れさえしなければ……。
可恋は強い憎しみを視線に込めて正義に向けていた。そんな敵意を正義は敏感に感じ取っていた。
「おいおい。そう睨むなよ。俺が何か悪いことしたか?」
「あなたが悪いことをしたかどうかは問題じゃない。あなたの存在そのものが不都合なの。
お願い、もう二度と愛ちゃんに近寄らないで」
「俺にどうしろってんだよ。近寄るも何も迫ってきてるのはあの女のほうだぜ?」
「……あなたが愛ちゃんに嫌われればいい。あなたの父親が極悪人で、あなたもその悪事に加担していると知れば、愛ちゃんも幻滅するはず」
「てめえ、俺のこと調べたのか……? そんでもって週刊誌の記事を真に受けるタイプか?
でたらめに決まってんだろうが、そんなもん」
「でたらめでもいい! 愛ちゃんがそうだと信じて、あなたと距離を取るようになればいいんだから」
「はぁ、なんだそれ? 言ってること無茶苦茶じゃねえか」
正義は思わず呆れて溜息をついた。可恋の言っていることは支離滅裂で意味をなしていない。
転校2日目にしてここまで嫌われなければならない理由も不明瞭だ。正義が愛を傷付けて泣かせたという事実すら存在しないのだ。
それでも可恋の瞳は本気だった。だが、何を要求しているのかいまいち要領を得ない。
「つまりお前は俺にわざとあの女に嫌われるようなことをしろって言ってるのか?
それであの女が傷付いたら、それこそ本末転倒なんじゃねえの?」
「それは……」
正義の言うことは正論だ。可恋は勢いで保健室に乗り込んできてしまっただけで、そう言われては答えに窮してしまう。
愛を傷付けずに正義から遠ざける方法は今の可恋には何も思い付かなかった。
「だろ? 分かったんなら、とっとと帰れよ」
「ならせめて約束して。愛ちゃんを傷付けるようなこと言ったりやったりしないって」
「絶対とは言えねえけど、なるべく努力するぜ。これで満足か?」
「……ええ」
そうして正義はそのまま保健室から出ていくと思われたが、突然踵を返すと再び可恋に向き直りその右肩を掴んで言った。
「そうそう、お前からも言っておいてくれよ。もう俺に近寄ろうとするなってよ」
「……それはもう、言った、けど……」
「あ、そう。あいつに言って駄目だったから俺のところに来たってわけか。
なんだ、あいつ。お前の言うことなんて全然大事だと思ってねえんだな」
「っ……! そんな言い方しないで!
私だって、私だって……!! そんなこと……!! うぅううううぅう……!!」
言われたくない"事実"を言われ、可恋はもう一度正義を強く睨んだ。肩の手は振り解こうとしたら負けだと思った。
ただ気迫だけは絶対に負けないように、強く強く瞳に力を込めて唸り続けた。そのとき閉めたはずの扉がもう一度開かれた。
「ちょっと! 何やってんの!?」
飛び込んできたのは愛だった。可恋が正義に肩を掴まれているのを見て、慌ててそれを引き剝がした。
愛はもしかしたら可恋が正義に物申そうと保健室に行くのではないかと思い、様子を見に来たところだった。
「可恋ちゃん、大丈夫!? 怪我はない!?」
「だ、大丈夫だよ……」
「別に力込めてたわけじゃねえよ。そんなんで怪我なんかしないって」
「正義くん……」
愛は可恋を抱き寄せながら正義のほうに顔を向ける。この状況は一体どう考えたらいいのだろうか。
可恋が正義に酷いことを言ったのか、あるいは正義が逆上して可恋に酷いことをしようとしたのか、どちらが真実なのか判別がつかなかった。
あるいはそのどちらも真実なのか、それとも小さな誤解の積み重ねでこうなってしまったのか……。
いずれにしてもここで愛が取るべき行動はただひとつだった。
「ごめんなさい、正義くん。それから可恋ちゃんも。本当にごめん。
こうなったのは全部私が自分勝手に暴走したせいだよね。
私はもう二度と正義くんに自分から近付くことはしない。それで丸く収まるんだよね?」
「……ああ、そうしてくれよ。それから他の連中にも言っておけ。
もう二度と俺に関わるなよってな」
「……分かった。そう伝えておく……」
正義は気まずそうな顔をして今度こそ保健室から姿を消した。愛はその背中を最後まで見送っていた。
残された愛と可恋は互いに泣きながら謝り続けるのであった。




